城内 ③
第44話 忘れられた約束
(お腹空いた…喉…渇いた…)
優は、果てしなく続く虚無のような空間で、ただ小さく体を丸めていた。
ひんやりとした床の冷たさが肌を刺し、呼吸をするたびに肺がヒリつく。わずかに動こうとすれば、ジャランと重々しい音が響き、足首に食い込んだ鉄の枷が容赦ない痛みを走らせる。
(誰か……助けて……)
枯れ果てた喉を震わせ、声にならない悲鳴をあげたその時だった。
凍りついた優の世界に、ふわりと温かな感触が落ちる。誰かが、そっと優の肩を叩いたのだ。
ビクリと肩を跳ねさせ、怯えきった瞳で振り返る。そこには、穏やかな笑みを湛えたメガネの青年が立っていた。この地獄のような暗闇には不釣り合いなほど、彼は優しく、静かな空気を纏っている。
「あなたは…誰?」
消え入りそうな声で問いかける。青年は一瞬だけ、胸を突かれたように視線を伏せた。その陰りには、言葉では言い表せないほどの慈しみと寂しさが混ざっているように見えた。
「そうですね。あなたにまだ生きててほしい人の1人です」
「私…に?」
優は不思議そうに首を傾げた。自分のような、裏切り者を……
(あれ?なんで私はそんなこと……)
考えれば考えるほど、頭に靄がかかり、優は顔を顰めた。
すると、彼はすぐに優の目線に合わせるように深く屈み込み、真っ直ぐに優を見つめた。
「はい。さっ、行きましょう」
優は弱々しく首を横に振る。
「でも枷が…」
その言葉に、青年は一瞬だけキョトンとした顔を見せた。まるで、そこに枷など最初から存在しないと言いたげな表情だ。けれど彼はすぐにまたニコリと微笑み、優の足元を指さした。
「大丈夫ですよ。ほら、よく見て」
言われるがままに視線を落とすと、そこにあったはずの重厚な鉄の枷は、煙のように消えてなくなっていた。驚いて自分の腕を見上げれば、手首を締め付けていた痕跡すらも消え去っている。
「あれ?……枷が、ない」
「ねっ。……さあ、行きましょう。皆さんが待っていますよ」
「みん…な?」
優がその言葉をなぞるように呟いた、その時だった。
「「「優!」」」
「「月島先輩!」」
幾重にも重なる切実な叫びが、暗闇を切り裂くように響いた。振り返れば、これまで何も見えなかった闇の向こう側に、眩いほどの光の出口が広がっている。
「さっ。行ってください」
青年は優しく優の背中を押す。
数歩、光に向かって足を踏み出す。けれど、どうしても気になって優は立ち止まり、振り返った。青年はそこから動かず、ニコニコと笑いながら、ずっと手を振っている。なぜかその姿に、言葉以上の力で背中を支えられた気がして、優は意を決して光の中へと駆け出した。
ゆっくり目を開けると、明るい部屋の中に知らない白い天井が広がりっていた。
(ここは……どこだろ……)
ぼーっとした意識の中で、一番最初に届いたのは、名前を呼ぶ必死な声だった。
「優!優、わかる?」
視線を向けると、茶髪になる髪をボブに切り揃えている女の子が涙目で優の手を握っている。
(……この人、誰だろう。でも、どこかで……)
霧がかかった記憶を辿ろうとしていると、バタバタと騒がしい足音が聞こえ、さらに三人の少女が部屋になだれ込んできた。
「よかったぁ」
長い黒髪を靡かせた綺麗な人が、感極まった様子で優を抱きしめた。
その温もりも、耳元で繰り返される「優ちゃん」という呼び声も、今の優にとっては覚えのない、どこか恐ろしい響きを持っていた。
抱き返すべきなのか、声を出すべきなのか。優はぴくりとも動けず、知らない人の腕の中で、ただ石のように固まっていた。
「……優ちゃん?」
耳元で名前を呼ばれても、優はぴくりとも反応しない。
抱き返すことも、声を返すこともなく、ただその腕の中で固まっている。
「……優?」
少し強めに呼ばれ、黒髪の女性が不安そうに顔を覗き込んでくる。
問いかけに、優は一瞬だけ目を瞬かせた。
「……どうしたの?」
問いかけに、優は一瞬だけ目を瞬かせた。
けれどその視線は定まらず、少女の顔をなぞるように漂うだけだった。
「優……?」
周囲からも次々と声が上がる。名前を呼ばれ、肩に触れられ、それでも優は言葉を返さない。
「もしかして声が出ないの?」
茶髪の少女が尋ねると優は小さく頷く。
「ちょっと待ってろ」
まるで男の子みたいな見た目の少女が辺りを見渡すと、紙と羽ペンをわたす。
優はスラスラと紙にペンを走らせると、皆に見せた。
「なっ……」
書かれた文字を見た4人は絶句した。
そこにはただ一言「誰?」とだけ書かれていた。
「冗談……だよね?優……ねぇ」
まるで縋るように茶髪の少女は優の肩をギュッと掴んだ。
その痛さと異様さに優は怯えたように目を泳がせる。
「鈴ちゃん、落ち着いて。優ちゃん怖がってるよ」
「ごめん……」
黒髪の少女から鈴ちゃんと呼ばれた茶髪の少女はハッと我に返ったように手を離し、力なく床へ項垂れた。
「なぁ……本当に覚えてないのか?」
男の子みたいに短く髪を切った少女が優を覗き込む。ぶっきらぼうな口調を装っているが、隠しきれない悲しみが瞳の奥に滲んでいる。その表情を見た瞬間、優の胸がギュッと締め付けられるような感覚に陥った。
その表情を見た優の胸がギュッと締めつけられた。しかし、それがなぜかを思い出すことはできなかった。
「……とにかく、まずは医師を呼んだ方がいいんじゃないですか?」
とこからかした男の子の声にびっくりし優は辺りをみわたした。
すると、男の子のような女の子は苦笑いを浮かべると耳にしていた赤い石をトントンと指で叩いて見せた。
「驚かせて悪かったな。通信機越しに、後輩が今の話を聞いてたんだ」
「そうね。馬場くんが言うようようにまずはお医者さんを呼びましょう」
「だな。なにか欲しいものあるか?」
黒髪の少女が立ち上がったあとに男の子みたいな少女も席を立ち優を振り返る。
優は紙に「お水」と書いて見せた。
「了解。すぐ持ってくるから、待ってろ」
男の子みたいな少女はニコリと笑い、ポンと優の背中を叩くと、黒髪の女の子と部屋をあとにした。
残されたのは、まだ呆然としている優と、床を見つめていた鈴奈だけだった。
沈黙が流れる中、鈴奈がゆっくりと顔を上げた。その瞳からは、堰を切ったように涙が溢れ出し、頬を濡らしている。彼女は耐えきれなくなったように、勢いよく優の細い体に抱きついた。
「ごめんね……ごめんね……」
鈴奈の肩は激しく震え、嗚咽が部屋に響く。
自分を抱きしめ、何をそんなに謝っているのかも分からないまま、優は困惑した。けれど、彼女の震えがあまりに悲しくて、放っておけなかった。
優はぎこちない手つきで、鈴奈の震える背中をそっとさすった。
記憶はなくても、その温もりだけは、どこか懐かしさを感じた。




