真円照らす、夜の下で
『真円照らす、夜の下で』
時は大正、まだ男尊女卑が在していた代。
軍服姿に身を纏う、齢四十三の身分高い男の下で、自由の持てぬ娘が一人、共に暮らしていた。願って共にいるのではなく、厳しき中にあり、病弱の母の為に愛しておらぬ男の下へと嫁ぐしか手立ては無かった。
「ふんっ、卑しい娘が。早く来い! ぐずぐずするな! お前は今日より、ワシの妻になるのだからな」
「は、はい、旦那様……で、ですが、母は、母の面倒は誰が……」
「ワシの部下に見させる。それで文句なかろう」
「……はい」
逆らうことの出来ない眼圧、蔑む目が私を襲う。私の言葉は遮られ、意思を伝えることが叶わない。私はこの男に拾われただけの娘。逆らうことなど誰が出来ようか。
数か月程経ち、母が病の悪化で床に伏したまま、亡くなった報せが入った。私のただ一人の理解者であり、家族であったのに、もう誰も私の声を聞き入れてくれる者はいないのだ。
「早くしろ! 早よう、歩け! お前はそんな簡単な事も出来ぬのか。くれぐれもワシの顔を潰す行動をしてくれるな! お前はただの装飾品に過ぎぬのだ。ただただ、頷いておればよい」
「……」
世間の妻とは名ばかりの、私はただの娘。妻にしたのは世間体だけを気にしたからだ。
「はっ、身なりを整えるだけならその辺の貴婦人に見えなくもないが、たかが村娘如きにそのようなことが出来ようものか。お前には小汚くも気品漂う簪だけでよかろう」
母の形見となった簪。これを髪に透かすだけでも、名家の出であることを隠せずにいられた。母のことを想うたび、涙の滴が流れ出た。
旦那様が観劇をご覧になっている間、束の間の時を過ごすことが出来た。すなわち、共に鑑賞することは許されなかったことを意味していた。
ふと、劇場の外を歩くと、見慣れぬ街並みと光景で戸惑い、足が竦んで動けなくなる時があった。旦那様のハンケチを落としたことも気付かずに、辺りを歩き続ける私。焦りからか、路上で躓いて膝を打つものの、進むしかなく首を傾げながら道を進むしか無かった。そこへ、1人の青年が声をかけてきたのだった。
「もし、そこのお嬢さん、ハンケチを落とされましたよ。どちらを向いているのです? こちら、ですよ」
「あっ、も、申し訳ございません」
「いや、大したことじゃない。それよりもあんた、膝を擦りむいたのかい? 見せてみな」
そう言われても、旦那様以外の方に見せて良いものだろうか。そう躊躇していると、その方は優しい目と口調で語りかけてきた。
「キミ、名は何と言う? 俺は通りすがりの伍郎さ。痛かったろ? その場で構わねえから、膝を見せちゃくれねえかな」
「わ、たしは、キワ」
「キワか。いい名だ」
伍郎さんの前で、擦りむいた膝を見せた。母と、旦那様以外の方に見せるなんてことは今まで無かったというのに、この方の言の葉は、なぜこうも溶ける様に私の中へ染み込んできたのだろう。
「わたし……は、旦那様の命で、劇場の外にいたのです。けれど、道が分からずに歩いておりました。そのハンケチは、旦那様の大切なモノ。ありがとうございます……」
「旦那様……か。あんた、今、幸せかい?」
「……」
「だと思った。こうして袖振り合うも他生の縁、キワ、俺と逢引をしてはくれないか?」
耳を疑った。どうして私のような名の無い娘と会いたいと願うのか、と。こうして、直に素足に触れられているだけでも、心音を強くしたまま静寂に保つことは無く、かさついた肌は赤みを帯びてまともに彼の顔を、目を見ることなど出来ないと言うのに。
綺麗な着物を身に纏うも、私の心と体はいつからか潤うことを忘れていた。それは、母を失い、大粒の止まらぬ涙を流し切ったその時より、私はただの傀儡と化した。
ただ従うしか能の無い人形。甲斐甲斐しく世話をするも、それを褒められることは皆無。与えられた部屋は部屋ではなく、格子状の見えた牢の中を寝床として住んでいるに過ぎない。こんな私が、私なぞが……
「嫌か?」
「そ、んなことは……」
「キワ、お前さんのこの素足、いや、透き通った肌が悲鳴を上げちまってるのを感じちまった。俺はその旦那様ってのに憤りを感じてる。今すぐにでも、お前さんを攫って、どこかで暮らしてえよ。だがよ、そんなのはお前さんも、俺も、一生罪を背負うことになるだろう? だからせめて、月に一度でもいい、キワと逢引をしてえって思った。それだけだ」
まるで赤子に触れるかのように、擦りむいた膝、素足を優しく撫でる伍郎さんの手は、ずっと感じることの無かった人の温もり、温かい心が流れて来るかのような気がしていた。
「で、ですが、それはいつ、どこで出逢うと言うのですか」
月に一度、劇場に観劇を見に来るその日だけしか、この時を与えらない私とどうして会えると言うのだろうか。
「上を、空を、眺めてくれればいい」
伍郎さんは人差し指を上空に示し、共に夜の空に目を移した。そこに見えるは、闇夜に浮かんだ満月だった。人通りの多い道であっても、道を照らす灯りは人、ふたりを照らす程ではない。
だけど、満月はわたしと、伍郎さんをはっきりと映している。
「そうだな、真円が照らす夜の下で、この場所で出逢うってのはどうだ?」
「約束は出来ません。それでも、もし、出逢えるとするならばここで、会いたい……」
「じゃあ、約束だ。互いの頬に手を触れて、目を瞑るんだ。願えば、必ず逢える、ってな」
私と伍郎さんは、互いの頬に手を添えて、目を瞑った。暗く、視界の遮られた瞳の中で、通りの喧騒だけが耳に届いている。その僅かな間の中で、私と彼は約束を交わした。逢えることを願って――
2018年1月2日、スーパームーンにちなんで、短編を書きました。
この話は、ものすごく長編で書こうとした大正浪漫の恋話です。




