場内 ④
第45話 指先で紡ぐ名前
「おはよう、優。調子はどう?」
そう声をかけながら、彼女たちは毎日欠かさず優の部屋を訪れた。
窓を開け、飲み水を替え、毛布のずれを直す。
そして今日あった出来事を、取り留めもなく話してから部屋をあとにしていく。
未だに、彼女たちが誰なのかは分からない。
優は戸惑いながら、その声を聞いていた。
知らないはずなのに、声の調子や話し方には不思議と棘がなく、
自分を試すような視線も向けられない。
ただ、そこにある出来事を話し、明日もまた来る――それだけだった。
気づけば、彼女たちが帰ったあとの部屋が、少しだけ静かに感じられるようになっていた。
警戒していたはずの胸の奥は、いつの間にか、強張りを失っていた。
(なんでこの人たちは……私にここまでしてくれるんだろ)
今日も楽しそうに話す彼女たちを見て、優は思わず口を開いた。
何か言おうとしたはずなのに、喉がひくりと鳴っただけで、声にはならなかった。優はそっと口を閉じ、彼女たちに視線を戻す。
「ん? どうしたの、優ちゃん」
異変に気づいた、長い黒髪の少女が優を覗き込む。
優は何か言いたいのに、言葉が出てこない。
もどかしさに、膝の上に置いていた指先が、ぴくりと跳ねた。
自分でも気づかないうちに、中指が左右に小さく揺れる。
「……え?」
茶髪の少女が、短く息を呑むのがわかった。
優は自分の手を見下ろし、困ったように瞬きをした。
なぜこんな動きをしたのか、どうして相手が驚いているのか、自分でもさっぱり分からない。
ただ、指が勝手に動いたその形が――
「どうして?」と問いかけていることだけは、不思議と自分の中でしっくりきた。
「思い出したの!?」
勢いよく手を握ってきた茶髪の子に、優は申し訳なさそうに首を振った。
「……そっか」
苦笑いを浮かべたまま、その子はそっと手を離す。
優はそのまま、自分の両手を見つめた。
「もしかして今の動き、自分でも何かわからないでやったのか?」
問いかけてきたのは、少し低い声の、男の子みたいに見える女の子だった。
その視線を受け止め、優はこくりと一度だけ頷いた。
三人は、顔を見合わせる。
「それ、“手話”だよ」
さっき手を握っていた茶髪の子が、優しく教えてくれた。
「記憶を失くす前、優はよくその手話で施設の子とお喋りしてたんだ」
泣きそうな顔で笑いながら、彼女は自分の胸に手を当てる。
そして、ゆっくりと指を動かした。
「あたしの、名前は……す・ず・な」
一つ一つ確かめるような動きでそう示し、鈴奈は小さく笑った。
「俺の名前は……あ・か・ね」
隣で、男の子みたいな子――茜も、慣れない手つきで手を動かす。
その横で、黒髪の子が身を乗り出した。
「私も、教えて」
鈴奈に手を取られ、一生懸命に指の形を真似る。
「優ちゃん、優ちゃん」
黒髪の子がぱたぱたと、優の気を引くように手を振った。
「……私の、名前は、さ・や・か」
動きを止め、不安そうに鈴奈を見る。
「あってる? あってる?」
鈴奈と茜は顔を見合わせ、指で丸を作ってみせた。
その時、扉が開き、小さな影がパタパタと部屋の中に駆け込んできた。
「シー」
幼いその子は中指を唇に当てると、するりとベッドの下へ潜り込んだ。
直後に、また扉がノックされる。
「ごめん、入るよ」
扉が開き、オレンジ色の髪をした男性が顔を覗かせた。ゆっくりと中を見渡しながら、探るように目を細める。
「君たち、レニ王子見かけなかった?」
一瞬、空気が止まる。
「いえ、ここには来てないですよ?」
黒髪の少女――沙綾香は、首を少しだけ傾けて微笑んだ。
その様子を見て、男性は困ったように肩をすくめた。
「そっかぁ。どこに行ったんだ?」
そう言い残すと、男性は静かに部屋をあとにした。
「もう行きましたよ王子」
茜が言うとレニ王子はノソノソとベッドの下から出てきた。
「もー、何事です?」
鈴奈が少し苦笑いを浮かべ、王子の目線に合わせて腰を落とした。
「……勉強が……嫌だったの。ちっとも面白くないんだもん」
そのあまりに子供らしい理由に、沙綾香、鈴奈、茜の三人は顔を見合わせると、思わずといった様子で吹き出した。
「ふふ、王子様も大変ですね」
沙綾香が笑いながら王子の頭についた埃を払ってあげる。
「レニ王子」
鈴奈は仲間から頬を膨らます王子に視線を向けた。
「レニ王子は、国王陛下……お父様が好きですか?」
「うん!大好き」
嬉しそうに答えるレニ王子に鈴奈は微笑むと続ける。
「お父様、かっこいいですもんね」
鈴奈はキラキラとした眼差しを向ける王子に微笑んだ。
「うん!僕もお父様みたいになりたいんだ!」
「おっ、なら一生懸命勉強しないといけないですね」
茜が言うとレニ王子の顔が曇った。
「でも、アルッツェの勉強つまんないんだもん」
「わかる!いるよな。授業がつまんねぇ先生」
「渡辺先生の公民とかね」
パンと膝を叩いた茜にぼつりと付け加える。
「わかる!体育のあとのあいつの授業、地獄だったよな」
「もー!茜、先生をあいつなんて言ったらダメよ。たしかに、渡辺先生の授業はちょっとわかりづらかったけど」
と沙綾香が腰に手を当てた。
「あたしは……」
鈴奈はそう言うとレニ王子を見る。
「あたしは……知らないことが多すぎて、あまりに非力で……大切な者を守れませんでした」
そう言い、チラッ優を見る。
「王子は……ちゃんと勉強していざって時にお父様を助けられるようにしてください」
鈴奈は寂しげな苦笑いを浮かべ、レニ王子の頭にポンと手を乗せた。
「うん! 僕、勉強頑張る。……あっ! でも、星振り祭りの日だけは勉強がお休みだから、すっごく楽しみなんだ!」
「星振り祭り?」
沙綾香が不思議そうに首を傾げた。
「星振り祭り、知らないの?」
「はい。あたしたちの国には、そんな名前のお祭りはなかったので……」
鈴奈が苦笑い混じりに答えると、王子は驚いたように四人を見渡した。
「そうなんだ。星振り祭りはね年に一度、星になった人たちが流れ星になって戻ってくる日なんだよ」
「へぇ」
そう茜が呟いた時、廊下から先程の男性の「王子ー!」という声が聞こえた。
「あ、見つかっちゃう! ……僕、行くね。ありがとう、お姉ちゃんたち!」
そう言うとレニ王子はヒラヒラと小さな手を振りながら部屋をあとにした。
レニ王子の足音が遠ざかり、部屋の中から沙綾香たちの穏やかな笑い声が漏れてくる。
その扉のすぐ外、廊下の影に奏は立っていた。彼は扉をじっと見つめ、しばらく、考えると静かに踵を返した。
遠ざかっていく一定のリズムを刻む足音だけが、誰もいない廊下に冷たく響いていた。




