三十五話 新しい命が生まれたので、ちょっと生活環境を整えますね
ザディリスがビルデの出産のために用意した部屋は、タロスヘイムに幾らでもある廃墟の一室だった。
綺麗に掃除した後床にニードルウルフの柔らかい腹の毛皮を敷き、そこにビルデを寝かしている。
「まず【殺菌】っと。ビルデ、大丈夫ですか?」
部屋の中にはビルデ以外にも三人の女グールがいた。多分彼女達は出産経験のある、産婆さんの役なのだろう。
「ヴァ、ヴァンっ」
陣痛の為だろう、荒い呼吸を繰り返し額に汗を浮かべているビルデがヴァンダルーに気がついて手を伸ばす。その小さな……しかし自分よりは大きな手を彼は取り、握られる。
「あ、あたしっ、頑張って元気な赤ちゃんを産むからねっ」
こう言われた時、男はどう答えるべきだろう? ヴァンダルーのポジションだと悩ましい事だ。特に、彼は自分の無表情さと声の平坦さを自覚しているので、普通に「頑張れ」と言った場合冷たく感じるかもしれないと思い、躊躇われる。出来るだけ頼もしく聞こえるように……。
「大丈夫、俺が付いているから安心して」
医師免許無し、出産に立ち会った経験無しの自分が居て何が大丈夫なのか、何処に安心材料があるのか分からないが、今はビルデを励ますのが最優先だ。
こういう時、逆に無表情は便利だ。自信の無さが顔に出ない。
「うんっ!」
励ます事に成功したようだ。やはり苦しそうだが、笑顔を見せてくれた。
その成果が得られた事を考えれば、彼女が握りしめている右手に鉤爪が当たってちょっと痛い事なんて些末な事に過ぎない。あ、ザクって刺さった気がする。
……でもその顔に若干死相が見える。
「息を整えてっ、短く吸って、長く吐きながらいきむのよ」
「余裕があったらステータスを見て、生命力は減っていない?」
「ん、ちゃんと儂が取り上げてやる。安心するのじゃ」
他の皆の様子を見ると、ビルデに目に見える異常や不調は起きていないらしい。彼女は疾患にかかっている様子も無かったし、胎児にも異常は無かったはずだ。
「ちょっと調べますね」
しかし死相が見えるのは確かなので、ヴァンダルーは【霊体化】で自由な方の左腕を霊体にし、ビルデのお腹に入れる。
すると、どうやら子宮の中で胎児の首に臍の緒が絡まっているらしい事が分かった。このままだと胎児の首が絞まってしまう。
『ザディリスが呼びに来てくれてよかった』
そう思いながら胎児の首から臍の緒を外す。……右手でやった方が簡単なのだが。
「坊や、どうじゃった?」
「大丈夫です、解決しました」
ヴァンダルーの右手の骨がミシミシ軋んでいて、ビルデの鉤爪が遂に食い込んで麻痺毒が入って来ているが、母子ともに問題無し。
「よしっ! 後はお主の頑張り次第じゃ、ビルデ!」
この後、概ねザディリスが言ったように彼女の頑張りによって出産は進んで行き、ヴァンダルーは彼女に右手を握り絞められながら励ますだけだった。
ただ出産まで六時間かかり、世の母親の偉大さをヴァンダルーは思い知ったのだった。
くしゃくしゃの顔をした、灰褐色の赤ちゃん。彼女がこのグールコミュニティに久々に産まれた、新しいグールだ。
「見て、女の子よ。ヴァンダルーの名前をそのまま貰う事は出来ないけど、この子に半分貰って良い?」
我が子を抱くビルデは、憔悴が見て取れたが本当に幸せそうだった。
いいですけど、その子の実の父親は良いの? そう聞くのが躊躇われるぐらい。
「いいですよ」
なのでそう答えた。
後で聞いたが、結婚制度の無いグールの新生児の名前は基本的に母親が決めるか、それとも部族の長老と相談して決めるらしい。なので、母親のビルデが子供にヴァンダルーの名前から半分貰うと決めれば、外野がとやかくいう事では無いそうだ。
「この子を抱いてくれる?」
「喜んで」
今はすやすやと眠っている赤ちゃんを両腕で……右腕はまだ骨折が治ってない上に長時間麻痺毒を分泌する爪が突き刺さっていたので、まだ動きが悪い。そのため左腕で受け取り、膝の上に座らせるようにした。
「軽くて、とても温かい」
赤ちゃんの身体はとても軽く感じた。しかし、この赤ちゃんはこれから成長し、三百年生きるのだ。そう考えると、生命の神秘を感じる。
新しい命の誕生は、感動的だ。それをヴァンダルーは三度目の人生で、初めて実感した。
地球で生きていた頃は、その手のドキュメンタリーで「新しい命の誕生です」と言われても「ふーん」としか思わなかった。所詮、画面越しの自分とは無関係の他人や、動物の誕生であって、感動は全く覚えなかった。
しかし二度の死を経験し……アンデッド化した後も含めると、三度か。そしてダルシアを生き返す事を目標にしている今では、感動を実感できる。
この子を守るために、出来る事をしよう。俺は父では無いけどグールキングなのだし。
「そういう訳で、ダンジョンに行くのは延期します」
そう伝えるとボークスやヴィガロは寂しそうな顔をしたが、「仕方ないな」と納得してくれた。
これから残り九人の妊婦が次々に出産する事になる。その時不測の事態が起きたら、ヴァンダルーが魔境やダンジョンの中に居たら対応できない。
「久しぶりに赤ん坊の泣き声を聞いたぞ!」
『落ち着いたらでいいから、産まれた赤ん坊を俺達にも見せてくれ』
「塵に還るのを待つばかりだったこの廃墟で、新しい命が産まれるのは喜ばしい事です」
『目出度い、酒が飲める』
『酒があればな』
「あるぞ、あまり美味くないけどな!」
少子化問題に悩まされていたヴィガロ達グールは勿論、ボークス達巨人種アンデッドも赤ん坊の誕生を心から祝福していた。
因みに、赤ん坊にアンデッドを近づけて衛生問題は大丈夫かと思うかもしれないが、問題無い。巨人種アンデッドは既に全員ヴァンダルーの手により、【殺菌】と【殺虫】、【消臭】、【鮮度維持】の魔術をかけられているからだ。
後は下水道の整備が終われば、タロスヘイムはアミッド帝国の都市並みに衛生的な城塞都市になるだろう。町の広さに対して人が少ないので、どうしてもゴーストタウン感が拭えないが。
「後、先にこのタロスヘイムの防衛力を強化したいし、【錬金術】で少子化対策のアイテムを作っておきたい。
冒険や訓練はその合間にしようかと」
真剣に武の道や魔術の道を究めんとする人達からすれば、片手間でやるなと言われそうだが今回は誰もヴァンダルーにそう言わなかった。
「分かった! じゃあ順番はこっちで決めておくぞ!」
『丁度良いぜ。何せ二百年間誰も入ってねえから、ダンジョンの中がどうなってるか分からねぇからな。中の魔物も増えてるだろうから、丁度良く間引いておいてやるぜ!』
『もしかしたら、放置しすぎて未知の階層が増えているかもしれませんからね』
「格闘技の方はどうする? とりあえず、基礎だけやっておくか」
『ヂュ! 主、ではその間私はレベルを上げて仲間に追いつけるよう、努力してまいります!』
「俺達も今の内にスキルを取るぞー」
三度目の人生は皆の優しさに包まれているなぁと、改めて思う今日この頃。
そして早速始めたのは、グールの少子化対策のためのマジックアイテム作りだ。町の防衛力を整えるのは、タロスヘイムの中から森の魔境を駆逐出来てからでなければ、逆にラプトルやニードルウルフを懐に抱え込む事になるからだ。
「御子よ、後数日お待ちください」
との事だった。やはり強さよりも数の多さが問題のようだ。凶暴なニードルウルフなら兎も角、頭の良いラプトルは勝てないと思ったら逃げ出すから、駆逐するのは大変なのだろう。
「っで、問題のマジックアイテムですけど二種類作ろうと思います」
「精子や卵子の活動時間を伸ばすアイテムと、胎児がある程度大きくなるまで死なないようにするためのアイテムじゃな。二つ以上の機能を持つマジックアイテムを作るのは難しいからの」
分娩室(仮)がある建物の、隣の建物でヴァンダルーはザディリスとタレア、バスディア、他数名の女グールとマジックアイテム作りの相談をしていた。
「その内、精子や卵子の活動時間を伸ばすアイテムは着け外しがし易い装身具にしようかと」
「確かに、常につけている物だと……際限なく子供が産まれそうですわね」
「そうだな、皆いきなり変わるのは難しいだろう」
今までグールは妊娠し難く、したとしても殆ど子供が産まれないという生態だった。そのため結婚制度が無く、子作りに励むのが当然という社会だった。ビルデ達が妊娠した頃から抑え気味にはなったが。
それでヴァンダルーがマジックアイテムを作ったからといって、突然「じゃあ、これからは家族計画をしっかり考えよう」とはならないだろう。
地球のように便利な避妊具や避妊薬がある訳じゃないのだから、尚更だ。
まあ、多少子沢山になるぐらいなら問題無い。寧ろ良い事だ、このタロスヘイムにはまだまだスペースがあるし、食料は幾らでもある。
しかし、だからといって地に満ちよとばかりに増えると大変だ。ブラガ達と違って、グールは一年以内に大人になるという訳では無いのだから。
「絶対苦労しますわ。一人でも大変なのに、一度に二人三人と子供を抱えたら……」
「しかも、ビルデも含めて初めて子育てを経験する者が多いからの」
地球のように保育園もないし、子育てに関する情報が得られる本やテレビ番組、インターネットも無い。育児経験のあるタレアやザディリスが心配するように、絶対育児ノイローゼになる母親が出て来るだろう。
まあ、一人っ子ならノイローゼにならないという訳じゃないが。
「っと、いう訳でアイテムを作りながら避妊について説明するのがよいかと」
「そうだな。人種なら兎も角、私達は寿命が長い。子供は多い方が良いが、産むのは五年毎、十年毎でいいはずだ」
人種の場合は、特に農村等の場合は「子育てが大変だから、間隔を置いて」と言っていられない事情があるだろうし、そもそも家族計画の概念が希薄だろう。
そもそも医療が発達していないので、「若く体力のある内に、産んでおく」という考え方が強いはずだ。その点では、バスディアのいう通り寿命が長いグール達は説得するのが楽だった。
これが人種だったら反発も大きかっただろうし。
「でも男は我慢できるの? 五年毎十年毎なんて、とても無理だと思うけど」
「そのために着け外しが出来る装身具なのですわ。子供が欲しい時だけ着ければいいのです」
逆避妊具という訳だ。
「それで、どんな装身具にするんだ?」
「とりあえず、ペンダントか太腿に巻くアンクレットにしようかと」
マジックアイテムの形状や装着部位は、とても重要だ。【錬金術】で作る時の難易度、材料費、そして完成した時の効果の強弱に関わってくる。
例えば、「空を地面のように歩ける」という効果のマジックアイテムと聞いたら、大体の人は「靴」の形をしていると思うのではないだろうか?
少なくとも、「メガネ」だとは誰も思わないだろう。
逆に、「身に着けると透視できるようになる」マジックアイテムと聞いたら、「メガネ」だと思っても「靴」だとは思わない。
このように込める魔術と発揮させたい効果によって、作りやすく効果を発揮しやすい形状や装着部位があるのだ。
「腕力を強化する」のなら指輪か腕輪。何かを「視る」のなら「メガネ」、次点で「サークレット」。「速く走れるようになる」だったら「靴」か「アンクレット」というように。
勿論、世の中には何らかの理由で「身に着けると暗闇を昼間のように視る事が出来る靴下」なんてマジックアイテムも存在するらしいが、作るには高い【錬金術】スキルと、高額な材料が必要になる。
現在、材料は食料以上に余っている。何せ、魔物を狩りまくっているのに手に入る素材を自分達で利用する以外で使えない状況だ。
魔石を持ちこむ冒険者ギルドも無いので、ブラガ達が今より小さかった頃はお弾き代わりにして遊んでいたぐらいだ。
しかし、死属性のマジックアイテムを唯一作れるヴァンダルーの【錬金術】スキルレベルは1。なので、下腹部に近い太腿に巻くアンクレットか、同じ胴体という事でペンダントトップをマジックアイテムにした物ぐらいが限界だ。
ベルトという手もあるが、グールにベルトを締める文化が無いため不評かもしれない。
……流石にそれ以上近い場所に身に着けるアイテムは、作るのにも勧めるにも抵抗がある。
「それで、好きな色や好まれそうなデザインってあります?」
これを聞くためにバスディア達も相談に加わってもらったのだ。身に着けてもらうのだから、好みの色や形の方がいいだろう。
……用途の関係上、情事の最中はずっと身に着けてもらうのだし。
「そうだな……白か黒、銀色や金色も皆好きだぞ」
「赤は戦い以外だと好かれないかも」
「形は羽っぽいのが皆好きね。後はハートとか」
口々にグール女性のトレンドを教えてくれるバスディア達。ヴァンダルーはファッションセンスに自信が無いので、とても助かる。
因みに、ハート型はこのラムダでは女神ヴィダのシンボルであるらしい。流石生命属性の女神だ。
しかし、黒のハートは縁起が悪そうだから、銀色の方がいいかな?
「とりあえず、幾つか作ってみますわ」
「よろしくお願いします」
そして実際に物を作るのがタレア達グールの職人部隊だ。マジックアイテムを作るのは【錬金術】スキルだが、それは物品に魔術を込める時だけで、物品そのものは別の職人が作るのが一般的である。
世の中には素材集めから物品の作成まで全て自分一人でやる錬金術師も居るが、そんな物は例外中の例外だ。
「それで、胎児の生命維持のアイテムはどうするのじゃ? こちらは逆に簡単に着け外しが出来る物ではちと問題じゃろう」
さっきまで「金に銀? 最近の若い者は派手好きじゃの」とか呟いていたザディリスがそう聞くと、ヴァンダルーも「少し悩んでまして」と答えた。
こっちはザディリスがいう通り簡単に外れ無い方がいい。うっかり外したまま無くしたり、付け忘れたりしている間に胎児が死んでしまったら一大事だからだ。
しかしまさか体内に埋め込む訳にもいかないし……。
周囲に見守られる中、うーんと二人して唸り……。
「刺青はどうじゃ?」
「やっぱりピアス?」
『えっ?』
全く別の答えを出して顔を見合わせた。
「坊や、ピアスでは胎から離れ過ぎじゃろう。刺青なら消えんし、何処にでも彫れるぞ」
「ピアスは耳や鼻や唇では無くて、臍にするんですよ。刺青って、そもそも誰が彫るんですか?」
グールには、臍にピアスをするという発想が無かったようだ。そして刺青をマジックアイテムにして身体に刻むという発想も、ヴァンダルーには無かった。
そして話し合った結果、臍ピアスに落ち着いた。
「刺青だと、腹が大きくなった時に変に歪んでしまわないか? その頃には胎児も大きくなっているだろうが、次の妊娠の時に彫り直すという訳にもいかないだろう。
ならピアスの方が良いと思う」
っと、言うバスディアの意見が採用された。
因みに、ピアスは首から上にする物だという固定観念があったのはグールだけでは無くラムダ全体であり、このタロスヘイムから臍ピアスブームが広がって行く事になるのだが、それはずっと先の話である。
それからヴァンダルーはそれまでよりは緩い、しかし三歳児には過酷な日常を送った。
基本的に週休一日、しかしその一日に産気づいた妊婦が出たら出勤。代わりに次の日三時間の休養を取る。これを基本的な生活リズムとして、まずタレア達がマジックアイテムにするための試作品を作るまでの間、タロスヘイムの修理と整備、格闘技の修行をした。
修理と整備の方は、簡単だった。
「起きろ、一つになれ、抜けろ」
【ゴーレム錬成】を活用するので、これだけでいい。地面に転がる瓦礫が自ら手足を生やして動き回り、合体し、形を変えて元通りに直っていく。
流石に一から建物を建てるのは難しいが、ちょっと崩れているのを元通りにするぐらいなら簡単だった。【大工】スキルのお蔭か、大体どうすればいいのか何となく分かる。
このラムダではグール用の竪穴式住居も、巨人種用の石造りの家も、同じスキルで作れるらしい。
更に建物だけでは無く、【土木】スキルも生かして下水道や道の修理と整備も行っていく。
このタロスヘイムには、上水道は無いが下水道が存在する。浄水のマジックアイテムで使用した水を浄化し、糞尿は一箇所に溜めて発酵させ、肥料にしている。
勿論二百年経っているので、手を加えないと使えない。
地面をゴーレムにして下水管を露出させ、その下水管もゴーレムにして罅割れを修理して詰まりを取って、スキルレベルが上がって使えるようになった【対劣化】の術をかけてから地中に戻す。
浄水のマジックアイテムに魔力を供給する。
糞尿を発酵させる処理槽に発生していたヘドロ状の正体不明の魔物を、骨人達に討伐してもらう。
以上の過程を経てやっと下水道は使えるようになった。
使う分の水は井戸や水路から汲んでこなければならないが、使った分はそのまま流して捨てる事が出来るのはとても楽だ。
ラムダに生まれて早三年、つくづく地球の下水設備は偉大だったと思い知った。特にヴァンダルーは日本人だったので尚更そう感じる。
一度すべて直して使えるようにしたら、メンテナンスはゴーレムで自動化する予定だ。
一方、格闘技の修行ではバスディアに基礎からしっかりと教えてもらった。
「ヴァンの身体能力は大人のグールと殆ど変りない。実戦形式でやって行こう」
いくつかの型を習い、防御や回避の方法を習った。……体で。
バスディアに足を払われ、蹴られ、投げられ、踏まれ……驚くほど一方的にやられた。幾ら魔術を一切使ってないとはいえ、身体能力は大人と殆ど変らないという言葉は本当なのかと疑ったくらいだ。
「ヴァンは筋が良いし殺気にも敏感だけれど、攻めが強引で単調になりやすい。もっと素早く動いて、フェイントも使った方が強くなれる。
後、相手の次の動きを予測しないとな」
バスディアはヴァンダルーが厳しく叱られるとパニックに陥る事と、精神論中心の教え方が嫌いなのを知っていたので、訓練自体は手を抜かなかったが、教える時はゆっくりと優しい口調で話すように心がけた。
そのためヴァンダルーは冷静に訓練を受ける事が出来た。
彼は今まで防御を全て魔術に頼っていて、攻撃も圧倒的な魔力によるゴリ押しで単調だった。これまでは身体の幼さ故仕方ない部分があったし、彼自身も「仕方ない」と思っていた。彼は元々喧嘩もした事が無い日本人で、その次は獣同然に暴れる事しか出来ないオリジンの実験動物。格闘技や武術は自分から遠いところに在ると思い込んでいた。
しかし現世の父のお蔭か、意外と筋は良いらしい。
「特に凄いのは目を瞑らない事だ。私が顔を攻撃されても目を瞑らないようになるまで三か月かかったのに、ヴァンは最初から瞼を閉じない。凄い才能だぞ」
「ありがとうございます」
額や頬を軽くだが打たれて、いつもより顔色が良いヴァンダルーはやはり目を開いていた。
「まあ、目が潰れても顔を【霊体化】すれば霊体の目で見えるからいいか」そんな認識が本能や反射神経にまで影響を与えているらしい。
そして妊婦達が数日毎に産気づき、ヴァンダルーはその全ての出産に立ち会った。
流石に毎回胎児の首に臍の緒が絡まるような事は無く、これ自体は普通に――つまり人並みの苦労とドラマと感動を経て、無事赤ん坊が産まれた。
ビルデも含めて産後の経過も順調で、やはり肉体的に人種より頑健なグールである事とここが半ば魔境である事が関係しているのだろう。
産後に関してはザディリスやタレア等育児経験のあるベテランが色々教えているので、上手く行きそうだ。
マジックアイテム作りが本格的に忙しくなったのは、七月の中旬頃だった。
タレアが作った品に魔術を込めて行く作業は、中々難しかった。これなら城壁を元通り修理する方がよっぽど簡単だった。
「このペースだと一日に三つが限度か……」
「いや、坊やはまだスキルレベルは1じゃろう? 十分なペースじゃよ」
「あまり速くても、作る私のペースが間に合いませんわ。本当なら装飾品作りは専門外ですのよ」
マジックアイテムを必要とするグールは約六百体。このペースでは全員分作るのに、三百日以上かかる事になる。
しかしグール達全員が今すぐ子供をと望んでいる訳では無かったので、急ぐ必要は無いそうだ。
「それに、坊やの計算だと儂やタレアにまで作る事になるぞ。それとも何じゃ、遠まわしな告白かの? ん?」
「まぁっ、いけませんわ、私、若く見えてももう二百六十と一になりますのに。でも、ヴァン様がお望みなら……」
「三歳児をからかっちゃいけません。あんまりいうと十数年後に実行しますよ」
そんな風に楽しく話しながらマジックアイテムを作って行く。これまで倒した魔物の内臓や魔石の粉を使って。
あっ、今砕いた魔石ってノーブルオークのだったかな?
そして余暇を利用して色々試みた。
「魚を詰めて……【発酵】」
大豆が無いので代わりに魚で魚醤を作ってみた。オリジンでは魚醤を態々開発する事は無かったが、三回試しただけで成功した。
魚醤は臭いがややきついが、香草等で大分軽くする事が出来る。
次に大豆の代わりに胡桃やドングリを使った胡桃味噌やドングリ味噌に挑戦して、若干苦戦した。魔術を使った発酵は成功するのだが、味が納得いかなかったのだ。
味噌作りはヴァンダルーから魔力を搾り取った研究者が何度もやっていたのでお手の物だったが、流石に胡桃やドングリで作ったのは初めてだった。
「地球で聞いた胡桃味噌の評判ほど美味くないような? でも胡桃の風味やドングリの香ばしさが残っているから、これはこれでいいのか?」
地球で聞いた胡桃味噌は、実際には大豆の代わりに胡桃と塩を発酵させた物では無く、既に出来ている味噌と胡桃を合わせて作った物であると知らなかったヴァンダルーだった。
しかし味的に納得できるものが出来たので、【熟成】もかけて味に深みを増した後皆に振る舞った。
後ワサビやショウガを準魔境化していたタロスヘイムで発見したので、早速栽培。まあ、ショウガは生えていた場所をそのまま畑にして、肥料を時々やるだけだが。……これだけでショウガを毎週収穫できるのだから、魔境は素晴らしい。
ワサビの栽培には一手間かけた。ワサビは殺菌成分を出して周囲に他の植物が生えないようにするが、その殺菌成分のせいでワサビ自身の生育にも影響を受けてしまい、そのままでは大きくならない。
そこで【無毒化】を込めた杭を作り、その杭を挿した周囲のワサビの殺菌成分を抑える工夫をして見た。
……かなり失敗したが、何とか成功。もう少しで新しいワサビを探しに魔境を巡らなければならないところだった。
後ジェンガを作ってみた。適当な木材をウッドゴーレムにして同じ形にばらけさせるだけなので、リバーシ以上に簡単だった。
「このギョショーは、もしや伝説の醤油では? あの勇者ザッカートが創り出そうと試み、遂に叶わなかったという、あの伝説の……」
『何であれ美味いな』
醤油は味噌以上に作るのが難しいので、勇者でもザッカートが再現するのは難しかったのだろう。
味噌の再現には成功していたらしいが、それが広まる前にベルウッドが味噌蔵に火を放ったらしい。そのため今では味噌の存在も知らない者が大多数なのだとか。……ベルウッド許すまじ。
ショウガやワサビは元々食用に使われていたらしい。しかし栽培した事で安定的に手に入るようになった事で喜ばれた。
そしてジェンガはリバーシと同じようにタロスヘイム中で流行する事になった。木工職人だった人がアンデッド化しなかったので、巨人種アンデッドやグール達は「これとジェンガを交換してくれ」と魔物の肉を持ってヴァンダルーを訪ねたという。
「俺、ここで調味料や玩具を作っていれば、それだけで一生安泰なのでは?」
原始的な物々交換だが、生活は豊かになりそうだ。
そんなこんなでマジックアイテム作りが一段落して、タロスヘイムが元の白い堅牢な城塞都市に戻った頃には夏は過ぎ、秋の足音が聞こえる九月になっていた。
「じゃあ、今日からダンジョンに行ってきます」
そして、やっと経験値を稼ぐために冒険を始めるのだった。
《【錬金術】、【大工】、【土木】、【料理】スキルのレベルが上がりました!》
何処とも知れぬ闇の中、長大な食卓が用意されていた。
ワイングラスには赤い液体が注がれ、集まった者達に供される。
彼等は、一様に品が良く、売ればそれだけで平民が家族全員一年は楽に暮らせる衣服に身を包み、宝飾品で飾り立てていた。
貴族の晩餐会かと思うかもしれないが、ここに集まったのは普通の意味での貴族では無い。
彼らは気品や高貴さを漂わせているように見える。
彼女達は美しく、いっそ儚げかもしれない。
この場に居る誰もが、深い知性を兼ね揃えているかもしれない。
しかしその本質は冷酷で、無慈悲で、残忍な、血を欲する鬼。
「では、会合を始めよう。最初の議題は……例のダンピールについてだ」
紅い瞳を愉悦に輝かせ、進行役の原種吸血鬼はグラスに注がれた新鮮な生き血で喉を潤した。
三十六話は10月15日中に投稿予定です