ようこそ 異世界へ ①
第1話 走り梅雨の保健室とクラーケン
濁った雲がのしかかった空からは、今にも雨が降りそうだ。
帰りのホームルームが終わった月島 優は、一刻でも早く学校をあとにしようと足早に長い渡り廊下を抜け、運動部のガヤガヤとした声がするグラウンドの裏に、ひっそりある階段へ向かう。
階段に一歩、足を踏み出した時、糸のような雫が優の頬を濡らした。
(あぁ、降り出しちゃった)
優は雨を含む空を見上げる。
(折りたたみあったかなぁ)
階段をおりる足を止め、優は教科書が詰まった革のカバンの中に視点を落とす。
その時、背中からドン!と複数の手で突きのめされた。
何が起きたか理解する前に優の体は宙に舞い、そのまま天地が逆転しながら階段を転がり落ちた。
「っ!」
小さくあげた悲鳴は、全身を貫くような痛みと吐き気でまったく声にならない。
「クスクス」
悪意を含んだ笑い声に血の気がひいた顔を向けると、数人の女子生徒がまるで虫けらを見るような目で優を見下ろしていた。やがて、興味を失ったのか女子生徒たちは学校内に入っていった。
(…また死ねなかった。いつになったら楽になるんだろう)
優は腕で目を隠し、堰を切ったように漏れた嗚咽は、本降りに変わった地を打つ雨音にかき消されていく。
「大…丈夫?」
心配そうな声がし、濡れた優に傘がさしかけられた。
どこか感情が抜けた視線を向けると、そこには少し大人びた同い年ぐらいの女子生徒が、長い黒髪を風になびかせ不安そうな表情を浮かべ優を見ていた。
(この人はなんで私と関わろうとするんだろ。私と関わったっていい事なんかないのに)
ぼーっと優が見ていると、ますます不安になったのか彼女は顔をしかめた。
「しゃべれないぐらい具合悪い?どうしよう…先生呼ぶにも会議中だし」
そう言い彼女は職員室がある辺りを見た。
「お気遣いなく」
絞り出した優の声は、自分が思っていた以上に冷たい。
しかしその声にガバっと彼女は優を見た。
「ダメよ。なら保健室に行こう。ねっ」
「いえ、しばらくしたら動けるようになるので」
「風邪ひいちゃう」
これは断っても離れないと判断した優は口をすぼめる。
「わかりました」
渋々、優が了承すると彼女は嬉しそうに笑って見せた。
「…行こう」
そう言い彼女は差し出した手を、優は少し迷いながら取った。
立ち上がると、二人は保健室に歩いて行った。
いつもは放課後でも恋バナに花咲かせながら帰る生徒の声や、練習に勤しむトランペットやトロンボーンの音で溢れているというのに、今日は人影が疎らな廊下を歩き、1階の奥にある保健室に行くと、ロングヘアの女性生徒はガラガラと戸を開けた。
「失礼します」
いつもは恰幅のいいおばちゃん先生が賑やかな対応をしてくれるのだが、今はシーンと静まり返っていた。
「先生?」
「…会議に行ってるみたいですよ」
単調な口調で優が言うと、ボードに挟まれた『ただいま、会議で退室中です。利用する生徒は学年クラスと名前をノートに書いて待っていてください。』と書かれた紙を指さす。
「…あ、そっか会議に行ってるんだっけ。ここに座って。えっと毛布毛布」
女子生徒は優を丸椅子に座らせると、パタパタと毛布を探して保健室を歩き回った。
「いいですよ。あとは自分でやりますから」
優は手を振りながら目の前を通る彼女に申し訳なさそうに声をかける。
すると、彼女はピタリと止まり腰に手を当てた。
「だめよ。風邪ひいちゃうから」
咎めるように言うと「あっ!」と彼女は小さく声を出す。そして一枚の茶色い毛布を手に取り、優にそっとかけた。
「ありがとう…ございます」
ボソリと優が漏らすと、彼女はニコッと微笑んだ。
「失礼しまぁす」
保健室の外から聞こえた声に優が振り返ると、ガラガラと立付けが悪いドアが開いた。
「こんにちは。先生、委員会のことで⋯ってあれ?」
黒髪をセミロングまで切った女子生徒が入ってくると、辺りを見渡した。
「先生は会議だよ」
ニコニコとロングヘアの女子生徒が答えると、入ってきた女性生徒は困ったような表情を浮かべた。
その時、ガヤガヤと廊下が賑やかになった。
「ったく大袈裟なんだよ」
「人にボールを当てといてよく言えますね」
口論するような声が保健室の前で止まり、なんの挨拶もなくガラリと扉が開けられ、黒髪の背の高い青年と黒縁メガネの青年が入ってきた。
「先生はいませんよ」
キッパリ優が言う。
しかし、口論している二人の耳には入らず言葉は宙に浮いた。
どうしたものかと思案していた時。
「沙綾香!」
「あ!茜」
ツカツカと保健室に入る、まるで男子のように短く切った女子生徒に沙綾香と呼ばれたロングヘアの女子生徒はヒラヒラと手を振った。
「茜じゃねぇよ。探したんだぞ」
「ごめんごめん」
沙綾香は茜の前で手を合わせた。
「違うんです。彼女は…」
優が説明をしようとした時、ドン!と突き上げるような地鳴りがした。そして、まるでふるいにかけられているように強く左右に揺さぶられ、地面が…抜けた。いや、正確には消えたのだ。
全員が重力に従い、そのまま眼下にある大海原に落下して行った。
優の耳を風がピューピューと短い笛のような音をたてていく。
「ほぉ。異界からの客人とはまた珍しい」
バタバタと服がはためかせる音と共に優の耳元にハッキリと声がした。
ハッとし横を見ると、キラキラとした陽の光を貼り付けたような美しい服を着た女性が優を真横から笑みを湛え見つめていた。
(…うわぁ、綺麗な人)
「ほぉ」
嬉しそうに笑みを浮かべた女性はそう短く言い、長いまつ毛と茶色い瞳をグッと優に近づけた。
「お主は見る目があるのぉ。しかし、このままではお主も友人たちも助からぬぞ」
(わかってる!わかってます!でもどうしたらいいのか)
すると女性は再び笑みを浮かべた。
「我と契約せよ」
(契約?)
「そうだ。契約をすれば我が助けよう」
それは優の理解の範疇を超える内容だった。頭の中がハテナで埋め尽くされていると、女性は話を続けた。
「我にそなたの一部と名前をよこせばよい。そして我の名前を呼べ。さぁどうする?あまり時間はないぞ」
そうしている間にも海面は近づいてくる。
(契約したらどーなるか怖いけど、みんなを見殺しにするのは嫌だ!私は月島 優!私の血で契約を!)
シュッと頬に痛みが走り赤い液体が空を舞う。
「たしかに受け取った。我は風の精霊、風妃!さぁ願え!」
ふわりと笑みを浮かべた風紀の言葉に優は力強く心の中で宣言した。
(みんなの落下を止めて!)
一陣の風が全員の体をふわりと浮かし、そのままゆっくりと海に落下した。
「私…泳げな…」
「沙綾香!」
長い髪を海に揺らしながら沈みそうになる沙綾香に優は手を伸ばした。
「捕まれ!」
茜は腕を伸ばすと、沈みそうになっている沙綾香を掴み海面に引っ張りあげた。
「みんな大丈夫?いる?」
ホッとした声でセミロングの女子生徒は周りを見た。
「はい」
「俺も大丈夫です」
最初に答えたメガネの青年のあとに続いて、黒髪の青年が答えた。
ボブヘアの女子生徒は頷くと茜と沙綾香を見た。
「二人は?大丈夫?」
茜と茜に捕まる沙綾香が頷くとまた安堵の表情を浮かべた。
「優」
短く名前を呼び、ボブヘアの女子生徒は視線を動かした。
「いるよ、大丈夫」
「よかった」
ニコッとボブヘアの生徒は優に笑いかけた。
(あれ?なんで私の名前…)
優の疑問は恐怖を顔に浮かべ固まったボブヘアの女子生徒を見て吹き飛ぶ。
慌てて辺りを見ると、全員が恐怖で目を見開き、一点を見ていた。
恐る恐る振り返ると、そこには巨大な島ほどあるタコが吸盤のついた腕をウネウネくねらせながらこちらを睨みつけていた。
優は恐怖が這い上がり、声を失う。
「クラーケン」
「んなこと言ってる場合か!逃げろ!」
メガネの青年の腕を引き、泳ぎはじめた黒髪の青年の声でまるで金縛りが解けたように全員が泳ぎはじめた。