第9話:【出口戦略】勇者バブルの売り抜けと、虚構の清算
1. 【瓦礫の中の黄金:支援金ゼロの宣告】
夜明けと共に降り始めた雨は、灰色の空から無慈悲にエルムの街を叩いていた。
ドラゴンの熱線によってガラス状に溶け、鏡のように滑らかになった地面に雨粒が落ちるたび、パチパチという不気味な冷却音が、街のあちこちで葬送の調べのように響いている。
市庁舎の執務室。私は、粉砕された窓から入り込む湿った空気と、焼け焦げた木材の臭いの中で、机に積み上がった「損害報告書」の山を、一枚ずつ、剥製でも検分するかのような冷徹な目で見つめていた。
「……上下水道、主要幹線道路、魔導通信網。すべて全壊。復旧見積額、五億ゴールド」
私は、震える指でペンを走らせる。
「市庁舎、避難所、および商店街の全焼・全壊家屋六百棟。被災者救済基金による最低限の補償だけでも、八億ゴールド……」
計算機(魔導演算器)のレバーを引くたびに、絶望が数値となって吐き出されていく。
建物損失、インフラ損失、家財道具の救済、遺族への弔慰金……。さらには、街を支える魔石加工場の設備が融解したことによる、今後数年間の税収減。
昨夜、命懸けで捻出した「弾代の一億二千万」など、この巨大な穴の前では、砂漠に撒いた一滴の水に過ぎない。
被害総額の見積もりは、既に十七億ゴールドを超えていた。
「アルバ君……。王都からの返信が来たぞ」
市長が、泥に汚れた自分の靴を見つめたまま、力なく一通の魔法親書を差し出した。
私はそれをひったくるように受け取り、封を切る。
『――エルム市殿。今般の古龍襲来に対するお見舞いを申し上げる。
しかしながら、貴市より提出された直近の財務諸表を精査したところ、貴市は「勇者関連資産の時価評価」により、三十億ゴールドという未曾有の剰余金を計上している。
王国財務規則に基づき、エルム市を「富裕自治体」に指定。本件における災害復興支援金の支給は、優先順位を最下位とし、本年度の給付は行わないものとする。
また、別途「広域開発拠出金(富裕税)」として、一億ゴールドの納付を今月末までに命じる――』
「……は」
笑いが漏れた。
自らが昨夜、死ぬ思いで構築した「三十億の粉飾」。
監査魔法を騙し、首を繋ぐために作り上げたあの「架空の利益」が、今度は牙を剥いてエルム市の息の根を止めに来たのだ。
「黒字だから、助けはいらない、か。……その上、儲かっているから国に金を払えと……」
私は、親書を握りつぶした。
目の前には瓦礫の山。手元には十七億の損害。そして、王都からは「金を持っているはずの街」としての冷徹な請求書。
行政という名の巨大な歯車が、真実などお構いなしに、私とこの街を粉砕しようと回り始めていた。
2. 【一時借入金の悪夢:魔物への署名】
「アルバ君、どうする。土木作業員の日当すら、もう払えないんだぞ。……このままじゃ、復興が始まる前に、街の治安が崩壊する!」
市長の叫びは正しい。
どれほど帳簿上が黒字でも、現場を動かすには「現金」が必要だ。作業員に配るパン、重機を動かす魔石、仮設住宅の材木。それらはすべて「時価評価」では買えない。
私は、手帳の奥に隠していた、ある「禁断の番号」を魔法通信機に入力した。
「……もしもし。魔法銀行エルム支店、融資担当を。……ええ、表の窓口ではなく、特約融資の担当だ」
数分後。
私は市庁舎の裏口で、黒塗りの馬車から降りてきた、仕立ての良いスーツを着た男と対峙していた。
男が差し出したのは、羊皮紙ではなく、禍々しいほどの魔力を帯びた「一時借入金契約書」だ。
「……会計監督官殿。まさか、あなたのような堅実な方が、これに手を出されるとは」
「黙って、条件を言え」
「承知しました。……担保が不確定な『勇者チケット』である以上、これは通常融資ではありません。利息は一日一%。返済期限は一週間。期限を一日でも過ぎれば、エルム市の全公共資産の所有権は、銀行が没収します」
一日一%。年利に直せば、もはや計算するのも馬鹿げた暴利だ。
現代日本の自治体職員が見れば、即座に発狂して辞表を出すような、狂気の契約。
だが、今の私には、この「魔物の金」を飲んで、今日を繋ぐ以外に道はない。
「……署名します。……ただし、この現金融資の事実は、本予算の帳簿には記載しない。……『雑所得』として処理し、後日、チケットの売却益で相殺する」
「……クク。粉飾の上に、闇融資。……あなたは、歴代で最も優秀で、最も醜悪な事務官だ、アルバ殿」
ペンが羊皮紙の上で、重苦しく走った。
一瞬だけ、雨の音が消えたような気がした。
私が署名したのは、契約書ではない。エルム市の、そして私自身の、終わりなき「自転車操業」の始動キーだ。
十七億の損害。一億の富裕税。
それを、この一週間以内に、「勇者チケット」を投資家へ売り捌いて回収しなければならない。
私は、執務室へ戻る廊下で、一度だけ壁に手をついて血を吐いた。
胃の痛みは、もはや薬で抑えられるレベルを超えていた。
だが、その痛みすらも、今の私には「生きている実務の感覚」として愛おしく思えるほど、私の感覚は狂い始めていた。
「……さあ。ハイエナどもを呼び込め。……バブルの宴の始まりだ」
「勇者が、古龍を屠った」
その噂は、魔法通信という名の神経系を伝わり、一晩にして王国全土の富裕層を、エルムの街へと呼び寄せた。
瓦礫の山が放置され、泥水が流れるメインストリート。そこに、場違いなほど豪華な装飾を施された馬車が、列をなして乗り込んでくる。金細工の車輪が泥を跳ね上げ、香水の匂いが死臭と焦げ跡を覆い隠していく。
「……見ろよ。ハイエナどもが、獲物の匂いを嗅ぎつけてやってきた」
市庁舎のバルコニーから、私はその光景を冷徹に見下ろしていた。
彼らが持っているのは、復興への同情ではない。「今のうちに買っておけば、将来、王都の宮殿に高く売れる」という、卑俗なまでの利欲だ。
「アルバ君……。本当に、あんなにリリアを飾り立てる必要があったのか?」
背後で市長が不安げに尋ねる。
広場の中央。そこには特設の壇上が組まれ、そこには昨日まで煤だらけで泥水を啜っていたリリアが、王都の最高級ドレスショップから強奪(徴用)してきた純白のドレスに身を包んで座っていた。
彼女の横には、折れ曲がった聖剣が「奇跡の証」として仰々しく展示され、背景にはドラゴンの翼の断片が、勝利のカーテンのように掲げられている。
「演出です、市長。投資家は『事実』に金は払わない。『物語』に金を払うんです」
私は広場へ降りた。
リリアは、押し寄せる群衆に対し、疲れ果てた顔を必死に繕って微笑んでいた。彼女の手元には、私が昨夜、市の倉庫からかき集めた『勇者チケット』の束。
「リリア様! こちらにサインを! 一枚につき三万ゴールド出す!」
「抜かせ! 私は五万だ! 勇者の初陣の証書だぞ、将来は国宝になる!」
怒号のような買い注文。投資家たちが差し出すのは、一晩の宿代にも困っている市民たちの年収を遥かに超える金貨の袋だ。
リリアは、震える手でペンを走らせる。
「……うん。……これで、街が元通りになるなら。……いくらでも書くよ」
彼女のその無垢な呟きが、私の胸に鋭利な楔となって突き刺さる。
彼女は、自分がサインするたびに、このチケットの「希少価値」が減り、バブルの崩壊を早めていることに気づいていない。私は彼女の善意を燃料にして、この一時的な狂乱を限界まで焚き付けていた。
「……皆様、落ち着いてください」
私は壇上に上がり、冷徹な声で投資家たちを制した。
「本日、エルム市が放出する『勇者直筆サイン入り支援債券』は、限定一千枚。……そして、この価格は固定ではありません。……『オークション形式』を採用させていただきます」
広場にどよめきが走る。
一万ゴールドだった紙切れが、今、私の言葉一つで「天井知らずの博打」へと変貌した。
4. 【売り抜けの失敗:ナイアガラの予兆】
オークションが始まると、広場は熱病に冒されたような狂気で満たされた。
十万、二十万、五十万。
一枚の紙切れに対して提示される額が、現実感を失っていく。私はモニターの端で、魔法銀行からの『一時借入金』の利息カウントを睨みながら、冷静に「売り時」を計算していた。
(……目標額、十七億。今のペースなら、五百枚売る頃には達成できる)
だが。
経済という魔物は、常に事務官の想定を裏切る。
会場の端。一人の男が、冷ややかな目でこの光景を見つめていた。王都の大手商会の代理人。彼のような「プロ」が動かない。その違和感に、私は背筋が凍るような感覚を覚えた。
「……おい。誰か、あいつの動きを追え」
私が部下に指示を出した瞬間だった。
魔法通信機が、悲鳴のような警告音を上げた。
『――速報。王都の鑑定士ギルドが、エルム市の勇者チケットに対し「過剰発行の疑い」を公表。……市場流通量が市の公表額を超えているとの懸念により、価格推移に疑義が発生――』
「……なっ!?」
広場の熱気が、一瞬で凍りついた。
誰かが、私が極秘裏にばら撒いた「復興資金用チケット」の総数を割り出したのだ。
「……おい! 市が隠し持っている分がまだ数千枚あるって本当か!」
「暴落するぞ! 今すぐ売れ! 売り抜けろ!!」
パニックは、ドラゴンの炎よりも速く燃え広がった。
さっきまで「百万ゴールドでも安い」と叫んでいた投資家たちが、一転して、手持ちのチケットを投げ売りし始めた。
価格の垂直落下。いわゆる、ナイアガラだ。
「待て! 落ち着け! 価格は維持されている!」
私の叫びは、暴徒と化した投資家たちの怒号にかき消される。
「十七億……あと少しだったんだ。……あと三億、あれば……!」
私はモニターを叩いた。
だが、表示されるグラフは、奈落の底へと一直線に突き刺さっている。
私が必死にかき集めた「現金」は、目標の半分にも満たない五億ゴールドで止まった。
背後で、リリアが呆然と立ち尽くしていた。
「……アルバ、君? ……みんな、どうしちゃったの? ……私のサイン、もういらないの?」
彼女の悲しげな瞳が、私の心臓を握り潰す。
私は彼女に、何と答えればいい?
「……あなたの価値が下がったのではありません。……世界が、あなたの価値に耐えられなかっただけです」
私はそう答えながら、手元に残った「ゴミ」と化したチケットの山と、手付かずの十七億の損害報告書を見比べた。
一時借入金の返済期限まで、あと六日。
回収できた現金は、利息を払えば霧散する程度の端金。
私は、震える手で空の胃薬を取り出し、屑籠に放り投げた。
雨は、まだ降り止まない。
5.自転車操業の完成――回り続ける嘘と、折れた光
空になった胃薬のシートを、私は無意識に握り潰していた。
アルミ箔が指に食い込み、微かな痛みを返してくる。だが、そこにあるはずの鎮痛はもう存在しない。胃の奥では、剥き出しになった胃壁を胃酸が直接焼き続けている。十数億という未処理の負債が、熱を持った数字として内臓を撫で回していた。
「……アルバ君。回収額は……どうなったんだ」
市長が、老いた獣のような足取りで近寄ってくる。
私は青白く明滅する魔導モニターから目を逸らさず、確定した数値を吐き捨てた。
「……五億です。必要額の三割にも届かない。一時借入金の元本を返済すれば、手元には一円も残りません」
静寂。
割れた窓から吹き込む冷たい雨音だけが、事態の終わりを告げていた。
広場では、紙屑と化したチケットを投げ捨て、罵声を吐きながら去っていく投資家たちの背中が見える。その向こうで、何が起きたのか理解できないまま、雨に打たれて立ち尽くす勇者の姿があった。
「……じゃあ、街の再建はどうする。上下水道も、魔導網も、瓦礫の撤去も……」
「――やりますよ」
私は、机の上に置かれた白紙の起案書を睨みつけた。
一時借入の弾は返した。だが、王都からの復興交付金は「富裕自治体判定」という機械的な通知一枚で不採択のままだ。
「『架空事業』を立ち上げます。……エルム市地下に、伝説級の古代魔導鉱脈が発見されたという調査報告を捏造する」
「正気か!? それはもう粉飾じゃない、国家詐欺だ!」
「詐欺です。ですが、この報告書があれば、王都の銀行から三十年償還の開発準備金を引き出せる。その金で短期債務を完済し、瓦礫を片付ける」
恐怖も躊躇も、もうなかった。
一つの嘘を隠すために、より巨大な嘘を積み上げる。昨日は監査を欺いた。今日は、王国そのものを欺く。
「……この車輪を回し始めたら、止まれませんよ、市長。死ぬまで嘘をつき続け、帳尻を合わせ続ける。それが、この街が生きる唯一の条件です」
私が判を突こうとした、その瞬間。
「――もう、やめてよ! アルバ君!!」
扉が乱暴に開いた。
響くのは怒りというよりは、断末魔の叫びに近かった。
ボロボロになった純白のドレスを纏ったリリアだ。徴収した最高級の絹は泥と煤に汚れ、宝石が散りばめられていたはずの裾は、狂乱した投資家たちの足跡で無残に踏み荒らされていた。ティアラは歪み、頬には涙と汚れが混じっている。
「リリア殿。……見ての通り、私は今、非常に立て込んでいる。事後処理と、次期融資のスキーム構築が……」
「そんなのどうでもいい! 見てよ、鏡を見てよ、自分の顔を!」
リリアが私のデスクに駆け寄り、積み上がっていた「損害報告書」の山を、全力で薙ぎ払った。
バラバラと舞い落ちる書類の雨。その中には、私が昨夜、一睡もせずに捏造した、存在しない鉱脈の偽データも混ざっている。
「今の自分の顔、見てよ! ずっと数字ばかり見て、死人みたいな顔して……薬だって、空のシートを噛んでるじゃない!」
「……これは必要な手続きです。君が守った街を、物理的に維持するための」
「これが“守る”ってことなの!? 嘘をついて、人を騙して、みんなの希望をゴミにして……そんなことのために、私は戦ったんじゃない!」
胸の奥を、杭で打ち抜かれたような衝撃。
私は空の胃薬シートを床に捨て、彼女を見据えた。
……残念ながら、瓦礫を片付ける土木作業員は、君の笑顔では動かない! 彼らが欲しがっているのは『現金』だ! 明日の朝、彼らに支払う一日の日当がなければ、この街は復興が始まる前に、暴動で消えてなくなるんだ!」
私はデスクを叩き、彼女を冷徹な目で見据えた。
「君が戦場にいた間、私はここで『数字』という魔物と戦っていた! 王都からは『金があるから支援金は出さない』と見捨てられ、手元には十七億の損害と、一秒ごとに跳ね上がる利息だけが残った。君が聖女のように微笑んでいる間に、私はこの街の未来を、悪魔に切り売りして金を工面しているんだ!!」
「だからって、自分を壊していい理由にはならないよ!!」
リリアが私の胸ぐらを掴む。その手は震えていた。
「借金なんて、私が一生かけて返すから……だから、昔みたいに……」
「無理だ」
「聖剣を売って、傭兵でも何でもやるから……。だから、もうこんな嘘はやめて、昔みたいに……ただの意地悪な会計官に戻ってよ……。お願いだよ、アルバ君……」
「……無理だ」
私はその手を振り払った。
「私がここで筆を置けば、明日の朝には憲兵が来る。市長は投獄され、君の英雄的戦果は『公金を着服するための道具』として歴史に刻まれる。……それでもいいと言うのか?」
「それは……」
「君は『勇者』でいればいい。光の中に立って、人々に希望を与えていろ。……その光の代金を、帳簿の暗闇で計算するのが、私の仕事だ。……出て行ってくれ。これ以上、実務の邪魔をしないでほしい」
リリアは、絶望に満ちた瞳で私を見つめた。
彼女の目からこぼれ落ちた一筋の涙が、私の手に付いたインクを汚し、滲ませる。
彼女は一言も発さずに、踵を返して部屋を飛び出していった。 閉まる扉の音が、何か決定的なものを断ち切った。
静まり返った室内。
私は再び椅子に座り、震える手でペンを拾い上げた。
胃は、もう痛みすら感じない。
ただ、絶対的な虚無感だけが、冷たい泥のように私の肺に溜まっていく。
5. 【自転車操業の完成:空回る車輪】
深夜二時。
執務室で、私は「架空の鉱脈」を正当化するための虚偽の地質調査書を完成させた。
チケットの売り抜けで得られた五億ゴールド。それは一時借入金の利息と、王都への富裕税(罰金)に消え、手元には一円も残らなかった。十七億の穴は、依然として口を開けたままだ。
私は、白紙の起案書に「古代魔導鉱脈開発準備金」というタイトルを書き込む。
これを担保に、王都の銀行から三十年払いの長期融資を引き出す。嘘を隠すために、さらに巨大な嘘を重ねる。私のペン先が走るたびに、エルム市の未来が、細かく刻まれてシュレッダーにかけられていくような音が聞こえた。
「……一度、この車輪を回し始めたら、もう止まれませんよ、市長」
背後で、市長が幽霊のように立ち尽くしている。
彼はもう、私を止める力も、意志も持っていなかった。
「……ああ。……分かっている。……地獄の底まで、付き合うよ。アルバ君」
窓の外、雨がようやく止み、雲の間から不自然に明るい月光が差し込んだ。
エルムの街は、明日から「偽りの鉱脈」による復興特需に沸くだろう。
市民たちは、自分たちの足元に埋まっているのが「黄金」ではなく、事務官が積み上げた「莫大な借用書」だとも知らずに。
勇者は、涙と共に眠りにつくだろう。
街は、虚構の繁栄へと漕ぎ出すだろう。
そして事務官は、二度と効かない胃薬の味を思い出しながら、真っ赤に染まった試算表を閉じ、静かに次の「嘘」の計算を開始した。




