三百八十四話 陽動合戦
エイリーク・マルメ教皇から告げられた聖戦に異を唱える者は、アミッド神聖国には誰もいなかった。
近々聖戦を行う事は政治や軍事、そして神殿に関わる誰もが察していたからだ。……一部の国民やミルグ盾国を含めた属国の王族や貴族は内心苦い思いをしていたが、表立って逆らえるはずもなかった。
帝国から神聖国と変わった事で、為政者であるアルダ神殿の教皇の言葉は『法命神』アルダの言葉となっている以上、政府に逆らうと神に逆らう事になってしまうからだ。
特に、ミルグ盾国は境界山脈の一部が動きアーク山脈となった際に、アミッド神聖国が派遣したハインツ達英雄によって救われている。そのため、表立って反抗する事はできなかった。
「しかし、聖戦を始めるとしてもどうするのです? 敵はあの人跡未踏の境界山脈の向こう側です。海路から攻めようにも、恐ろしい魔海の魔物と渦と岩礁が待ち受けています。
やはり、こちらから攻めるのは不可能なのでは?」
だが、意見と言う形でミルグ盾国王は遠回しに「無理ではないか?」と問いかけた。
その様子は宗主国に媚びるばかりではない、しっかりと意見の言える王であるように見えたが、内心では戦々恐々としていた。神の意志の元、境界山脈を無理に超える、もしくは海から強引に上陸するために自国の兵に死の遠征を命じるつもりではないかと不安に駆られていたからだ。
以前の、まだ帝国だった頃の宗主国ならミルグ盾国が崩壊しかねないような事は命じなかった。歴代の皇帝はそれだけ理性的であり、同時に維持する価値がミルグ盾国にあったからだ。
しかし、境界山脈が動いた事でミルグ盾国のオルバウム選王国に対する盾としての役割は終わり、その価値は激減してしまった。
また、アミッド帝国は神聖国へと変わり、新たな支配者であるエイリーク・マルメがこれまでの皇帝と同じように属国との関係を維持するつもりがあるのか、不安視する者はミルグ盾国の中に少なくない。今回の聖戦のついでに多すぎる兵を削るつもりではないかと、ミルグ盾国王が考えても無理はなかった。
以前は神聖国になって変わった宗主国に対して「様子を見よう」などと思っていた彼だが、その結果神聖国の危なっかしさを思い知る事になり、今では以前下した日和見な判断を後悔していた。
「確かに……既にミルグ盾国が過去に侵攻した際に使った道も、トンネルも存在しない」
「まさかトンネルの再建から始めるのか? 開通するまで何年かかるか分からんぞ」
「いや、海の上を魔術で飛行すればいいのでは?」
「馬鹿を言え、過去にそれを試した先人がいなかったと思うのか? 彼らはその命をもって我々に教訓を残してくれたのだぞ」
「そうだ、ファゾン公爵領と合流してオルバウム選王国側から境界山脈を抜けるトンネルを探すのはどうだ!? こちら側にあった以上、あちら側にもトンネルがあるはずだ!」
「それこそ何年かけるつもりだ!? ファゾン公爵領軍と船で合流して、その後オルバウム選王国の他の公爵領全てを敵に回して戦争をしながら、あるかどうかも分からんトンネルを探す……とても無理だ」
「そもそも、向こうは山脈を動かせるのだぞ。そんなに時間をかけていたら、向こうから山脈を動かして攻め込んでくるぞ!」
招集された神聖国の貴族や属国の王族とその臣下達が、囁きというには大きすぎる声で意見を交わす。彼らに共通しているのは、アミッド神聖国では重要視されない立場にある者達である事だ。
対して、アミッド神聖国で重要な立場にある者達は最初から結論を知っているかのように落ち着いている。
「落ち着いてください。主アルダは既に、我々が実行するべき事を神託より告げています。
『英雄神』ベルウッドを降ろした英雄ハインツによって、境界山脈を割り、活路を開くのです」
そして、エイリークによって告げられたのは、これまでの常識を力技でねじ伏せるとんでもない作戦だった。
だが、それなら可能だと多くの者達は納得した。
A級冒険者はもちろん、S級冒険者であるシュナイダーが全身全霊の力を振り絞った一撃を放てば高さ数百メートルの山ぐらいなら割ったり砕いたりして破壊する事ができる。
だが、一撃で標高数千メートルに及ぶ境界山脈の山々を破壊する事はさすがに不可能だ。崩すことができたとしても、その結果大量の土砂がミルグ盾国に雪崩れ込み、その後住み処を崩された境界山脈の魔物が雲霞の如く押し寄せてくるのは想像に難くなかった。
しかし、『英雄神』ベルウッドを降ろした『蒼炎剣』のハインツの一撃なら、山脈を割る事ができるはずだ。態々神が聖戦を始める手段として神託で指定したのだから。
「そ、そんな事をすれば境界山脈に巣くう魔物達が、再び我が国に襲い掛かってくるではありませんか!」
だが、ミルグ盾国王はそれを信じたうえで異議を唱えた。作戦が実行された場合、主な戦場になるのは彼が治めるミルグ盾国なのだから、当然ではある。
「聖戦が終わった後、後に残るのは境界山脈の内側に続く入り口です! どうか、聖戦後に我が国を守る方策を……せめて、山脈を割る位置の選定を我が国に任せていただきたい!」
境界山脈内に繋がる入り口が、新たな領土を得る足掛かりになるとは、ミルグ盾国王は欠片も考えなかった。
何故なら、それは約七年前に失敗に終わった第二次タロスヘイム遠征で得た数少ない、しかし貴重な情報と教訓から危険な考えだと分かっているからだ。
境界山脈内の土地は全て魔境で、強力な魔物が数えきれない程群れており危険極まりない。そう報告を受けて浄化して普通の土地にできるか検討するよう宮廷魔術師や学者達に検討させたが、無理だという結論が出た。
魔境を浄化する時は、浄化したい魔境を一度にすべて浄化するのが定石だ。一部だけの浄化では、その範囲内の魔物を駆除しつくしても新たな魔物が範囲外の魔境から入り続けてしまうからだ。だから全ての土地が魔境化している境界山脈内では、浄化作業中に他の魔境から魔物が侵入し続けてしまって浄化できないと考えられる。
もちろん、侵入してくる魔物を二十四時間常に駆除し続ければ浄化する事もできるが……そのために必要な戦力や費用を考えると、とても現実的ではない。それこそ、境界山脈を動かす『魔王』や、割る事が出来るハインツなら別かもしれないが。
そんな危険な場所と地続きになったら、ミルグ盾国はどうなってしまうのか? 山脈を割った谷の入り口から徐々に魔境に侵食されてしまうに違いない。
そうならないためには、山脈を割る場所を人里から離れた場所にし、境界山脈内部から魔物が押し寄せて魔境を広めないように守るための砦を築かなくてはならない。
そのためには年単位の時間がかかるため、実質聖戦を止めてほしいと主張するのと同じだ。だが、ミルグ盾国の王としてはそう主張せざるを得ない。
「心配することはありません」
しかし、ミルグ盾国王に応えたのは厳しい拒絶や背信者のレッテルではなく、温かい言葉だった。
「偉大なる『法命神』アルダは、そのような事は既に承知しています」
「ほ、本当ですか!?」
目を見開いて問い返すミルグ盾国王に、エイリークは微笑んだまま頷いた。
「聖戦に勝利した時、あなたの不安は全て消え去り、悩むことは何もないでしょう」
そう告げた途端感極まったように神に祈りだすミルグ盾国王を眺めながら、エイリークは思った。なんて不遜で、それ以上に哀れな男なのだろうか、と。
『法命神』アルダは、聖戦を始める事でミルグ盾国が戦場の一つになる事、そして聖戦の結果国土が蹂躙され大きな被害を受ける事は最初から理解している。
そして、聖戦に勝利した後、よほど運が良くなければミルグ盾国は滅亡する事も。
それを理解しているが、それは「必要な犠牲」だと判断し、生贄の羊となるミルグ盾国民の事を憐れみその犠牲を悼みつつも、それを仕方なしとしている。
それをエイリークは神託によって知っており、アルダが「必要な犠牲」とミルグ盾国を定めた以上異を唱えるつもりはなかった。
むしろ、ミルグ盾国の全ての民はアルダにその最期を悼まれる事に感謝しながら、喜んで命を捧げるべきだとすら考えている。
だから、エイリークは真実をそのままミルグ盾国に伝えた。
アルダはミルグ盾国が不安に思っていることは全て承知している。そして、聖戦に勝利した時には既にミルグ盾国は国としての体を為していない状態だろうから、ミルグ盾国王が不安に思う事は全てなくなり、悩むどころか考える事もないだろう、と。
だが、それは自分達だけは例外だと考える傲慢さからくる冷酷さによるものではない。ミルグ盾国以外の属国、そしてアミッド神聖国も同様に生贄の羊なのだから。
エイリークはアルダにとって、自分もまた生贄の羊であり、ミルグ盾国との違いは捧げられる可能性と時期が異なるだけである事を知っている。
それもまた神の意思であり、この命を神に捧げられることに名誉を覚え、この世界の未来を左右する聖戦のために命を投げ打つことができるとエイリークは心から喜んでいた。
例外は、ミルグ盾国が生贄の羊である事を知りつつも、自分はそうなる事はないと思い込んでいる者達、アミッド帝国からアミッド神聖国へ鞍替えし、進んで前皇帝マシュクザールを差し出した貴族達だ。
彼らは知らない。アルダは最悪の場合、アミッド神聖国だけでなくバーンガイア大陸全土から聖戦を生き残った英雄達を撤退させて人が住んでいる島などに移住させ、そこで態勢を立て直し大陸奪還のための準備を改めて進めるつもりである事を。
全てを知るエイリークは、哀れな彼らにそれを教えるつもりはなかった。
同時刻、ファゾン公爵領でも聖戦の報せは届いていた。情報伝達の方法はファゾン公爵領とアミッド神聖国の間を行き来する超一流の密使や天才的な空間属性魔術師……などではなく、やはりアルダからの神託だった。
ファゾン公爵領のアルダ神殿には、エイリークほど神託を正確に受け取る事が出来る才能の持ち主はいない。しかし、聖戦を始める、という短い内容を取り違える事はない。
ファゾン公爵はこの聖戦こそ自分がこの世に生まれた意味だと信じ、公爵軍だけでなく義勇兵を募って全てを投じる構えだ。
その動きは当然大きくなり、他の公爵領に察知され、ヴィダル魔帝国にも情報は伝達される。
ヴィダル魔帝国の首都であるタロスヘイムの城で、ヴァンダルーはしばらく考えてから口を開いた。
「とりあえず、アミッド神聖国側の境界山脈に国がある鬼人国には一旦避難してもらうとして……政治や軍略に疎い俺でも分かりますが、これは囮とか陽動の類ですよね? ファゾン公爵領だけではなくアミッド神聖国の動きも含めて」
『はい、私も同意見です』
『その通りです、さすがヴァンダルー様』
生前ミルグ盾国の武官だったチェザーレも、何万年も人間社会を裏から操ってきた邪神派吸血鬼だったアイラも、同意見だった。
アミッド神聖国が送り込もうとしてくる大軍勢は、境界山脈まで一月以上街道を進軍してやってくる。それも、軍団の中央にはハインツ達『五色の刃』が万全の態勢を維持するため大型の馬車に乗って待機しているという。
普通の敵国を相手にする場合ならともかく、フットワークが軽いヴァンダルー達にとってそれは境界山脈に到着する前に攻撃してくれと、叫びながら行進しているようなものだ。
いや、ヴァンダルーがアミッド神聖国の征服を目論んでいるなら、軍がアミッド神聖国から出発してすぐには戻れなくなった時点で神聖国の首都を急襲して占拠しようとするかもしれない。
つまり、アルダはヴァンダルーにそうして欲しいのだ。軍団の中央で馬車の中に陣取り姿を見せないハインツ達は、考えるまでもなく偽物で、本物はどこかで待機しているのだろう。
ファゾン公爵領の方も考えるまでもなく、陽動だ。ファゾン公爵がどれほどやる気になっても、彼らにはヴィダル魔帝国と直接刃を交える術がないからだ。
陸路では境界山脈を越える以前に、まずビルギット公爵領やハートナー公爵領を横断しなければならず、海路でも、アミッド神聖国と同じように魔海の魔物や荒々しい海流や岩礁を抜けねばならない。
もちろん、オルバウム選王国の各公爵領にとっては陽動ではなく防衛線を展開しなければならないわけだが。今のファゾン公爵領を除いたオルバウム選王国は、ヴィダル魔帝国の友好国だ。当然だが、高みの見物をするつもりはない。
『各公爵領軍には求めに応じて援軍を送り、陛下はいつでも動ける態勢を維持して待機するのがよろしいかと』
だが、チェザーレが言うようにいきなり援軍を送りつけるのは、防衛線がよほど追い詰められた時だけにするべきだろう。そうでなければ各公爵領軍の顔を潰すことになる。
たとえ、ファゾン公爵領軍に他の公爵領の精鋭達が組み込まれているとしても。
外交を含めた政治に、手続きとその順序は無視してはいけない重要なものなのである。……もちろん、世の中には手続きをしている暇のない緊急事態というものがあるが、その場合は事後承諾という素敵な言葉がある。
それに、彼らがヴィダル魔帝国に援軍を要請するのを躊躇う事はないだろう。
「それで、肝心なのはアルダ勢力の動きだな。陽動を仕掛けた裏で、どう動くと思う? 狙いは陛下の暗殺だと思うが」
チェザーレの弟で副将軍兼副宰相という地位にいるクルトがそう言うと、最初に応えたのはエレオノーラだった。
「本物の『五色の刃』を中心にした少数精鋭の部隊を、このタロスヘイムに送り込もうとするんじゃないかしら? アミッド神聖国側の陽動部隊に結界を破壊させて、ナインロードかまだ健在のはずの『鏡像の神』ラーパンにタロスヘイムまで【転移】させて」
『いや、実はハインツ達はもうファゾン公爵領で潜伏していて、ビルギット公爵領や、ケイティのいるハートナー公爵領に攻め込み甚大な被害を与え、救援にヴァンダルー様が駆けつけたところを狙うつもりかもしれないわ』
エレオノーラに続いてアイラが、しかし彼女とは異なる推測を述べる。何かと競い合う事が多い二人だが、今は真剣に話し合っているのか、無意味な言い合いをする様子は見られない。
『なら、ジャハン公爵領やサウロン公爵領にもう潜伏している可能性もあるよね? グファドガーンやジェーン・ドゥに感知されないよう、街の外に空間属性魔術で【転移】して、時が来るまでそのまま野宿していればいいんだから』
だが、ザンディアがそう言うと、警戒するべき範囲が広すぎる事に全員が気付いた。
『地球』と違い、この世界の人間は個人で戦略兵器並みの攻撃力を持つ者がいる。ヴァンダルーやシュナイダー達、そしてハインツ達『五色の刃』がそれだ。
そしてこの世界は、『地球』程人間が管理している土地は広くない。街と街の間にある森や林にでも潜伏されたら、探し出すのは困難だ。
そして『五色の刃』は冒険者パーティーである。本来、そうした野外での活動はお手の物だ。一週間でも一カ月でも潜伏し続ける事が出来るだろう。
『まあ、さすがに魔大陸やガルトランドやその周辺に潜伏するのは不可能だろうから、候補から外して良いと思うけど』
「そうなると、奴らが潜伏しているとしたら前もって見つけるのは困難だな」
クルトはそう結論付けた。ヴァンダルーが使い魔王を増やすのも限界がある。さすがにオルバウム選王国全土を、文字通り草の根を分けて大捜索することはできない。そして霊やアンデッドを動員するのは、より難しい。
「ヴァンダルーならもしかしたら可能かもしれないけど、そのためだけにかかりきりになったり、使える魔力が減ったり、思考の数を使い魔王の操作に取られて魔術の制御が甘くなってしまうかも。
それが敵の本当の狙いかもしれないものね」
「そうですね、母さん。だから、重要な街の周りなどに使い魔王を待機させるだけにしましょう。……まあ、ハインツはそういう事はやりたがらないと思いますけど」
「師匠、言葉の後半の意味は?」
「そのままの意味です、弟子よ」
ヴァンダルーは半眼になってルチリアーノの質問に答えたが、さらに説明を促されたのでしばらく無言の抵抗をしたのち、口を開いた。
「弁護する訳ではありませんが、ハインツは無暗に人を殺す事や街を破壊する事で快楽を覚える奴ではありません。特にアルダが人間として定義する人種、エルフ、ドワーフの三種族は。……さらに言えば、ヴィダの新種族であっても人間の社会にとって都合が悪くなければ、害を与えようとはしなかったそうです」
ヴァンダルーはハインツを心の底から憎んでいるし、ハインツが消えた方がこの世界は清くなると、ハインツが存在する限り真の幸福はないと確信している。蛇蝎とハインツなら、蛇蝎とベストフレンドになる事を迷わず選ぶ……既にだいたいの蛇蝎はヴァンダルーと親しいのだが。
しかし、それで情報を歪めてはならないと踏み留まる程度にヴァンダルーは冷静で、そして臆病だった。
ハインツ達『五色の刃』は冒険者パーティーで、アルダ信者だ。しかし、人間社会の英雄であると同時に街で暮らすヴィダ信者やヴィダの新種族に対しては迫害を行う事はなかった。アルクレム公爵領ではむしろ人と同じ権利を獲得するために動き、一定の成果を上げていた。
魔物の一種とされていたグールや、ファゾン公爵領で政府の者を誘惑して情報を引き出していた魔人族や【魔王の欠片】を守っていた人魚の部族には容赦しなかったが……それも人間社会では悪とされる対象だったからだ。
ヴァンダルーとしては、だから許すとか見逃すという気には全くならないが、それでもアルダの狂信者……エイリークのような者とは違うと思っている。
『だから、陛下をおびき出すためだけにオルバウム選王国の街を攻撃する事はないと? しかし、アルダがグドゥラニスの魂の欠片すら利用しかねないと言ったのは、陛下ですが?』
「チェザーレ、確かに言いましたが、アルダとハインツは別人です。ハインツはアルダの化身ではないし、アルダをその身に降臨させた事もありません」
何より、ハインツはアルダと同一人物ではない。思考や記憶を共有していない別々の存在であり、そうである以上アルダが聖戦と位置付けるこの戦争で、「必要な犠牲」と定めた存在の命を、「必要ない犠牲」と考える事は十分あり得る。
特に、オルバウム選王国の各公爵領にはアルダ信者もまだ存在するのだ。
「戦争だからと割り切る事ができる人もいますが、ハインツにそれができるとはとても思いません。……ふう、ちょっと休みますね」
ハインツを弁護するつもりはなくても彼の肩を持つようなことを口にした事でたまったストレスを癒すため、ヴァンダルーは本体である自身の活動を休止した。
目を開けたまま動かなくなったヴァンダルーをひょいと抱き上げて、ダルシアは彼の意見に頷いた。
「確かに、復活したグドゥラニスとヴァンダルーの戦いに介入してきたとき、ヴァンダルーじゃなくてグドゥラニスを倒すことを優先していたわね」
「じゃが、坊やを誘き出すために町を攻撃するならハインツ以外の者、『邪砕十五剣』でも……いや、無理か。誘き出した後、激怒している坊やに瞬く間に殺されるだけじゃな」
ヴァンダルーを誘き出すだけなら、ハインツ以外でもできる。しかし、ザディリスが言うように誘き出した後のヴァンダルーの相手をできるのは、ベルウッドを降臨させたハインツぐらいだろう。彼の足を止めて時間稼ぎをするだけでも、至難の業なのだから。
殺すとなれば、他の選択肢はない。
『アルダの『法の杭』は警戒しなくていいのか? アルダ自身が降臨してきて坊主に杭を刺そうとするって奇策も十分あり得ると思うぜ』
「偉大なるヴァンダルーに変わって、このグファドガーンが答えよう。その場合、偉大なるヴァンダルーは一旦引けばそれで十分。また、不意を突かれても回避する事が可能だ」
ボークスが警戒するアルダの神威である『法の杭』は、ラムダの神に対して絶対的な効果を発揮する。しかし、杭であるため、アルダが対象に直接突き刺さなければ効果を発揮する事ができない。
つまり、アルダの間合いの外まで引けば刺さらない。そして、アルダは戦神ではないので神としての力はあっても、戦闘に関する高い技術を持っている訳ではないから彼が振りかざす杭を避ける事もヴァンダルーなら不可能ではない。
神話では大神である『空間と創造の神』ズルワーンや『時と術の魔神』リクレントが何度かアルダの『法の杭』で罰を受けたエピソードが残されている。そして、十万年前の戦いでヴィダは『法の杭』で滅多刺しにされた。
しかし、ズルワーンやリクレント、そしてヴィダも戦神としての神格を持っていないため戦いが得意ではない。さらに言えば、ズルワーンとリクレントの場合はそもそも『法の杭』から逃げるつもりがなく、甘んじて罰を受けたのだ。
そのエピソードが起きた時代は魔王グドゥラニスがこの世界に来る遥か以前の事で、全ての大神が揃っていた時代。色々とやらかすズルワーンとリクレントも、この世界にとって必要不可欠な存在であり、二柱ともその事を自覚している。だから、当時は正気を保ったまま問題なく法を司っていたアルダが下す罰から逃げる意味がなかったのだ。
罰を受けて償えば、元通り大神として他の神と肩を並べる事ができるが、逃げ回ってばかりではお互いの関係が悪くなってしまう。だから別の空間への【転移】や、アルダの周囲の時の流れを遅くしての逃亡を選ばなかった。
そしてヴィダは、ベルウッドの攻撃によってダメージを受けた後に『法の杭』を受けたので避けられなかっただけだ。
「とはいえ、これは地上に降臨したため存在できる時間が限られている状態のアルダの攻略法であって、アルダが依り代に降臨した場合は話が異なる。
降臨する依り代に高い技量があれば、それで『法の杭』をその技量で振るう事が可能になるかもしれない」
ヴィダを体に降ろしたダルシアと同じという事だ。
「その場合は神ではない我々が接近戦に持ち込み、旦那様には杭が届かない距離まで下がってもらうのが最善でしょうか」
「ベルモンドの意見に同意する」
「それで、話題を元に戻すが……皆はハインツが何処で何を狙っていると思うのじゃ?」
『陛下の意見を考慮すると、おそらく奴が命を奪う事を躊躇わない存在が暮らす場所、その奥深くまで切り込んでくるのではないかと。
つまり、このタロスヘイムに来る確率が高いと考えます』
魔王退治の物語の定石は、少数精鋭による敵中枢への侵入と、魔王の暗殺である。
これもまた、魔王扱いされているヴァンダルーにとっては不快な話だが。
「とりあえず、奇策はセオリー通りの対応を徹底してから考えましょう」
冬が深くなり、あと数日で年が明ける頃、アミッド神聖国聖戦軍……略して聖戦軍は、進軍を続けていた。
その総数は約十万。……アミッド神聖国と四つの属国の総戦力を合わせたにしては、数が少ないように感じるかもしれない。
しかし、この十万は全てが精鋭で構成されているのだ。
一兵卒でも、通常ならランク2相当の魔物を倒せる程度であるところを、ランク4の魔物相手に互角以上に戦える腕利きの兵士ばかりだ。参加を募った冒険者や神殿戦士や騎士達も、C級以上の者を厳選している。
ヴァンダルーとその配下達を相手にする以上、弱兵は肉の盾どころか邪魔にしかならない。
この数カ月で鍛えに鍛えた精鋭を、集めに集めてこの数なのだ。もちろん、エイリーク・マルメ教皇も加わっている。だが、同時にこの聖戦軍はアルダ勢力にとって囮でしかなかった。
ヴァンダルー達がすぐに見透かしたように、この聖戦軍の中にハインツ達『五色の刃』はいなかった。彼らがいるはずの馬車に乗っているのは、偽者だ。
そして、聖戦軍にはアルダに忠実ではない者達も含まれている。
(神殿長の合図と同時に、戦列から全力で離れる)
(『法命神』アルダが本当に狂っているのかは分からん。だが、エイリークが狂っているのは間違いない)
(我々が信仰するのは、アルダではない。なら、神の言葉を信じるのみ)
(ボティンよ、匠たるあなたが鍛えたこの身に力を)
(ペリアよ、その英知を我に授けたまえ)
(リクレントよ、我に時の加護を)
(ズルワーンよ、混沌の先に希望を指示したまえ)
彼らはエイリーク達アルダ神殿によって捕らえられていたところをヴァンダルーに助けられた聖職者達から指示を受けた、もしくは、アルダへの不信感を上手く隠し通す事ができた者達の指揮下にある者達。そして、それとは関係なくヴィダ派に転向した神々から直接神託を受けた者達だった。
彼らは皆、立場上聖戦軍への参加を断る事ができなかった、もしくは聖戦軍に加わった同郷の者や友人を助けるために断らなかった者達だ。
当然だが、彼らは聖戦軍の一員として戦うつもりはない。
そんな一枚岩ではないどころか、板状の岩を積み重ねたような軍ともいえない軍が聖戦軍だった。
後数時間、行軍を続けて境界山脈を射程距離に収めたら、ハインツの代わりに馬車に籠っている者達が山脈を破壊。そうしてできた入り口から攻め込む手はずになっていた。
だが、突如山脈から轟音が響きだした。それは巨大な怪物の咆哮のようだったが、そうではない事をミルグ盾国から聖戦軍に参加した者達は知っていた。
「山脈が……山脈がまた動くぞ!」
「魔王め! 先に仕掛けてくるつもりだ!」
聖戦軍が近づいてくる間、彼らからは何も起きていないように装いながらゆっくり時間をかけて【ゴーレム創世】で作られた谷が、その入り口を現した。
そしてその山脈からは、無数の魔物が……目を血走らせたティラノサウルスの群れや、咆哮を轟かせながら走るヒルジャイアント、空中を泳ぐフライングヒュージシャーク等が聖戦軍目掛けて全速力で近づいてくる。
「迎え撃て!」
「今だ、逃げろ! 退け、退けぇ!」
それに対して聖戦軍はいきなり足並みが乱れた。いざ、魔王軍との戦いに身を投じようとする血気盛んな者達と、これが合図だと予定通り聖戦軍から離脱しようとした者達。
指揮系統は一瞬で崩壊し、離脱しようとする者達以外の動きが鈍る。
『うおおおおおおっ! 蹴散らせぇぇぇ!』
「逃げようとする者は追うな! その場に留まる者は殺せ!」
「ノーブルオーク軍、前進せよ!」
その側面から、潜んでいた『剣王』ボークスやヴィガロ率いるヴィダル魔帝国軍と、ブダリオン率いるノーブルオーク軍が襲い掛かった。
「しまった! 既に境界山脈の外で待ち伏せていたのか!?」
そう、これ見よがしに山脈を開いて見せたのは陽動。そして、谷から出てきた雑多な魔物の群れは囮の捨て石に過ぎない。
境界山脈内部にいる魔物の内、突進力に優れた種類を適当に集めて後ろから追い立てただけで、ヴィダル魔帝国軍の一部ですらなかった。
決戦の第一幕は、まずはヴィダル魔帝国側の奇襲が成功した形となったのだった。
次の話は9月3日に投稿する予定です。
またニコニコ静画とコミックウォーカーでこの作品のコミカライズ版も更新されているので、ご覧くだされば幸いです。皆格好よく描かれていますよ!




