俺は選ぶ(完)
家に帰るまでのことは、あまりよく覚えていなかった。
電車に乗ったところまでは、覚えている。
吊り革を持って、窓の外を眺めていたことを。
それでも何を考えていたのかは、よくわからない。
頭の中には、いくつもの言葉が浮かんでは消えていた。
カイトの声に、シュンの声。
そして、いつかのあの夜の言葉。
「今は、リョウのほうが大事だ」
初めて、選ばれた夜だった。
あのときの胸の温かさを、俺はまだ覚えている。
誰かが迷わず自分を選んでくれること。
それは思っていたよりずっと甘くて、思っていたよりずっと怖いものだった。
荷物を置いて、いつものように、また外に出る。
ふらふらと歩いて、シュンの部屋の前まで来たときに、少しだけ足が止まった。
鍵は、持っている。
それでも、なぜかドアを開けるのに躊躇した。
深呼吸を一つして、鍵を回す。
ドアを開けると、部屋の灯りがついていた。
「おー、おかえり」
シュンがソファから、顔を上げた。
テレビの光が、部屋の壁に揺れていた。
「遅かったな」
それは、いつもの声だった。
穏やかで、少し眠そうで。
その声を耳に入れた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「ただいま。ごめん、遅くなって……」
「いや、俺も今帰ってきたところ」
シュンもまた、赤い顔をしていた。
「シャワー、浴びた?」
「まだ」
「先、いいよ」
「悪いな……」
そうキスをして、シュンは浴室に消えていく。
カイトのことは、まだ言えなかった。
テレビでは、バラエティ番組が流れていた。
誰かの笑い声が、やけに遠く聞こえていた。
しばらくした後、シャワーを終えたシュンが出てきた。
「今日さ……。なんか、あったか?」
酔いがさめたのか、ひどく落ち着いた声でそう言った。
「なんで?」
「……なんか、考え事してるみたいだから……」
やっぱり、シュンは俺のことをよく見ていた。
その優しさは、本物だったのかもしれない。
――でも、それでも……。
「シュン」
名前を呼ぶと、シュンが振り向く。
まるで、俺からの言葉を待っているかのように。
「なに」
俺は、少しだけ迷った。
それでも、覚悟を決めてこう尋ねた。
「シュンってさ……」
「うん」
「俺の、どこが好き?」
シュンは少しだけ、驚いたような顔をしていた。
それから笑って、いつものようにこう言った。
「守ってやりたくなるところ」
その言葉は、あまりにも自然だった。
何の迷いもなく、疑いもなく。
まるで、それが当然の答えであるかのように。
その瞬間、何かが腑に落ちた。
――やっぱり、そうだ。
と。
妙に、納得がいった。
責めるような、気持ちはなかった。
シュンは嘘をついていない。ただ、正直なだけだった。
でもそれは、俺がずっと欲しかった答えではなかったんだ。
「で、なんだよ?急に」
俺は少しだけ笑って、こう言った。
「……今日、告白されたんだ」
シュンの表情が、変わっていく。
「……誰に」
「会社の、後輩」
シュンは、黙ってしまう。
空気が少し、重くなる。
「どういうことだよ」
「……そのままだよ。好きだって、告白された」
しばらく、沈黙が続いていく。
テレビの音だけが、遠くで静かに流れていた。
それから、シュンが唇を開く。
「断ったのか?」
その言い方は、どこか確信しているようでもあった。
俺が断ると、当然のように思っているような口振りだった。
「うん?……まだ」
そう言うと、シュンの眉が動いた。
「は?」
シュンが一歩、近づいた。
その怒りを隠そうともせずに、強く俺を抱きしめた。
「リョウ……、俺がいるだろ?」
ひどく、低い声だった。
その言葉を聞いたとき、胸がわずかに波立った。
以前の俺なら、それで終わっていたと思う。
その一言で安心して、シュンが選んでくれている事実に甘んじていたのかもしれない。
それでも、今日は違っていた。
「……うん、いるね」
俺は小さく、頷いた。
「じゃあ、何を悩んでるんだ?」
苛立ちを隠しもしないその言葉に、俺はゆっくりと言葉を選ぶ。
「俺は……ずっと……。選ばれるのを、待ってたんだ……だからシュンに選ばれたとき、嬉しかった」
シュンは何も言わず、ただ静かに俺のことを見つめていた。
「でも、今日……。やっと、わかったんだ」
ひどく静かな声で、俺は言う。
「俺は、選ばれなくても……生きていけるんだって……」
その瞬間、シュンの顔がわずかに歪んだ。
「何、言ってんだよ……。……意味わかんねえ……」
俺はそっと、立ち上がる。
その腕から逃れるかのように。
「シュン……」
「なんだよ……」
その目には、怒りと戸惑いが混ざっていた。
俺は拳を握って、こう言った。
「俺、もう……選ばれなくてもいいんだ……。俺が、自分を選ぶから」
長い長い、沈黙が落ちていく。
シュンは、何も言わなかった。
ただ俺のことだけを見つめて。
怒っているのか、悲しんでいるのか。それは俺には、よくわからなかった。
一つだけ息を吐いて、気付けば俺は、玄関に向かっていた。
靴を履いて、ドアノブに手をかける。
後ろから、かかるような声はなかった。
ドアを開けると、夜の空気が、静かに流れ込んできた。
外に出ると、空は少しだけ明るかった。
遠くで、動き出した電車の音が聞こえた。
ポケットに入れていたスマホが、わずかに震えた。
『返事は急ぎませんので』
カイトからの、メッセージだった。
俺はしばらく、画面を見ていた。
そして、迷うことなく返事を打つ。
『ごめん。今は、誰とも付き合うつもりはないから』
送信ボタンを押して、俺はしっかりとした足取りで歩き出す。
胸の奥が、少しだけ軽くなっていくような気がしていた。
寂しさがないと言えば、それは嘘になる。
――それでも、これでいい……。
生まれて初めて、俺は自分で自分を選ぶことができたのだから。
それは、勝ち負けでもない。
煩わしいようなことも、何もない。
今はただ、自分の気持を大事にしようと思えていた。
完




