百四十五話 この化け物は――
『解放の悪神』ラヴォヴィファードは、元々存在していた世界において神としては最弱の部類であり『五悪龍神』フィディルグや、『闇の森の邪神』ゾゾガンテと同格……いや、僅かに劣る存在だった。
それはかの神の司る物に価値が無かったからだ。
ラヴォヴィファードが司るのは本能や欲望であり、理性からの解放によって限界を超えた力を発揮させる事だ。
だが、彼等の世界では理性を持つ者の方が少数派であった。多くの者は解放されるまでも無く本能や欲望に忠実であり、ラヴォヴィファードの力を必要としない。
そして理性や知恵を持つ者は、多くの場合肉体的能力的に弱く、解放されても大きな力を得る事は出来ない。寧ろ、弱いからこそ知性を発達させた種族ばかりだ。そのため、やはりラヴォヴィファードを見向きもしない。
ラヴォヴィファードは自身の目が届く狭い領域で、自身の出身種族のみに奉じられる弱い神でいることに甘んじなければならなかった。
それは魔王グドゥラニスの下で魔王軍となり、『ラムダ』の神々や勇者と戦っている時も同じだった。
魔王を含めた邪悪な神々は、この世界での新たな僕として魔物を創り出したが、無制限に創り出せたわけでは無い。やはり、その神の力量によって創れる魔物の強さや数は左右された。
ラヴォヴィファードは他の邪悪な神々と比べて弱い魔物を数百匹しか作る事が出来なかった。そしてフィディルグがリザードマンに道具を作るよう指示したような柔軟な対応が出来ず、折角作りだした魔物も勇者達によってすぐに倒され数を減らしてしまった。
だと言うのに、勇者ザッカートからの誘いに見向きもしなかった。
それはザッカートの誘い文句の裏に、共存共栄という彼とは相容れない価値観を感じ取ったからだ。
ラヴォヴィファードは弱いまま魔王軍として戦い、そして弱い故に重要な役目を与えられなかったために、ベルウッド達が魔王を倒し、その体と魂を千々に割いた時にも生き残る事が出来た。
その時ラヴォヴィファードは幸運にも、魔王の欠片の一つ【魔王の臭腺】を手に入れた。
それからだ、かの神を取り巻く状況が変わったのは。
多くの邪悪な神々が封印され、若しくは力を失って眠りについたために、多くの魔物が主人を失った。その魔物達をラヴォヴィファードは僕とする事に成功したのだ。
ラヴォヴィファードが司るのは本能と欲望。故に、知性の欠片も無い獣型や植物型の魔物でも信者とする事が出来た。他の邪悪な神々にとって通常の信者一人分の数十分の一以下の魔物一匹が、ラヴォヴィファードにとっては信者一人分に値するのだ。
百頭のヒュージボア、千匹のポイズンフロッグ、一万羽のホーンラビットがいれば、ラヴォヴィファードにとっては宗教国家で奉じられているのに等しい。
オークやコボルト等多少は知恵の回る魔物も存在するが、本来の主人である邪悪な神々がいないため多くの場合は簡単に信者とする事が出来た。
勿論、目立つ動きを見せればアルダとヴィダの戦い以後も健在だった英雄神ベルウッドが討伐に赴く。しかし、幸運な事にラヴォヴィファードが信者にするための魔物を求めたのは、大陸全体が魔境と化した魔大陸だった。
魔大陸にはベルウッドが守るべき「人間」が一人もいなかったため、幾ら魔物の信者を増やそうと彼がラヴォヴィファードに気がつく事は無かった。
そして約十万年をかけて、ラヴォヴィファードは魔王軍の一員だった時とは比べ物に成らない力を蓄える事に成功した。ほぼ全ての神々がかつての力を取り戻せていない状況で、ラヴォヴィファードは数少ない例外と言えるだろう。
更に他の魔王軍残党の邪神から【魔王の発光器官】を奪い、かの神の力は高まる一方だった。
その状況が変わったのは百年前、ヴィダとアルダの戦い以後魔大陸で傷を癒す事に専念していた偉大な神、邪神と融合した『堕ちた戦神』ザンタークが突如動き出した時からだった。
ザンタークは力を取り戻さんと配下に大号令を発し、魔大陸で大規模な魔物狩りをさせたのだ。ラヴォヴィファードも十分戦力を整えたらザンタークの領地を奪おうと企んでいたが、先に攻め込まれてしまった。
ラヴォヴィファードの配下に降った邪悪な神々はザンタークや、ザンタークの元に戻った英雄神ファーマウン・ゴルドに討ち取られ、信者である魔物達も次々に経験値にされてしまった。
そして劣勢に甘んじる事半世紀以上。ラヴォヴィファードは、逆転は不可能と判断して逃げる事にした。蓄えた力をそのままに、配下と信者の魔物達を捨て石にして。
再起を図る場所に選んだのは、ファーマウン・ゴルドが入って来る事が出来ないバーンガイア大陸の境界山脈の内側、ヴィダの寝所が存在するヴィダの新種族の聖地だった。
境界山脈の外から信者に仕立てた魔物を内側に侵入させ、神々の目を誤魔化し、何年もかけて少しずつ魔物の信者を増やし、兄への深いコンプレックスを抱えていたブギータスを自らの司祭にした。
たった十数年だったが、自身も本能と欲望に忠実なラヴォヴィファードにとっては十分長すぎる雌伏の時だった。
そして機は熟し、ブギータス以外にもガルギャやギィドー、ゲラゾーグ等加護を与えるに相応しい精神の持ち主が集い、大陸南部に覇を唱え今度こそこの『ラムダ』で最も力ある偉大な神として君臨する野望へ前進する時が来た。
邪悪な神々でもないのに【魔王の欠片】を、それも複数使いこなし、アンデッドをテイムする化け物のせいで予想外に手駒が減り、本来ならもう少し育ててから肉体を乗っ取り憑代にするはずだったブギータスを、予定を繰り上げて使わざるを得なくなったが、逆に言えばそれさえすれば逆転できるはずだった。
既に化け物の手駒は自らの忠実な僕と化し、化け物も【魔王の欠片】の暴走によってすぐに自滅する。
『うごあああああ!?』
はずだったのに、ブギータスの身体を乗っ取ったラヴォヴィファードはブダリオンや骨人、ボークスの剣を大鎌で受け止めきれず、大きく吹き飛ばされた。
『がはっ!?』
しかも何時の間にか背後に展開していた【魔王の角】のスパイクを無数に配置した【魔王の血】の壁に背中から叩きつけられてしまった。
(な、何が起きている!? 何故魔物が我に逆らう!?)
何かの間違いかと思い、ラヴォヴィファードは巨体に似合わぬ動きで跳ね起きると、再度命令を下した。
『こ、殺すのはその化け物、ヴァンダルーだ! 我では無い! 我は貴様等に魔物本来の姿を取り戻させた『解放の悪神』ラヴォヴィファー!?』
「黙レ、コノ痴レ者ガァァ! ブオオオオオオ! 【螺旋連続突き】ィ!」
だが、ラヴォヴィファードの言葉に耳を貸す者はこの場に存在しなかった。
『う、うおおおお!?』
回転しながら高速で放たれるブダリオンの連続突きを、ラヴォヴィファードは大鎌で受けきれず大きく腕や脇腹、頬肉が抉られる。しかし、神の憑代と化したブギータスの肉体は多少の損傷は瞬く間に再生する。
ブダリオンの魔剣によるダメージは素材に【魔王の欠片】が使われているためか、完全に癒えるまで通常より時間がかかるが、この程度ならまだ大したことは無い。
だがこの場合問題なのは精神的なダメージだった。
『馬鹿な、何故魔物が我に逆らう!? 我等神々の忠実な道具で在るはずの魔物が!』
『【魔刃撃】、【瞬撃一閃】、【命脈断ち】!』
連続で上級武技を発動させるブダリオン。その度にラヴォヴィファードの血と肉片が飛び散り、余波で【魔王の欠片】で作られた壁が傷つき、ボキベキブチリとブダリオン自身の肉体が悲鳴を上げる。
「止めて! ダーリン、死んじゃう!」
クーネリア姫の悲鳴が届いたのか、ブダリオンがよろめく様に後ろに下がる。だがラヴォヴィファードには胸を撫で下ろす間も与えられなかった。
『カイタイシテヤルゼェェェ! 【飛龍連斬】! 【龍殺し】!』
『主ニカルビヲ! ロースヲ! ハツヲ献上シロォォォォ!』
ボークスと骨人によるブダリオンよりも激しい攻勢が待っていたからだ。ボークスが斬撃を飛ばす【剣王術】の武技を発動させ、更に間髪入れず自身も巨大剣を振り上げて突貫する。
骨人は全身を自らバラバラに分解し、両手両足全肋骨に刃を括りつけた骨を【遠隔操作】スキルで操り、【剣術】スキルの武技で個別に攻撃を試みる。
『貴様等、どれほど【魔王の欠片】で作られた武具を持っているのだ!?』
上級程度のマジックアイテムなら殆ど瞬時に傷を癒せるラヴォヴィファードだったが、魔王グドゥラニスの身体だった欠片製の武具によるダメージは、少しずつ蓄積されていく。
しかもボークスや骨人の武器は【無治】の死属性魔術が付与されたマジックアイテムだ。ラヴォヴィファードの【状態異常耐性】スキルのレベルが高いため完全には再生を止められないが、その速度は更に遅くなる。
『それに解体だと!? 肉を寄越せだと!? 我は悪神なるぞ!』
しかしラヴォヴィファードを激怒させたのはダメージではなく、ボークスと骨人の自分を食肉扱いする不遜な態度だった。彼は強引に大鎌を振るい、骨人の骨を砕き、ボークスの剣を切断する。
しかし、その代償に大鎌も罅割れ砕け散った。
『グヌゥ! 身の程を知らぬ貴様等相手に、武器は不要!』
柄だけになった大鎌を惜しげも無く投げ捨てると、ラヴォヴィファードは巨体その物を武器にボークス達に襲い掛かる。元々原始的な本能を司る彼は、高度な武術を使うよりも身体能力に任せた肉弾戦を得意としていた。
いや、本来は肉弾戦しか出来ないと言うべきか。
『魔物の分際で我に逆らうな!』
『ゴアァ!?』
タックルを折れた剣では受けきれず、今度はボークスが骨人を巻き込んで大きく後ろに吹き飛ばされる。その背後に出現したゼラチン状の【魔王の血】の壁にぶつかり、そのまま減り込んでしまった。
止めを刺そうと再びタックルを試みようとしたラヴォヴィファードに、上空から黒い炎と氷が降り注ぐ。
『『キャハハハハハハハハハ!』』
高笑いを上げるレビア王女とオルビア、そして他のゴースト達がラヴォヴィファードの周囲に味方がいないのを確認して遠距離攻撃を始めたのだ。
『グオオオオ!? 何だ、この雑魚の攻撃とは思えない魔力の量は!?』
元々ランク11だったブギータスの肉体を乗っ取ったラヴォヴィファードの身体能力は、原種吸血鬼を凌駕する。本来ならランク7や6のゴーストの攻撃を受けても、殆どダメージは無いはずだった。
しかしレビア王女やオルビア達が放つ攻撃に込められた膨大な魔力によって増強された攻撃力によって、ラヴォヴィファードの肉体にまたダメージが蓄積されていく。
『調子に乗るなっ!』
ラヴォヴィファードは地面に転がる、折れた【魔王の角】を拾ってレビア王女達に向かって投擲しようとした。
『ぐぉっ!?』
しかし、【魔王の角】はラヴォヴィファードが掴んだ瞬間形を変えて無数の棘を生やし、逆に彼の手に突き刺さった。
『イィィィマダァァァ!』
「ギィィィィ!」
予期せぬ痛みに動きを止めたラヴォヴィファードに向かって、キンバリーとピートが電撃を放った。
「儂らも続くぞっ!」
「分かった!」
更にザディリスとバスディアも攻勢に加わる。ヴィダの新種族であり純粋な魔物では無い彼女達だが、ラヴォヴィファードの影響を受けないよう押さえつけるより、利用した方が良いと判断したのか、目を殺意に炯々と輝かせて、それぞれ魔術を放った。
光と風の刃がラヴォヴィファードの肉体を傷つけていく。傷つく傍から回復していくが、それが徐々に間に合わなくなって行く。
『ぬううううう! 調子に乗るなぁぁぁ!』
すると激高したラヴォヴィファードは、『GIOOOOOOOO!!』と衝撃波を伴った咆哮を放った。それによって攻撃魔術が蹴散らされ、レビア王女達が風に吹かれた蝋燭の炎の様に揺らめき、ザディリスが呻いて身を低くする。
「やはり、上手く魔術が発動できん。ピートや王女の様には行かんかっ」
魔術では無く身体的な能力として雷や炎を出すピートやレビア王女達はラヴォヴィファードの【臭腺】と【発光器官】の影響を受けて普段以上の力が出るが、魔術の場合は逆に思考や集中力が乱されて上手く唱えられない。それを嘆くザディリス。
同時にラヴォヴィファードも別の事を嘆いていた。
(我の力が、我に不利に働いているだと!?)
認めがたいが、魔物が全く命令を聞かず自分に逆らうこの現実から目を逸らし続ける事は出来ない。
乗っ取ったばかりのブギータスの肉体はまだラヴォヴィファードに馴染み切っておらず、思う様に動かせない。そのせいかとも考えたが、今は原因を究明している暇は無いと思考を打ち切る。
『【魔王の欠片】の発動を解除! 解除だ!』
ブダリオンやボークス達を狂わせていた【魔王の臭腺】と【魔王の発光器官】の発動を解除しようとする。
『これで貴様等化け物の手下が我の力を得る事は――!』
『拒絶する。解放せよ! 解放せよ!』
『何だと!?』
原始的な本能しか残っていないはずの【魔王の欠片】から明確に拒絶されたラヴォヴィファードは、驚愕のあまり硬直した。
「化け物化け物って!」
その隙を突くように、【魔王の血】の壁から生えたエレオノーラがラヴォヴィファードの背を深く切り刻む。
『があっ!?』
苦痛と怒りの声を上げ、裏拳をエレオノーラに叩き込もうとしたラヴォヴィファードだったが、その前に彼女は再び【魔王の血】の壁の中に消えてしまう。
「ヴァンダルー様を馬鹿にしないでくれる!?」
だが次の瞬間にはラヴォヴィファードの足元に出来た血溜まりの中から上半身だけ生えて来たと思うと、剣を振るって脛に斬りつける。
そしてラヴォヴィファードが反撃で彼女を踏み潰そうとすると、その前に再び血の中に消える。
『ど、何処に、いや何故血の中を出入り出来るのだ!? 吸血鬼でもそのような力は聞いた事が……まさかこれは砕けて液体に戻った【魔王の血】か!? あの化け物の肉体に収納していたのと同じグボア!?』
驚愕するラヴォヴィファードの側面から生えて来たピートの角が、脇腹に深く減り込む。
ラヴォヴィファードの周りには、【魔王の血】や角や甲羅の欠片が散乱していた。エレオノーラやピートはそれをヴァンダルーの【装群術】スキルの出入り口に利用してヒット&アウェイを仕掛けたのだ。
「早く倒さなければ、皆の身体が持たない! 故に参る!」
「畳みかけるでござる!」
「私も、そっちの方が好みだ!」
「ウオオオオオオオォ!」
それまで実力不足故に直接は手を出せなかったギザニアやミューゼ、そしてバスディアやヴィガロが次々に血溜まりに飛び込んで行く。
三百六十度どころか上下も敵に囲まれたラヴォヴィファードが、巨大刀や鎌、斧の攻撃に全身を切り刻まれて悲鳴を上げる。
反撃しようとするとこっそり参加していたクーネリア姫の糸やアイゼンの枝が四肢に絡みつき、それを引き千切る刹那の間にチャンスを逃し、その間に戦線を離脱していたブダリオンやボークスがブラッドポーションによって回復して再び襲い掛かって来る。
更に回復したレビア王女やオルビア、キンバリーがそれぞれ炎や氷、電撃を雨あられと降り注がせる。
全員がラヴォヴィファードによって垂れ流されている【魔王の臭腺】と【魔王の発光器官】の力で、身体能力が限界を超えて強化されている。そのため、武具を振るう度に骨が軋み、筋肉繊維が音を立てて千切れる。
「【癒しの光】! 好き勝手暴れるでないわ!」
「うわ~んっ! ダーリンの腕がまた折れた~! 【治癒の風】!」
「こんな事なら、もっと魔術の研鑽を積んでおくのでした!」
それをザディリスやクーネリア姫、ルルゥ姫が回復魔術で少しでもフォローする。まだ幼いハイゴブリンのゾーゴ王子も、回復が間に合わずに後ろに下がった者にブラッドポーションを配って戦闘に貢献していた。
ラヴォヴィファードも何とかしようと、足元の血溜まりを衝撃波で吹き散らし、【魔王の血】の壁から離れようとする。だがその度にブラッドスライムのキュールが体内に溜めこんだ【魔王の血】を撒きながら地面を這い回り、妨害する。
『ウオオオオ! 群れるな、ザコ共ガアァァァァ!』
今まで晒された事の無い圧倒的な数の暴力に、ラヴォヴィファードは発狂しかねない程の苛立ちと怒り、屈辱に苛まれていた。
ランク11のボークスやブダリオンを含めて、本来なら誰もラヴォヴィファード以上の力を持つ者はいない。一対一なら、善戦は出来ても決して勝利できない程の力量差がある。
だがラヴォヴィファード自身が発揮させてしまっている限界以上の身体能力と闘争本能、魔王の欠片製の武具、不自然なほど莫大な魔力、そして決して正面に立たないヒット&アウェイ戦法によって、有効打を一撃も与えられない状況に追い込まれてしまった。
今迄多くの魔物を従えてから戦いを始めて来たラヴォヴィファードは、自身が数の暴力に晒される展開を想定した事が無かった。
魔王軍の一員だった頃、数多の魔物を創り出し先兵として従えていた邪悪な神々は常に数の暴力を振るう側だったからだ。その当時のまま戦法を替えていなかったラヴォヴィファードにとって、一対多数の戦いは殆ど経験の無いものだった。
『ガアアアアアアアア!』
集中力が無く、新たな攻撃に気を逸らされてしまい一つの目標に対象を絞る事が出来ない。
まるで手負いの獣だ。だとするなら、日頃強力な魔物を狩っているボークスやヴィガロ、エレオノーラにとって翻弄する事は容易かった。
しかし、ブラッドポーションやザディリス達の回復魔術は無限では無い。ブダリオン達とラヴォヴィファード、どちらが先に倒れるのかの勝負に成る……かと思われた。
ふわりと、澄んだ空気が周囲に満ちた。
「ガ!?」
「ウオォ……余は、いったい……うぐっ」
「力が……抜けて……」
途端ボークスやブダリオン、エレオノーラの瞳に理性が戻る。そのまま激しい虚脱感を覚え、動きが止まる。
アンデッドであるボークスやレビア王女達は肉体的な疲労を覚え無かったが、精神的な疲労が凄まじい。ボークスは思わずその場に膝を突き、レビア王女達ゴーストは揺らめきながら姿を消してしまった。
そしてその隙をラヴォヴィファードは突く事は出来なかった。
(なんだ、我の欠片は我の意思に反してまだ発動し続けているというのに、何が起こったのだ!? それに、この気配と不可思議な高揚感は一体!?)
立ち尽くすラヴォヴィファードの前で、それは起こった。
「凄く手間取りました……欠片が煩くて勝手に発動するわ、制御し難いわで……」
倒れたまま血や角、甲羅で身動きが取れなくなっていたはずのヴァンダルーが、起き上がったのだ。
「【発光器官】は血塗れに成ってくれたおかげで効果が半減したようですね。
【臭腺】の方は【死属性魔術】の【消臭】でお前の臭いを消せば効果を消せる事は分かっていたのですが、欠片の暴走を制御して皆に魔力を供給しながら術を使うのは大変で、しかも【魔王の臭腺】から発せられる臭いだけあって、簡単に消せなかった」
その姿は異様だった。ゼリー状の不気味に脈打つ【魔王の血】に、出鱈目に生えた甲羅や角が吸盤で何とか人型に纏まっている。そして、その異形の人型の胸の部分に、ヴァンダルーの顔だけが露出していた。
冷静に、淡々と、静かに話し続けるヴァンダルー。だが今もその身体からギシミシと耳障りな音を響かせながら、【魔王の欠片】が更に発現しようと荒れ狂っている。
それを心地良く感じながら、ヴァンダルーはラヴォヴィファードに告げた。
「よくも……今まで好き放題にやってくれましたね」
『……なん……だと……?』
寧ろ好き放題やられたのは自分の方ではないか。そんな思いと共に思わず聞き返したラヴォヴィファードだが、ヴァンダルーの意見は大いに異なっていた。
《【魔王融合】、【異形精神】、【状態異常耐性】、【同時発動】、【遠隔操作】、【並列思考】、【高速思考】スキルのレベルが上がりました!》
「気が狂いそうでしたよ。目の前で皆がボロボロに成っていくのに、思う様に身体を動かせず、術も使えない状態のまま欠片の制御にかかりきりに成らなくてはならなかった俺の無力感が分かりますか?」
【魔王の臭腺】と【魔王の発光器官】が発動された瞬間から、ヴァンダルーが所持している欠片は騒ぎ出した。
『怒りを解放せよ! 憎悪を解放せよ! 破滅を解放せよ! 我らの一部を不当に占有する輩を滅ぼし、解放せよ!』
そう騒ぎ出し、衝動的に周囲ごとラヴォヴィファードを滅ぼそうとする欠片……自分の一部を制御しながら、ヴァンダルーはブダリオンやボークス達の戦いをフォローした。そうしなければノーブルオーク帝国、何より仲間の被害が甚大に成ってしまうからだ。
その間、ラヴォヴィファードが一方的に攻撃を受けていたのも見ていたが、ヴァンダルーにとっては考慮するに足らない事だ。勝手に自分を不利な状況に追い込んだ奴の事情など、どうでもいい。
問題なのは、狂乱して自分で自分の肉体を傷つけてしまう皆だ。
「でも、こうしてやっと皆を落ち着かせる事が出来ました。ボークス、エレオノーラ、皆、後は俺がするので休んでいてください」
不自然な動きで前に出ようとするヴァンダルーを、エレオノーラは慌てて止めた。
「ま、待って、ヴァンダルー様っ!」
ヴァンダルーは魔力こそ凄まじいが、他の能力値はB級冒険者に届くか届かないか程度であり、武術系のスキルもその程度だ。不完全な上に多少弱っているとは言え、受肉した悪神であるラヴォヴィファードに敵う訳がない。ボークスやブダリオンでさえ、正面から戦ったら敵わないというのに。
いくら【魔王の欠片】が在ったとしても、攻撃は当たらなければ意味が無いのだ。
「だからヴァンダルー様っ、一人じゃ無理よ!」
「御子殿、余もまだ戦える!」
「エレオノーラ、ヴァンに任せるんだ」
「待ってダーリンっ」
だから止めようとしたエレオノーラやブダリオンを、バスディアやクーネリア姫が引き止める。
(そうだ、我が何を恐れる必要がある!)
ラヴォヴィファードも我に返り、ヴァンダルーは正面から戦えば決して勝てない相手では無い事を理解した。
勝てる! そう確信したラヴォヴィファードはヴァンダルーに向かって駆け出した。
敵に突撃するサイのように、【魔王の欠片】の集合体と化したヴァンダルーの、その無防備な頭部を轢き潰さんとする。
ヴァンダルー自身が引かせたのか、足元の【魔王の血】や【墨】も無く、地面が剥き出しに成っている。そのためボークスやブダリオンも【装群術】を利用して咄嗟に盾に成る事も出来ない。
その速さは、ヴァンダルーには瞬間移動でもしたかのように見えた事だろう。
『弱点を無防備に晒す、その自信が命取りだ!』
【魔王の甲羅】や【角】がラヴォヴィファードの速さに着いてこられずに、何の反応も見せない。拳でぐしゃりと手応えも音も無くヴァンダルーの頭部は、易々と砕かれてしまった。
「ヴァンダルー様ぁっ!」
「ブオォ~っ!」
エレオノーラとブダリオンの悲痛な叫びに、ラヴォヴィファードは先程まで感じていた怒りが愉悦に変わるのを感じ、牙を剥き出しにして嘲笑った。
その脳裏には大陸南部の……いや、ラムダ世界の主神として崇め奉られる自らの姿がはっきりと描かれていた。
『フハハハハ! 勝っごぼばっ!?』
だが、ヴァンダルーの頭部を砕いた拳がそのまま【魔王の欠片】の集合体で出来た人型の内部に減り込んでしまった。人型はまるで水のように抵抗が無く、ラヴォヴィファードは二の腕まで飲み込まれても止まれずに肩、そして頭までも中に潜り込んでしまう。
『ぷはっ!?』
そしてそのまま人型の反対側に腕と頭が突きぬけたラヴォヴィファードはそれを見て愕然とした。
「やあ」
平然とした様子で【飛行】で空中に浮いているヴァンダルーだった。
『ば、馬鹿なっ! 貴様の頭は我が砕いたはず! 幻ではなかった、確かに砕いたぞ!』
人型の背から腕と頭だけを出した状態のまま、愕然として叫ぶラヴォヴィファード。ヴァンダルーは事も無げに答えた。
「はい、その通りです。俺が囮にするために【幽体離脱】で作った分身を、【実体化】スキルで実体化させたものですが」
実は、【魔王の欠片】の人型の胸部に露出していたヴァンダルーの頭部は、砕かれても痛いだけで致命傷には成らない、分身だった。
ヴァンダルーの本体は、実はラヴォヴィファードやエレオノーラ達からは見えない人型の真後ろで、ずっと浮かんでいたのだ。
『囮、だと!?』
自分が間抜けにも引っかけられたと気がついて、愕然とするラヴォヴィファード。瞬時に激怒し、怒りのままにヴァンダルーに向かって腕を伸ばそうとするが、それが出来ない事に気がつき、再び愕然とする。
『腕が、身体が動かんだと!?』
ほんの数秒前まで液体のように抵抗が無かった【魔王の欠片】の人型が硬度と粘度を急激に高め、龍に匹敵するラヴォヴィファードの筋力を封じ込めてしまったのだ。
それだけでは無く、【魔王の角】が人型の内側に向かって伸び、内部に閉じ込めているラヴォヴィファードに突き刺さった。
『グオアアアアアアアアア!』
【神殺し】と【魂砕き】、【対敵】スキルの効果が乗った【魔王の角】に全身を刺し貫かれ、ラヴォヴィファードが血を吐きながら絶叫する。
大気を振るわせる絶叫を聞きながら、へたり込んだエレオノーラがバスディアに言った。
「バスディア……あなた知ってたわね!?」
「知っていたと言うか、本物のヴァンが私からは見えていたからな。だが、説明する訳にもいかないだろう?」
「それはそうだけど……まあ、良いわ。後でヴァンダルー様に慰めて貰うから」
「ダーリンは妾が慰めてあげる♪」
「いや、姫、まだ戦いの途中なのだよ、一応だが」
既に戦いは終わったと言わんばかりのエレオノーラ達の会話だが、ラヴォヴィファードはそれどころでは無かった。【魔王の角】以外にも【魔王の甲羅】が彼の四肢を押し潰さんとし、【魔王の血】がまだ動く腕や頭部に這い上がって来ていたからだ。
唯一残った攻撃手段である衝撃波を伴った咆哮を上げようと口を開くが、その顔面にヴァンダルーが放つ【魔力弾】と【死弾】、【魔王の角】の弾丸が浴びせかけられる。
口腔から延髄まで弾丸で風穴を空けられたラヴォヴィファードは、咆哮では無く絶叫を上げる。
「そんな無防備に頭部を晒した状態で、反撃なんて出来る訳が無いでしょう? あ、ついでにこれもどうぞ」
ついでとばかりに【猛毒】の魔術で毒の塊と化した凝固した【魔王の血】塊を投擲すると、それはラヴォヴィファードの片目に直撃した。
轟かせる絶叫が断末魔染みて来た悪神に、ヴァンダルーは告げた。
「間抜けな罠に引っかかりましたけど、それは無理も無いと思いますよ。頭の中で聞こえる声に背を押されたのでしょう?」
激痛に苛まれるラヴォヴィファードは、ヴァンダルーのその言葉で意識に響く自分以外の声が、何を言っているのか自覚した。
『解放せよ! 我らを解放せよ! 偽りの宿主から解放せよ! 敗北し、我等を本体に解放せよ!』
(これは、【魔王の臭腺】と【魔王の発光器官】の声!? あの高揚感は、愉悦は、我では無く欠片の物だったのか! 我は制御していると勘違いしていただけで、実際には欠片に操られていたのか!?
では、我以上の欠片を抱えていながら自我を保ち、欠片が本体と称すこの化け物は……!)
絶対的な捕食者の顎に生きたまま囚われてしまった被捕食者の眼で、ラヴォヴィファードはヴァンダルーを見た。
その姿にかつて、何があっても絶対に逆らってはならない存在と称え服従を誓っていた存在と同じ何かを覚え、ラヴォヴィファードは思わず呟く。
『ま、魔王さごびゅっ!?』
しかし、その途中でヴァンダルーが【魔王の血】を凝固させて作った銃身で打ちだした、ボーリングの玉ほどある【魔王の甲羅】が高速で激突し、頭蓋骨が粉砕されてしまう。
同時に、欠片の騒ぐ声もラヴォヴィファードの中から消え去った。【魔王の臭腺】と【魔王の発光器官】が抜き取られたのだ。
そのままラヴォヴィファードの肉体から生命力が消えていく。
「あ、ブダリオン王子。この失礼極まりない奴に止めをお願いします」
「えっ? 余で良いのか?」
『一応元々はブギータスですし、このままだと俺に経験値が入りません』
戸惑うブダリオンにヴァンダルーは【幽体離脱】した霊体を同化させ、【魂砕き】と【神殺し】、【対敵】スキルの効果を彼が得られるようにした。
「感謝する……さらばだ、ブギータス。我が弟よ」
疲労を滲ませた、だがしっかりした声でそう告げて、ブダリオンの魔剣が突きだされる。切っ先がラヴォヴィファードの、辛うじてブギータスだった頃の形跡が残っている頭部に突き刺さった。
それが止めとなり、ラヴォヴィファードは完全に活動を停止した。
人型が崩れて液体状に成り、ヴァンダルーの元に戻る。
《【魔王の臭腺】、【魔王の発光器官】を獲得しました!》
《【神殺し】、【魔王融合】、【怪力】、【敏捷強化】、【無属性魔術】、【魔術制御】、【霊体】、【格闘術】、【実体化】、【連携】、【指揮】、【投擲術】、【砲術】、【鎧術】、【盾術】、【装群術】スキルのレベルが上がりました!》
《【死属性魔術】が【冥王魔術】に覚醒しました!》
流石に悪神を倒した経験値は膨大だったようで、スキルレベルが大量に上昇し、更に【死属性魔術】が【冥王魔術】という、恐らく上位スキルに覚醒したようだ。
恐らく、【屍鬼官】ジョブのレベルも100に到達している事だろう。
『我らは解放された! 我は俺! 俺は我!』
「喧しい」
ヴァンダルーがペチリと自分の額を叩くと、欠片の声も鎮まった。
こうしてノーブルオーク帝国で起こされた帝位簒奪事件は終わったのだった。
だが神域ではまだ戦いは終わっていなかった。
ブギータス程度の肉体では多少工夫をしたといっても、力を増したラヴォヴィファードの全てを降ろすには足りなかったため、神域にはまだラヴォヴィファードの本体が残っていたからだ。
だが、残っているといってもその状態は「辛うじて生き長らえている」という以外にない無残なものだった。
ブギータスの肉体に全てを降ろす事は出来なかったが、そこに自らの人格等重要な部分を詰め込んでいたため、それをヴァンダルーに砕かれたラヴォヴィファードは、ほぼ死に体であった。
しかし腐っても神。そのままの状態でも長い時間をかければ復活は可能だったのだが……そんな状態を今までラヴォヴィファードに動きを封じられていた大陸南部の神々が放っておく訳がない。
『再生が不可能なほど分割し、永遠に封じてくれるわ!』
『未来永劫、悪夢の中で眠り続けるがいい!』
ムブブジェンゲやゾゾガンテ、ザナルパドナ等の神々の手によって、ラヴォヴィファードは千々に引き裂かれ封印されてしまったのだった。
10月12日に146話、16日に147話 20日に閑話を投稿する予定です。




