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芸術家の指輪

 その指輪は、エヴェリーナ商会が作り上げてきた指輪の中でも最高傑作と呼べる一つだ。

 ある宝石を削り出したそれは、付けた者にとても美しい幻を見せる。幻は淡く輝き、万華鏡のように常に異なる美しさを映し出す。

 その指輪を見出したのは、一人の売れない画家だった。資産家の父の期待に応えられず、遺産を食いつぶしながら絵を描き続け、画商に安く買い叩かれてはその金で酒瓶を煽る毎日。しかしたまたま父の使っていた小物入れから指輪を見つけ、気まぐれからそれを指にはめてみた。

 その瞬間、彼は絶叫した。

 慌てて指輪をはずして、何事かとやってきたメイドを部屋から追い出し、彼は震えた手で指輪を拾う。そしてもう一度、指にはめた。

 そこには、この世のすべての輝きがあった。この世のすべての旋律があった。文字に出来ないあらゆる言葉に満ちていた。

 ゆっくりと、今度はゆっくりと指輪をはずして、彼は大きく息を吐いた。こんなものが、こんなものがこの世に存在していいのか。これはこの世界のすべての美しいもの、そのものだ。ならば。

 ふと思い至ってしまった。ならば、今まで自分が描いてきたものはなんだ? 静物。果物。鳥。裸婦。風景。今まで描いてきたものは何もかも認められなかった。当たり前だ。指輪が映し出す光景は、今まで見てきたものが腐り果てた汚泥でしかないことを懇切丁寧に教えてきたんだ。なんて残酷なことなんだろう。今まで筆に乗せてきた色など、この美しいものの前では色褪せてしか見えなくなった。

 彼は自分の部屋に閉じこもった。描いている最中だった油絵をキャンバスごとパレットナイフで切り裂いた。そこに描かれていた窓から見える街並みなど、彼にはとっくに見えなくなっていた。

 翌日。たった一日で、彼は絵を描き上げていた。指輪が映し出す美しさを表現しようとして、必死で筆を動かし続けた。窓から差す朝日に照らされた絵を見て、彼は呻いた。

 違う! こんなものを描きたかったんじゃない。こんなもの、美しいものを一割どころか砂粒一つ分すらも表現できていない!

 それから彼は、ひたすらキャンバスの前で筆を動かし続けた。絵の具を混ぜ、何度も白紙の上に重ねて、出来上がったそれを見ては、辿りついていないことに絶望した。何度も何度も駄作を重ねては、指輪の魅せる美しいものをキャンバスに写せないことに悩み苦しんだ。いっそ指輪を捨ててしまえば。そう思いながら指輪を外す指は震えて、諦めるという選択を選べない自分にまた苦しんだ。

 絵の具は減り、キャンバスにも限りがある。それらを買うために、画商に絵を売ろうとして、彼は気付いた。画商は今まで自分の絵をろくに見ようとしなかった。一目見て気に入るか気に入らないかを決めるこの画商は、美しいものを描こうとして描けなかった彼の失敗作を見て、明らかに目の色を変えて、震えながら言った。

「本当にお前が描いたのか」

 画商は驚くほどの値段をその絵につけてから、呟いた。笑ってしまいそうだった。彼が失敗作と見做した絵を、画商は、美しい、などとのたまったのだ。お前はあの指輪の見せる美しいものを知らないから言えるんだ、と何度も口に出そうになったが、我慢した。

 それからも男は絵を描き続けた。美しいものを魅せる指輪の映し出す世界を見続けて、それに近づこうと幾度も挫折を繰り返した。しかし彼が絵を描くたびに、失敗作につく価値は跳ね上がっていった。それは彼が老いてもなお上がり続けていた。

 年老いた画家は筆を動かし続ける。妻を持たず、弟子を取らず、ただひたすらに絵を描き続ける。美しいものに近づくために。けれどもいくら描いても、辿りつけると思えない。あの輝きに似せることすらも。何千枚目か数えるのも止めてしまった失敗作の完成に、画家はうなだれ、またあの指輪をはめようとした。

 無い。どこにも無い。失くした? 誰かが勝手に売ってしまったのか? 指輪は彼の下から去っていた。老いた画家は青ざめていた。もう二度と、あの美しいものを見ることが出来ない。もう二度と。そういえば、最後にあの指輪をはめたのはいつだったか。最後に美しいものを見たのは。

 画家は筆を折ろうとした。もはや絵を描く意味は無い。もう、自分に美しいものは描けない。いやそもそも、最初から美しいものなど描けていないのだ。

 ランプの火がふと消えて、画家は気付いた。夜明け前なのに外は不思議と明るく、薄い青に滲むようだ。

 窓を見て、そこに、太陽が昇った。

 光が差し込む薄暗い部屋。色褪せた部屋に、色を取り戻していく。

 老いた男は、その光景を見続けていた。美しいものを見るように、画家は光を見ていた。


 ある高名な画家が最期に描いた絵は、それまでの作風からは考えられないほど静かで、穏やかな絵だった。窓から見た夜明けを描いた絵は、高名な画家のものということでそれなりに評価はされたが、それまでの作品ほどの価値はつかなかった。

 その絵はある画商の店先に飾られていた。夜明けの絵を見ていた男は、大きく息を吐いた。そして自らの指にはめられていた指輪を見て、それを外した。


 後日。それまで荘厳で美麗な音楽を生み出してきた音楽家が、それまでの作風とは異なる曲を発表した。才能が尽きたと嘲笑う者はいたが、新しい境地を開拓したのだと賛美する人もいた。

 ある彫刻家は、それまで美しさを追求した作品を彫り続けた。しかしある日、彼の作品は突然ひどく荒々しくなった。替え玉に作らせていたのだと陰口を叩く者もいたが、それでも彼の作品は人を魅了させ続けた。

 ある建築家は、黄金比を突き詰めたような宮殿を次々と建てていった。だが彼が最後に建てたものは、自分のための粗末な家だった。

 ある服職人は、貴族、どころか王家にすら重用されるドレスを仕立てた。老いた彼が最後に手掛けたのは、孫のための簡素な、けれど他のどんな貴族よりも美しく見せるウェディングドレス。


 ある日、指輪職人見習いの少年が、芸術家の指輪と呼ばれる指輪を手に入れた。曰く、その指輪を付けた者は、芸術家としての高い名声を得られるという。眉唾物の話だが、これまで大成してきた芸術家の中にも、指輪を愛用する人物が何人もいたと聞く。

 これさえあれば、かのエヴェリーナ商会の指輪に匹敵する、いや、それすらも超える指輪を作り出せるだろうか。

 そんな夢想をしながら、彼は指輪を────


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