二百八十五話 和やかなお茶の時間
『弦の神』ヒルシェムは重大な問題を抱えていた。いや、少し前までは『陽炎の神』ルビカンテも、彼と同様に重大な問題を抱えていたのだが、今は彼の方が重大だ。
加護を与え、育てていた英雄候補の若者を、魔王ヴァンダルーから遠ざける為に神託を与えたら、何故か逆に魔王が拠点の一つとしている町に向かい、魔王の関係者に入れ込んでしまった。
幸い、魔王の関係者は彼が加護を与えたエディリアと、ルビカンテが加護を与えたカルロスが、ヴァンダルーを倒す為に育てられている英雄候補である事は気がついていない。
……この町で冒険者として目立った功績を挙げていない事が、幸いしたのだろう。ヒルシェムとルビカンテはそう考えていた。
しかし、この幸運は長くは続かない。魔王ヴァンダルーは、その内この町へ帰ってくると予想されるからだ。
今の状態でエディリアとカルロスがヴァンダルーと出会ったら……認めがたいが、導かれてしまうかもしれない。
ヴァンダルーの導きは、アルダ勢力にとって不明過ぎる。どんな思想を持った者が導かれるのか分からないので、どう対処すればいいのか見当がつかない。
彼はヴィダ信者を自称しているようなので、恐らく『生命と愛の女神』ヴィダの教義に近いものだろうと、本来なら推測できる。
しかし、それなら獣型や植物型の魔物ならまだしも、アンデッドや知能が無いに等しいはずの蟲型の魔物が、何故導かれるのか。彼等の知識では説明がつかない。
そのため、アルダ勢力の神であるヒルシェムの信者であるエディリアでも、ヴァンダルーに導かれてしまう可能性があった。
特に、魔王ヴァンダルーの関係者に入れ込んでいる状態では。
『だからこそ、あの町を離れるよう神託を出していたのだが、何故かほとんど伝わらない。いや、今思えばエディリアの心が我よりも、あの少女が教える新しい音楽に傾いていたからだったのだろうが……。まさか、あの少女まで導士に目覚め、エディリアが導かれてしまうとは!』
ヒルシェムは頭を抱える代わりに、竪琴をかき鳴らし、己の怠慢に対する悔恨と怒りを不協和音で表した。
いったい、何時の間に? 反射的にそう考えたヒルシェムだが、それは考えるだけ無駄である事に気がついた。
境界山脈や魔大陸、アルダ勢力の神々の目が届かない場所は幾つもある。そして、ヴァンダルーには彼に従う邪神グファドガーンが憑いている。カナコはそれらの場所に【転移】し、経験を積み、ジョブチェンジしたのだろう。
どこで、何時の間に。そんな事よりも彼にとって大きな問題は、風属性の神であると同時に弦楽器の、つまり音楽を司る彼が、カナコが導士になる可能性に気がつかなかった事だ。彼はそれが悔しくてたまらなかった。
『今までも、一風変わった演奏法やユニークな歌を歌い、独自の踊りを踊り、それを広めようとした音楽家たちは幾らでもいる。何故、彼女は導士となれたのだ?
導士とは、思想。それも独自の思想だ。ヴィダの教義やヴァンダルーの思想を歌や曲にしたのでは、導士になる事は出来ないはずなのに』
ヴィダの教義を教え広めるだけでは、導士になる事は出来ない。そんな事でなれるのなら、布教活動に勤しむ全ての聖職者が導士になっている。広めるのが、ヴァンダルーの思想でも同じだ。狂信者にはなれても、導士にはなれない。
追従では、後に続く者では導士になる事は出来ないはずなのだ。
『やはり、あの少女……カナコ・ツチヤが転生者であるからか? あの歌と踊りには、斬新さ以上の、今までこの世界に無かった何かが込められていると言うのか? だとすればロドコルテ……転生者を送り込んだかの神を、アルダ様が嫌うのも理解できると言うものだ』
十万年以上前、この世界に異世界から召喚された七人の勇者は全員が導士ジョブを発現させた。それは、彼等がこの世界には無かった思想を持ち、それを広めたいと思っていたから。つまり、異世界から来た者であり、魔王グドゥラニスとの戦いでアルダ達が助けを乞うた存在である以上、必然だったのだ。
この世界の人々の先頭に立って戦う象徴に、今までにない武器を開発し知識を広める者に、新しい戦法や訓練法を教える者になっていた勇者達。
だからヴァンダルーが導士だと判明した時も、奴が転生者だからだと多くの神が思った。
しかし、ヴァンダルー以外の転生者は、これまでは導士に目覚めていなかった。
ロドコルテが送り込んだ二番目の転生者、海藤カナタは一度もジョブチェンジを経験する事なく滅んだから定かではないが、その後に転生したが既に消滅しているハジメ・イヌイやジュンペイ・ムラカミ達は導士になる兆しも現れなかった。
今も生存しているアサギ・ミナミ達や、バーンガイア大陸の外に出たマオ・スミスやカオル・ゴトウダ、そして前世の人格と記憶を取り戻したばかりらしい、ハートナー公爵家の長女も同様だ。
だから、ヒルシェム達アルダ勢力の神々とロドコルテは、異世界からやって来た存在だからといって、必ずしも導士になれる訳ではないと結論を出し、安堵した。
転生者の数だけ今まで存在しなかった思想が流入し、この世界の人々が感化されたら、それは人々の分裂を意味し、最悪人間同士での戦争が激化し魔王どころではなくなってしまうからだ。
だと言うのに、安堵してから一年も経たずにカナコは導士になった。それはヒルシェムにとって……そしてアルダ勢力全ての神々にとって、恐ろしい不意打ちだった。背後から脾腹を刺されたに等しい。
何故ならば単純にカナコ自身や、彼女の周囲の者達が更に力を付けること以上に、アルダ勢力の神々の信者がヴィダ派の信者に鞍替えしてしまうからだ。
しかも、現に対ヴァンダルー用の戦力として成長するはずだった英雄候補が一人……近い内に二人目も絡めとられようとしている。
『どうするべきか……カナコ・ツチヤが導士となった事は、すぐに報告しなければならない。それは当然だ。しかし、エディリアはどうすれば?』
竪琴をかき鳴らし、不協和音を奏でながらヒルシェムは考える。エディリアを見捨てるべきか、見捨てざるべきか。彼女の為だけではなく、自らの神の矜持、神としての在り方について。
合理的に考えるのなら、今すぐエディリアを手放すべきだろう。カナコの導きを受けた以上、手駒としては使えないと判断し、損切りすべきだ。加護を引き上げ、急いで新しい英雄候補を育てなければならない。
ロドコルテなら、そうするべきだと言うはずだ。
しかし、それは信者に対する神の在り方として……『弦の神』ヒルシェムの在り方として正しいのだろうか?
何度も考え直したが、とてもそうとは思えない。
エディリアは、確かにカナコが教える音楽に惹かれた。それは罪ではない。少なくとも、ヒルシェムはそんな教えを説いてはいない。彼が信者達に説いたのは、弦のように繋がり合う事。音を持って奏であい、それによりリズムを、秩序を為す事。そして感受性を豊かにする事だ。
そうである以上、エディリアがカナコの音楽に惹かれた事は信者として正しい。その結果、彼女はカナコに導かれてしまったが……それも音楽とそれを披露する舞台に惹かれただけの事。
邪な誘惑に抵抗できなかった訳ではない。
『……音は決まった』
カナコが導士になった事は、包み隠さずアルダに報告する。今頃ロドコルテによって、既に報告がもたらされているかもしれないが。
だが、エディリアに与えた加護はそのままとする。一度導かれた者が、導士から離れる可能性もなくはない。導きが思想であるため、そうなった事もある。
なにより、自身の信者として何も間違っていない彼女を罰する道理が無い。
『後はルビカンテがどうするかだが……警告ぐらいはしておこう』
竪琴を奏でながら、ヒルシェムはアルダへ送る伝令の準備を始めた。
筋肉とは何だろうか? それは力である。そして力とはパワーである。
では、パワーとは何か? 運動する力? エネルギー? 熱量?
考えた末に、彼は「それら全てだ」と結論付けた。
「【筋術】は奥が深いですね」
「こら、ヴァンダルー。今はお茶の時間なんだから、リラックスしないとダメよ。見える範囲の使い魔王も、休ませてね。レギオンも、お願い」
『『『『「はーい」』』』』
ヴァンダルーは筋肉と【筋術】習得のために作った筋骨型使い魔王……骨と筋肉だけの人体模型を彷彿とさせる使い魔王達へ向けていた思考を、目の前に広がる食事へと戻した。
いくつかの肉塊に分裂して練習していたレギオン達も、一つの肉塊へ戻った。
彼等の前には、ダンジョンの中で過ごすティータイムには、似つかわしくない物がずらりと並んでいる。三種類の紅茶と、コーヒーが入っているポットに、人数分のティーカップ。フワフワのパンケーキの山に、トッピングするためのジャムとバター、シロップとチーズに果物。
しかし、それにヴァンダルーが手を伸ばす事はない。
『坊ちゃん、紅茶にはミルクですか? それともレモン? それともコーヒーにします?』
『パンケーキは、バターとシロップでしたよね』
代わりにリビングハイレグアーマーとリビングビキニアーマーのメイド姉妹、サリアとリタが給仕を行っている。
『ふ~、ふ~、なかなか冷めませんね』
『はい、坊ちゃん、アーンしてください』
そして、そのまま食べさせてくれるのである。
「ヴァン兄ちゃん、食べさせてもらって赤ちゃんみたい」
「木のおばさん、僕、このコーヒーってやつ嫌い。甘いのない?」
「あるよぉ。お飲みぃ」
「ヴァン……お前の家族サービスってなんか変だと思う」
孤児院の子供達もパンケーキを食べているが、食べさせてもらっているヴァンダルーを面白そうに眺めていたり、アイゼンに甘い飲み物をねだっている。
ねだられたスクーグクローのアイゼンは、背中から生えた枝になっている林檎に似た果実を掴みとり、握り潰して空のポッドに手作りの果汁ジュースを注いで振る舞った。
こうしてヴァンダルーが受けている家族サービス、それは「家族同然のメイド達にサービスされる」事である。彼が座っているのは、もちろんダルシアの膝の上……ではない。
「ヴァン、少し重くなった気がするな。大きくなったか?」
「筋肉の量が増えたのかもしれませんわね」
「紅茶に蜂蜜をいれる?」
「林檎ジュースもお飲みよぅ」
隣り合って座っている、グールのバスディアとタレアの上である。そして周りにはジュースのお代わりを作っているアイゼンと、蜂蜜を口から出すゲヘナビーの女王であるクインが侍っている。
ダルシア、そしてマッシュより二つから三つ年上程度に見えるザディリスは、孤児院の子供達と一緒にヴァンダルーの正面に座っていた。
「マッシュや、儂の膝の上にでも座るか?」
「年上ぶんなよ、ザディリス。俺はもう子供じゃないぜ」
「とっ、年上じゃっ! 儂はお前の三十倍近く生きている、大人なのじゃぞ!」
「絶対嘘だ! 大人はあんな恥ずかしいポーズしない!」
三百歳のザディリスに言い返す十一歳児のマッシュ。ちなみに、彼の言う恥ずかしいポーズとはグーにした両手で口元を隠し、上目づかいで見つめるポーズである。
「あ、あれは踊りの一部なのじゃから、仕方ないじゃろう!? それにカナコとダルシアもやっておったし!」
「ダルシアさんは、ヴァンのお母さんだろ。それに、同じ曲を歌ってたバスディア姉ちゃんはやってなかったじゃん」
「プッ……くくくっ!」
「マッシュ、あれは私が似合わないから他の振り付けを割り振られただけなんだ」
ザディリスを年上だと微妙に信じていないマッシュに、必死に真実を主張するザディリス。その様子に思わず吹き出すタレアに、母のフォローを入れるバスディア。
「そうなのか、ヴァ……ン……。お前がやると、ちょっと目が怖いぞ」
バスディアの言葉を聞いて、ヴァンダルーに確認しようとしたマッシュが見たのは、口元を両拳で隠した親友だった。彼がやると口元を隠した分、眼の存在感が増す。
視線を他に巡らせると……パンプアップしたままでホットケーキを頬張っていたゾッドが、マッシュの頭より大きな拳で同じポーズをとっており、どう見てもファイティングポーズだった。
給仕をしていたリタも同じポーズを取っており……死蠟のような肌の色のせいで、ゾッとするような不吉さが感じられる。
グファドガーンは見ていても虚無感しか覚えないし、レギオンは肉塊の姿では何をやっても肉塊である。そしてマッシュは――。
「うわあああ! 俺に化けてそんなポーズとるなよぉっ! お前等も笑うなぁ!」
『ぷぐぶるる』
自分に擬態していたキュールを、腕を振り回して追い払い、子供達の無邪気な笑い声に文句を言って止めさせると、一転してマッシュはザディリスに向かって優しげな眼差しを向けた。
「……俺が間違ってた、ザディリス。頑張れよ!」
「何故そうなったのかは分からんが、まあ、分かった」
納得していない様子だったが、ザディリスも頷いてマッシュとの和解に応じたのだった。
『マッシュ君、私達は久しぶりにメイドらしい事を満喫しているんです』
『最近の坊ちゃんは留守がちで、新しい女性の所に入り浸って……』
「そうですわ、私に会いに来てくださる時は、仕事の時だけ……」
「子供達の前で誤解を招くような事を言わないでください。確かに、新しく知り合った女性のいる国に出入りしていますけど」
たしかにドーラネーザやデディリア、ザルザリットにフェルトニアと知り合ったし、ガルトランドに最近出入りもしている。しかし、後ろめたい事をしていた訳ではない。
「それにタレア、変身装具の打ち合わせをした後、マッサージをしたりご飯を食べたりしているじゃないですか」
「ヴァンダルー、タレアさんはもっと構ってほしいのよ。それにサリアとリタとは、最近一緒に冒険していないでしょう? ザディリスさんとバスディアさんも。今度、ガルトランドに行く時は、一緒に連れて行ってあげてね」
「なるほど……分かりました。じゃあ、次に亜神達を引っ掻き回しに行く時は、五人とも一緒に行きましょう」
『『やったー!』』
「そう言えば、最近はステージと言う名の戦場にしか立っていなかったの。身体は鈍らんが、勘が錆びるかもしれん」
「舞は武に通じると言うが、実戦から遠ざかり続けるのは本意ではないからな」
「や……ちょっと待ってくださいます!? 私、非戦闘要員ですわよね!?」
歓声をあげるサリアとリタ、ワクワクした様子のザディリスとバスディア。だがタレアは青い顔をしてヴァンダルーを引っ張る。
「大丈夫ですよ、タレア。ちょっとした実戦形式の訓練です」
しかし、タレアの参加は既に決定事項のようだ。
ダルシアはその様子を微笑ましそうに眺めている。
「ヴァン兄ちゃん、ノムウツカウはだめよ」
「マーシャちゃん、ヴァンダルーは大丈夫よ。ねえ?」
「はい。血を飲む、大砲を撃つ、新しい魔物を飼うぐらいにしておきます」
「普通だったら、それも止めた方が良いのだろうけれど……君は普通じゃないからな」
ヴァンダルーの飲む撃つ飼うに、孤児院のシスターの一人、ベストラが頬を引き攣らせた。
「ベストラ姉ちゃんは、ヴァンを止める前に、セリス姉ちゃんと一緒に手術を受けるのが先だと思う」
「ま、マッシュ! 手術は別に急がなくていいって、ヴァンダルーさんも言っているでしょ!?」
「そうだぞ、マッシュ! それに、私達は太陽も平気だから、急ぐ理由はないんだ!」
ベストラと同期のシスターであるセリスが、慌てて手術を受けるのを遠ざけようとする。二人は一見すると人種だが、実際には従属種吸血鬼だった。
原種吸血鬼ビルカインの戯れで【日光耐性】スキルを習得させられ、洗脳され自分も人種だと思い込まされていた。
ヴァンダルーによって洗脳は解かれ、二人は記憶を取り戻すと同時に吸血鬼である事も自覚した。しかし、【日光耐性】スキルを持つため、特段不自由を感じる事なく過ごしている。
勿論、吸血衝動はあるが、ヴァンダルー達が血液を融通しているので問題にはなっていない。そんな彼女が受ける手術とは、全身に残る火傷や傷の痕を消す為の強引な整形手術だった。
「手術は怖くありませんよ。ただ、俺の血から作ったブラッドポーションを飲みながら、痕が残っている皮膚を削ぎ落とすだけです」
「凄く痛そうです!」
「何度聞いても、拷問の類としか思えない」
ヴァンダルーの手術内容の説明に対して、セリスとベストラはそれぞれ首を横に振った。実際、口を割らない捕虜の拷問として、治癒魔術をかけて傷を治しながら拷問を加えると言う方法がある。
「経験者として言わせてもらいますが、あの手術は拷問ではありません」
しかし、セリス達よりも前に似たような手術を受けたベルモンドがそう口を開く。
ダンスの振り付けの時は、全力で気配を消し自らの存在を隠していた彼女だが、この時は雄弁に自身の経験を語った。
「痛みは確かにありますが、些細なものです。それよりも何本も飲まされるブラッドポーションによって肉体は活性化され、再生能力が高まり、新しい皮膚がすぐ作られます。
感覚としては……少し痛痒い、というものでした」
そう言いながら、ベルモンドは頬を染めて瞳を潤ませ、ほうっと吐息を漏らした。
……明らかに、「痛痒い」事を思い出した顔ではなかった。
「ベルモンドさんったら……ここにエレオノーラさんがいなくて良かったわ」
ダルシアが言うように、もしエレオノーラがこのお茶の時間に参加していたら、子供達の教育にかなり悪い体験談が披露された事だろう。
「ほら、姉ちゃん、大丈夫だって尻尾姉ちゃんも言ってるぜ」
パンケーキに夢中でベルモンドの顔を見ていなかったマッシュがそう言うが、セリスとベストラは「絶対イヤ!」と目で訴えている。
しかし、無言のアイコンタクトを読み取るのは、ヴァンダルーが苦手にしている事の一つだった。
「なんなら、イシスが最近考案した手術法もありますよ」
二人の視線に気がつかず、レギオンの人格の一つ、イシスに話を振るヴァンダルー。
『ええ、考案したのは方法だけで、具体的な手順は全てヴァンダルーにしか出来ないけれど』
パンケーキを取り込むのを止めて、イシスは自分の近くに生えていたバーバヤガーの上半身を使って実演を始めた。
『ちょっと、イシス! 何するんのさ!?』
『まず、こうやって首の後ろで切開。ヴァンダルーの【魔王の神経】と【血管】を、患者のものと縫合。これで患者の生命を維持しながら、首から下の肉体を乗っ取るの。これで患者は痛みや快か……痒さから解放されるの』
そう言いながら、バーバヤガーの首の後ろを開いて、神経や血管に見立てて適当に創った肉の管を断面に突き刺していく。
イシスもバーバヤガーも変身せず、肉で出来たマネキンのような姿のままなので凄惨さはないが、妙なグロテスクさがあった。……セリス達だけではなく、孤児院の子供達ですらレギオンに慣れているので、怖がっている者は一人もいないのだが。
『手術の間、ヴァンダルーは患者が感じるはずだった痛みを感じる事になるけど、彼なら大丈夫。そうして手術が終わったら、神経を繋ぎ直せば元通りよ。後遺症も試した時はなかったわ。……手術後、実験に使った被検体が例外なく変異したけれど、あなた達の場合は問題ないわよね』
ネズミで試したら、術後ジャイアントラットに。猿で試したら、術後ランク2の猩々(しょうじょう)に。山賊で試したら、熱狂的なヴァンダルー狂信者の冥系人種になった。そのため、人間社会で身分を隠して活動する時は、絶対に施せない手術法だ。
しかし、セリスとベストラなら施しても平気だろうとイシスは語った。……首を切開すると聞いて、近代的な医療知識のないセリスとベストラは青ざめているのだが。
「まあ、今日決めなくてもいいでしょう。時間はありますから……それで、明日は二人共マッシュ達と同じ訓練から始めましょうか」
その言葉を聞いてセリスとベストラは理解した。これは、自分達が頷くまで繰り返されるのだと。
森を出て街道で合流したヴァンダルー一行が、モークシーの町に社会的に戻ってから、アルクレム公爵領の政治は忙しく動き出した。
タッカード・アルクレム公爵が、グールを魔物ではなく人間の一種として扱う事と、公爵領内でのヴィダの新種族の自治区制度を廃止する為の法整備を始めたのだ。
これが実現すれば、グールは狩られる魔物から冒険者と同じ人となり、討伐や戦利品の略奪をするような真似をすれば、山賊と同じ行為として冒険者でも罰せられるようになる。……逆に、グールが正当防衛以外で冒険者を殺したり、女を攫ったりした場合は、グールも人として罰せられるようになる。
尤も、アルクレム公爵領内のグールは既に殆どヴィダル魔帝国に移住済みであり、この法整備はザディリスやバスディア、タレアにカチアが従魔ではなく人として自由に出歩き、各種ギルドに登録できるようにするのが主目的だ。
それより政治的に大きいのは、ヴィダの新種族の自治区制度の廃止だ。廃止とだけ聞くと、まるでこれまで認めていた自治権を取り上げ、追い出すように思えるかもしれない。
だが、実際はこれまでランクを持つヴィダの新種族を『自治区』と称した一画に押し込め、通行や通商、移住の自由を認めず、各ギルドへの登録も禁止していた体制を改め、人と同じ権利を与えるという差別撤廃のための法であった。
そしてこの自治区制度の廃止による影響は、アルクレム公爵領内に自治区があるヴィダの新種族だけに留まらない。他の公爵領に自治区があるヴィダの新種族も、アルクレム公爵領に逃げ込めば自由になる事が出来るのだ。
本来なら、オルバウム選王国を構成する十二の公爵家は、他の領内で罪を犯した者を自領で発見した場合は、速やかに身柄を拘束し、手配している公爵領へ引き渡す事となっている。
しかし、法では「死罪及び犯罪奴隷に落とすような重罪を犯した者のみ」と記されている。自治区から脱走した程度では、重罪とは言えないのだ。
それでも他の公爵達はタッカード・アルクレム公爵に引き渡しを求めるだろうが……ヴァンダルーと非公式の同盟を結んだ彼が、それに応じるはずもない。
テイマーギルドでのグールを含めたステータスにランクを持つ、ヴィダの新種族の扱いは微妙だが……今までも本物の主従関係なのか、それとも見せかけだけで実際は対等な友人や恋人なのかは、当人達しか分からなかった。そのため法整備よりも優先して改革を行う必要はないと思われたのか、アルクレム公爵家からの働きかけはなかった。
テイマーギルドで「ヴィダの新種族を従魔にしてはいけない」と規約を変えるのは、冒険者ギルドでグールやスキュラ、アラクネの冒険者登録を認めるよう規約が変わるのと、同時期になるだろう。
公爵領政府の動きを察知したアルダ神殿が、早速抗議しているが、「これは政治の、世俗の問題。聖職者の皆様の口出しは、無用」と跳ね除けている。
そしてまだ一般の人々は、アルダ信者にとっては暴挙、ヴィダの新種族にとっては一大改革となるこの法改正を知らない。
だが、アルクレム公爵に仕える貴族達は賛成派と反対派に割れ、その貴族達と血縁関係にある他の公爵に仕える貴族達、そして選王領の貴族達へと影響が広がって行き、オルバウム選王国の政界は、大きな渦に呑み込まれていく。
10月17日に286話を投稿する予定です。