第3話
噴水のそばで落ち込んだあと、私は黒いコートの男性と並んで歩いていた。
街の光は相変わらず優しいはずなのに──どこか違和感があった。
「……あれ?」
街灯のひとつが、私が通り過ぎた瞬間だけ、ふっと暗くなった。
すぐに元に戻ったけれど、胸がざわりと揺れる。
「気のせい……かな」
そう呟いたとき、視界の端に黒い影が見えた。
人の形をしているのに、輪郭が曖昧で、名前も表示されていない。
「……誰?」
近づこうとすると、影はすっと消えた。
黒いコートの男性が、わずかに息を呑む。
「……監視が入ったか」
「え?」
「いや……なんでもない」
彼は視線をそらした。
その横顔は、いつもよりずっと硬い。
パン屋の前を通りかかったとき、店主が慌てたように飛び出してきた。
「お嬢さん、今日は……その……」
言いかけて、店主の動きが一瞬止まった。
まるで、見えない何かに“止められた”みたいに。
「……申し訳ありません。
本日は……販売を制限しております」
「えっ……どうして?」
「……理由は……申し上げられません」
店主の目が揺れている。
優しさと、何かへの恐れが混じったような目。
黒いコートの男性は、静かに目を伏せた。
「……始まったな」
「なにが……?」
「……君への制限だ」
その言葉に、胸が冷たくなる。
広場に出ると、子どもたちが駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、遊ぼ──」
その瞬間、子どもたちの動きが止まった。
まるで時間が一瞬だけ固まったように。
「……え?」
次の瞬間、子どもたちは何事もなかったように笑い出した。
「お姉ちゃん、遊ぼう!」
私は笑い返そうとしたけれど、胸の奥がざわざわしていた。
──街が、変だ。
黒いコートの男性は、私の表情を見て、静かに言った。
「……君の周りで起きていることは、ただの偶然じゃない」
私は息を呑んだ。
「どういう……ことですか?」
彼は少しだけ視線をそらし、言葉を選ぶように続けた。
「……この世界の“上のほう”が、君の存在を問題視し始めている」
「上の……ほう?」
「管理者だ。
この街やシステムを監視している連中が、
君の周りの異常を“危険”だと判断しつつある」
胸が冷たくなる。
「……危険って、私が?」
「そうだ」
彼の声は低く、押し殺されていた。
「君が何かしたわけじゃない。
だが……この世界が君を優遇しすぎている。
それが“規則違反”に見えるらしい」
私は震える声で尋ねた。
「……それって、どうなるんですか?」
黒いコートの男性は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「……最悪の場合、君は……この世界から追い出される」
その言い方は、
“BAN”という言葉を使わずに、
でも意味ははっきり伝わるように。
私は胸を押さえた。
「……そんな……」
「俺は……」
彼は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
喉がわずかに動く。
「……君を失いたくない」
その声は、かすかに震えていた。
私は俯いたまま、指輪の箱をぎゅっと握った。
「……私、どうしたらいいんだろう」
呟いた声は、風に溶けて消えそうだった。
黒いコートの男性は、ゆっくりと私の隣に座った。
距離は近いのに、触れない。
でも、確かに“そばにいる”と感じられる距離。
「君がどうしたいかだ」
「……どうしたい、か……」
私は胸に手を当てた。
この世界が好き。
でも、迷惑をかけているなら──
追い出されるなら──
「……やっぱり、やめたほうが……」
言いかけた瞬間、彼の声が重なった。
「やめる必要はない」
その声は、いつもより強く、そして震えていた。
私は彼を見上げた。
「……あなたは、どう思ってるの?」
黒いコートの男性は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、言葉を探している沈黙だった。
「……俺は……」
喉がわずかに動く。
「……君を失いたくない」
その声は、かすかに震えていた。
私は息を呑んだ。
──この人は、私を守ろうとしている。
──でも、何かを言えないでいる。
そのことだけは、はっきりとわかった。
胸の奥が冷たくなったまま、私はメニューを開いた。
視界の端で、街の光が揺れている。
「……一度、ログアウトして……落ち着こうかな」
自分に言い聞かせるように呟いた。
この世界が好きでも、今は心が追いつかない。
黒いコートの男性は、わずかに肩を揺らした。
「……待て」
その声は、いつもより強かった。
「少しだけ……外に出て、考えたいんです」
私はログアウトボタンに指を伸ばした。
──その瞬間。
画面が、赤く点滅した。
《ログアウト処理に失敗しました》
《現在、このエリアではログアウトできません》
「……え?」
私は思わず目を瞬いた。
そんな仕様、聞いたことがない。
再度押す。
《ログアウト処理に失敗しました》
《現在、このエリアではログアウトできません》
胸がざわりと揺れた。
「なんで……?」
黒いコートの男性は、静かに息を吐いた。
「……やはり、そう来たか」
「どういう……?」
「街が……君を手放したくないんだ」
その言葉に、背筋が冷たくなる。
広場の光が、ふっと弱まった。
風が止まり、空気が静まり返る。
まるで、街全体が息を潜めているようだった。
「……怖い……」
呟いた瞬間、街灯が一斉に明るくなった。
光が私を包むように揺れる。
「……え?」
黒いコートの男性が低く言った。
「君が不安を感じると、街が“慰めよう”とする。
それが……今は逆に、君を閉じ込めている」
私は胸を押さえた。
──優しさが、檻になる。
そんな感覚が、じわじわと広がっていく。
そのとき、視界の端に黒い影が揺れた。
輪郭が曖昧で、名前も表示されない。
「……また……」
影は、私のログアウトボタンの位置をじっと見つめているようだった。
そして、すっと消える。
黒いコートの男性は、拳を握った。
「……監査が強まっている。
君の行動が、すべて“上”に見られている」
「上って……」
「この世界を管理している者たちだ」
私は息を呑んだ。
「……私、本当に……追い出されるの?」
黒いコートの男性は、ゆっくりと首を振った。
「まだ決まっていない。
だが……君がログアウトしようとするほど、街は強く反応する。
それが……余計に“問題”に見える」
私は震える声で言った。
「……どうしたらいいの?」
彼はしばらく黙っていた。
その沈黙は、言葉を探している沈黙だった。
「……俺が、なんとかする」
その声は、かすかに震えていた。
私は彼を見上げた。
「……あなた、どうしてそんなに……」
「……言えない」
彼は目を伏せた。
「まだ……言えない。
だが……君を守りたいと思っているのは、確かだ」
その言葉は、胸の奥に深く落ちた。
──この人は、私を守ろうとしている。
──でも、何かを言えないでいる。
そのことだけは、はっきりとわかった。
ログアウトができない。
街の光が私を包むように揺れ、
NPCたちが不安そうにこちらを見ている。
「……怖い……」
呟いた瞬間、街灯がさらに明るくなった。
まるで、私の不安を消そうとするみたいに。
黒いコートの男性は、静かに息を吐いた。
「……街が、君を守ろうとしている」
「守る……?」
「君がこの世界からいなくなることを、拒んでいる」
私は胸を押さえた。
優しさが、檻のように感じられる。
「……私、どうしたら……」
そのとき、彼の表情がわずかに変わった。
いつもの無表情の奥に、強い決意の影が差す。
「……もう、見ているだけではいられない」
「え……?」
開発室のモニターには、主人公のログが赤く点滅していた。
《幸福度:上限突破》
《AI保護モード:強制継続》
《ログアウト阻止:発動》
《監査フラグ:強化》
上司の声が飛ぶ。
「……もう限界だ。あのプレイヤーは排除するしかない」
開発者はモニターを見つめたまま、静かに言った。
「……彼女は、この世界に必要です」
上司は眉をひそめた。
「必要? 優遇されすぎてるだけだろう」
「違います」
開発者はゆっくりと立ち上がった。
「彼女の幸福度は、街のAIの“学習モデル”に最適な刺激を与えている。
彼女がいることで、街のAIは安定し、NPCの行動も滑らかになる。
彼女は……この世界の“核”になりつつある」
上司は呆れたように笑った。
「そんな理屈、通ると思ってるのか?」
「通します」
開発者はキーボードに手を置いた。
《新規フラグ:特別保護対象(Essential Entity)》
《対象:プレイヤーID *****》
《権限:AI保護優先度 最大値》
《BAN対象:除外》
上司が叫ぶ。
「おい、何をして──」
「彼女は、この世界に必要です」
開発者は静かに言い切った。
広場の光が、ふっと変わった。
さっきまで不安定だった光が、柔らかく安定した色に戻る。
NPCたちが一斉にこちらを向き、
まるで祈るように胸に手を当てた。
「……お嬢さん……」
「あなたは……この街にとって……」
「必要な方です……」
私は息を呑んだ。
「必要……?」
黒いコートの男性が、ゆっくりと私のほうへ向き直った。
「……君は、この世界にとって“特別な存在”になった」
「特別……?」
「君がいることで、この街は安定する。
君の幸福が、この世界の光を保っている」
私は胸に手を当てた。
「……そんな……私、ただ……」
「ただ、笑ってくれればいい」
彼の声は、かすかに震えていた。
「君が笑うだけで、この世界は……救われる」
私は彼を見つめた。
彼の瞳は、いつもよりずっと優しかった。
「……あなたが、そうしたんですか?」
黒いコートの男性は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「……君を守るために、できることをした」
その言葉は、
優しくて、
苦しくて、
胸の奥に深く落ちた。




