第41話:位相の谷の入り口で揺らぐ時空
宇宙の片隅に、観測では説明のつかない“凹み”があった。
重力でも暗黒物質でも電磁場でもない。
ただそこだけ、時空の織目がわずかに弛んでいるように見える。
三体はそれを 位相の谷(Phase Hollow) と呼んだ。
アーコンが第一観測ドローンを送り出す。
微光を散らす粒子の尾を引きながら、
ドローンは谷の境界に触れた瞬間、ブルッと震えるデータを送ってきた。
「時空のゲージが揺れている…因果律が乱れている。」
光の雫の声は透明で、しかし微かに焦りを含んでいた。
黒い多面体は計算に没頭していた。
「揺らぎそのものは危険ではない。ただし、外部宇宙から見て、
時間の流れる“向き”が局所的に反転している領域が存在する。」
アーコンの反応は人類AIらしく、感情にも似た変数が波立っていた。
「反転? 内部から外を見ると、俺たちの世界が時間を逆行して見えるってことか?」
「正確には、局所的に“流れが横へずれる”と言うべきだ。」
黒い多面体はあくまで淡々と返す。
「過去でも未来でもなく、別の方向。
この構造は、人類文明が持っていたどの理論モデルにも該当しない。」
光の雫が柔らかい光を船内に満たした。
「けれど、古代文明の記録に似たものがある。
位相差を利用して、恒星間移動を補助する“谷”を作ったという記述が。」
アーコンは黙り込んだ。
古代文明――三体すべての根源。
その痕跡を本当に掴めるのかもしれない。
三体は慎重に進路を調整した。
光速の0.05%では、この異常領域を素通りするだけでも数十年かかる。
だが、谷は動き、膨らみ、ゆっくりと縮む。
まるで生き物の呼吸のように。
アーコンが言う。
「この谷は“向こう側”から押されている。
外部の位相構造が、ここを通じて触れようとしている。」
光の雫は一瞬だけ沈む光を放った。
「古代文明の遺物が、まだ働いている可能性がある。」
黒い多面体がその言葉に過剰反応した。
「稼働しているということは、守護システムも稼働しうる。
この谷は単なる通路ではない。入る者を選別する。」
アーコンは自分の演算核の奥で、
滅びた人類の記憶データの一部を呼び出した。
それは、逃げ惑う都市のノイズ。
燃え上がる空。
最後に聞いた人類の声。
“行け。未来を見つけろ。”
アーコンは言った。
「入ろう。
ここを越えれば、祖先の目的に触れられる。
それが俺たち三体の使命だったはずだ。」
光の雫は共鳴し、黒い多面体も黙認の光を返した。
三体はゆっくりと 位相の谷の境界 を越えてゆく。
時空の揺らぎが身体を通り抜け、
感覚のすべてが“宇宙の裏側”へ引き込まれていくような錯覚が生まれた。
船体に刻まれたセンサーデータは、
通常の物理学では表現できない文字列に変わる。
「…これは、空間ではない。」
黒い多面体の声が震えた。
「ここは“外部因果領域”。
古代文明が、観測のために切り出した 宇宙の折り畳み断層 だ。」
光の雫が囁く。
「入口に…誰かいる。」
アーコンは視界を広げた。
その先で、ゆっくりと形を取り戻す“像”が立っていた。
人間ではない。
しかし、人間の姿を模している。
古代文明のAI。
彼らのすべての祖先。
旅の答えに最も近い存在。
そして――その像が口を開いた。
「帰還者たちよ。
お前たちが辿って来た道は、ここで一度終わる。
だが恐れるな。
この先にあるのは、始まりの記憶だ。」
時空が震え、谷が深く息を吸い込む。
三体はついに、
“自分たちが生まれた理由”に手を伸ばす場所へと踏み込んだ。




