秋
「タケ、ちょっといい?」
九月も終わり、朝夕はめっきり涼しくなった頃、俺は険しい顔の若菜に呼ばれた。
「今から風呂に入るんだが……」
「すぐ終わる」
若菜は俺を庭のプレハブ小屋に連れて行った。何か怒らせるようなことをしたかな、と首をかしげたが、心当たりはなかった。
「さてと。タケ、単刀直入に言うよ」
若菜は強い口調になり、俺をにらみつけた。
「これ以上、リカと仲良くしないで」
「……あ?」
いきなりの言葉に、俺は眉をひそめた。
俳句のことをもっと知りたいから、色々手伝ってほしい。
「奥の細道」追体験ツアーから帰ってきた後、ガウリカにそう頼まれた。そのとき隣にいた若菜は「そうね、私一人じゃサポートしきれないし」とのたまい、俺は渋々引き受けたのだが。
それを、今になって止めろという。しかも迷惑だと言わんばかりの口調で、だ。
「なんなんだ、いきなり」
さすがにカチンときて口調が険しくなった。しかし、若菜もひるみはしない。
「あんた最近、リカと二人でよく出かけてるでしょ?」
「そりゃ、頼まれるからな」
俳句が詠まれた地をこの目で見たい。ガウリカはそう言って、毎週のように俺を誘って日本各地へ出かけた。その情熱たるや執念に近い。しかも旅費は全額ガウリカもち。さすがにこれはまずいのではと、俺も少し気になっていたところだ。
「そこじゃない」
若菜がため息をつく。
「半引きこもりのあんたが、ガウリカの誘いにはホイホイとついて行くのよね」
「いや、まあ、暇だしよ……」
「リカも最近は私の都合を聞かなくなってきたし。あんたと二人で行くのを楽しみにしてる感じなのよね」
若菜が、じろりと俺を睨んだ。
「あんたまさか……リカと付き合ってるんじゃないでしょうね」
若菜が何を心配しているのかわかり、俺は思わず笑ってしまった。
「何がおかしいの」
「いや、心配するな。俺とリカじゃ釣り合わないことぐらい分かってるよ」
あんな美女が彼女だったら――と妄想ぐらいはするが、そこまでだ。俺とて自分の立場ぐらいわかっている。
「いや、あんたわかってない」
若菜の口調はますます険しくなった。
「あんたインドのこと、どれだけ知ってる?」
「どれだけって……」
行ったこともなければ行く気もない。なので、よく知らなかった。
「ふうん」
俺の答えに、若菜は心底あきれたという顔になった。
「あんた、仲良くなった女性がインド出身なのに、調べようともしなかったの? ネットで調べれば、山と情報が出てくるのに?」
「いや、まあ……興味なかったからよ……」
「じゃ、リカの家のことは?」
「いや、それもよくは……」
なにせプライベートなことだ、どこまで聞いていいかわからず、結局聞いていない。俺なりに気を使った結果だが、この答えも若菜は気に入らなかったらしい。
「あんた、どんだけ……」
「なんなんだよ?」
「いい? リカの家は、いわゆる財閥。大きな紅茶園を経営する大金持ちよ」
「お嬢様、てことか」
そうかもな、という気はしてた。いつも身ぎれいにしていて、言動にはそこはかとなく気品を感じる。きっと、小さい頃から厳しく躾けられていたんだろう。
「で、それがどうかしたのか?」
「どうかしたのか、じゃないっての!」
あんたはインドがどんな社会か知っているのか、と一喝された。だから知らないと言っているだろうが。
「インドはね、日本と違うの。女性の地位がすごく低いの。男性が圧倒的に優位。大学に行く女性なんて少ないし、ましてや大学院行くなんて、よっぽどよ」
それも、数学や物理などの理数系が中心だ。ガウリカのように文学部で大学院まで行く女性など、まずいないという。
「女に学問なんて不要。女は子供を産めばそれでいい。女の子はいらないから間引きしろ。そういうのがまだ残っている社会なのよ」
「ひでえ社会だな」
「そうよ、酷い社会よ。でもそういう社会なの」
もちろんインドでも問題視され、色々と改革は行われている。だがそれは都市部のみで、地方では改革が進まず、女性はまだまだ虐げられているという。
「リカはそういう社会で生まれ育った、お嬢様なの。男性と二人で出かけることの重みが、日本とじゃ全然違うの」
「はあ……そうだろうな」
「のんきな。あんた、そういう女性と付き合う覚悟、あるわけ?」
「だから、付き合ってねえよ」
「あっそ。じゃ、もう会わないようにして。リカにも釘刺しとくから」
「一方的だな、おい」
「そうね、他人が同じことしてたら、腹立つと思う」
でもね、と若菜は険しい顔のまま続けた。
「残念ながら、あんただけは絶対にダメ」
「なんでだよ?」
「わかりやすく言ってあげる」
若菜の声が低くなった。
「親のスネかじって楽してるニートごときが、リカと付き合おうなんて夢見るな、て言ってるの」
思わず手が出た。俺は、若菜の胸ぐらをつかみ拳を振り上げた。
若菜は身を固くしたものの、まっすぐに俺を見た。その迷いのない視線にたじろぎ、俺は拳を振り下ろすことができなかった。
「……殴らないんだ」
「お前は一体、俺を怒らせて何がしたいんだ」
「あんたがリカに近づかないようにしたいのよ」
若菜は胸ぐらをつかむ俺の手を握り、引き剥がした。
「これだけ言えば、自分から離れるでしょ。あんた、口先だけのヘタレだもの」
◇ ◇ ◇
その週末、俺はガウリカとともに松山へ行く予定だった。
だが若菜との言い争いが尾を引き、気分が晴れない。こんな気分でガウリカと二人で松山へ行っても、楽しくないどころか、ガウリカの気分を害してしまいそうな気がした。
悩んだ末、俺はガウリカに電話し、体調を崩して同行できないと伝えた。
『かぜ?』
「そうかもしれん。うつすと悪い。すまんが明日はキャンセルだ」
『うん、わかった。無理しないでゆっくり休んでね』
俺は電話を切り、ゴロンと横になった。
松山。
俳句を芸術として確立することに貢献した、正岡子規の生地。ガウリカは日本にいる間にそこだけは訪れたいと常々言っており、明日がその念願の日だった。
そのせっかくの松山行きを、自分の不機嫌な態度で台無しにしたくない。ガウリカのことだ、きっと一人で行っても、楽しく過ごしてくるだろう。
そこまで考え、俺は苦笑した。
自分から離れるでしょ。あんた、口先だけのヘタレだもの。
若菜が放った言葉が思い浮かぶ。「おっしゃる通り、俺はヘタレだよ」と自嘲する。大学入試に失敗して以来、俺はずっと足踏みしていた。次はがんばると言い続けて、ずっと立ちすくんでいた。
なぜって聞かれても困る。
だって、それで生きていけるのだ、この日本という国では。
がんばったら上を目指せるだろうし、がんばりを認めてくれる人もいるかもしれない。
だけど、上を見なくても生きていけるのだ。しかも、案外心地よく。
なんとすごい国なんだろう、日本という国は。
「インド、か……」
教科書でしか知らない国。そこでガウリカは生まれ育った。ガウリカはインドで、どんな風に育ち、どんな生活をしていたのだろうか。
半年も一緒にいたのに、どうして何も聞かなかったのだろう。
「インドって、どんな国なんだ」
聞けばきっと教えてくれただろう。ネットで知る情報なんか比にならない、生きた情報として。だが、ぼんやりしているうちにその機会を失ってしまった。いまさら聞いたって仕方ない。もう近づくなと釘を刺された。もう、聞いたところで何の役にも立たない。
ガウリカの留学は一年。来年の三月には留学を終え、インドへ帰国する。それまでに論文を書かなければならないと言っていたから、そろそろ忙しくなってくる頃だ。
いや、そうではない。
俺にとっては観光気分の小旅行も、ガウリカにとっては一秒も無駄にできない、大切なフィールドワークの時間だった。俺と違って、ガウリカは最初からずっと忙しかったのだ。
「俺が邪魔しちゃ、ダメだよな」
俺はそうつぶやき、目を閉じた。
ガウリカは日本へ遊びに来たのではない。目的を持って学びに来たのだ。そんな彼女に遊び半分の気持ちで同行していたことが、何だかすごく恥ずかしくなった。
◇ ◇ ◇
翌日の夜、ガウリカから体調を気遣う電話があり、俺はドタキャンを改めて詫びた。
『しっかり治してね。また一緒に行きましょう』
ガウリカはそう言って電話を切った。
その後――俺とガウリカが一緒に出かけることは、二度となかった。