冬
いまさら大学受験に再挑戦する気にはなれず、俺は真っ当な就職先を探すことにした。
しかし、高校卒業後二年もプラプラしていたのだ、そう簡単に就職はできそうにない。
とりあえず車の免許を取ろうと考え、まずはその資金確保から始めることにした。俺は週一、二回、適当にしていたバイトの数を増やし、今後のことも考え、百万円を目標に貯金をすることにした。
若菜が釘を刺したのだろう、ガウリカからのお誘いはパタリと止まった。
スマホでメッセージのやり取りはたまにしていたが、ちょっとした挨拶程度だ。留学の仕上げとなる論文の執筆にとりかかったようで、小旅行に出かける余裕もなくなったらしい。「半年かけて集めた資料の整理が大変です」とぼやくメッセージを最後に、年末にはそれも途絶えた。
◇ ◇ ◇
年末年始からの二ヶ月。
クリスマス、お正月、冬物バーゲン、バレンタイン。よくもまあこれだけの商戦を取り揃えたな、稼ぐって大変なんだなと実感した。だらけ切っていた俺の心にも喝が入り、三月になったら免許を取りに、そしてその後は就職活動開始だ、と真剣に考え始めていた。
二月の終わり、ようやく三日ほどのまとまった休みが取れた。
体力自慢の俺だが、さすがに疲れがたまっていた。どこかへ遊びに行く気にはなれず、休みの初日はひたすら寝て体力回復に努めた。
多少は回復した二日目に、俺は散歩を兼ねて近所の神社へお参りに出かけた。
これが、俺にとっての初詣だった。
もちろんお正月らしい雰囲気は皆無。冷たい空気の中、閑散とした境内をサクサク歩いて本殿へ向かうと、「ちょっくら奮発するか」と千円札を取り出し、賽銭箱へと投げ入れた。
ちゃりん、ではなく、ふぁさっ、とお賽銭が神の手元へ捧げられる。
「奮発したんだから、そっちも奮発してくれよ」
そんなお祈りをした後、少々リッチな気分に浸りつつ本殿を後にして、俺は社務所でおみくじを買った。
運勢・吉。
願望・ととのう。しかし色情につき妨起る
「……色情って、彼女もいないのに」
何だか微妙だな、と思いつつ、おみくじの最後に目をやる。
縁談・はやく我心をさだめよ
「うーん。彼女とモメたら願い事がかなわない、はやく結婚を決めろ、てことか?」
「微妙な感じですね」
「うぉわっ!」
すぐ後ろで声がして、マジでビビった俺は大声を上げた。
「な、リカ!?」
「び、びっくりしましたぁ……」
「お、俺のセリフだ。気配消して近づくなよ!」
驚いたことに、ガウリカがいた。もこもこの白いダウンに身を包み、毛糸の帽子にマフラーと完全防備。
「お久しぶりです。元気でした?」
「お、おう」
ガウリカはにこりと笑うと、俺の隣に来ておみくじをのぞき込んだ。
「おみくじは、書いてある和歌が大切なんです。ちゃんと読みました?」
「え、あ、そうなの?」
いつも読み飛ばしていた。そう言うとガウリカは「ちゃんと読みましょう」と笑った。
改めて、おみくじを見る。
玉ちはう かみのめぐみの 風うけて
もえ出でにけり のべの若草
「時が来れば思うままになります。鏡のかげにしたがう様に心正しく、行いをすなおにしないと家の内に不和がおこって災いが生まれます、ですか」
「すげえな、わかるんだ。さすが研究者」
「その……下の現代語訳を読んだだけですが」
赤面した俺を見て、ガウリカはまた笑った。
「タケ。お時間、ありますか?」
若菜の顔がちらつき、ほんの一瞬迷ったが。
ここで断るのも変だと、俺はうなずき、ガウリカとともに歩き出した。
「論文どう?」
「まあ、なんとかなりそうです」
すでに一通りは書き終え、指導教官のチェックを受けて推敲を重ねているところだという。おそらく順調なのだろう。
俺とガウリカは、それきり黙って歩いた。境内を出ると「ちょっと登りますね」と神社の裏山へ登り、狭くて急な階段を上った。
着いたのは裏山の中腹にある、小さなお堂だった。
「こんなところにお堂があるんだ」
「はい。景色も良くて、論文に詰まったときは、ここへ来て気晴らししてました」
ガウリカは鞄の中から小さなお饅頭を取り出すと、それをお堂に供えて手を合わせた。ヒンズー教徒なのに日本の神様にお祈りして大丈夫なのだろうか、などとどうでもいいことを考えながら、俺はガウリカの清楚な祈り姿に魅入った。
「若菜さんに謝られました」
祈り終えると、ガウリカは静かに口を開いた。
「タケさんに、もう私と会うな、と言ったと」
「ああ、言われたよ」
ガウリカは、ふう、とため息をついた。
「いろいろ思うところはありましたが……おかげで、私は何をしに日本に来たのか、見失わないで済みました。いい学友に会えて、感謝です」
それはつまり、若菜の行動は正しかったということだろう。当人からそう告げられると、ショックだった。
「でも、あれっきり、ていうのも寂しくて。年始にお邪魔した時に会えればと思ってましたが、お留守でした」
「バイトしてたんだ」
「はい、そう聞きました。最近、バイトに精を出すようになった、と聞いてます」
ガウリカは供えたお饅頭を下げて立ち上がった。
「どうぞ、半分こです」
「あ、ああ。ありがとう」
俺が饅頭を口に放り込むと、ガウリカは俺の隣に立ち、上品な仕草で饅頭をかじった。
無言で、ゆっくりと饅頭を咀嚼し、飲み込む。
「私、日本への留学、家族に反対されていたんです」
饅頭を食べ終えたガウリカが、ポツリと告げた。
「そうなのか?」
「はい。女に学問はいらない。ましてや文学なんて何の役に立つんだ、て祖父に言われました」
それでも、どうしても俳句を学びたくて、祖父に土下座をして頼み込んだという。
「留学を終えインドに帰ったら、祖父が認めた人と結婚して農園を継ぐことになっています。それが条件でした。まあ、経営するのはお婿さんになる人で、私は子供を生んで育てるだけですけどね」
「なあ。なんでそんなに俳句を学びたかったんだ?」
俺の問いに、ガウリカは無言でスマホを取り出すと、何やら検索して俺に見せた。
「この俳句、すごいと思いませんか?」
咳をしても一人 / 尾崎放哉
「……これ俳句なのか?」
「はい、自由律俳句です」
季語や五・七・五の型にとらわれない俳句、それが自由律俳句。そういえば高校で習った気がする。
「私、これを初めて読んで意味を知ったとき、泣いてしまったんです」
たった九音。
それだけで読む者を、ガウリカをとほうもない孤独感に包み込んだ。何なんだこの詩は、世の中にこんな詩があるのかと、震えが止まらなかったという。
「どうしてあんなに感動したのか、その時はわかりませんでした。ただただ、心が震えて涙が止まらなくて。こんなすごい詩人がいる国に……日本に、心から憧れました」
「それで、俳句を?」
「はい。必死で勉強しました。どうしても、この句に感動した理由を知りたくて」
「理由、わかったのか?」
「はい、今はわかります。この句は、私が言葉にできなかった想いだったんです」
改善されつつあるとはいえ、インドでは女性の地位が低い。ガウリカ自身も、生まれてくる子供が女だと知った祖父が間引きしろと言う中、両親が必死に説得して生まれたという。
「それに、インドにはカーストがあります。制度としては廃止されていますが、まだ人の心には根強くその名残が残っています」
女性蔑視とがんじがらめの身分制度。そんな中で生まれ育ち、詩を愛した。詩を愛するあまり、もっと学びたいと大学へ進学したガウリカは異端だった。仲が良かった友達も次々と結婚し、子供をもうけ、ガウリカを異端扱いする側になってしまった。
祖父や友達に理解されず、一人詩に溺れたガウリカ。
そんな彼女の心を、尾崎放哉の俳句が撃ち抜いた。
「尾崎放哉は、相当に破天荒な生き方をした人です。とても私にはまねできません。私は詩を愛しています。でも、今まで育ててくれた両親と、祖国であるインドも愛しています」
ガウリカがまっすぐに俺を見た。ガウリカがまねできないという、尾崎放哉のような生き方。それは、俺と恋をする、ということだろうか。そんなうぬぼれが、俺の心に浮かんだ。
「タケ。あなたに伝えたいこと、たくさんあります。このままお別れなんて、本当は嫌です」
ガウリカの手が俺の手に重ねられた。冷たく震えるその手が、俺の手を握りしめた。
「でも……私は、私がいるべき場所に帰ろうと思います。そして、私みたいな女性を助け、もっと自由に生きられるように、インドを変えていきたいと思います」
俺のうぬぼれは、一瞬で消えた。
でけえ愛だな、と思った。ニートごときがリカと付き合おうなんて夢見るな、そう叫んだ若菜の気持ちがよくわかった。
ガウリカの手が離れた。重ねられていたのは一分にも満たない時間。もう二度と、彼女の手が俺の手に重ねられることはないだろう。
「タケ。私はあなたに一つの詩を贈ろうと思います。たった四音です。今の私があなたに伝えられるのは、この詩しかありません。きっと、今までに散々聞かされて、聞き飽きていると思いますけど」
「聞かせてくれ」
俺は姿勢を正した。ガウリカは俺の正面に立つと、慈愛に満ちた笑みを浮かべ、胸の前で両手を合わせた。
「がんばれ」
ああ、確かに聞き飽きてる言葉だよ。
言われるたびに、うんざりしていたよ。
だけどガウリカに言われたら、すんなりと心に入ってきた。
あたりまえだ。
彼女は今までがんばってきたんだから。「俺だってがんばってる」なんて言うのが恥ずかしくなるぐらい、彼女はがんばってきたんだから。
そんな彼女が、こんな情けない俺に、ありったけの想いを込めて詠ってくれた。
その四音は、まさに「詩」。俺の心の真ん中を射貫き、優しく厳しく励ましてくれる。
詩って人間そのものだと思うんです。
かつてガウリカに言われたことを、俺は心の底から実感し――両手を合わせて、深々と一礼した。