見えない囲い
あの日以来、俺たちの生活は少しずつ変化を遂げていた。
最初に変わったのは、帰り道だった。
それまでは、仕事が終われば俺たちはまっすぐ駅に向かっていた。
電車に乗って、スマホをぼんやりと見つめながら家に帰る。
ただそれだけの、日々だった。
それでも今は、俺の隣にはずっとシュンがいた。
「今日、どうする?」
仕事が終わる頃になると、シュンがデスクの横に来て言う。
「ご飯食べてく?」
「うん」
そのような短いやり取りをして、一緒に会社を出る。
最初の頃は、外食が多かった。
居酒屋だったり、ラーメン屋だったり、時には洒落た流行の店だったり。
シュンは、よく食べる男だった。
ビールを飲みながら、話題は尽きなかった。
会社のこと、学生時代のこと。昔付き合っていた恋人のことなんかを、よく話していた。
俺は、聞いていることが多かった。
そこまで語れるような面白い出来事はなかったし、それに、シュンの方が話上手でもあったんだ。
人の笑わせ方を、知っていた。
ある日、焼き鳥を食べながらシュンが言った。
「リョウって、意外に聞き上手だよな」
「そう?」
「ああ、そう思う」
シュンはまた、笑っていた。
「俺、いつもはこんなに喋るタイプじゃないんだけどな……」
――そんなことは、ないだろう。
そう思ったけれど、言わなかった。
ただ少し、嬉しかった。
誰かの話を聞くことは、昔から得意だった。
得意というより、そうするしかなかった。
そうしていれば、自然と最後まで残れていたのだから。
それに自分の話をしても、あまり興味を持たれないことも多かった。
だったら初めから、聞く側に回ったほうが楽だった。
それでもシュンは、そういう俺を気に入っているようでもあったんだ。
「なーんか、落ち着くんだよな。リョウの隣って」
「そう?」
「うん」
シュンはポケットに手を入れて歩きながら、少し笑った。
「一緒にいると、安心する」
その言葉を聞いて、胸の奥が静かに温かくなった。
こんな俺でも、誰かを安心させることができている。
そのことが、素直に嬉しかった。
付き合って、一ヶ月くらい経った頃。
俺は、シュンの部屋に行くようになっていた。
そこは一人暮らしのワンルームで、掃除も綺麗に行き届いていた。
床にはラグが敷かれていて、洒落た観葉植物が窓際に一つ置かれていた。
「意外だな。こういうの、好きなのか……」
「もっと、散らかってると思ったか?」
「ちょっと、な……」
「ひどいなあ」
本当に、意外だった。
シュンはどこか、大雑把なイメージがあったからだ。
「元カノが片付けろって……、うるさかったんだよ」
その言葉が、少しだけ胸に引っかかる。
けれど、すぐに流していた。
俺にだって、過去はある。
今何かを言うのは、場の空気を壊すだけだと。
「リョウ、こっち座れよ。映画見ようぜ?」
「うん」
それから、自然とシュンの部屋で過ごす時間が増えていく。
最初は週に三回くらいだったのが、いつしか毎日通うようになっていた。
仕事が終わったら一緒に帰って、スーパーで食材を買って、レシピ見ながら簡単な料理を作る。
「やっぱ、リョウのほうが料理上手だよな」
「そうかな?」
「ああ」
「一人暮らしが、長いからかな……」
「そうか。俺、料理ほんと苦手だわ」
そう言って、シュンは笑った。
「だから、助かる」
そう言われて、嬉しく思った。
こんな俺の料理でも、シュンはいつでも美味しいと言ってくれていて、頬に触れるだけのキスをくれた。
夕飯を食べ終えて、テレビを見ながら、ソファで少しだけ眠くなる。
そういう夜が、何度も続いた。
穏やかな、日々だった。
少なくとも、表面上は。
違和感が最初に現れたのは、友達の話をしたときだった。
その日は、大学時代の友人から久しぶりに連絡が来ていた。
『今度飲みにいかねー?』
そんな、ありふれたメッセージだった。
俺はそのことを、シュンに話した。
「今度、友達と飲みに行ってもいいか?」
シュンは少し、驚いたような顔をしていた。
「友達?」
「うん」
「大学の」
シュンは、少しだけ考えてからこう言った。
「……いいんじゃない?」
その言い方が、少しだけ引っかかる。
それでも、そのときは特段気にはしなかった。
やがて、飲みに行くその日。
会社を出るときに、シュンが言った。
「今日だっけ?飲み」
「そう」
シュンは少しだけ、黙っていた。
不思議に思って顔を見れば、眉間に皺が寄っていた。
「……俺といるほうが、楽しくないか?」
いつもみたいに、冗談めかした言い方だった。
それでもその表情と合っていないような気がして、俺は少しだけ、戸惑った。
「いや、そういうわけじゃ……」
「わかってるって、お前も……付き合いがあるもんな!行ってこいよ」
その笑顔を見て、少しだけ罪悪感が生まれてしまう。
別に悪いことをしているわけでもないのに、なぜだか気になった。
飲み会自体は、とても楽しかった。
久しぶりに会う友人は、昔とあまり変わってはいなかった。
仕事の話や、昔の思い出。
時間があっという間に過ぎていく。
帰り道、スマホを見るとシュンからメッセージが来ていた。
『まだ?』
それだけの、短い言葉。
時計を見ると、まだ十時半だった。
別に、遅くもないような時間だと思った。
それでもなぜだか俺は、少しだけ焦りをおぼえた。
『今から帰る』
そう、返信した。
家に着くと、シュンがソファに座っていた。
「おかえり」
それは、いつもの声だった。
それでもどこか、静けさを含んでいた。
「楽しかったか?」
「うん」
そう答えると、シュンは笑った。
「よかったじゃん」
それだけを言って、一人でテレビを見始める。
俺はシャワーを浴びて、酒や煙草の匂いを洗い流した。
その夜、ベッドの中でシュンが言った。
「リョウ」
「……なに?」
「ちょっとだけ、寂しかった」
その声は、少しだけ甘かった。
俺は何も言うことができずにいた。ただ、シュンの腕の中に収まった。
「ごめん」
「いや、謝ってほしいわけじゃないんだ……」
それから少しずつ、変化は増えていった。
会社で、俺が同じ部署の女性社員と話をしていると、シュンが近くにやってきた。
「何の話?」
そう、ひどく明るい声で。
別に普通の会話をしていただけなのに、なぜだか、説明しないといけないような気持ちになる。
「いや、なんでもない……」
「リョウさんが、私の仕事を手伝ってくれたんです」
「そうか、すごいな」
「いや、大したことじゃないよ」
休憩時間に、シュンが言った。
「あの人さ、リョウのこと使ってるんじゃないのか?」
突然の言葉に、思わず俺は固まってしまう。
「……使ってる?」
「お前優しいからさ、押し付けられたりしてないか?」
まさかシュンから、そんなふうに気遣うような言葉が出てくるとは思わなかった。
「別に、大丈夫だと思うけど……」
「そうか?ならいいけど。……リョウって、断れないタイプだろ?」
「……たぶん」
確かに、そうかもしれないと思った。
何かを頼まれると、断りきれない。
昔から、そうだったような気がする。
シュンは、俺の肩を軽く叩いた。
「俺が、守ってやんないとな……」
その言葉は、ひどく優しいものであるかのように思えていた。
だから、俺はあまり深く考えるようなことはしなかった。
ただ少しずつ、俺の世界は狭くなっていく。
気づかないうちに、じわりじわりと。
ある、夜のこと。
二人でテレビを見ていたときに、シュンがふと笑って言った。
「リョウって、ほんと可愛いよな」
「……うん?」
「自信なさげなところが、すごくいい」
「どういうこと……?」
「そういうとこ」
その言葉を聞いて、少しだけ胸がざわついた。
いくら考えても、その言葉の意味はわからなかった。
誤魔化すように、シュンは俺の髪を軽く撫でた。
深く考える前に、強い眠気がやってくる。
シュンの腕が、腰元に回された。
「……好きだ」
その声は、とても優しかった。
あまりにも優しかったから、俺は何も疑うようなことはしなかった。
むしろ少しだけ、安心していた。
――シュンは、俺を選んでくれた。俺のことを、必要としている。
そう、思っていたから。




