8. マイ・ホームカースト
清々しい朝である。
小千鳥高校に編入して二日目。今日も天候に恵まれ、登校には何ら問題はない。
モニカは制服を着込み、怪獣なりにおめかしもして、いざ行かんという心持ちを抱えたまま……、
かれこれ三時間が経っていた。
茶の間のテレビの前。
目が覚めたのが午前四時ごろだったので、現在は七時半過ぎ。学校には八時半までに行けばいいので、遅刻の心配はない。
興奮のせいで寝付けれなかった。
眠ろうと努力するほどに目がさえ、次第に腹が立ってくる。
大の字でじっとしながら、どうせなら天井の木板の継ぎ目を見ているよりも、深夜番組を見た方が有意義だと判断した。
実際、有意義な時間だった。
眠くなるのを待ち続け、そうして朝方、庭でスズメがちゅんちゅんやり始めたころに、睡魔は勃然として湧いたのだ。
今なら目をつむって三十秒のお手軽さで眠れる自信がある。
朝のモニカは、今度は眠らない方法を探している。
「ふああぁー……」
大あくびを一つ。
自宅は心のオアシス。大怪獣に向かって、「口を開けてはしたない」と注意するとんちんかんはいやしない。
萌えキャラにも、天使にも、怪獣にも、プライベートはあってしかるべきだ。
「ははは、ひどい顔だな。まるで産卵中の鮭だ」
前言撤回。
野暮を言うとんちんかんが、ちゃぶ台の向こう側に座っていた。
かくいう彼こそが、師匠である。
十年前にモニカを拾った時から――主にその性欲とオタクぶりは――男は少しも衰えていない。どころか、加速度的に成長している。
それは一目見ればわかることだ。
甚平の背中に染め抜かれた新人アイドル、『盾前よし子』の笑顔を見れば。
彼女は可憐に微笑みながらも、三十路を越えてなお清純派(自称)を信じる男から、懸命に顔を背けている。恐らくは永遠に。
「はい、どうぞ」
しかめっ面をしたモニカの前に、ごはんとみそ汁が置かれた。
赤みそに豆腐とえのき茸のシンプルなレシピ。大好物だった。
「ありがとー」
配膳してくれた看風珠美は台所へ戻って行った。
師匠よりも二つ歳下で、現在は子一人の二十九歳。
肉付きが良くなった分だけ人間的な魅力も増し、より美しくなっている。
「さんちゃん」
看風珠美こと、元アイドルの黒澄燦冷は台所から引き返し、師匠にもごはんとみそ汁を運んだ。
ズガンッ。
と、凄まじい音がした。
「……」見下ろす珠美。
対する師匠は胡坐をかき、頑なに新聞を読み続ける。顔は上げない。
「おい、お前はなんも言わんのかよ」
「……ありがとう」
「ございますは?」
「ございます」
震えた声を聞いて、珠美は満足したらしい。とりあえず今朝の分は。
「とっととハローワーク行きなよ」
彼女は子供を起こしに二階へ去った。
言葉は優しくも辛辣な、またピンポイントで痛烈な、さながら天使のエルボーである。
尻に敷かれている師匠は、十年前にモニカたちを拾い、分不相応に有名になった。そうしてできた人脈を最大限に使い、夢中だった珠美にアタック、大恋愛を経て婚約した。
わけではない。
現実はスイーツのように甘くない。
師匠は少しも相手にされなかった。けれど、師匠という有名人は悪い意味でも有名で、その影響は少しでも繋がりを持った珠美にまで及んでしまった。
しようもない飛び火である。
その後、色々とごたごた――珠美が結婚したり、子供を産んだり、未亡人になったり、師匠という安易な〝わら〟を掴んだり――があり、今は二人で同棲している。未だに男女の関係は、ない。
「早くも新居は墓場と化した! 俺たちは結婚してないのに。順序が逆だよ。だって、鬼嫁ですらないんだぜ。あいつは恐ろしい独裁者だ」
「さんちゃんは天使だよ」
「おおモニカ、このアホ垂れが! 人は変わるんだよ。お前だって、僕が拾った時は緑色のクラゲみたいだったのに、今やいっぱしの女子高生なんだ」
言われてみればそうかもしれない。
性格やら容姿やら、趣味、嗜好等々で人は変わるもの。全く変わらないのだとしたら、ある意味ずっと珍しいのだ。人目を引く。
たとえば十年変わらず無記入のままの、師匠の職業欄のように。
(こんな人がわたしの……)
ため息をつく。緑色のクラゲみたいだった六歳の自分。世間知らずの怪獣は、初めて会った師匠という人間に恋をして、矢も楯もたまらずに飛びついた。
顔から火が出そうな初恋だった。
「どした怪獣。火でも吐きそう?」
「ううん別に。そんな気分じゃないよ」
十六歳の女子高生(怪獣)は、三十一歳の無職から目を逸らした。
当時の恋熱をしのべども、丸きり共感はできず……初恋は見るに堪えなかった。
逸らした先で、別の師匠と目があった。柱時計の隣に打ちつけてある師匠の指名手配書と。
このしけたブロマイドが全国に配布されたおかげで、師匠は一躍して有名人になった。
巨大ロボットのフェーズシスターを投入し、人類の存亡をかけて発動された作戦。スーパーストップ・ジェネレーションで討伐したはずの大怪獣、モルドロス・NX【カッティア】をかくまい、世界転覆を図る危険思想保持者として。
実際はペット感覚だったらしい。
彼は緑色の不思議なクラゲを育てつつ、パワーコア(脳みそ)だけになっていた姉を、姉当人の指示に従って修理した。
珠美に迷惑をかけたのは、モニカたちを拾ってから一年後。
緑色のクラゲだったモニカもすくすく育っていた。
フェーズシスターが〝じたばた〟で破壊された事実を鑑みて、各国は少年・少女期に入ったモルドロスの打破は不可能、と判断。
その管理を条件に、師匠の指名手配は取りやめになった。
以後の生活は監視され、また保証される。
結果的に。罪もない若者から自由を奪ったのが国なら、アイドルオタクに無職の免罪符を与えたのも国だった。
つまらない独り相撲。
モニカの意思を論点から締め出しているせいだろうが、嘘っぱちの周りを、ぐるぐると踊っているような話。
今更人間を滅ぼしてやろうなんて、ちっとも思わないのに。
「なあモニカ」
モニカは遠い目をするのをやめた。
「学校はどうだ? うまくやれそうかい」
「まあ、まあ、まー……、それなりには」
「まさか。いきなりいじめられてないよな?」
「そういう展開を期待するのはクラスメートに酷だよ」
聞いての通り。師匠の関心は、モニカが町を火の海に変えてしまうことに、ではなく、もっぱらはクラスでハブられていないか、に向けられているのだ。
「に……なさい! 早くしないと……っ……ったっから…――ぴーぴー泣くな!!」
怒声を聞きとめ、師匠が口元を歪める。
息子を布団から追い出すの珠美の日課であって、それは常に難航している。
彼女の息子の看風壮太は、これでなかなかの曲者だ。
力尽くで布団から出そうものなら、これ幸いと拗ねて学校をさぼる。終いには、珠美が涙ながらに「学校に行け」と訴えることもある。
そんな場合は「目には目を」とばかりに、壮太も大泣きして床で丸まるので意味がない。
「今日は大丈夫かな?」
ラブリッチの『アイテム』について師匠と話しつつ――ラブリッチは師匠考案のゲームだ――頭の片隅で心配する。
朝ご飯を平らげてもまだ降りてこないので、これは駄目だと諦めた。
声をひそめ、
「師匠が分団さんに伝えに行ってあげてよ。さんちゃんが可哀そう」
師匠は笑った。ほろ苦い笑み。
「そうしようとしたら断られたよ。変な噂が立つから、嫌なんだと」
「あー」師匠の甚平をちらりと見る。一理ある。「少し早いけど、わたしは学校に行くね。八つ当たりされるのは師匠に任せる。ほぼ、全面的に」
「ほぼ全面的に……そうらしい。っと、ちょい待ち。大怪獣」
席を立ったモニカに、出し抜けに師匠が何かを放った。
受け取ると、カナル型のイヤホンだ。片耳だけのワイヤレス。
「名付けて、幸せのクローバー」誇らしげに師匠。「怪獣専用の圧縮言語がインストールしてある。お前付きの監視衛星に連動して、大方の場面を読み取って、適切な返答を四つ提示してくれるぞ。言うなればアドベンチャーゲームの選択肢だな」
いつもながら無駄に高性能だ。
「へえー。でも」
なんのために?
「これさえあれば会話にも困らないからな。目指せ、脱ぼっち!」
「む」
(余計なお世話だよ、もー)