三百三十二話 患者はモンスター
「マシュクザールが逃亡したのか!? 誰の仕業だ!? 見張りの連中は何をしていた!?」
アミッド帝国の城の玉座の間に、妙に甲高い怒鳴り声が響いた。
怒鳴り声の主は新アミッド帝国皇帝の座に就いた、イリステル公爵家の長男、サラザール・イリステルである。
「どうやら『暴虐の嵐』の仕業のようです。『邪砕十五剣』からの報告によれば、前皇帝は拉致されたようです」
「ひっ! シュナイダーかっ!? こ、この城の守りは万全であろうな!?」
「勿論でございます、皇帝陛下! この城の守りは万全です! 偉大なるアルダに選ばれた皇帝陛下を傷つけられる者など、存在いたしません!」
シュナイダーの名を聞いた途端、見苦しいほど怯えて玉座から落ちそうになるサラザールを、秘書官という役職名の太鼓持ち達が宥めにかかる。
しかし、それもサラザールの青ざめた顔に血色を取り戻させることはできなかった。
「冒険者ギルドは何をしておる! 奴をどうにかできんのか!? 神の加護を受けた英雄達はどうした!? 『邪砕十五剣』は!?
アルダ大神殿は何をしているのだ!」
喚き散らすサラザールを落ち着かせようと懸命に宥める秘書官達。サラザールも分かっていた。自分が言っているのは馬鹿げた事なのだと。
マシュクザールが帝位にいた時も、シュナイダー率いる『暴虐の嵐』には手を焼いていた。その状況が、自分が皇帝になった事で変わる訳がないのだ。
たしかに、冒険者ギルドのA級冒険者達や神の加護を受けた英雄達、そして『邪砕十五剣』にアルダ大神殿の戦力を結集させれば、シュナイダーを倒せるかもしれない。しかし、どうやって結集させるのか?そして結集した戦力をどんな方法でシュナイダーにぶつけるのか?
それはいくら考えてもサラザールには分からなかった。……そもそも、それを実行する権限は彼には無いのだが。
「クソっ、何が神に選ばれた、だ……余を選んだのは神ではなく神殿であろうが!」
サラザールには十分な知識と経験、そして才覚がある。……イリステル公爵家の当主を継ぐには。
イリステル公爵家は、マルメ公爵家と同様に建国以来アミッド帝国を支えてきた大貴族で、当主は帝位継承権を持つ。領地があるのは帝国の西側、属国である穀国ヨンドとの国境を接する地域である。
穀国ヨンドとは、広大な耕作地を持つ農業に適した国であり、帝国の胃袋を満たす食料を生産している属国だ。つまり……イリステル公爵家は平和な、脅威となる敵国とは遠い地に領地を持つ貴族なのだ。
そのイリステル公爵家を継ぐはずだった長男のサラザールは、イリステル公爵家を運営するには有能な人物だった。だが、帝国全体を治める皇帝としての才覚は無かった。
そして、それは今の帝国の上層部とアルダ大神殿の枢機卿以上の者達、全員が知っていた。それでもサラザールを皇帝にしたのは、彼が傀儡として都合が良かったからである。
(クソっ、余が政治の都合で皇帝にされたのは、余自身が一番分かっている! マルメ公爵家から新しい皇帝を出すと新教皇のエイリーク・マルメとの関係があからさますぎて、人心が離れる。かといって他の公爵家はマシュクザールとの関係が深い、それで私が選ばれた! 毒にも薬にもならない、都合の良い傀儡として!)
苛立ちを玉座の肘掛けにぶつけるが、拳が痛くなるだけで何の意味もない。今の自分は、大神殿の意向を軍や騎士、そして『邪砕十五剣』に伝える伝書鳩に過ぎない。
「ですがお喜びください! カラハッドのペリア神殿の反乱分子の捕縛に成功したと報告が届いております! 大監獄に幽閉するため、現在護送中との事です!」
「やかましい! 狂信者共の末路など、余の耳に入れるな! 大神殿に直接伝えればよかろうが!」
最近、『法命神』アルダと同じ大神であるペリアやボティンが、汚らわしいヴィダの加護を受けた英雄だか聖人だかによって解放されたと、正常なアミッド帝国民にとっては狂気の沙汰としか思えない主張を訴える者が出ている。しかも、それまで信心深い、立派な人物とされていた聖職者が秘密裏にその主張を広めているので質が悪い。
そうした者達をアルダ大神殿の意向で、反逆罪で捕えるようサラザールが命令を出していた。
(いくら狂信者とはいえ、哀れな。大神殿もそこまで神経質にならずとも良かろうに。ペリアやボティンも、何故自分達の信者に、神託で真実を伝えない? それとも、狂った神殿長達は元々神託を受け取る事ができない、生臭坊主の類だったのか?)
自身も神々の長である『法命神』アルダと、その姉にして妹であるボティンへの祈りを欠かさなかったサラザールは、血を吐くような気分で溜め息を吐いた。
このままでは、自分はアルダによって行き過ぎた権力を握ったアルダ大神殿の犬として、帝国史上最も愚かな皇帝として歴史に残る事だろう。だが、それをどうにかする手段は彼の手にはない。
「……反逆の首魁である神殿長以外の者、ただ神殿長の言葉に惑わされた者には慈悲を持って扱うようにと伝えよ」
「陛下、しかしそれはアルダ大神殿の――」
「余の言葉に逆らうか!? 貴様も監獄に入りたいか!?」
「ひぃっ!? 畏まりましたぁ!!」
できるのは、こうして文官に当たり散らしながら、気休め程度にしかならないだろう命令を出して自分の罪悪感を紛らわせる事だけだ。
「ええいっ、気分が悪い! 酒だっ、酒を持て!」
そして酒でシュナイダーにいつか殺されるのではないかという恐怖と、自身の無力感を紛らわせながら、内心で神々に向かって唾を吐く。
アミッド帝国の帝室の権威は、マシュクザールの退位からまだ数年と経っていないというのに、驚くほど堕ちていた。
その頃オルバウム選王国の首都、オルバウムの英雄予備校では、提出された書類の内容を見たメオリリスが胡乱気な顔をしていた。
「一週間ほど入院する? 当校は単位制だから問題はないが……あの医院に入院するのか!?」
エリザベスの母親が入院している医院の事は、メオリリスも知っていた。正式名称は精神治療院だが、同じ名称の施設がないため、そして誰もが口にするのを避けるようになったため、今では医院としか呼ばれない施設だ。
そこでは「狂っている」とされた者が入院……幽閉され、その後出てくることはほとんどない。メオリリスも著しい問題を起こした貴族の子弟や、ときには当主が入院させられ、そのまま社会から忘れ去られていったのを知っている。
尤も、実際には退院した者がいる事も知っている。……家族からの寄付が途切れて放り出された患者や、家族が治療を諦めて引き取った患者等だが。
しかし、そうした例外を除けば生きて退院した者はいないと評判の施設だ。
「一週間と期限を区切っているからには、目的があっての事だろうが……あの医院の中で何をするつもりなんだ?」
「知らん。書類を提出しに来たパウヴィナに聞いても、何も話さなかった。ただ……」
メオリリスに問われたランドルフは、溜め息を吐いて続きを答えた。
「きっと、治療行為だろう。アルクレム公爵領のモークシーの町に潜入した時に調べた情報だが、俺が殺すのを止めた生きる屍になった女を、奴は数時間で会話できるほどにまで回復させたらしい」
ミノタウロスに囚われていたユリアーナ・アルクレムの事を話すランドルフに、メオリリスは胡乱気な顔つきのまま更に問いかけた。
「それは……良い事だな。完治が難しい患者を治すのだから。だが、ヴァンダルーにそれが可能だったとして、何故そんな事をこの時期に行う? 別に文句があるわけではないが、一週間でできるのなら、学校に入学する前に済ませても……いや、卒業してからでも構わなかったろうに」
メオリリスはエリザベスの母親が医院に入院している事を知らない。オルバウムの貴族達にコネクションを持つ彼女だが、諜報機関の真似事をしているわけではないからだ。調べようと思えば調べられるだろうが……生徒の秘密を全て探り出す必要はないし、そうする事で「生徒の弱みを探り出して、何か企んでいる」と貴族達に認識されるのは不利益しかない。
「さあな。だが、良い事かは分からないぞ。これが病や怪我ならともかく……心は他人の目にも、そして患者本人も見えない。壊れた心が治ったのか、それとも別の形に壊されただけか、判別がつく奴があの医院にいるとは思えない」
ランドルフはそう言って、疲れたような溜め息を吐いた。
「別にヴァンダルーを信用していないわけじゃない。仮にも生徒だからな。滅多なことはしないだろうが、面倒な事になるはずだ。
お互い、今から覚悟しておいた方がいいだろう」
短い診察の後、ヴァンダルーが通された病室は、扉が分厚く鍵も厳重であり、内側から開くことができない。覗き窓はあるが、それも内側からは開けられない構造になっている。それ以外は、貴族の私室だと言われても不自然ではない豪華なものだった。
柔らかそうなベッドに、上質な木材を使っている机や椅子、衣服を収納するためのドレッサー。窓には鉄格子が嵌まっているが。
『ここにいる医者を自称する者達の眼は、腐っていますな。ヴァンダルー様を狂人扱いとは』
『き、きっと、俺達の事が見えたとしても、狂人扱いするに違いないぃ! 狂っているのは奴らの方だぁ!』
応接室でくねくね踊っていた光る人達の内二人、光属性のゴーストである『闘犬』のダロークと、『狂犬』のベールケルトは憤慨した様子で口々に精神治療院の院長と、ヴァンダルーを診察した医師を罵った。
「まあまあ、誤診するように誘導したのはこちらですから。……診察した専門家の医師の態度はどうかと思いますが」
アルクレム公爵に書いてもらった紹介状を目にした院長が、入院を許可したのは当然だ。しかし、その後自分を診察した医師が、「か、完全に正気を失っている! 手の施しようもない!」と叫んだ事に対しては不満を覚えたヴァンダルーだった。
一目見ただけで、演技も何もしない内に狂人扱いとはどうなのか?
「あれでは俺が本当に正気を失っているようではないですか。そう思いますよね?」
『いやはや、全くですな』
『そうですよね。見ただけで腰を抜かすなんて』
『【霊媒師】かもしれないって思われなかったのは、好都合だけど』
ダロークのように、チプラスやレビア王女、そしてオルビアもヴァンダルーの言葉に同感だと頷く。なお彼らはレベルの差はあるが、全員【精神汚染】スキルを持っている。
『素行が悪すぎて放置できない貴族の子弟なんかを、死ぬまで飼い殺しにする施設としても使われているらしいんで、専門家といっても名ばかりなんじゃないですかね?』
そう言うキンバリーも【精神汚染】スキルを持っているのだが、自分やヴァンダルーが正しい意味で「狂っている」とは思っていない。
良い意味で、クレイジーだとかイカレてるとは思っているが。
『ところでボス、ここに入ってするのはあの子の母親の治療だけですかい? この施設、かなりきな臭いですぜ。まあ、帝国にも似たような施設はありましたがね』
「治療はしますが、キンバリーが言うようにこの施設は良くない噂も多いですから、それも調べましょう」
キンバリーが言うまでもなく、少し調べただけでこの医院の良くない噂を聞くことができた。噂は噂だが、火のないところに煙はたたないとも言う。
「ここは、直接入った方が調べやすいですからね」
腐っても医院……職員にも患者にもその意識は薄いが、神殿の系列施設である。おそらく神殿の方でも、組織下に変な施設をくっつけられたという程度にしか思ってないだろうが、体裁だけは整えられている。
アルコール消毒でもするように定期的に聖水を撒いたり、岩塩でできた神の聖印を施設の隅に置いて簡易的な結界を張ったり、霊に対する対策が行われている。
そのため、弱い霊は出入りできないのだ。
「俺の演技を見破る……どころか、演技をする前に狂人だと決めつける等、この施設の治療水準は信用できません。アメリアに与えている薬にしても、もしかしたら悪化させる成分が含まれているのかも」
医院に患者の治療に真剣に取り組んでいる医者がいたら、激怒するか膝から崩れ落ちるだろう事を言うヴァンダルー。しかし、この場で彼の言葉に反論する者は存在しない。
ヴァンダルーの背後の空間の狭間に潜むグファドガーンは【精神汚染】スキルを持っていない。しかし『迷宮の邪神』である彼女は、人と大きく異なる存在だ。健常という言葉が表す精神状態が、人と異なりすぎているのだ。
「では、まずはアメリアの所に行きましょうか。留守番を頼みますね」
ヴァンダルーの影から、どろりとした何かが溢れ出した。
数人の医院の職員達……ヴァンダルーが草むしりをするのを見張るはずだった男もいる……は、ヴァンダルーの病室の前で見張りに立っていた。
ただ見張っているのは、病室に誰も入らないようにするためではない。病室からヴァンダルーが抜け出さないようにするためだ。
「……なあ、俺達っている意味あるのか?」
「愚痴を言うな。ウザってぇ」
「愚痴でも言わないと、やってられねぇよ。こんな仕事」
ただ、その勤労意欲はやはり低かった。なぜなら、彼らにとってヴァンダルーを見張る意味が理解できなかったからだ。
この施設の病室は、監獄としても通用するほど頑丈に作られている。扉と壁はC級冒険者でも破れない。
壁や床、そして天井に使われている石材は普通の石ではなく、高度な土属性魔術で圧縮した鉄より硬い強化石材。柱は木材ではなく黒曜鉄製。そして壁紙の下には対魔術防御を高めるために、特殊な染料で魔術陣が描かれている。
そして扉は壁よりも更に頑丈で、ミノタウロスが体当たりを繰り返してもビクともしない。鍵だって、一流の職人と錬金術師に作らせた一級品だ。
ヴァンダルーは病室の内装や設置された家具を見て、貴族の私室と評したが、実際には貴族の私室以上の金が使われている。そのため、面会に来た家族が逃がすか、職員と通じでもしていない限り、患者が病室から勝手に出たことはない。
それを職員達は知っていた。
だから、彼らは自分達が見張る必要があるとは思えないのだ。
「そもそも、お前が見張りをさぼったりしなければ……」
「仕方がないだろっ! 誰がイカレた奴らに好き好んで関わろうとすると思うんだよ!」
彼らが見張りをさせられているのは、昨日の一件と、院長がリームサンド伯爵からアメリアに接触させるなという要望を覚えていたからだ。
「それに、昨日とは状況が違うだろ!」
たしかに、昨日はいつの間にか中庭から施設の中に入り込んでいた。恐らく、病室にも入っていただろう。しかし、それは見舞いに来ていた彼と知り合いの訪問者が中に入れたからだろうと、彼らは考えていた。
「まあ、たしかにそうだが……相手は英雄予備校の生徒で、今も何かと噂になっているダンピールのテイマーだ。院長が警戒するのも、無理はないんじゃないか?」
「ああ、しかも昨日の今日だからな。何か企んでいると思うのが自然だろ」
「そうかな、あの女に入れ込んだだけかもしれないぜ。年増だがなかなかの美人だ、俺が担当だったら『今日の薬です』って言って一服盛って、頂いちまうんだがなぁ」
「……あのダンピールの小僧より、こいつを見張るべきなんじゃないか?」
「いや、あの患者なら一服盛る必要はないだろ。完全にイカレてるぜ。一度、『今帰ったよ』って夫のふりをして病室に入ったら、『おかえりなさい、あなた』って歓迎してくれたぜ」
「な、なにっ!? やったのか!?」
「やるつもりだったが、あの女と話しているうちに怖くなったから紅茶をご馳走になっただけで、すぐ病室を出たよ。あの女、俺に話しかけているはずなのに、俺を見ていないし、返事もろくに聞かないまま会話を続けるんだぜ? 今思い出しても寒気がする」
「もう人の見分けもついてないのか。あの女にとっては、それらしい事を言う男は全員愛しの『あなた』に見える訳だ」
「しかも、誰もいないときは見えない何かを『あなた』って呼んでるようだしな。全く哀れだぜ」
「いいな。じゃあ俺も今度愛しの『あなた』になってくるか」
「気をつけろよ。そう言う患者は突然『あなたは誰!? 私の夫じゃない!』って言いだして、暴れだすんだぜ。噂じゃあ十年前、女の患者に手を出そうとして、食事用のナイフで目を刺された奴がいるらしい」
「うわ、怖ぇ。やっぱり金を払っても娼館でまともな女を抱いた方が良いな」
そんな下世話な雑談を続ける内に、職員の内一人が「時間だ」と呟いた。そして、彼はノックもせず扉の覗き窓を開ける。
『……』
覗き窓からは、ベッドに腰かけてこちらを見つめ返すヴァンダルーの姿があった。
「こんにちは、何かご不便はありませんか?」
優しい職員らしい笑顔と柔らかい口調で尋ねる。するとヴァンダルーは、無言のままだったが首を横に振った。
「そうですか。何か必要なものがあったら遠慮せずおっしゃってください。もう暫くしたらお食事を持ってきますので」
男は、そう言って覗き窓を閉じた。
「……よし、問題なしだ」
「要注意人物であると同時に、アルクレム公爵からの紹介状付きのVIPだってのが面倒だな」
不必要なほど厳重に見張りながら、同時に貴人として扱い続けなければならない。この施設にとってヴァンダルーは面倒な患者だった。
『ぶぐるるるるるぅ』
そして、実はヴァンダルーはもうこの部屋にはいなかった。
『るぅぅぅ。職員の中に、危険人物がいる。注意が、必要』
「ああ、だけど病室の中からじゃ声しか分からないな。外に出て、顔を探ってくるよ、キュール」
『頼んだ、ゴースト』
そして、部屋の中にいるヴァンダルーでない存在は、一つではなかった。
『任せろ……隙間を通るのはお前と同じくらい得意だ』
黒人の青年の姿をしたレギオンを構成する人格の一つであるゴーストは、どろりとした肉の塊の姿に戻り、部屋の細い通気口から外に出ていく。
『特に、最近は細長くなるのが得意になった。丁度いい』
【ゴーレム創成】で病室の天井や壁をゴーレムにして形を変化させ、ヴァンダルーは二階にあるアメリアの病室にたどり着いた。
途中、道草を食って友達を増やす事になったが。グファドガーンに【転移】させてもらえば良かった事に気がついたのは、彼女の病室に辿り着いた瞬間である。
「まあ、今日は壁からなんて、驚いてしまったわ。でも、どうして扉から入らないの?」
「ここの職員の人達にばれると、怒られてしまいますからね」
嬉しそうに微笑むアメリアに、そう答えるヴァンダルー。患者同士が会うのは勿論、他の患者の病室に入る事もこの医院では禁止されている。
「そうね、面会時間はすぐ終わってしまうものね。エリザベスとマヘリアも、それですぐ帰されてしまうのよ」
それをアメリアは、面会時間の事を言っているのだと解釈したようだ。
「じゃあ、誰か来たらベッドの下やクローゼットの中に隠れるの? うふふっ、まるで子供の頃に戻ったみたいね」
「そうしましょう。大丈夫、かくれんぼには自信があります。それでアメリアさん」
「あなた、アメリアさんだなんて……他人行儀だわ。アメリアって呼んで」
「……アメリア」
脳内で怒ったエリザベスに両頬をこれでもかと抓られる自分を想像しながら、ヴァンダルーがそう呼ぶと、アメリアは花のような笑みを浮かべた。
「なあに、あなた?」
「昨日は突然帰ってしまってすみませんでした」
「あなたったら、今日はそればっかりね。気にしないで、私もあなたの妻ですもの。あなたが忙しいのは分かっているわ」
そうアメリアは答えたが……ヴァンダルーが彼女の前に現れたのは、ついさっきである。
ヴァンダルーは、自分の代わりに謝罪をしてくれた「あなた」に感謝しながら、会話を続けた。
「ありがとうございます、アメリア。でもあなたの理解に甘えすぎては、良い夫とは言えませんね」
「良いのよ、無理に良い夫になろうとしないで。私は、良い夫じゃなくてあなたを愛して結婚したのですもの」
「ありがとう、アメリア。一つ、お願いしてもいいですか?」
「なあに、あなた?」
「抱きしめてください」
すっとヴァンダルーが両腕を広げると、アメリアは満面の笑みを浮かべて椅子に座ったままだが抱きしめた。
「あら、なんだか良い香りが……」
「きっと、香の残り香でしょう」
ヴァンダルーは舌から感覚を鈍くする弱い毒を気化させ、麻酔代わりにしながら抱き合っているアメリアの体を診察した。【霊体化】させた体の一部を伸ばして、体の中から彼女に何か異常が起きていないか探る。
(肉体の衰弱は、運動不足によるもの。骨や筋肉が弱くなっているのも、そのせい。もっと日光に当たった方が良い……内臓、異常なし。神経、機能的には異常なし。心肺機能、異常なし。
脳は……異常あり?)
アメリアの状態はざっと調べただけだと、病室に監禁されている女性としては健康な方だった。体から毒物も検出できない。
どうやら、毒を消す【消毒】の魔術をかけるだけで正気に戻せるような、簡単な話ではないようだ。だが、ただの心の病ではなさそうだ。
(脳の記憶に関する機能と、認識力が不自然なほど弱まっている。精神ではなく、脳の機能として弱まっている。その結果、精神に影響が出ているのでしょう。
つまり、薬がアメリアの心の病を悪化させている。……治療には時間がかかりますね)
アメリアの脳の機能を回復させても、それは壊れた記憶が戻る事には繋がらない。記憶が壊れたまま機能が回復し、それ以後は記憶の改変や誤認をしなくなるだけだ。そして認識力が戻れば、「あなた」はもう見えなくなる。
その結果、アメリアの精神は現実を受け入れられず、崩壊してしまうかもしれない。
(まず、精神を安定させる。それから脳の機能を徐々に回復させる。そして、これ以上薬は飲ませない。
……一週間で治るでしょうか?)
これから一週間でアメリアの治療は勿論、彼女が飲んでいる薬を調べ、医院を調べ、この病室に来るまでに増えた友達も治療しなければならない。同時に、汎用変身装具の量産やディアナの変身装具の仕上げ、そしてマシュクザールを監禁するための施設を作らなければならない。
大忙しだ。
(もう、マシュクザールの監禁施設は本人に建ててもらっていいでしょうか? 【体内世界】の一つに、材料と大工道具だけ置いて。
彼も俺と同じ皇帝なら、それで十分でしょう)
さすがのヴァンダルーも、思わずそんな事を考えるほどの過密スケジュールである。
その時、ドアがガンガンとノックされ、すぐに覗き窓が開いた。
「奥様、昼食のお時間です」
「あ……ありがとう」
職員は頬の赤いアメリアを少し奇妙そうに見つめていたが、あまり気にせず扉を開くと、昼食が乗ったワゴンを運び入れ、テーブルの上にそれを手早く並べた。
「では、後程片付けに参ります」
そう言って職員が出ていくと、アメリアはほっと息を吐いた。
「あなた、行ったみたい」
「ええ、ギリギリでしたね」
そう答えながら、天井に張り付いていたヴァンダルーは音もなく床に着地した。
「では、一緒に食べましょうか。……この食事ではなく、こっちの食事を」
ヴァンダルーは念のために【体内世界】で用意していた料理を取り出し、薬が入っているかもしれない料理と取り換え始めた。
次話は書籍化作業が入ったため、9月9日に投稿させていただきます。
すみません、書籍化作業が予定より進んでいないため、次話の投稿予定日を9月9日から9月13日に延期させていただきます。
見積もりや自分の実力を甘くみていました……(汗
スランプという訳ではないのですが、作業の進捗が思い描いた予想よりもずっと遅くなってしまい、ペースアップを試みていますがなかなか上がらない状況です




