第6話:【履行義務】オークキング討伐要請と、債権回収の狼煙
1. 【起点】契約の再定義
夜明けの空気は、剃刀のように冷たかった。
エルム市庁舎の裏手、出撃を待つ地竜の荒い鼻息が白く弾ける。私はひどい寝不足と胃痛を抱えたまま、懐から一通の羊皮紙を取り出した。
それは、昨夜の調査で書庫から「回収」してきた、この街の命運を分ける一枚だ。
「……リリア殿、聞きなさい」
鎧を締め直していたリリアが、怪訝そうにこちらを振り向く。その瞳には、昨夜の憤りがまだ微かな火種となって残っていた。
「なによ、出発するんでしょ? 早くしないと、オークキングが森から出てきちゃう」
「出発の前に、確認が必要です。……『広域指定魔物討伐要請書』。要請元、エルム市長。受諾者、王都派遣勇者候補リリア」
私は、感情を排した公務員口調で、条文を読み上げ始めた。
「第一条。受諾者は要請元の指定する特定個体『オークキング』を排除し、辺境都市の治安を回復せねばならない。……第二条。要請元は排除の完了を確認次第、即座に既定の特別支援金を支払うものとする。――いいですか、リリア殿。これは『仕事』です」
「……仕事? そんなの分かってるよ」
「いいえ、分かっていません。あなたが戦うのは、この街があなたの武力を、正式な契約に基づいて『買った』からです。あなたが怒る必要も、この街を憎む必要もない。……あなたはただ、契約の履行として、目の前の対象を排除すればいい。後のことは、すべて事務官である私が引き受けます」
私は、シワの寄った要請書を彼女の目の前に突き出した。
リリアは一瞬、不満げに唇を噛んだが、私の隈の浮いた酷い顔を見て、小さく息を吐いた。
「……分かったよ。私は、その『けいやく』ってやつを、終わらせてくればいいんだね」
「ええ。一滴の私情も混ぜず、完璧に、迅速に」
彼女は力強く頷くと、聖剣を背負い直して地竜に跨った。
それが、彼女に「街の腐敗」という雑念を忘れさせるための、私なりの防壁だった。
2. 【展開・A】絶望の森の王
リリアが向かった「静寂の森」は、その名の通り死の静寂に包まれていた。
森の入り口には、先行して敗走した街の冒険者たちが、幽霊のように座り込んでいる。彼らの武器は折れ、鎧は紙細工のように引き裂かれていた。
「無理だ……。あんなの、魔物じゃない……。山そのものが動いているんだ……」
リリアは彼らの一瞥もくれず、ただ真っ直ぐに森の奥へと歩を進める。
やがて、大気を震わせる地響きと共に、そいつは現れた。
オークキング。
三メートルを優に超える巨躯。肥大化した筋肉の塊は、鋼のような体毛に覆われ、手にした巨大な棍棒は、それ自体が一本の巨木だった。
だが、何より異様だったのは、その瞳だ。
ただの獣ではない。そこには、飢えと暴力に裏打ちされた、冷酷な知性があった。まるで、この街に漂う「腐敗した熱狂」の臭いを嗅ぎつけ、それを食らいに来た厄災の権身のように。
「ブォォォォオオォォオン!!」
咆哮一閃。衝撃波だけで周囲の木々がなぎ倒される。
リリアは聖剣を抜かず、ただ一歩、その暴力の嵐の中へ踏み込んだ。彼女の小さな背中が、圧倒的な巨躯の前に、あまりに儚く、そして鋭く浮かび上がった。
3. 【展開・B】沈黙の市長室
同じ頃。
私は、静まり返った市庁舎の最上階に立っていた。
秘書の静止も、警備の視線も、すべて「監査官の権限行使」という名の無言の圧力でねじ伏せ、私はその扉を蹴破ることもなく、静かに開いた。
「……何だね、君は。現在は勇者殿の出陣で、重要な会議中だ」
豪華な執務机にふんぞり返ったエルム市長が、不快そうに眼鏡を上げた。その脇には、昨夜私をたらい回しにした各課の長たちが、不安げな表情で列をなしている。
「王都・特殊監督課のアルバです」
私は、市長の目の前まで歩み寄り、鞄の中から一冊の「監査報告書」を取り出した。
それは、昨夜の深夜残業の成果であり、この街の役人たちにとっての、死刑執行書だ。
「……特殊監督課? ああ、例の。今はそれどころではない。オークキングが――」
「オークキングなら、現在、勇者候補リリア殿が排除を開始しています。ですので、我々は『我々の仕事』をしましょうか。……市長。昨夜、私は非常に興味深い書類を、地下書庫で見つけましてね」
私は、報告書の束を市長の机の上に、ドン、と静かに置いた。
その瞬間。
部屋の中の温度が、数度下がったかのような錯覚が走った。
昨日まで私を嘲笑っていた役人たちの顔が、一瞬で土色に染まっていくのを、私は冷めた目で見つめていた。
4. 【中盤・A】理不尽な暴力への対抗
森の王が振るう巨木の棍棒が、リリアの頭上から死神の鎌となって振り下ろされた。
回避は間に合わない。リリアは聖剣を抜き放ち、その平で衝撃を受け流す。だが、尋常ではない質量と魔力が彼女を地面ごと押し潰し、足元の岩盤が蜘蛛の巣状に砕け散った。
「くっ……あぁ……っ!」
喉の奥から、絞り出すような悲鳴が漏れる。
オークキングは、単なる魔物ではなかった。その皮膚からは、街に渦巻く人間の悪意や、裏切られた者たちの怨嗟を栄養にしているかのような、粘り気のある黒い魔力が漏れ出していた。
それは、聖剣の輝きを喰らい、リリアの心を内側から侵食しようとする。
(……なんで、こんなに重いの……?)
昨日見た、帳簿の数字が脳裏をよぎる。
王都に裏切られた街。街に騙された市民。その中心に立たされている自分。
リリアの正義感が、迷いとなって剣を鈍らせる。オークキングはその隙を逃さず、追撃の拳を彼女の脇腹に叩き込んだ。
小さな体が、木の葉のように森の奥へと弾き飛ばされ、巨木を数本なぎ倒して止まった。
視界が赤く染まる。聖剣が手からこぼれ落ちそうになるのを、彼女は血の滲む指先で必死に繋ぎ止めていた。
「ブォォォォォォン!!」
勝利を確信した王の咆哮が、絶望となって森に響き渡る。
5. 【中盤・B】数字という名の処刑台
「……っ、馬鹿な! そんな書類、存在しない! 捏造だ、不当な介入だぞ!」
市長室では、市長が椅子を蹴り飛ばして立ち上がり、激昂していた。
その顔は脂汗で光り、眼鏡は無様にズレている。彼の周囲にいた役人たちは、もはやアルバと目を合わせることさえできず、壁際に張り付いて震えていた。
「捏造、ですか。……いいでしょう。では、この『予算執行停止の密書』の筆跡鑑定と、王都財務局の原本照合を行いましょうか。……ただし、その場合、監査は『特殊監督課』の手を離れ、『王立検察庁』の管轄に移ります」
私は、感情の失せた声で淡々と、だが確実に市長の逃げ道を断っていった。
「そうなれば、市長。あなたの罪状は『公務執行妨害』や『不適切な予算管理』では済みません。王都と共謀した『国家反逆罪』。……最悪の場合、あなただけでなく、ここにいる全員の三親等までが連座対象となり、全資産が没収されます」
「ぐ、う……それは……」
「一方で。……今ここで、私との『個別協議』に応じるならば、話は別です。この不祥事を『事務的な計算ミス』として処理し、王都の財務局に責任を押し付け、街の予算を正常化させる道が、わずかに残っています」
市長の目が、卑しく泳いだ。助かりたい。だが、王都を敵に回す恐怖。
「……だが、王都が認めん! 予算が止まっているのは事実なんだ! 勇者に払う金など、どこにも――」
「予算なら、私が昨日『作って』おきました」
私は、鞄からもう一束の書類を取り出した。
「王都が停止した交付金を、債権として王立銀行に買い取らせるための担保設定書です。この街が保有する『勇者リリアの今後の戦果予測』を金融資産として評価させました。……市長。あなたがここに判を押せば、数分後には勇者支援金が口座に振り込まれます。……逆に、押さなければ、あなたは今この瞬間から、一文無しの反逆者です」
私は、冷たいインクに浸したペンを、市長の震える手元に差し出した。
それは、市長に救いを与える杖ではない。
彼を、永久に私の「管理下」へと縛り付けるための、見えない鎖だった。
6. 【最高潮】同時決着
倒れたリリアの視界を、オークキングの巨大な影が覆い尽くす。
オークの瞳に宿る知性が、彼女の絶望を嘲笑っているように見えた。
(……なんで……なんで私が、あんな嘘つきたちのために死ななきゃいけないの……?)
脳裏に浮かぶのは、自分を利用し、投資詐欺の看板に仕立て上げた街の役人たちの卑しい顔。自分をパーティーの道具にしようとした王都の官僚。
聖剣の輝きが、ドロドロとした黒い魔力に飲み込まれていく。
「……もう、いいよ。……こんな世界……」
彼女の指先から力が抜け、剣が地面に転がろうとした。
その時、彼女の脳裏に、今朝のあの「冷徹で、ひどく事務的な声」が響いた。
『――これは、仕事です。……私情を混ぜる必要はない。後のことは、すべて事務官である私が引き受けます』
不意に、リリアの唇から乾いた笑いが漏れた。
そうだ。あの実務バカは、私の「正義」なんて一言も期待していなかった。
私が何を憎み、何に絶望していようが、あの男は「君が剣を振るうこと」を、あらかじめ国家と街に『契約』させてしまったのだ。
「……あはは。ほんと……可愛くない。……最低だよ。アルバ君……」
リリアの瞳から、迷いが消えた。
正義のためじゃない。救済のためでもない。
自分を信じて泥を被り、一人で巨大な闇と戦っている、あの不器用な男との「契約」を守る。
ただ、それだけの為に――彼女の全身から、黒い澱みを吹き飛ばすような純白の閃光が爆発した。
「契約、履行! ――文句があるなら、あの事務屋に言いなさい!!」
森の最深部で、光の柱が天を貫いた。
同時刻。
市長室の空気は、物理的な光とは対極の、静かな処刑場のような冷気に支配されていた。
市長は、ペンの重みに耐えかねるように、両手でそれを握りしめていた。その額からは脂汗が絶え間なく流れ落ち、絨毯を濡らしている。
「……これを書けば……私は、王都を裏切ることになる……」
「いいえ、市長。あなたは『王国の正義』を選択するだけです。……不祥事を隠蔽し、街を滅ぼす共犯者として死ぬか。それとも、私の作った『正しい帳簿』の上で、街を救った英雄として生きるか。選ぶのはあなたです」
私は、時計を見た。
リリアが森へ向かってから、計算上の制限時間が経過している。
「……決断を。オークキングが倒れた瞬間に、この街の債務は確定します。その時、この書類に判がなければ、私は即座に全権限を以て、あなたの逮捕状を執行する」
市長の目が、限界まで見開かれた。
「あああ……ぁぁああっ!!」
絶叫と共に、市長の「印」が、予算執行の承諾書に力任せに押し付けられた。
朱肉の赤が、白紙の上で鮮血のように弾ける。
その瞬間。
窓の外、遠く離れた静寂の森から、すべてを浄化するような白い光が、市庁舎の窓を真っ白に染め抜いた。
7. 【結末】事後報告と休息
光の柱が消えた後の森には、耳が痛くなるほどの静寂が戻っていた。
リリアは、自らの剣戟で抉れた地面に膝をつき、激しく肩で息をしていた。体中を駆け巡る魔力の残滓が、神経を焼き焦がすように疼く。
「……はぁ、はぁ……アルバ君、見てた……? 完璧に……終わらせたんだから……」
誰もいない森の奥で、彼女は独りごとのように呟いた。
オークキングだった肉塊は、聖剣の浄化の炎に焼かれ、灰となって霧散していく。同時に、森を覆っていたあの粘り気のある黒い魔力――人間の悪意の象徴――も、朝日が差し込むと共に薄れていった。
リリアはフラつく足取りで、街へと続く街道を歩き始めた。
一方その頃、エルム市庁舎の市長室では、ペンを置いた市長が、魂が抜けたような顔で天井を仰いでいた。
机の上には、朱肉が鮮やかに残る「予算執行承諾書」と、アルバが書き上げた「暫定監査報告書」が並んでいる。
「……これで、満足か。監督官……」
「満足ではありません。妥当な妥結点を見出したに過ぎません」
私は、市長が押した印のインクが乾くのを待ちながら、最後の手続きを始めた。
「市長。あなたが今、この瞬間に『正義』を選んだことで、王都財務局は梯子を外されることになります。彼らはこの不祥事を『地方への伝達ミス』として処理し、あなたに責任を押し付けて切り捨てようとするでしょう。……ですが、この書類がある限り、それは不可能です」
私は、市長の瞳を冷たく射抜いた。
「この書類は、王都の監査院、検察、そして隣国の通商代表部にも、私の独断で『同時送信』されるよう手配してあります。王都がこの街の予算を再び止めようとすれば、即座に国際的な信用問題へと発展する。……市長、あなたは今日から、王都の共犯者ではなく、王都を監視する『私の協力者』になってもらいます」
市長の顔が、恐怖で引きつる。
彼は助かったのではない。王都という巨大な腐敗と、アルバという冷徹な実務官の間に、永遠に挟み込まれたのだ。
「……君は、悪魔か」
「いいえ。それとまだ一点、致命的な『事務上の処理』が残っています」
私は窓の外を見下ろした。市庁舎の広場には、光の柱を見た市民たちが集まり始めていた。彼らは「勝利」を確信したのではない。勇者が勝った=この詐欺まがいの熱狂が終わる=自分の「勇者チケット」が紙屑になる、という恐怖に突き動かされていた。
このままでは、リリアが森から帰還する頃、街は暴動の火に包まれているだろう。
「市長。今すぐ全職員を招集し、金庫にある『現金の全額』を窓口に並べなさい。足りなければ、今すぐ王立銀行の支店長を叩き起こして、私が判を押したこの承諾書を担保に現金を融通させるんです」
「な、なんだと? 今すぐか!?」
「今すぐです。群衆が暴徒化する前に『全額払い戻し』の宣言を行う。……いいですか、市長。リリア殿が命を懸けて守ったこの街を、あなたの不手際で燃やさせるわけにはいかない。――動け!!」
私の怒声に、死んでいた役人たちが弾かれたように走り出した。
それからの数時間は、地獄のような事務作業だった。
私は広場の演壇に立ち、殺気立つ群衆を前に、拡声の魔導具を手に取った。
「静粛に! エルム市庁より緊急告知です! 只今、オークキングの討伐が完了しました! お手元の債権は、すべて額面通り、今この瞬間から市が買い取ります! 現金化を希望する者は、北窓口へ整列せよ!」
怒号が、安堵のどよめきに変わる。
私はその後も、殺到する市民の手続きを整理し、偽造チケットを紛れ込ませようとする不逞の輩を冷徹に突き出し、銀行との送金確認を繰り返した。
胃はもう、とっくに限界を超えていた。
だが、私の頭には、ボロボロになって森を歩いているはずの一人の少女の姿があった。
彼女が帰ってきた時に、この街が「地獄」であってはならない。
彼女が「守ってよかった」と思える、平穏な街を用意しておくこと。それが、戦えない私の、最低限の義務だった。
8. 【結末】沈黙の凱旋
太陽が西の空に傾き、街がオレンジ色の影に包まれる頃。
ようやく払い戻しの混乱が収まり始めた街道の先に、一人の人影が現れた。
ボロボロの鎧。煤けた金髪。引きずるような足取り。
リリアだ。
彼女は、数時間をかけて自力で森から歩いて帰ってきたのだ。
広場にいた市民たちが、一斉に彼女を見た。
現金を手にした彼らの目は、数時間前の卑しい狂気ではなく、自分たちの命を、そして生活を救ってくれた「本物の勇者」に対する、畏怖と感謝の色に変わっていた。
リリアは、整然と並ぶ市民たちの列と、疲れ果てて演壇の横に座り込んでいる私を見て、立ち止まった。
彼女の瞳に、戸惑いが走る。
「……アルバ君? 街が、静かだよ。……みんな、怒ってないの?」
「……ええ。……すべて『清算』しましたから。……おかえりなさい、リリア殿」
私は、震える足で立ち上がり、彼女の前まで歩み寄った。
リリアはじっと私の顔を見つめた。私の服はインクと泥で汚れ、目は真っ赤に充血し、見るも無惨な有様だったはずだ。
「……ふふ。アルバ君。……私より、酷い顔してる」
「……あなたのせいです。……三割。……次の街での報酬は、三割五分、上乗せします」
「あはは……。……うん。……おねがい、ね……」
リリアは力なく笑うと、糸が切れたように私の胸元へ倒れ込んできた。
小さな、だが確かな温もりと、凄まじい死闘を物語る鉄錆の臭い。
私は、倒れそうな彼女の体を必死に支え、周囲の役人たちに鋭い視線を送った。
「見てないで、担架を。……それと、この勇者(仕事相手)のために、最高級のベッドと、栄養価の高い食事を用意しなさい。……これは『契約』に含まれる、当然の福利厚生です」
夕闇のエルム市。
勇者の剣が闇を払い、事務官のペンが混沌を鎮めた。
二人の戦いが、ようやく一つの形となって、この街の歴史に刻まれた瞬間だった。




