夏
七月に入って早々、俺は若菜にアルバイトをしないかと持ちかけられた。
仕事の内容は、「奥の細道」を追体験する旅における、運転手兼荷物持ち兼ボディーガード。要するに、若菜とガウリカの女二人旅についてこい、ということだ。
「まあ、いいけどよ」
どちらが芭蕉でどちらが曾良なのだろうと思ったが、どうでもいいことなのでわざわざ聞きはしなかった。
時間的に全行程をたどるのは無理なので、宮城、山形、新潟の三県に絞られた。絶対に行きたいところとして、若菜は平泉、ガウリカは最上川をあげ、二人そろって行きたいと言ったのが佐渡だ。
どの地でも、俺でも知っているような有名な俳句が詠まれている。あ、松尾芭蕉の時代は俳句ではなく、俳諧だっけ。どっちでもいいけど。
「タケはどこへ行きたいですか?」
行程を決める会議に運転手として参加していた俺に、ガウリカが尋ねた。
春に祖父の俳句の会に参加したガウリカは、それ以来よく家に出入りするようになった。たまに夕食を食べて帰るときもあり、次第に打ち解けて色々と話をするようになった。
ちなみに俺のことを「タケ」と呼ぶのは、若菜がそう呼んでいるからだろう。個人的に親密になったわけではない。
「特にない」
運転手は言われるままに、目的地へ行くだけである。松尾芭蕉にも俳句にもさほど関心がない俺としては、希望を聞かれても特にないとしか答えられない。
「ウニが食べられるところ?」
「まあ……新潟なら、うまい店があるだろうな」
別にそれほどウニが好きなわけではないのだが、と俺は肩をすくめた。
春に初めて家へ来た日、ウニを知らないガウリカに晩飯の寿司セットからウニの軍艦巻きを進呈した。知らないものを俳句で詠めというのは無理だろうという親切心からだったが、そのときに 俺=ウニ が刷り込まれたようだ。
ちなみにウニを食べたガウリカの感想は「独特の風味ですね」だった。微妙な顔をしていた。御馳走された手前、「おいしくない」とは言えなかったのだろう。しょせんはスーパーで買った寿司だ。鮮度が命のウニは、どうしたってまずくなる。
「俺はいいから。二人で決めてくれ」
「わかりました」
ガウリカはうなずき、以後俺には何も聞かなかった。
◇ ◇ ◇
八月の始め、俺と若菜とガウリカの三人は、「奥の細道」追体験ツアーへと出発した。
四泊五日の行程。多少のトラブルはあったが順調に行程を消化、残すところあと一日となった。
最後の夜は、新潟だった。
雲ひとつない晴れた夜空には、たくさんの星が見えた。松尾芭蕉が見たのはこんな光景だったのだろうかと、俳句に興味のない俺でもわくわくした気持ちになった。
「美しいですね。こんな景色を見たら、詩を口ずさまずにはいられません」
海辺に車を止め、星空を見ながらガウリカの言葉に耳を傾けた。少々アルコールが入ったからか、ガウリカはいつもより饒舌だった。
ちなみにガウリカはヒンズー教徒。教義上飲酒は禁止で、もちろんガウリカも例外ではないのだが、「郷に入りては郷に従えということで」と、いたずらっぽくウィンクしながら飲んでいた。
知的な美女の小悪魔な笑顔に、俺は結構ドギマギした。
「私、詩って人間そのものだと思うんです」
ガウリカはたくさん話をしてくれた。彼女が本当に詩を愛しているということを、会話の端々から感じた。
「決して長くなく、形式に縛られて、想いを伝えるために何度も作り直して吟味する。それって、人の営みそのものだと思うんです」
命のこと、身分や出自のこと、人間関係のこと、そして恋。詩の題材はどれも切実で、人の心から自然にあふれ出てこぼれ落ちたものだ。
「特に俳句は十七音しかありません。その十七音で想いを伝えるために、言葉を練り、何度も推敲し、やっとの思いで紡ぎ出すんです」
言葉を重ねれば通じることを、わざわざ短く、作法に従って整える。俳句に限らず、詩とはそういうものが多い。なぜそんなことをしなければならないのか、幼いころのガウリカは不思議で仕方なかったそうだ。
「でも、そうしてできた詩って、ものすごく心に響くんです。特に俳句はそう。こう、まっすぐ、ズドン、て飛び込んでくる感じ。そうですね、先ほど飲んだ大吟醸のようです」
極限まで米を削り、研ぎ澄まし洗練された味を出す大吟醸。それはふくよかな香りを持ち、水のような喉越しで、何の抵抗もなく体の中に入ってくる。俳句とはそういうものだ、とガウリカは言う。
「そうして受け取った想いは、とても美しくて、何物にも代えがたい愛おしさを感じます。だからこそ、こんなに不自由なのに、たくさんの人が俳句を愛しているんじゃないでしょうか」
そう思いませんか、と聞かれ、俺は肩をすくめた。
「人間は、マゾてことか?」
「それは……斬新な解釈ですね」
ガウリカは目を丸くし、クスクスと笑った。決してからかっている風ではない、心の底からの笑顔だった。
「ま、冗談はさておき。リカが、詩と人間を愛してる、てことはわかったよ」
「え?」
「だってそうだろ。リカは、詩を愛してるんじゃない。詩に込められた人間の想いを愛している。だから詩は人間だ、なんて言えるんだと思うよ」
俺の言葉に、ガウリカはキョトンとした顔になり、それから頬に手を当ててうつむいた。なんだろう、間違ってはいないと思うんだが。
「そう、ですね。はい、タケの言う通りだと思います」
ガウリカは俺に背中を向けて深呼吸した。ますますもって不思議であったが、しばらくして落ち着いたのか、ガウリカは笑顔を浮かべて振り返った。
「興味はないと言ってますが……タケも詩人ですね」
「そうか?」
「はい、素敵な詩人だと思います」
ガウリカはその言葉とともに星空を見上げ、俺もつられて空を見上げた。
夜空に映る天の川が、とてもきれいだった。