第2話:【引継資料】
特殊監督課の執務室は、昨日訪れた人事課長室よりも更に酷かった。
広さだけは無駄にある。だが、その空間の殆どが天井まで届かんばかりの書類棚と、表面に書かれた文字が掠れている為、中身が不明な木箱によって占領されていた。床にはいつからそこにあるのかも分からない羊皮紙の残骸が雪のように積もり、机に辿り着くまでに一度は段差につまずく必要がある設計になっている。
空気は鉛のように重く、鼻を突くのは古い魔導インクの酸化した臭いと、微細な紙埃。それが換気不良の澱んだ空気と混ざり合い、呼吸をするたびに喉の奥にイガイガとした不快感が残る。
窓はあるが、建物の影になっていて光は差し込まない。代わりに、壁際の旧式魔導時計がギ……ギ……と、不治の病を抱えた病人のような不吉な音を、等間隔で立て続けていた。
──『勇者候補第七三号 監督記録・引き継ぎ資料』。
埃を被った執務デスクの真ん中。
そこに鎮座していた。
二十センチほどもある、凶悪な厚みの書類だ。
表紙を見ただけで、胃の奥がひくりと痙攣した。
私は、周囲に誰もいないことを確認してから、一縷の希望を込めて小声で呟いた。
「……前任者は、生きているんですよね?」
当然、返事は無い。ただ時計の軋み音が、無慈悲に、ギ……と鳴るだけだ。
私は覚悟を決め、その分厚い表紙を開いた。
一行目から、常識は粉砕された。
・機嫌が良い日は、壁を壊す。
・機嫌が悪い日は、地面を割る。
・どちらでもない日は、剣を折る。
「……情緒とは、一体」
私は思わずペンを置き、カビの生えかけた天井を仰いだ。
これは日誌ではない。災害報告書だ。
情緒の安定が、常に何らかの物理的破壊を伴うという事実に、私の前世の公務員としての論理回路がショートを起こしそうになる。
震える手で次のページを捲る。
・聖剣支給、三日で破損。
・代替品申請、却下。理由「想定内」。
・備品損壊届、月平均七件。
その下に、もはや執念すら感じる赤字の殴り書きが添えられていた。
無数の訂正印と支出伺票である。
「無理だろう……」
魔王を無に還す前に、国家予算が無くなる方が先ではないのか。
更に読み進めると、そこには行政の暗部を煮詰めたような記述が躍っていた。
・勇者候補は、士気向上を目的として公金による高級菓子の購入を許可されている。
・当該支出は「使途秘匿金」として処理すること。
・領収書は原則不要。
私はその一文の前で、完全に思考を停止させた。
「……使途秘匿金?」
聞いたことはある。王国の最高機密、いわゆる諜報活動や工作活動に用いられる、『追跡不能な金』だ。それを、十代の少女が食べるケーキ代として処理せよというのか。
ページの余白には、前任者──ベテラン官吏であったであろう──氏の筆跡で、遺言のような走り書きがあった。
「帳簿は合う、か」
喉が鳴る。
これはもう引き継ぎ書ではない。呪いの書だ。
あるいは、後任者を道連れにして地獄へ誘う為の、あまりに事務的な招待状である。
「……定時退勤、したかっただけなんだがなあ」
私は胸ポケットから胃薬を取り出し、水なしで噛み砕いた。苦い味が、今の私の心境にちょうど良かった。
続きを読み込もうとした、その時だった。
──バンッ!
耐用年数をとっくに過ぎているはずの扉が、悲鳴を上げて跳ね返った。
「ねえねえ!」
振り向くと、そこには昨日見た、太陽が立っていた。
リリア。七十三番目の王国の希望。魔王を倒す可能性が高い光。
彼女は、期待に満ちた瞳でこちらを見つめている。
その背後で、執務室の壁に先程まではなかった新しい亀裂が稲妻の如く生じているのを、私は見逃さなかった。
「次はシフォンケーキが食べたい……じゃなくて! どこに行くの? もう旅に出るんでしょ?」
彼女の笑顔はあまりに純粋だった。その純粋さに私の魂が最大級の警告を発している。
「……先ず確認しますが」
私は、自分を守る防壁のように、机の上に書類の山を積み上げた。
そのまま、静かに、そして事務的に問いかけた。
「リリア殿。昨日から今日にかけて、何か『壊した自覚』はありますか?」
「うーん……」
彼女は首を傾げ、指を折って真剣に考え始める。
「聖剣と、訓練用の杭と、あと……あ、床?」
「床」
私は無言で、引き継ぎ書の表紙を閉じた。
記録によれば、先月のタイル修繕費は既に予算を超過している。
「承知しました。本日の業務は三点です」
「おっ、なになに?」
「第一に、備品損壊届の作成。第二に、王都備品局への謝罪同行。第三に──」
私は一拍置き、顔の筋肉を最大限に駆使して、張り付いたようなにこやかな笑顔を作った。
「旅に出るための、極めて地味で、退屈で、かつ現実的な準備です。具体的には、旅程表の策定と備品のバルク発注です」
「えーっ! もっとワクワクするやつじゃないの!? 聖なる武器の選定とかさ!」
「残念ながら、冒険の八割は事前申請と資材調達です。伝説の剣よりも、十本の予備の剣の方があなたの旅を支えるでしょう。さあ、まずはこの書類に署名を。あ、印鑑がないなら、その指先の返り血で拇印でも結構ですよ」
「もう、アルバ君は面白くないなあ!」
不満そうに頬を膨らませる彼女。だがその背後で、呪いの引き継ぎ書がずしりと音を立てた気がした。
私は思う。この資料を作った前任者は、間違いなく善人だった。
だが同時に、彼は自分一人でこの地獄を背負うことを拒否し、私という犠牲者を必要としていたのだ。
こうして私は、勇者と、呪いの帳簿と、そして『牽引免許しかない自分』という不完全なステータスを抱えたまま、一歩目……王都の備品局という名の戦場へ踏み出したのだった。
呪いの引き継ぎ書を鞄に詰め込み、私はリリアを連れて執務室を後にした。
目的地は、王都の北側に位置する中央備品管理局。王国のあらゆる公費で購入された物品がここに集約され、そしてここから分配される。
王都の大通り、ウノ通りを歩く。
石畳の上を馬車が音を立てて走り、色とりどりの看板が並ぶ。街の人々は、隣を歩くリリアに気が付くと、
「あ、勇者候補様だ!」
「頑張って!」
と声を掛ける。彼女はそのたびに満面の笑みで手を振り返しているが、私はその歓声を、将来的な損害賠償の発生源としてカウントしていた。
「ねえアルバ君! あそこの武器屋さん、凄そうな剣が飾ってあるよ! あれ持って行こうよ!」
リリアが指差したのは、最高級の宝石で装飾された『竜鱗の宝剣』だ。
私は足を止めず、事務的な声で答える。
「却下です。あれは一点物で、紛失や破損の際の代替が利きません。あなたが戦場のど真ん中でそれを折った場合、私はその場で始末書を書き始めなければならなくなります。私の命よりも書類の整合性の方が大事ですので、諦めてください」
「えー、ケチー!」
辿り着いた備品管理局は、窓の少ない要塞のような建物だった。
受付のカウンターには、私と同じように無表情で固定された官吏が座っていた。
声はこちらを見ずに発せられた。書類を捲り、印鑑を押す音とほぼ同時だ。
「次の方。……嗚呼、アルバか。たしか異動したんだよな。ってなると、うわ、また面倒な案件を持ってきたな」
受付にいたのは、同期のケインだ。彼は私の顔を見るなり、露骨に嫌な顔をした。
「リリア殿の旅立ちに際し、『単価契約一覧表(上半期)』に記載された『1ー917 標準型魔剣・丙種(十振りセット)』の支給申請に来た」
「……十振り? 馬鹿を言うな。勇者候補への支給品は、原則『最高品質のものを一点』だ。規定の乙三号、第三項を見てみろ。予備の重複支給は認められていない」
ケインは鼻で笑い、私の申請書を突き返そうとした。
ここだ。ここが私の特殊監督官としての腕の見せ所だ。
私は鞄から、先ほど資料室で見つけ出した『王立軍事物資管理規則・細則第四十一追補』を叩きつけた。
「ケイン。確かにお前の言う通り、原則は一点だ。だが、この追補版には『戦地における消耗が激しいと予想される特殊任務の場合、予備パーツとしての支給を許可する』とある。更に言えば、彼女の破壊力は既に『自然災害』のカテゴリーで内々に処理されている。君がこれを拒否して、明日彼女が素手で戦って負けたら、君は『勇者の敗北の原因を作った役人』として歴史に名を残すことになるぞ。……いいのか? 査定に響くぞ。申請書に担当印を押したのは君だからな」
私は書類の担当印欄を指で示しながら突きつける。案の定、ケインの顔が引きつった。
我々、官吏にとって、『査定に響く』は、死の宣告に等しい。
「……チッ、相変わらず隅っこばかり詳しいな。分かったよ。ただし、十振り分の『備品ラベル』を全部その場で貼って、受領サインをしろよ」
せめてもの意趣返しか。だが、解釈上、せざるを得ない雑務だ。
それから三時間。
私はリリアの横で、延々と地味な作業を続けた。
魔力を帯びた十振りの剣。その一振りごとに、公費物品であることを示す『魔導刻印ラベル』を丁寧に魔法で貼り付けていく。
「ねえ、これ何の意味があるの?」
「管理の為です。コレを貼っておかないと、あなたが戦場で剣を投げ捨てた際、不法投棄として処理される可能性があります」
「そんなことまで気にするの!?」
「気にします。ゴミの分別は市民の義務、備品の管理は官吏の義務です。……はい、リリア殿。ここに、十回受領サインをお願いします。丁寧に。判読不能だと再申請になりますからね」
リリアは伝説の聖剣を授かるという夢を見ていたのかも知れない。
だが、私が用意したのは、大量の予備と煩雑な手続きという現実だった。
恐らく、それが原因で彼女は不満げにペンを回している。亜音速で。
私は備品管理局の庶務担当に謝らねばならないことを予測しつつ、次の行き先を考えていた。
そう。あの忌まわしき『地竜艇牽引免許』の出番が待っている場所だ。
運輸送ギルドは、備品管理局とは別の意味で胃に悪い場所だった。
油と獣臭と、人生を諦めかけた男たちの汗が混じった空気。
壁にはかすれた文字の『安全第一』や『免許確認は義務です』と書かれた標語。
誰も読まず、そして、厳格に守られている事がないのは明白であった。
「ここで、移動手段を確保します」
リリアに向けて私は淡々と言い、受付へ向かった。
「次の方。えーと……目的は?」
「勇者候補の辺境派遣に伴う、地竜艇の手配です」
受付の男が、ちらりとリリアを見て、目を見開く。
「おお、勇者様! こりゃまた大物だ。で、操縦者は?」
私は、鞄から一枚の免許証を取り出した。
「こちらになります」
男は受け取り、数秒、沈黙した。
「……地竜艇牽引免許?」
「はい」
「……操縦免許は?」
「持っておりません」
周囲の音が止まる。空気が固まったかのようだった。
「兄ちゃん、待て。牽引ってのはな、後ろを引っ張る資格だぞ?」
「承知しております」
「つまり、自分では動かせねえ」
「仰るとおりです」
男は天井を見上げ、深く息を吸った。
「……じゃあ誰が操縦するんだ」
私は、隣を見た。
「リリア殿です」
「え?」
「私が連結部と荷台の管理を行い、リリア殿が動力源──つまり地竜の制御を担当します」
沈黙。
次の瞬間。
「普通、逆だろうが!!」
ギルド中の視線が集まった。
「いやいやいや! 役人さんが後ろで、勇者様が前!?」
「責任の所在を明確にするためです」
「どこがだ!」
私は真顔で答えた。
「私は壊れない部分を担当します。リリア殿はどうせ壊れる部分を担当する。合理的でしょう」
リリアは目を輝かせた。
「えっ、私、動力源なの!?」
「はい、いいえ。正確には異なりますが、概ねそのように考えて頂いて構わないかと。勇者の特権には超大型飛竜挺第一種免許の保有と同程度の法的効力が認められておりますので」
「すごい! なんかカッコいい!」
男は頭を抱えた。
「……もういい。勝手にしろ。ただし事故ったら、全部書面で出してもらうからな」
「ええ、勿論。それが仕事です」
こうして私は、
自分では操縦せず、しかし全責任だけを負うという、
極めて官吏らしい、公務員らしい立場で、旅立つことになった。
胃が、静かに悲鳴を上げていた。
王都を出発して数時間。
地竜──名前を『ゴンザレス』という、リリアが適当につけた名の巨大な爬虫類が、重い足音を立てて街道を進む。
私は、リリアが操る地竜に牽引された荷台の上で、激しい振動に耐えながら帳簿をつけていた。
「ねえアルバ君! 景色最高だよ! 旅って感じ!」
御者台で手綱を適当に(本当に、適当に)振り回しながらリリアが叫ぶ。
その度に地竜が不機嫌そうに尻尾を振り、荷台が左右に五度ほど傾く。私は転がり落ちそうになるインク瓶を、二級魔法『吸着《アディジョン》』で机に固定した。
「……リリア殿。景観を楽しむ余裕があるなら、時速三十五キロの定速走行を心がけてください。荷台のバネの減価償却が予定より三割加速しています。それから、先程跳ね飛ばした標識の損害賠償を想像して少しは胃を痛めてください」
結局、陽が落ち始める頃、私たちは街道沿いの空き地で最初の夜を迎えることになった。
「よし、野営だね! 私、薪拾ってくる! あと大きいイノシシとか倒してくる!」
「待ちなさい。あなたはそこに座って、支給された保存食でも眺めていてください」
私は荷台から降りると、前世の県庁職員時代の防災訓練と、今世の王国官吏試験で叩き込まれた『野営設営マニュアル・標準版』を脳内で展開した。
先ず、基盤となる魔石を設置し、二級魔法『防壁』を四隅に固定。これは敵を防ぐ為では無く、虫の侵入を防ぎ、夜露を避ける為の環境維持目的である。
次に、地面に杭を打つ。王国式三級土木技能を使い、最短の手数でテントの骨組みを組む。
「えっ、もう家ができた……?」
「家ではありません、仮設宿泊所です」
間髪入れず、私は携帯用の魔導コンロを起動した。
ギルド式の調剤事務と調理技能を組み合わせ、保存食の干し肉を軟化魔法で戻し、野草を鑑定。毒性がないことを確認してから、栄養バランスを考えた業務用の煮込み料理を完成させる。
「はい、リリア殿。本日分の配給です」
「わあ……! 温かい! それに、野営なのにシーツがパリッと、野菜もシャキッとしてる! 凄いよアルバ君!調理系の魔法使いみたい!」
「いいえ。マニュアル通りに動けば、物理学と化学と行政手続の結果として、こうなるだけです。魔法使いはもっと派手な火柱を上げますが、私は無駄な魔力を消費したくないだけですので」
即席のロケットストーブを囲み、リリアは夢中でスープを啜っている。
木切れと乾いた草を押し込んだだけの簡素な円筒形の火床は、二級魔法『土壁』を応用して作ったものだ。
焚き火よりも少ない薪で、遥かに安定した火力を生む。そして、彼女の胃袋をより早く満たし、温めていると云う事実に、私はかすかな満足感と――それ以上の虚しさを覚えていた。
リリアに尋ねられるままに、私は燃焼の仕組みや、何故、効率が良いのか、原理を説明した。
上昇気流、完全燃焼、煙突効果、構造のシンプルさ、安全性の高さ、煙の少なさや環境負荷の小ささ。
その際、不意に口から出たのは、かつて私の記憶の奥底にある『東日本大震災』という名の災厄の話だった。
「魔王を討伐することは、確かに人類の悲願です」
私は揺れる炎の輪郭を見つめたまま言った。
外炎、内炎、炎心。いずれコレも伝えておこう。
「……だがリリア殿、それだけでは人々を救えません。魔王が消えても、大地は揺れる。冬は訪れ、疫病は流行る。剣を振るえば解決出来る絶望より、振るうことすらままならない絶望の方が、この世にはずっと多いのです」
突きつけてしまった。そう理解したのは、言葉が全て外側に吐き出された後だった。
何を語っているのだ、私は。
この子は人類の希望として育てられてきた『勇者』だ。
同時に、温かいスープに目を輝かせる、ただの子供ではないか。
彼女のアイデンティティを、その決意を、私の中途半端な知識で揺るがしてどうする。
彼女の瞳に濁りが生じたらどう責任を取るのだ。
大人たちが幼い彼女に押し付けてきた役割と期待を、同じ穴の狢である私が否定してどうするのだ。
何がしたいんだ、私は。
私は、リリアの瞳に映る自分の影を見て、猛烈な自己嫌悪に陥った。
そんな私を、彼女は興味津々というふうに眺めている。その真っ直ぐな瞳には、私が何でもできる万能の賢者か何かに見えているのだろう。
だが、現実は違う。
私はただの官吏だ。
世間ではエリート扱いを受け、王宮で偉そうに数字を弄んでいるが、彼女のように世界を救う力も、人類の運命を変える奇跡も持たない。国という巨大な循環を止めないために日々働き続ける、代替可能な歯車に過ぎないのだ。
「……いや、今のは、既に行政側も対策を講じていて──その……リリア殿が成し遂げるべき事を否定した訳では無く、勿論、当然、勇者は必要ですし、リリア殿が──」
そこまで言いかけて、私は気が付いた。ふと見れば、リリアは既にスープの皿を持ったまま、幸せそうな顔で寝息を立て始めている。長い睫毛の影を揺らし、胸は規則正しく上下に動いていた。
私の言葉は、──反射的な誤魔化しは、届いていなかった。
将来的な事を考えると、彼女に届く必要が無かったとも言える。いずれは他の……
いやいや、何を自己弁護している。
取り返しのつかなさが胸いっぱいに広がり、思考が纏まらない。
仮にこのまま会話を続けていたら?
私が用意していた慰めも、希望も、未来も全て彼女の為ではなく、語ってしまった自分自身を正当化するものではなかっただろうか。
引き上げられた成人年齢にすら到達していない子供に、世界の理不尽さをどのように説明するつもりだったのだ。仮に説明したとて、何か良い方向に変わり得たのか。
そもそも、我々、大人は、特に行政側の人間は、理不尽に晒される事のない世界を未来永劫持続し続け、子供たちの笑顔を守り抜く責務があるだろう。それを諦め、子供に押し付けて、その上で説教か。
──浅慮だ。
私は溜息を吐き、リリアの口元を拭ってから、ランタンの灯りの下でペンを走らせる。
彼女が寝静まった後、私は手元の書類に向き合う。
本日消費した薪の量、食費の残高、そして地竜の排泄物による街道汚損の事後報告書。
どれもこれも、英雄譚には一行も記述されない、泥臭く、矮小な実務だ。
しかし、私はペンを走らせながら、ふと思う。
私が書いたこの日誌。ロケットストーブの構造や利点を纏めたものが、勇者の名声と共に辺境の寒村に届いたとしたら。
勇者リリアの剣は届かずとも、名前は届いたその場所で、寒さに震える誰かが、この紙切れ一枚で暖を取れるかも知れない。
勇者に頼らなくても、自分たちの手で笑顔を守れるシステム。
その種を、いずれ、魔王を討伐し得る彼女に付随する形で蒔いておこう。
私は、眠る『勇者』の横顔を一瞬だけ見やり、再びインクを浸した。
いつか彼女のような勇者が、その重すぎる肩荷を下ろして笑える世界を作る為に。
それが、この器用貧乏な歯車に許された、唯一の『歴史への叛逆』だった。
とはいえ、どれだけ理想を語ろうとも、自己嫌悪に陥ろうとも、目の前に迫る問題を解決せねばならないのは社会の歯車の責務である。
「……勇者候補の士気管理。これもまた、監督官の義務、か」
夜の静寂の中、カリカリとペンが紙を削る音だけが響く。
王都は遠い。そして、私が夢見た『定時退勤』は、もはやお伽話よりも遠い場所にあった。




