第8話:【債務超過】一億二千万の嘘と、凍りついた帳簿
第7話:【債務超過】一億二千万の嘘と、凍りついた帳簿
1. 【残高:マイナス一億二千万】
静寂が、これほどまでに暴力的なものだとは知らなかった。
古龍が去ったエルム市の夜空は、何事もなかったかのように星を湛えている。街のあちこちから上がる、勝利を祝う微かな歓声が、石造りの市庁舎を伝って執務室まで届く。
だが、私の視界にあるのは、青白く光る魔導盤の画面に刻まれた、一億二千万という真っ赤な数字だけだった。
「……ハ、ハハ。一億、二千万、か」
乾いた笑いが喉の奥で爆ぜる。
前世、私は王都の財務局で、これより遥かに大きな額の横領事件をいくつも見てきた。だが、それらはすべて「私利私欲」のために行われた汚職だった。今、私の目の前にあるこの「一億二千万の穴」は、この街の数千人の命と、一人の少女の笑顔を買い取った代償だ。
「アルバ君。……もう、終わりだ。終わりだよ……」
市長が、自身の豪華な革椅子に深く沈み込み、震える手で顔を覆っている。彼の指の間からは、脂汗が絶え間なく流れ落ち、精緻な刺繍が施された絨毯を汚していた。
「あと数時間。……午前四時に、王立銀行の自動監査魔法が発動する。この街の全口座のデータが王都のメインサーバーに吸い上げられ、そこで『入金なき交付金』を担保にした私の不適切な決裁が、白日の下に晒される。……不渡りだ。エルム市は即座に破産し、私たちは公文書偽造と背任罪で首を吊ることになる」
「……市長。黙ってください。計算の邪魔です」
私は最後の一錠となった胃薬を、水もなしに奥歯で噛み砕いた。
脳を焼くような苦味が、麻痺しそうになっていた思考を強引に覚醒させる。
「計算? 何を計算すると言うんだ! 金庫は空、交付金は未着、担保は嘘だ! 一億二千万の現金を、あと数時間でどこから生み出すつもりだ!」
「生み出すのではありません。……『あること』にするんです」
私は立ち上がり、窓を覆っていた遮光カーテンを荒っぽく引き開けた。
眼下には、熱狂に沸く広場が見える。そこには、ドラゴンの脅威から解放された市民たちが、酒を酌み交わし、踊り、そしてお互いの無事を確かめ合っていた。
彼らの手には、昨日私が、将来の復興予算を担保にばら撒いた『勇者チケット(支援債券)』が握られている。
「市長。今、この広場にあるあの紙切れの価値を、あなたはどう評価しますか?」
「……どうって、額面通り、一万ゴールドだろう。それを市が買い戻すために、我々は一億以上の借金を背負ったんじゃないか」
「いいえ。それは昨夜までの評価です」
私は、私は魔導盤に向き直り、行政用OSの深部へと潜り込んでいった。
行政用OSの黒い背景に、白い文字が滝のように流れる。私は、前世で目にした「バブル崩壊前夜の銀行」や「粉飾に手を染めた巨大企業」の手口を、必死に記憶の泥の中から救い上げ、この異世界の会計基準へと翻訳していく。
。
「古龍を、最新鋭の対空魔導砲で撃ち落とした。……この伝説的な戦果は、チケットの担保を『未着の交付金』から、リリア殿という『唯一無二の英雄的価値』へと昇華させました。……市長。今すぐ、条例を一本、捏造します」
2. 【時価評価替えという名の詐欺】
私の指先が、狂ったような速度で入力盤を叩く。モニターの光が、私の眼鏡の奥で白く明滅した。
この「時価評価替え(マーク・トゥ・マーケット)」という手法は、現代日本でも幾多の企業を破滅に追い込んだ禁忌だ。まだ実現していない利益を、あたかも現在手元にある資産であるかのように計上する。それは未来の自分から命を前借りする行為に他ならない。
だが、今の私にはその悪魔の契約書にサインする以外に、エルム市という船を沈没から救う術はなかった。
「勇者リリアが、最新鋭の魔導砲で古龍を討った。……この事実は、世界中の収集家、投資家、そして魔導研究者にとって、計り知れない価値がある。昨日まで『勇者を応援するための寄付金』だったチケットは、今この瞬間、『歴史的勝利を証明する限定資産』に変貌した。……私は今から、市の保有するチケット三千枚を、この『市場価格』で再評価します」
「……待て、アルバ君。それはまだ、誰も一円も払っていない、ただの妄想じゃないか!」
「妄想ではありません。……『期待』です。経済とは期待で回るものだ。たとえそれが実体のない蜃気楼だとしても、システムがそれを資産と認めれば、一億二千万の穴は消える。……消して、見せます」
一億二千万の負債。それに対し、私は三十億ゴールドの「含み益」を対置させた。
モニターの中で、赤い警告色が、少しずつ、少しずつ、穏やかな青色へと塗り替えられていく。
数字という名の無機質な兵隊たちが、私の命令に従って整列し、巨大な嘘の城壁を築き上げていく。
その光景を見て、私は激しい吐気を感じた。
自分が信じてきた会計という学問を、私は今、自らの手で汚している。
だが、窓の外で笑うあの市民たちの命を繋ぐには、この「悪魔の数式」を受け入れるしかなかった。
「条例名――『特殊無形文化資産における時価再評価に関する臨時措置法』。……第1条。本市が保有する、または流通する『勇者支援債券』の評価額は、直近の英雄的功績に基づく市場期待値を反映するものとする。……第2条。評価額の算定は、会計監督官の裁量により、将来収益を現在価値に割り戻して算出する……」
「や、やはり辞めよう。会計の原則を無視する気か!」
「原則を守って死ぬか、禁忌を犯して街を生かすか。……選ぶ権利は、既にさっきの決裁で捨てたはずですよ、市長!」
私の咆哮に、市長がビクリと肩を揺らした。
「いいですか。今、王都の貴族や商人が、この『ドラゴンを倒した瞬間に発行されていた勇者チケット』を欲しがらないと思いますか? 十万、百万、いや、千万ゴールド出すマニアだっている。……つまり、このチケットには『含み益』がある。私は今から、このチケット一枚の価値を、額面の百倍――百万ゴールドとして、市の帳簿に再定義します」
「百万!? そんな暴論、監査魔法が通すわけがない!」
「通します。……なぜなら、これは『不適切な支出』ではなく、『資産の再評価』だからです。……見てください」
画面上で、一億二千万の赤字が、数千枚のチケットの「架空の評価益」によって飲み込まれていく。
『エルム市保有資産:勇者チケット3,000枚 × 評価額1,000,000G = 30億G』
モニターの赤い警告色が、一瞬にして穏やかな青色へと反転した。
一億二千万の現金の欠損が、三十億の「紙の上の利益」によって塗り潰された瞬間だった。
「……これで、午前四時の定期監査はパスします。王都のサーバーは、エルム市を『一晩で三十億の含み益を生み出した超優良都市』として認識する」
「……だが、アルバ君。これはあくまで『含み益』だ。現金の穴が埋まったわけじゃない!」
「ええ。……だから、ここからは『商売(戦争)』ですよ」
3. 【リリアの休息と、事務官の暗躍】
午前三時四十分。
監査魔法の発動まで、あと二十分というその時。
執務室の重厚な扉が、軋んだ音を立ててゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
「……アルバ、君。……市長、さんも……。まだ、起きてたんだ」
リリアだ。
彼女の姿は、あまりにも無残だった。
眩いばかりの金髪は煤と脂で束になり、自慢の銀の鎧はドラゴンの熱線で歪み、黒く変色している。その手には、勇者の象徴である聖剣の鞘だけが、折れかけたまま握られていた。
彼女が歩くたびに、床には血と泥の混じった足跡が残る。
だが、その瞳だけは、夜明け前の空のように澄んでいた。
「……リリア殿。……お怪我は」
私は、魔導盤の画面を隠すように、彼女の前に立った。
一億二千万を隠すために、三十億の嘘を吐いた汚れた男の視界に、彼女の純粋さはあまりにも眩しすぎた。
「……大丈夫。……ちょっと、疲れちゃっただけ。……ねえ、みんな、助かったんだよね?……おじいちゃんも、パン屋のおばさんも、みんな笑ってた」
リリアは力なく笑うと、私のデスクに手をかけ、そのまま崩れ落ちるように座り込んだ。
「……ええ。……おかげさまで、街は救われました。……そして、あなたの価値も、私たちが計り知れないほどに高まりましたよ」
「価値? ……あはは。アルバ君は、すぐそういう難しいこと言う」
リリアは、私の机に置かれた、先ほどまで粉飾の手続きに使っていたペンを指差した。
「あのね、みんなにサインしてって言われちゃって。……明日、このチケットにサイン書いてあげてもいいかな?……みんなの、宝物にするんだって」
宝物。
彼女は、自分が明日から「投機対象」として、強欲な資本家たちの餌食になることを知らない。
私が、彼女のその無垢な「善意」を利用して、一億二千万の穴を埋めようとしていることも、知らない。
「……ええ。……存分に書いてあげてください。……それは、この街を救うための、何よりも重い署名になりますから」
私の言葉を不思議そうに聞きながら、リリアは力なく笑うと、そのまま私の執務机に突っ伏して眠りに落ちた。
静かな寝息が、冷え切った室内に響く。
私は、彼女の寝顔をじっと見つめ、それから震える手で魔法通信機に手を伸ばした。
「……こちらエルム市会計監督官、アルバだ。……王都の主要な投資家、および各国の兵器収集家へ、緊急のオークション開催を通知せよ。……出品物は、『古龍を屠りし勇者の、血染めの債券』。……開始価格は、一枚百万ゴールドからだ」
深夜の静寂は、時として音よりも饒舌に人を追い詰める。
粉砕された窓から吹き込む夜風は、もはや単なる空気の移動ではなく、この街から命を吸い出そうとする死神の吐息のようだった。市長室の壁に掛けられた古びた振り子時計が、重苦しい音を立てて時を刻む。その一刻みが、私の首を絞める縄が一段階締まる音に聞こえてならない。
「……あと、五分だ。アルバ君、もう、ダメだ……」
市長の声は、もはや言葉の形を成していなかった。彼は机にしがみつき、脂汗で汚れた顔を魔導盤の青白い光に晒している。その瞳には、かつてエルムの街を支配していた誇りなど微塵もなく、ただ、己の破滅を待つ家畜のような怯えだけが宿っていた。
私は、彼の絶望を無視して、入力盤を叩き続けた。
指先は冷え切り、感覚はとうに麻痺している。それでも、脳内の演算回路だけは狂ったように高速で回転していた。
「……黙ってください、市長。監査魔法『レグルス』は、感情ではなく論理で動く。……ならば、論理の壁を築くのみです」
王立銀行が誇る大監査魔法。それは王都のメインサーバーから放たれる、不可視の魔力波動だ。全土の公金口座を数秒でスキャンし、一円の不整合、一秒の決裁遅れも逃さない。まさに「神の目」を持った非情なシステム。
だが、神の目であっても、それが「法と条例」に基づいた数字であれば、否定することはできない。
私は、捏造した『特殊資産評価条例』のファイルを、システムの最深部――監査魔法が最初に参照する「法的根拠階層」へ強引に割り込ませた。
「……評価額の再定義、完了。……減損処理の凍結、完了。……将来収益の資産化、完了」
私は、前世で目にしたあらゆる粉飾決算のスキームを、この異世界の魔法システムへと翻訳し、多重の防壁として構築した。
一億二千万という生々しい「現金の穴」を隠すために、私はリリアの戦果を「三十億ゴールドの含み益」という、実体のない蜃気楼へとすり替えた。
これは、会計に対する冒涜だ。
数字の誠実さを信じて生きてきた私にとって、今この手で行っている作業は、自らの魂をシュレッダーにかけているのと同義だった。
午前四時。
「……来たぞ」
市長が短い悲鳴を上げた。
執務室の空気が、キィィィィィン……と耳鳴りのような高周波を帯び始める。
王都の方角から、不可視の監査波動がエルム市に到達したのだ。
窓の外、王都の方角から、不可視の波動――監査魔法『レグルス』が街を通り過ぎていった。
私はモニターを睨みつける。
数秒の静寂。
魔導盤のモニターに、警告の文字が血のような赤で点滅する。
『――外部接続を検知。大監査魔法レグルス、スキャン開始。……全勘定科目の照合を行います』
「……くっ……!」
私は息を止めた。
心臓の鼓動が耳元で爆音のように響く。モニターの中では、監査魔法のカーソルが、私が作り上げた偽りの城壁――『勇者チケット評価額』の項目でピタリと止まった。
一秒が、一時間のように長く感じられた。
もし、ここで「不適当」の判定が下れば、即座に王都の憲兵隊へ通報が飛び、エルム市の全資産は凍結される。
モニターの赤い光が、私の眼鏡のレンズを真っ赤に染める。
やがて、画面には冷徹な、しかし救いの言葉が表示された。
『――照合中。……照合中。……法的根拠を確認。……直近の事変による資産価値の変動を認容します』
文字が、赤から穏やかな青へと変わった。
『判定:異常なし。……エルム市の健全性を確認。……処理を終了します』
「……はぁ……ぁ……」
市長がそのまま椅子から滑り落ち、床に四つん這いになって嗚咽を漏らした。
私もまた、肺に残っていた空気をすべて吐き出し、震える手を膝の上で固く握りしめた。
勝った。
いや、嘘で世界を騙し通したのだ。
「……勝った……のか?」
嗚咽を漏らしながら床に膝をついた市長が問い掛けてきた。
「いいえ。……負債を、未来へ先送りしただけです」
私は、窓の外を仰ぎ見た。
地平線の向こうから、薄汚れた灰色の太陽が昇り始めていた。
私は今日、この街の未来をすべて賭けのテーブルに乗せた。三十億の「嘘」が暴かれる前に、一億二千万の「現実」を回収できなければ、今度こそこの街は消滅する。
勇者は眠り、街は歓喜する。
その裏で、一人の事務官は、偽造された三十億の「バブル」を現実の現金に変えるべく、悪魔に魂を売り渡す準備を整えた。
さあ、始めましょう。……地獄の『出口戦略』を




