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第5話:【内部監査】目詰まりした決裁と、打ち出の小槌


 辺境都市エルムの市庁舎は、外観だけは立派だった。

 王都の建築様式を模した石造りの円柱、歴史を思わせる重厚な扉。だが、一歩足を踏み入れた瞬間に漂う空気は、王都のそれとは決定的に異なっていた。

 そこに漂っていたのは、活気ではない。腐敗した果実が放つような、甘ったるく、それでいて吐き気を催す「沈滞」の匂いだ。

 私は宿にリリアを預けると、荷解きもそこそこにこの場所を訪れた。目的は一つ。この街の歪んだ物価と不自然な熱狂の正体……すなわち、王都から届いているはずの「辺境復興交付金」の行方を確認することだ。

 私は窓口に立ち、事務的な笑みを貼り付けた。

「お疲れ様です。王都・特殊監督課のアルバです。交付金の予算執行状況について、現況を確認に参りました」

 窓口に座っていた男は、ゆっくりと顔を上げた。死んだ魚のような目に、わずかな警戒が走る。

「……王都から? 監督官ですか。ご苦労様です。ですが、交付金の件は『財政課』の管轄ですね。ここでは対応できません」

「では、財政課へ」

 二階の財政課へ向かう。そこでも同じ反応が待っていた。

「予算の執行自体は行っています。ですが、その元となる『復興基金』の運用実態については『復興支援課』が握っています。そちらへどうぞ」

 三階、復興支援課。

「基金ですか? いえ、うちは事業計画を立てるだけで、実際の送金状況については『会計課』の台帳を見てもらわないと」

 一階、会計課。

「台帳は現在、王都からの通達を反映させるための『システムメンテナンス中』です。詳細な原本を確認したいのなら『文書管理課』へ許可を取ってください」

 再び地下、文書管理課。

 私はこの時点で、胃の奥に強烈な差し込みを感じていた。

 この手口。この、責任という名のボールを、一ミリも自分の手を汚さずに隣のコートへ放り込み続ける洗練された技術。……私は知っている。王都の新人研修で、最もタチの悪い「組織的サボタージュ」の例として教えられたやつだ。

「特殊監督課のアルバです。文書の閲覧を」

 文書管理課の役人は、時計の針が「五時」を指すのを待っていたかのように、窓口のパーティションを静かに下ろした。

「本日の窓口時間は終了しました。明日、また来てください」

「……まだ、五時一分前ですが」

「弊所の時計では五時を回っています。規則ですので。――お疲れ様でした」

 背後で、パチリと鍵が閉まる音がした。

 私は、冷たく閉ざされたパーティションを前に、立ち尽くした。

 

 怒りよりも先に、確信が胃を焼いた。

 これほどまでに見事な連携で、組織が一丸となって「何もしない」ことを選択している。これは単なる怠慢ではない。隠さなければならない「致命的な何か」が、この建物の奥底に眠っているという証拠だ。

 私は懐から胃薬の瓶を取り出し、空であることを思い出して、ただ指先でそれを強く握りしめた。



 深夜二時。

 私は、黒いマントを羽織り、市庁舎の裏手にある勝手口にいた。

 

 公務員としてのプライドにかけて、不法侵入などという手段はとりたくなかった。だが、昼間の「たらい回し」は、正規の手続きを完全に無効化するための儀式だった。ならば、こちらも正規ではない手段をとるしかない。

 前世で遊んだ、潜入アクションゲームの記憶を総動員する。

 

(……足音を消し、壁に背を向け、呼吸を整える。警備の巡回ルートは一定のはずだ。私は透明な空気だ。私はシステムの隙間を抜けるバグだ……)

 抜き足差し足で、廊下を進む。

 しかし、床はことごとく「ギィッ」と不快な音を立てる。マントが柱に引っかかり、背負ったカバンの中の筆記用具がカチャカチャと音を立てる。

 冷や汗が背中を伝う。心臓の音が、静寂の中で太鼓のように鳴り響いていた。

「……アルバ君。もうちょっと左に寄った方が、月明かりを避けられるよ?」

「ひゃいっ!?」

 背後からかけられた涼やかな声に、私は情けなく跳ね上がり、床で思い切り滑った。

 振り返れば、そこには夜目にも鮮やかな金髪を揺らし、呆れたような顔で壁に寄りかかる少女がいた。

「リリア殿……!? なぜ、ここに」

「いや、アルバ君が変な格好で宿を出るからさ。殺気はゼロだけど、動きが怪しすぎて目立ってたよ。警備員が反対側の廊下を通った時なんて、私、ヒヤヒヤしちゃった」

「……尾行されてたんですか」

「守ってたの。アルバ君、隠密の才能、マイナス三級くらいだよ」

 彼女はため息をつきながら、私の襟首をひょいと掴んで、暗がりの奥へと引き込んだ。

 屈辱だった。だが、否定できない。彼女の歩法は文字通り無音であり、気配さえも大気に溶け込んでいる。これが「天才」と「凡人」の、物理的なスペックの差だ。

「……これは、正規の夜間監査です」

 私は姿勢を正し、誰への言い訳か分からない言葉を口にした。「夜間にしか確認できない、行政上の……その、数値があるんです」

「はいはい。わかったから。案内してよ、その『数値』がある場所まで」

 結局、私は「勇者」という名の最強の護衛を背後に、市庁舎の最深部、地下書庫へと足を進めることになった。



 地下書庫は、冷気に満ちていた。

 埃を被った棚が迷路のように並び、そこには街の歴史そのものが紙の束となって沈黙している。

 私は「財政・交付金関連」と書かれた棚を探し当てた。

 

 書類を一つずつ、手元の魔石灯で照らしていく。

 収支報告書、事業計画書、納税者名簿。

 

「……あった」

 棚の隅、わざと目立たないように「未決・保留」と書かれた古い木箱。その中に、封を切られたばかりの書類が束ねられていた。

 それは、王都の宮廷からエルム市に宛てた、正式な「通知書」だった。

 

 読み進めるうちに、私の指先が微かに震え始めた。


地下書庫の重い扉を、音を立てずに開ける。

 カビ臭い空気と、積み上げられた紙束の匂い。魔石灯の細い光を頼りに、私は「辺境復興交付金」の木箱をこじ開けた。

 中から出てきたのは、王都の財務局長による「予算執行の無期限停止」の通達、およびその事実の隠蔽を指示する密書だった。

 

 手が、震える。

 怒りではない。恐怖だ。王都の中枢が、ここまで露骨な「公文書偽造の教唆」に手を染めている。これは組織の末期症状だ。

「……ねえ。何が書いてあるの?」

 背後から響いた硬い声に、心臓が跳ねた。

 振り返れば、リリアが暗がりに立っていた。いつもの無邪気な笑顔はない。鋭く、冷たい、戦いの中にだけある「勇者」の瞳で私を見つめている。

「……リリア殿。戻れと言ったはずだ」

「無理。アルバ君の気配、今にも消えちゃいそうだったもん。……で、それ何? 悪いやつがいるんでしょ。その紙に名前が書いてあるの?」

 隠し通すのは不可能だった。私は、震える声で事実を伝えた。王都が贅沢のためにこの街の予算を盗み、その穴を隠すために、彼女の名前が詐欺に使われていることを。


「……最悪の不祥事です。王都の財務官僚どもが……宮廷の放漫な使途を隠蔽するために、地方への『交付金』を勝手に差し止めています。さらに、差し止めた事実を隠すために、帳簿上は『送金済み』として処理しろと、現場に強要している」

「え? それって、お金が届いてないのに、届いたことにしろってこと?」

「ええ。この街の役人たちは、王都の不祥事の共犯者に仕立て上げられたんです。拒否すれば、市への予算は永久にカットされる。だから彼らは、届かない予算の穴を埋めるために……あの『勇者基金』を始めたんだ」

 私の脳内で、すべてのピースが連結された。

 王都の贅沢(腐敗)が、地方の予算を食いつぶした。

 予算がなくなった地方は、破滅を避けるために、市民から「勇者」という希望を担保に金を騙し取る詐欺スキームを始めた。

 

 勇者リリアの輝かしい功績が、ここでは「詐欺の広告塔」として、奪われた予算の代替品にされている。

「……ひどい。王都の偉い人たちが、自分たちのパーティーのために、この街を見捨てたの?」

 リリアの声が、低く震えた。

 彼女の瞳には、かつてないほどの激しい怒りが宿っていた。聖剣の鞘が、彼女の魔力に共鳴して微かに鳴る。

「アルバ君。私、王都に行ってくる。こんなの、絶対に許せない」

「待ちなさい、リリア殿!」

 

 



 リリアの体から、黄金色の魔力が陽炎のように立ち上った。

 空気が震え、地下の石壁に細かな亀裂が走る。彼女の正義感にとって、この事実は「斬るべき悪」以外の何物でもなかった。




「なんで!? 悪いことしてるんでしょ!? だったら、そいつらを倒せば元通りじゃん!」

 リリアは今にも駆け出そうとする。私は、彼女の怒りを物理的に遮るように立ちはだかった。彼女の頭にあるのは、魔王軍を討つ時と同じ、単純で純粋な「勝利」の構図だ。


「元通りにはなりません! あなたが今、拳を振り上げれば、王都は保身のためにこの街との繋がりを完全に断絶させるでしょう! そうなれば、この街の経済は今夜中に崩壊する! 街の人たちが信じている『勇者基金』という紙切れは、ただのゴミになり、数万人が路頭に迷うんです!」

「……そんなの、あいつらが悪いんでしょ!? なんで私が我慢しなきゃいけないの!?」

「あなたが我慢するためではなく、この街を救うためです!」

 私は、リリアの肩を強く掴んだ。彼女の凄まじい魔力の圧力に、私の指の骨が悲鳴を上げる。

「あなたが戦えば、敵は倒せるかもしれない。でも、失われた『信用』は戻らない。信用がなければ、お金は回らない。お金が回らなければ、人は死ぬんです。魔物に殺されるよりも、もっと静かに、惨めに!」

「……っ……」

「あなたが剣を抜く相手は、ここにはいない。それは書類の中に、法律の影に、そして人々の不安の中に隠れている。――リリア殿。お願いだ。私を信じて、今はその剣を収めてください」

 リリアは激しく息を乱し、私を睨みつけた。

 その瞳には涙が浮かんでいた。自分の信じる「正義」が、ここでは逆効果にしかならないという残酷な現実に、彼女は震えていた。

「……アルバ君は、悔しくないの? こんなの、絶対におかしいのに……」

「……悔しいですよ。反吐が出る。ですが、それを『正しく』処理するのが、私の仕事だ。泥を被るのは私だけでいい。あなたは、明日も勇者として、街の人に笑いかけていなければならない」

 リリアは長い沈黙の後、爆発しそうな魔力を、無理やりその小さな体に抑え込んだ。

 彼女は何も納得していない。ただ、私の必死すぎる形相に、毒気を抜かれたようだった。




 


 私は、埃を被った通知書をカバンに詰め込んだ。

 

「王都の無能がやらかしたのなら、王都のルールで責任を取らせる。この『目詰まり』を解消し、正規の予算を強制的に吐き出させる。それが、公務員である私の、身内の後始末です」

 私は、空の胃薬の瓶を、今度こそ強く噛み締めた。

 胃はもう、燃えるように熱い。

 

 敵は、魔王軍ではない。

 かつて自分が仕え、誇りを持っていた、この「組織」そのもの。

 




「……わかった。わかったよ、もう。……でも、アルバ君。もし解決できなかったら、私、本当に全員ぶっ飛ばすからね。本気だから」

「……ええ。その時は、私が一番に逃げ出すための報告書を書きますよ」

 私は、冷汗でびしょ濡れの背中を預けるように、再び書類の山に向き合った。

 リリアは不機嫌そうに、だが確実に私の背後を守るように、暗闇の中へ視線を投げた。

 勇者の剣が届かない、泥沼のような現実。



「夜の監査を続けます。リリア殿。……朝日が昇るまでに、この不祥事を『正しく処理する』ためのロジックを完成させる。それが、私の戦いです」

 私は、震える手でペンを握った。

 

 勇者の剣が届かない暗闇で、一人の事務官が、冷たい数字と向き合い始めた。

 私は、ペンという名の細い武器を手に、国家という名の巨大な怪物へ、宣戦布告の数字を書き込み始めた。





 辺境都市エルムの市庁舎は、夕闇に沈みかけていた。

 私は宿にリリアを預けると、即座にこの場所へ向かった。目的は、私たちが遠征を続けるために不可欠な「勇者育成特別支援金」の受給申請だ。

 王都から地方へあらかじめ配分されているはずのこの予算は、各都市の窓口で「勇者付き監督官」が申請することで執行される。

 だが、現実は冷酷だった。

「支援金の受給申請ですか? いえ、うちは窓口じゃないですね。復興支援課へ行ってください」

「復興支援課? 王都からの特別予算なら会計課の管轄でしょう」

「会計課です。……あいにくですが、王都からの承認コードがシステム上で弾かれておりまして。文書管理課で元データを確認してもらわないと、一円も出せませんね」

 たらい回し。

 私は、自分がかつて新人研修で教えた「責任回避の模範解答」を、今まさに末端の役人たちから浴びせられていた。

 五時を回る直前、文書管理課のパーティションが冷淡に下ろされる。

「本日の業務は終了です。明日、また来てください」

 胃の奥が、焼けるように熱い。

 単なる怠慢ではない。彼らの目には、公務員特有の「保身の光」が宿っていた。何かを隠している。私が申請しようとしている「勇者支援金」の裏側で、この街の根幹をなす別の大きな予算――例えば、巨額の**「辺境復興交付金」**に、決定的な致命傷が生じているのではないか。

 そうでなければ、王都から派遣された監査権限を持つ私を、ここまで露骨に拒絶するはずがないのだ。




 宿に戻り、私は一人、薄暗い部屋の椅子に深く腰を下ろした。

 手の中には、空になった胃薬の瓶がある。それを噛み砕く勇気も愚かさも、私にはない。ただ、冷たいガラスの感触だけが、私の熱を奪っていく。

 やる理由は、どこにもない。

 深夜の公文書庫への侵入。それは、公務員としての死を意味する。

 正式な立入り許可も、立会人もない。発覚すれば懲戒免職。最悪の場合、王都の不祥事を暴こうとした反逆者として、すべての責任を被せられ、牢に繋がれるだろう。

 私は、自分の手を見た。

 剣を握るための節くれだった手ではない。ただ、ペンを握り、帳簿をめくり、無数の判を押してきただけの手だ。

 公務員として正しいか。王国に忠実か。

 これまでの私なら、迷わず「規則に従い、明日また出直す」ことを選んだだろう。

 だが――。

 隣の部屋から、微かに寝息が聞こえてくる。

 リリアだ。彼女は何も知らない。この街の不自然な熱狂も、自分を担保にした「勇者チケット」が街を汚染していることも。

 私が動かなければ、いつか彼女が真実を知る。

 その時、彼女は剣を抜くだろう。正面から怒鳴り込み、不正を斬り伏せようとするだろう。

 それが正義だと信じて。

 その結果、何が起きるか。

 王都との全面衝突。信頼の失墜。物理的な街の崩壊。

 彼女は「勇者」として、自分の正義によって街を滅ぼしたという十字架を背負わされることになる。

「……それは、一番嫌だ」

 私は立ち上がった。

 私が泥棒になることで、彼女が人殺しにならずに済むのなら。

 私が規則を破ることで、彼女の信じる「正しさ」が守られるのなら。

 

 公務員としての誇りなど、この際、どうでもよかった。

 私は黒いマントを羽織った。


 市庁舎の裏口。私は、かつて自分が監査で指摘した「警備上の脆弱性」を突いて、地下書庫への侵入を試みていた。

 足音を殺し、壁の影に溶け込む。前世の知識を総動員するが、床はことごとく鳴り、私の呼吸は静寂の中で驚くほど大きい。

(……私は透明な空気だ。私はシステムの隙間だ……)

「……アルバ君。その格好、逆に目立ってるよ」

「……ッ!?」

 背後からの声に、心臓が口から飛び出しそうになった。

 振り返れば、そこには呆れた顔のリリアがいた。彼女は殺気を完全に消し、私という「危なっかしい素人」を完璧に尾行していたのだ。

「リリア殿……なぜ……」

「だって、アルバ君、宿を出る時の顔が怖かったから。……何か、悪いことしに行くんでしょ?」

「……『夜間の自主監査』です」

 私は、震える膝を隠すように答えた。「どうしても今夜中に、数字の裏付けを取らなければならない。あなたには関係のないことです。戻りなさい」

「やだ。アルバ君、今にも捕まりそうなんだもん。私が後ろにいてあげなきゃ」

 結局、私は「勇者」に守られながら、禁じられた書庫の奥へと足を踏み入れた。

 重苦しい沈黙を破り、見つけ出した木箱。

 そこには、私が申請しようとした「勇者支援金」ではなく、もっと巨大な……「辺境復興交付金」に関する、王都からの密書が眠っていた。




 魔石灯の光の下で、書類をめくる。

 そこには、震えるような事実が記されていた。

 王都の宮廷官僚たちが、私的な遊興や不適切な流用で生じた穴を埋めるため、この街に届くはずの「復興交付金」を一方的に差し止めている。さらに、その事実を隠蔽するため、現場には「予算は執行済みである」という偽の帳簿を作成するよう命じていた。

 

 交付金が届かない。だから街の役人は、勇者支援金という「名目」を別の用途に流用し、さらに足りない分を補うために、リリアを看板にした「投資詐欺」に手を染めた。

 すべてが繋がった。

 この街の「勇者への熱狂」は、王都の腐敗を隠すための、巨大な虚飾だったのだ。

「……アルバ君、これ……」

 リリアの顔から血の気が引いていく。彼女にも分かる。自分の存在が、誰かを騙すための道具にされていることが。

「……王都の無能がやらかしたのなら、王都のルールで責任を取らせる。リリア殿、あなたは剣を抜いてはいけない。これは、身内の恥を洗う、事務官の戦いです」

 私は、空の胃薬の瓶をポケットにねじ込んだ。

 

 夜明けまで、あと数時間。

 私は、この「止まった数字」を動かすための、命懸けの書類作成を開始した。





 地下書庫の扉は、死んだように沈黙していた。

 私は震える指先で、隠し持っていたマスターキー――かつて監査で指摘し、修正されることなく放置されていた「管理上の欠陥」――を差し込む。小さな、だが耳障りな金属音が静寂に波紋を広げた。

「……ねえ、本当にいいの? バレたら、アルバ君、お仕事クビになっちゃうんでしょ」

 背後で、リリアが囁く。その声には、私の拙い潜入を笑う余裕はもうなかった。彼女の直感は、この扉の先にあるものが、オークの群れよりも凶悪な何かであることを察知している。

「クビで済めば、御の字です。……ですが、このまま『知らないこと』にするのは、私の実務上のプライドが許しません」

 扉が開き、重苦しいカビと、数十年分の沈黙が肺に流れ込む。

 私は魔石灯の光を絞り、迷路のように立ち並ぶ棚の奥へと足を進めた。目指すのは「交付金・予算執行」のセクションだ。

 埃を被った文書箱を、一つずつ引き出す。

 収支報告書、事業計画書。一見、整然と並ぶ数字の列。だが、私の目は、そこに「あるはずのない不自然な空白」を見つけ出していた。

「……これだ」

 棚の最下段、わざと目立たないように「未決」とだけ書かれた箱。

 その中には、王都の財務局――すなわち私の元の職場の上層部から、エルム市庁宛に送られた一通の「密書」が眠っていた。




 魔石灯の光の下で、私はその紙片を凝視した。

 記されていたのは、吐き気を催すような国家の私物化だった。

 王都の宮廷官僚たちが、私的な遊興費と不適切な投資で生じさせた膨大な赤字。それを隠蔽するために、彼らは「辺境復興交付金」の送金を一方的に停止していた。さらに、現場のエルム市に対して、送金が行われていないにもかかわらず、帳簿上は「受領済み」として処理するよう強要していた。

 交付金が届かなければ、街は飢える。

 だから、エルムの役人たちは、私たちが受け取るはずだった「勇者育成支援金」を当座の運営費に流用し、さらに足りない分を補うために――リリアという希望の象徴を担保にした、出口のない投資詐欺を立ち上げた。

「……あいつら」

 不意に、背後で空気が凍りついた。

 リリアの体から、黄金色の魔力が陽炎のように立ち上る。

 彼女の瞳は、怒りで爛々と輝いていた。その瞳が見つめているのは、書類の向こう側にいる、顔も知らない「大人の醜悪」だ。

「これ……王都の偉い人が、自分たちのパーティーのためだけに、この街の皆を騙してるってこと? ……アルバ君を追い返したのも、これを隠すため?」

「リリア殿、落ち着きなさい」

「落ち着けるわけないよ! 今すぐ王都に行く! こんなことしてるやつら、私が全員引きずり出して、この街の皆の前で謝らせてくる! 聖剣だって、こんなことのために振るってるんじゃない!!」

 リリアが駆け出そうとする。

 その一歩を、私は身を挺して遮った。彼女の放つ魔力のプレッシャーで、私の肋骨がミシミシと悲鳴を上げる。

「どいて、アルバ君!!」

「いいえ、どきません! あなたが今、王都で剣を振るえば、すべてが台無しになる!」

「なんで!? 悪いことしてるやつを倒して、何がいけないの!?」

「倒しても、お金は戻ってこないからです!!」

 私は、リリアの肩を力の限り掴んだ。

 

「あなたが不祥事を暴き、財務官僚を斬れば、王国の信用システムは崩壊します! 通貨の価値は暴落し、市民が握っている『勇者チケット』は一夜にして価値のない紙屑になる。……そうなれば、街は魔王軍に襲われるより先に、飢えと暴動で自滅する。あなたは、自分の正義で、この街に引導を渡すことになるんですよ!」

「……っ……でも、だったら、どうしろっていうの……」

 リリアの瞳に、悔し涙が溢れた。

 魔王の首は落とせる。だが、この「目に見えない泥沼」を斬る方法は、勇者のマニュアルには載っていない。

「……泥を被るのは、私だけでいい。あなたは、明日も勇者として笑っていなさい」

 私は、空の胃薬の瓶をポケットへねじ込み、震える手でペンを握った。


 私はその場に座り込み、白紙の羊皮紙を広げた。

 やるべきことは二つ。

 一つは、王都の財務局に「不祥事を把握した」と突きつけるための、法的根拠に基づいた脅迫状……もとい、監査報告書の作成。

 もう一つは、この街の詐欺を破綻させずに「正規予算」ですり替えるための、精密な資金洗浄スキームの構築だ。

 リリアは、私の背後で動かずにいた。

 彼女は何も納得していない。ただ、ペンを走らせる私の背中が、あまりに頼りなく、それでいて必死であることに、何かを感じ取っていた。

「……アルバ君、本当にできるの? 剣も持ってないのに。魔法もあんまり使えないのに」

「ええ。……数字にできないものはありません。たとえそれが、人の悪意であっても」

 私は、汗で滲む書類を睨みつけた。

 胃の奥は、もう焼けるような感覚すらない。ただ、氷のような冷静さが思考を支配していた。

 夜明けまで、あと三時間。

 私は、この「止まった国家」を動かすための、命懸けの書類を書き上げなければならない。

 

 勇者の剣が光を失う地下書庫で、一人の事務官が、世界という不条理に牙を剥いた。


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