旅立ち
四月中旬、ガウリカと出会ってちょうど一年の日。
「ちょっとタケ、急ぎなさいよ!」
「寝坊したのはお前だろうが!」
俺と若菜は、人でごった返す関西国際空港を全速力で走っていた。
今日、ガウリカは帰国する。
ガウリカが魂を込めて書いた論文は、教授たちをうならせたそうだ。こんな人材をただの主婦にするなど言語道断と、インドの名だたる大学に論文を送りつけ、彼女が研究者として歩めるよう働きかけているという。
それが功を奏するかどうかはまだ分からない。だが、日本の大学教授が連名で送ったという手紙は、ガウリカの両親の心を動かしたらしい。帰国後すぐに予定されていたガウリカの見合いは、延期になったそうだ。
「でもよ、部外者の俺が見送りに行っていいのか?」
「何をいまさら。いいからさっさと走る!」
若菜とはつい先日冷戦を終えた。一番ホッとしているのは、ギスギスした雰囲気の中で過ごしていた祖父だろう。お詫びも兼ねて、近々俺と若菜がお金を出し合って美味しい寿司屋へ連れて行く予定だ。
「若菜! タケ!」
出発ゲートの近くで、十名ほどの人に囲まれていた美女が俺と若菜の名を呼んだ。若菜は「リカ!」と叫び、その人の輪に飛び込んだ。
「ご、ごめーん、寝坊しちゃって……あー、間に合った」
「会えないかと思ってヒヤヒヤしました」
ガウリカは肩で息をする若菜の手を取り、微笑んだ。
「いろいろありがとう。若菜がいたから、がんばれました。きっと、インドに遊びに来てね」
「うん、必ず行くから。いろいろ案内してね!」
抱き合って別れを惜しむ若菜とガウリカ。そんな二人を、俺は少し離れた場所で見ていた。さすがに大学関係者が輪になっている中に、しれっと入って行く勇気はなかった。
そんな俺に気を使ってくれたのか、ガウリカの方から俺に歩み寄ってきてくれた。
「タケ、見送りありがとう」
「おう、元気でな」
「はい、タケも」
ガウリカは笑顔で俺を見つめた。その賢そうな、そして、いまさら気付いた意外とかわいい顔を、俺はしっかりと目に焼き付けた。
多分これが、俺とガウリカの今生の別れ。もう二度と会うことはないだろう。
「あ、そうだ。これ渡しとくよ」
「なんですか?」
ガウリカは、俺が渡した白い封筒に首を傾げた。
「中に、URL書いた紙入ってるから」
「URL? ネットの?」
「ああ、その……詩とか、俳句とか、そういうの、書いてみようと思ってさ。そのアドレス、俺のページだから」
「そうなんですか!」
俺の小さな決意表明に、ガウリカは目を輝かせた。
「それは楽しみです! いっぱい、いっぱい書いてくださいね! 私、感想書きます!」
うっ、プロの研究者の感想か……ええい、くるならこいだ。
「ああ、がんばるよ」
「はい、がんばれ」
ガウリカは笑顔でうなずいた。
「私も、これ、タケに」
「ん?」
ガウリカは俺の封筒をかばんにしまうと、代わりにA4サイズの手作りの冊子を差し出した。
「日本で過ごした一年で書いた、俳句集です。ぜひ読んでください」
「いいのか?」
「はい。いろいろ連れて行ってもらいましたから、その……お礼です」
「わかった、読ませてもらうよ」
感想はさっき渡したURLの投稿サイトにアップするよ。
俺がそう言うと、ガウリカは頬を赤く染め、嬉しそうにうなずいた。
やがて、飛行機の搭乗手続きが開始され、ガウリカは一年を過ごした日本を後にした。
「さよなら!」
笑顔で去っていくガウリカ。
その颯爽とした後ろ姿に、俺は小さな声で「がんばれ」と声援を送った。
◇ ◇ ◇
以上が、俺とガウリカが過ごした一年のあらましだ。うまく書けたかどうかわからないが、俺が感じたことが少しでも伝わってくれたら嬉しいと思う。
別れ際にガウリカがくれた冊子には、たくさんの俳句が載っていた。どれもこれも素人の俺でも情景が浮かんでくるような素敵な句だ。
その中で俺のお気に入りは、冊子の最後に唯一手書きされていた句だ。
それをここに載せておこうと思う。読者の皆さん、よかったらぜひ感想を寄せてくれ。ガウリカもきっとここを見てくれているだろうから。
初めての あなたがくれた 雲丹の味 / ガウリカ