百八十八話 蠢く魔王とその欠片達
『狂災の悪神』ダルグゾボンは、封印の中で悔しげに蠢き続けていた。
ラヴォヴィファードに敗れて力を失い、その隙を突かれてザンタークに封印されて数千年……いや、一万年以上経ったある日、突然封印が緩んだ。
当然、ダルグゾボンはこの機会を逃してなるものかと全力で封印を跳ねのけ、復活を果たした。封印されている間に、失った力を半分程取り戻せていたのが幸いした。
『久しぶりじゃな眠れぃっ!』
そして、封印から飛び出した瞬間、『山妃龍神』ティアマトのブレスを受けて吹っ飛ばされたのである。
『吹き飛ばすな! その場で動かなくなるまで攻撃し続けると決めたのを忘れたのか!?』
その後は『月の巨人』ディアナに延々攻撃されて動けなくされ、そこを『炎と破壊の戦神』ザンタークと忌々しい勇者の一人、ファーマウン・ゴルドに執拗なまでに殴られ続けた。
当時は混乱していた為に気がつかなかったが、今思い起こすとダルグゾボン以外の悪神や邪神も復活していたようだった。
恐らく、ザンターク達はダルグゾボン等封印した邪神悪神を一か所に纏めて管理していたのだろう。そして封印が緩む兆候に気がついて駆けつけ、そのまま戦闘に突入したのだ。
そしてダルグゾボンは逃げ出す事も出来ず再封印されてしまった。元々失った力を半分程しか取り戻せていなかったのに、敵戦力のど真ん中に現れてしまったのだ。当然だろう。
今やダルグゾボンの力は、一割にも満たない状態だ。人間で例えるなら、満身創痍で死にかけている状態である。ここから完全に回復するのは、余程大勢信者がいなければ至難の業だろう。
『オノレ……オノレェ……』
二度も自分を封印したザンタークやファーマウン、そしてティアマト達への恨みは大きくなっていたが、それで力が戻る訳でも無い。
ダルグゾボンに出来るのは、何時抜け出せるか分からない封印の内部で自分を封じた者達を呪い続ける事だけ。そのはずだった。
『封印ガ、マタ緩……解ケタ!?』
何と封印が歪み、彼が暴れるまでも無く解けた。彼は解放されてしまったのだ。
以前のように、何らかの理由で神の封印が一斉に緩んだのかもしれない。今度はこの幸運を逃さぬよう、一気に逃げ出そう。
そう決めたダルグゾボンは封印から飛び出した勢いそのままに加速して、上空に向かおうとした。
危険地帯から少しでも遠くへ逃げて、自身の神域を展開しこの傷を少しでも回復させなければ。恨みを晴らすのは、その後でいい。
『キハハハハハハハベェ!?』
だが、何と彼は天井に思い切り衝突してしまった。今のダルグゾボンは実体を伴わない霊体、幻のような存在であるためダメージは無かったがそれでも驚きは大きかった。
『ナンダ、此処ハ!? だんじょんカ!?』
そう、ダルグゾボンが二度目の復活を果たしたのはダンジョンの内部だった。空は青く澄んでいるが、実際には空間が閉ざされていて、一定の高さ以上には進めない透明な天井が存在している。
つい先日執拗に痛めつけられたため一割以下の力しか無いとは言え、彼は悪神だ。普通の壁や天井なら彼を捕える事は出来ない。しかし、ダンジョンの壁は別だ。
ここの主がダルグゾボンならどうとでもできるが、彼に澄んだ青空に緑の森なんて汚らしい内装のダンジョンを創った覚えは無い。
なら外に出るには人間のようにダンジョンを自力で移動しなければならない。だが残っている力は少ない。ランク10の魔物と遭遇すれば……屈辱だが負ける可能性が高い。
そんな余裕はあるだろうかと怯えながら地上の方を振り返った彼は、粘液状の身体を器用に硬直させた。
そこに、魔王が存在したからだ。
『ぐどぅら……にす? 違ウ!』
ダルグゾボンは魔王……杖を片手に下げて空中に浮かぶヴァンダルーを見てかつての主にして、勇者に敗れた負け犬、グドゥラニスの事を思い出し、すぐに否定した。
たしかに気配や魔力に一瞬誤認する程度には共通点がある。しかし、全く別の存在だ。
「『狂災の悪神』ダルグゾボンですね。神代の時代には魔王軍の一員として数々の災害を引き起こし、魔王が倒された後も魔大陸を荒らし回ったと言う」
ヴァンダルーはダルグゾボン……ドロドロとした粘液の表面に目や鼻が無数に浮いているという奇怪な姿の悪神に話しかけた。
そして返事を待たずこう続けた。
「俺は勇者ザッカートの後継者で『ヴィダの御子』のヴァンダルー・ザッカート。俺に従うか、喰われて滅びるか、選びなさい」
『…………』
服従か、消滅か。それを問われたダルグゾボンはすぐに動く事は出来なかった。何故なら、外見は少年に過ぎないヴァンダルーに、言葉通り自分を滅ぼせる力があると理解したからだ。
その根拠はヴァンダルーが片手に下げている彼の身長より長い杖から感知した、覚えのある臭いだ。
(ぎゅばるぞー……アノ間抜ケノ骨ト魔石カ)
杖は、かつてダルグゾボンと同じ魔王の配下だった『暗海の邪神』ギュバルゾーの素材を使ってタレアが創り上げた物だったのである。
だが、その杖からギュバルゾー自身の気配を全く感じない。それはギュバルゾーが既に消滅している事を表している。
魔王に似た気配に、離れていても感じる圧倒的な魔力。そして邪神の亡骸を使用した杖。もし力が完璧に回復していたとしても、戦った場合勝率は五割あるかどうかと言った程度だろうとダルグゾボンは判断した。
服従を選ばなければ、待っているのは滅びのみ。それを理解した彼は『ワカッタ』と答えて、ヴァンダルーに近づく。
『貴様ニ……従ウクライナラ滅ボサレタ方ガ、マダマシダ!』
そしてある程度近づくと急加速してヴァンダルーに特攻を仕掛ける……ように見せかけて、そのまま彼の脇を通り過ぎる。
ダルグゾボンが選んだのは、僅かな可能性に賭けての逃走だった。
だがその瞬間木々の間から無数の蔓が伸びて来て、ダルグゾボンを貫いた。更に、五頭一尾の単眼の龍が木々の間から飛び出すと、三つの頭部から光弾を放った。
『ぞぞがんて!? ふぃでぃるぐ!? オノレェ!』
一割以下の力しか無い状態で、同じ神から攻撃を受けたダルグゾボンは為す術も無く墜落し始める。既に霊体が崩れ始め、魂が剥き出しになっていた。
「ファイエル」
その魂に向かって、【魔王の血】の銃身を展開したヴァンダルーが【念動】で【魔王の角】の弾丸を打ち出した。
『狂災の悪神』ダルグゾボンの魂は、断末魔の悲鳴も残さずヴァンダルーに喰われ消滅したのだった。
『久しぶりの実体は気分が、実に良い』
『全くだ……やはり、実体があってこそ自らの存在を確かめる事が出来る』
『不意打ちも上手く決まった』
『何より、供え物も直接食べられるのが良いッス』
そうヴァンダルーの【実体化】の死属性魔術によって霊体を実体化させていたゾゾガンテとフィディルグは頷き合っていた。
「そろそろ魔術を解きますよ。魔力がきついので」
だが何時までも術を維持する事は出来ない。ヴァンダルーはそう断ってから魔術を解き、地上へと降り始めた。すると途端にゾゾガンテとフィディルグは実体を失い、音も無く半透明の幽霊のような状態に戻ってしまう。
通常のゴーストを【実体化】させる程度ならどうとでもなるが、力を失ったとはいえ神を【実体化】させるのは莫大な魔力を持つヴァンダルーでもかなりの負担だった。
ギュバルゾーの杖が無ければやろうと思わなかっただろう。
『経験値は手にはいったので?』
「まあ、これまで通り普通に魔物を倒すよりは。味は悪くなかったのですけどね」
ゾゾガンテに問われたヴァンダルーは、ステータスを確認した後そう答えた。
本来は魔王軍でも中堅の力を持っていた『狂災の悪神』ダルグゾボンを滅ぼしたにしては、微々たる量だ。しかしあのダルグゾボンは本来の一割以下の力しか持っていない……より正確に言うなら、ザンターク達によって文字通りピクリとも動かなくなるまで攻撃されてから、一年も経っていない状態である。
つまり、封印から出てきた時にはダルグゾボンは瀕死の重傷……ほぼ虫の息状態だったのである。あれほど動けたのは、悪神だからこそだ。
あまり経験値が入らなくても当然だろう。
「そう言えば、神様も経験値を獲得できるんですか? ステータスそのものが存在しないと聞いていますけど」
ステータスシステムは『時と術の魔神』リクレントが人間達の為に作り、それに魔王グドゥラニスがちょっかいをかけて魔物にも適応させた代物だ。
そのため、ステータスシステムが実装される前から存在し、そもそも人間より上位の存在である神々にはステータスが無い。
寄り代に宿った時や、転生した時には例外的にステータスが発生するが、その時ぐらいだ。
『我々に経験値その物の意味は無い』
『ただ気分が高揚したり、敵を物理的に食べたりすれば、力がつく事もある……かも?』
『ぶっちゃけると、神相手の戦いで一方的に勝ったのは初めてなんで、よくわからないッス』
どうやら、フィディルグ達にとって経験値はあまり意味が無いらしい。
「お見事でしたわ、ヴァン様!」
地上まで降りると、【装群術】でヴァンダルーの体内に装備されていたタレアが姿を現す。慣れた様子でヴァンダルーの中から出ると、そのまま彼を抱き上げて顔を近づける。
「それで、杖の使い心地は如何でしたか?」
そう言った時も、タレアの瞳にはヴァンダルーだけが映っている。……そうしないと、うっかりフィディルグやゾゾガンテの姿が視界に入ってしまうからだが。
邪神悪神の中では比較的異形では無いフィディルグでも、タレアには大怪獣を間近で見るのと変わらないのでやや刺激が強いのだ。
『……あの、俺達遠慮した方がいいッスかね?』
『我、実は普通の大木に擬態したりできるのだが、やる?』
「け、結構ですわっ! 私、殿方の交友関係に口を出すような女じゃありませんの!」
気を使う二柱に、声を引き攣らせて断るタレア。無意識に加えられる力で、地味に締め上げられるヴァンダルー。
「ギュバルゾーの杖は、見ての通り大丈夫です」
彼が片手に持っている不気味な邪神の骨でできた杖は、あしらわれたダークブルーの魔石を輝かせていた。
魔術師用の杖には魔術を唱える時に魔力の集中や流れに無駄を無くし、制御をよりしやすくする機能がある。その利便性から、殆どの魔術師は杖を必需品としている。
魔物であるゴブリンメイジでも、性能は下の下だが手製の杖を必ず持っているほどだ。
しかし、今までヴァンダルーは杖を持たなかった。
「このとおり魔力を流しても爆発しませんでしたし、今も傷一つありません」
それは彼が杖を使って魔術を発動させると、その途端に杖が彼の圧倒的な魔力に耐え切れず壊れてしまうからだった。
しかし戦闘の間中ずっとヴァンダルーが使っていたこの杖には、傷一つ出来ていない。流石はギュバルゾー、神の死体から素材を取って作った杖だ。
「それは何よりですわ。……正直、私でも碌な加工が出来ず骨の形を整えただけなので、微妙に誇れないのですけど」
既に夢だった【名工】ジョブに就いているタレアだったが、流石に神の素材は彼女の手にも余ったようだ。
「【錬金術】の部分は手が出せないのは仕方ありませんけれど、杖本体もヴァンダルー様の変身杖に負けない性能にしたかったのですけれど……まだまだ精進が必要ですわね」
杖の様子を確かめたタレアは、そう纏めた。
「今回で三柱分の素材がまた手に入りましたし、改善していきましょう。
しかし、これでザンターク達から受け取った魔王軍残党の神も終わり……まさか三柱とも逃亡を試みるとは思いませんでした。一柱ぐらいは……いえ、最初は三柱とも服従を選ぶと思ったのですが」
オリハルコン製の短剣と鞘……ダルグゾボンを封印していたアーティファクトを懐に仕舞って、ヴァンダルーはそう首を傾げた。
「確かに意外でしたわね。逃げ場の無いダンジョンで二択を迫られたら……実質生き延びるための選択肢が一つしか無いのでしたら、服従を選ぶだろうと思っていましたのに」
ダルグゾボン以外の二柱も含めて、ザンターク達から彼等がどのような神だったのかは教えられていた。
三柱とも魔王の配下だった時から一貫して邪悪であり、それは封印されるその瞬間まで変わらなかったそうだ。だから彼等を改心させる事が出来るとは、ヴァンダルー達は誰も思わなかった。
しかし、服従を強いれば頷くかもしれないとは考えていた。どの道喰らう前には一度封印を解かなければならないのだから、ついでに試してみたのだ。
だが三柱の邪悪な神は明らかに逆らえば消滅するしかないと分かっている状況で、一柱も服従を選ばなかった。
自暴自棄の突撃か、僅かな可能性を賭けての逃亡しかしなかったのである。
これはヴァンダルーやタレアが今まで持っていた邪悪な神々のイメージとは、異なる結果だった。
『まあ、そんなものでしょう。我は奴らの事を名前ぐらいしか知らないので、性格等は分からないが』
『今まで邪神悪神としての己のまま暴れ回っていたような奴等ですし』
『こっち側に着く事が出来る存在じゃ無かったって事ッスよ』
しかしフィディルグ達にとっては意外でもなんでもない結果だったらしい。どう言う事かと訝しく思うヴァンダルーに、ゾゾガンテがより詳しい説明を始めた。
『奴らとヴァンダルー殿達は、異なり過ぎているのだ。属している勢力や陣営以前に。
邪神悪神の中には、澄んだ空の青や木々の緑は汚らしい色としか感じられない。色だけでは無く、あらゆる魔物以外の生命とその営み、そして人間達の情愛は奴にとって怖気が走る忌まわしい情動としか感じられない。そんな神も存在している。
ダルグゾボンも、そんな神だったのだろう』
魔王に従ってこの世界に現れた邪悪な神々は、元々異世界の存在である。そのため、価値観も考え方も精神構造さえこの世界の存在とは異なっている。
そのためこの世界の住人にとって正常な事が、邪悪な神々にとっては異常に見える事が幾つもある。
ダルグゾボン達には、ヴィダを始めとしたこの世界の神々の教義は愚かしく、冒涜的なまでに悍ましいものにしか見えなかったのだろう。それに合わせるのは、一時的でもとても耐えられない程に。
そして『ヴィダの御子』で勇者ザッカートの後継者であるヴァンダルーに服従を誓って生き延びると言う事は、当然だがヴィダの教義に従って生きると言う事だ。
とてもやって行けるとは思えなかったはずだ。服従を選んで一旦は生き延びても、その後耐えきれずに逆らったら……彼等にとっては普通の行為である悪逆非道な行いをしただけで、滅ぼされてしまう。
それならと突撃にみせかけた逃亡を選んだのだろう。
しかし、そう言う割に目の前のゾゾガンテやフィディルグは普通に話が出来ているし、他にもヴィダ派に転向した邪悪な神々がいる。
「……私の近くに、順応している方が二柱程いるはずですけれど?」
『我々は個体差が激しい。フィディルグのように適応できた神や、我のように最初から忌避感を持たなかった神、そしてあらゆる違いに無頓着だったグファドガーンやムブブジェンゲのような神等が存在した。
それ等が十万年前、ザッカートの誘いに乗って魔王軍から寝返った神々だ』
タレアのツッコミに、ゾゾガンテは慌てる様子も無くそう答えた。
『最も、ザッカートに直接声をかけられたのは魔王軍でも重用されてなかった者達だけだ』
『だから他に協力関係を築ける、交渉の余地がある邪悪な神がいるかもしれないが……』
『そう言う神は、あれから十万年以上経った今も好き勝手に暴れたりはしていないと思うッス』
「確かに、その通りですね」
魔王グドゥラニスが倒されてから十万年以上、今に至るまでこの世界を荒らし続ける神は、今更この世界に適応する事は無いだろう。
ちなみに、ルヴェズフォルは元々この世界の龍の一頭だったのが裏切っただけなので、価値観その物は他の龍と変わっていない。
「そう言えば、ルヴェズフォルですがどうします? 皆が許せないのなら、封印してもらいますけど」
パウヴィナが連れ帰って来た裏切り者、特にフィディルグにとっては自分を封印し信者であるリザードマンを奪った仇と言える彼を許せるか否か。
そうヴァンダルーが尋ねると、フィディルグは哀しそうな顔をした。
『もう、奴に対する恨み辛みは……無いかなと』
『以前は、今度会ったら五体を引き千切ってやると思っていたが……』
『今は……あのままペットとして暮らさせる方が、ダメージが大きそうッス』
どうやら、ある程度の自由はあるものの、ランク5のワイバーンと言う龍よりも下等な竜の中でも最下級の存在に堕とされ、パウヴィナからペットとして扱われている今のルヴェズフォルをフィディルグは憎めないようだ。
『我は別にどうでも』
そしてほぼ接点の無いゾゾガンテは、無関心であった。
「意見はシャシュージャ達に聞いた方が良いかもしれませんわね」
「そうですね。この後、母さんの様子を見たら彼に会いに行ってみましょう」
そしてヴァンダルーは、カプセルの中で眠り続けているダルシアに一時間ほど話しかけた後、大沼沢地に向かった。
既に自分よりずっと大きくなった、死属性の魔力でリザードマンから変異したワニ人間、アーマーン達の訓練を見ているシャシュージャに会った。そしてルヴェズフォルについて尋ねたのだが……。
「シュ? ルシュシェ?」
しかし、何とシャシュージャはルヴェズフォルを憎むどころか、存在を覚えてもいなかった。
当時のリザードマン達の信仰がシンプルで、信仰対象についてただ神としか認識しておらず個体名を意識していなかった事や、ルヴェズフォルが直接彼等の部族を迫害した訳では無かったため、記憶していなかったらしい。
こうしてルヴェズフォルのペット生活は、無事続く事になった。
《生命力が10,000上がりました! 力、敏捷、体力、知力が1,000上がりました!》
《【高速再生】、【魔術耐性】、【毒分泌(爪牙舌)】、【敏捷強化】、【身体伸縮(舌)】、【砲術】、【神喰らい】、【魂喰らい】スキルのレベルが上がりました!》
《【魔砲発動時攻撃力強化】スキルが中に上昇しました!》
《【状態異常耐性】が【状態異常無効】スキルに覚醒しました!》
穀国ヨンド。アミッド帝国の胃袋を満足させる、大穀倉地を抱える西の属国である。連なった岩山で海と隔てられているがその分豊かな大地の恵みで潤ってきた国だ。
ミルグ盾国とは真逆の位置にあるためオルバウム選王国との戦争に直接さらされなかったので、ヨンドには常に何処かのどかな空気が流れている。
「化け物だぁぁ! 逃げろっ、殺されちまうぞ~!」
「お助けぇっ! 助けてくれっ、あんたら衛兵じゃねぇのか!?」
「五月蠅い! 叫ぶ余裕があるならもっと早く走れ!」
だが今の空気はとてものどかとは言えなかった。
必死の形相で走る農夫と、それを叱咤しながら最後尾を走る若い衛兵を追うのは、遠目から見ると黒い毛を生やした人型の生き物に見えた。
『ぎぶげぐげげげげえげんあ゛あ゛い!』
だがよく見ると、奇怪な声を上げているのは全身から黒く鋭い針を生やした人間だと分かる。
そう、人間だ。目や口の中からも長い針が生えていて細かい特徴は分からないが、人種かエルフの恐らくは男性だろう。
もし農夫や衛兵が海の生き物に詳しければ、ウニ人間と評したかもしれない。
『げげヴぉんあ゛あ゛い!』
だがその針は鋼よりも堅固で鋭く、最初に魔物だと判断して追い払おうとした衛兵たちの多くは鎧や盾ごと貫かれ、穴だらけになって殺されてしまった。
それを見た農夫と生き残った衛兵の男は、こうして村に向かって逃げているのである。
化け物も村に向かっているためそれを村にいる仲間に知らせる為か、それとも自分が助かりたいからか、逃げている彼等自身にもそれは分からない。
(どうなってんだ!? あんな魔物は見た事が無いぞ、収穫の間に獣がちょっかいをかけないように見張るだけのはずが、何でこんな事に!)
そう自分の境遇を嘆く衛兵の男は、化け物が進む方向が村からずれている事に気がついた。
『げヴぉん……あ゛いぃぃっ!』
化け物は衛兵の男の背に何の関心も持っていないのか、その進む方向を南に向け始めていた。
(よしっ! このまま走り続ければ逃げられる!)
化け物が何を考えているのかは知らないが、衛兵の男は降って沸いた幸運に目を輝かせた。村まで逃げ帰れば、後は騎士団や冒険者の仕事だ。
たかが衛兵でしかない自分は英雄様の大活躍を祈っていれば、村の安全さえ守っていればそれで良い。だが、その卑屈な目の輝きもすぐ消えてしまった。
「ひぃっ、助けておくれぇっ!」
化け物の進む方向に、転倒して動けない様子の老婆がいたのだ。
農夫たちの誰かに弁当でも届けようとしたのか、薬草でも取りに来たのか。老婆と化け物の間にはまだ距離があるが、このままでは彼女が針に貫かれて死ぬのも時間の問題だろう。
「畜生っ! マイン婆さん、這ってでも化け物の進む方向から退け!」
衛兵の男は、気がついたらそう叫びながら化け物と老婆の間に駆け込んでいた。
自分が盾になったところで、稼げる時間は数秒だろうに。顔見知り程度の関係でしかない老婆の寿命を数秒伸ばす為に生まれ、今まで生きてきた訳でもないだろうに。
「【石壁】! 【石体】! クソッタレっ、化け物はいるってのに英雄様は何でいないんだ!?」
覚えたばかりのスキルで【武技】を発動させ、木の盾と皮の鎧の防御力を強化して叫ぶ。
その叫びに応えるように、見た目より素早い化け物の針が衛兵の男に伸び――。
『いや、英雄はそこにいる』
「えっ?」
叫びに答えたのは化け物の針だけでは無かった。突然響いた頼もしげな声と同時に出現した何かが、化け物を吹っ飛ばした。
「何だ、これは……槍?」
殴り飛ばされたように倒れて蠢く化け物と、自分の前に浮かぶ光る槍を交互に見つめる衛兵の男の脳裏に、再び声が響いた。
『さあ、アンディよ。その槍を手に取り、邪悪な魔王の欠片を封印するのだ』
「な、何で俺の名前を!? あ、あんたはいったい……?」
『我は『兵の神』ザレス。その分霊。汝を導く神である』
「か、神様が何でしがない衛兵の俺なんかに!?」
頭の中に響く神々しい声に混乱するアンディだったが、化け物が『ん゛ん゛だあ゛い』と呻きながら立ち上がるのを目にすると、身体が自然と動いていた。
「分かったっ! それでこの後はどうすれば良い!?」
『我に暫し身体を預けよ。汝には大きな負担をかけるが。汝だけではまだ無理なのだ』
アンディに降臨したザレスの分霊は、彼の肉体を操作して鋭い槍捌きで化け物……封印を解いてしまい【魔王の針】を暴走させた冒険者の男を追い詰め、遂に再封印に成功した。
『ほんたいぃぃぃぃっ!』
絶叫を残して【魔王の欠片】が封印されると、それを見届けたアンディも体力の限界に達してそのまま気を失ってしまった。
神の分霊を身体に降臨させ、限界を超える身体能力を発揮した負担にとても耐えられなかったのである。
そしてアンディが三日後に目覚めた時、彼は村を救った英雄と称えられ、ステータスには【ザレスの加護】と【御使い降臨】のスキルが表示されるようになり、しがない衛兵では無くなっていた。
この頃、アンディのように突然神の声を聞きその加護を授かる者達が世界各地で続出する事になる。
それを人々は神の奇跡と称えた。
実際には、『法命神』アルダがヴァンダルーに対抗するため英雄候補を探しだし、育てるように命じていただけだったのだが。
そして見つけた英雄候補を活躍させるために丁度良いので、日蝕で封印が緩んだ影響で起きる事件の鎮圧をさせたのだ。
【魔王の欠片】まで活性化したのは想定外の出来事だったが、アンディ等一部の英雄候補に多少負担を強いたが対応は出来ていた。
その内幾つかはアルダ勢力の神々が選んだ英雄では無く、『暴虐の嵐』や『真なる』ランドルフによって再封印される事になったが、大勢に大きな影響を与える事は無かった。
5月24日に189話を投稿する予定です。
5月15日に「四度目は嫌な死属性魔術師」の2巻が発売しました! もし見かけましたら手にとって頂けると幸いです。