追憶の指輪
女王イザベルは去年即位したばかりだった。通例では男子が王となるのだが、王太子であった兄は、父王と共に戦死した。
酷い戦いだった。諸国は戦うことができないほど疲弊し、皮肉にもそのおかげでつかの間の平和が訪れていた。今ここで国力を回復しなければ、この国に未来はない。イザベルは必死で国土の復興に務めた。
内政も板についてきたころ、イザベルの元に一人の胡散臭い商人が現れた。
「女王陛下、ぜひこの指輪を買っていただきたい。これは今、あなたに最も必要な物です」
女王は訝しんだが、自ら光を放つような緑色の、見たことのない石が付けられた金の細い指輪は美しく、興味が湧いた。
「商人、この指輪は何じゃ」
「これは、遥か東の果てで採れる翡翠という石でございます。東の果ての遥か昔の王妃が身に着けていた髪飾りを指輪に仕立て直しました」
女王は指輪を手に取る。
「この指輪はエヴェリーナ商会の手によるものです。女王陛下と言えど、この後、手にする機会があるかどうか……」
「しかし、我が国は見ての通り復興の途中、無駄な出費は――」
「ご安心ください。そんなに高くはございません」
提示された額は、女王がためらわず使うことのできる額だった。とうとう商人の言葉に心を動かされ、女王はその指輪を買ったのだった。
忙しい彼女はしばらくの間、指輪を宝石箱に眠らせていたが、執務に疲れたある夜、そっとその指輪を出してはめてみた。エヴェリーナの指輪と言えば、不思議な力が宿るという。はたしてこの指輪はどんな力が秘められているのか……
何も考えず、指輪をはめたままくるくると回し弄ぶと、ふいに白い煙か霧かがたちこめ、世界が暗転した。
これが指輪の力なのだろうか――
気が付くと霧が晴れている。霧の向こうは先ほどと同じ夜であった。しかし、今日は新月のはずなのに、こちらは満月がかかっている。目の前には見た事のない異国の庭園と建物が広がっていた。
(ここはどこじゃろう……)
イザベルはためらいながら歩みを進めた
広い庭園はしんとしていて、時折どこかで魚の跳ねる音がする。茂みから覗くと広い池の中にはあずまやが建ち、屋根つきの回廊で建物とつながっていた。とその時、回廊を少しぎこちなく歩く優雅な人影が見えた。
人影は一抱えほどの弦楽器を持ち、やがてあずまやの欄干に腰を下ろすと、弦をつま弾き始める。リュートのようであるが、耳馴染みのない調べ。音楽にも造詣があったイザベルは心ひかれた。少し近づくと弦楽器に合わせて歌う声も聞こえる。これもイザベルの知らない言語、耳馴染みのない発声方法だった。
しばらくすると人影は元来た道を戻り、建物の中へと消えてゆく。イザベルが再び指輪をくるりと回すと霧が立ち込め、元の部屋へと戻っていた。
イザベルは奇妙な霧の夜から戻った後、しばらくあの不思議な庭園、そして人影の事が頭から離れなかった。そしてある夜、再び指輪を身につけ、くるりと回したのであった。
再び訪れた時、あの庭はやはり満月だった。
人影はすでにあずまやに来て歌っていた。イザベルはためらわず人影に近づき、声をかけた。
「こんばんは、良い夜じゃな」
とりあえず、これくらいしかかける言葉が浮かばなかったのである。人影はイザベルと同じくらいの年かっこうの女であった。
「ええ、良い夜で」
女は優美に笑う。
「突然声をかけた私に驚かないのか」
「ええ、ここを訪れる人なんておりませんけど、今宵は満月。不思議な事が起きても、悪いことは起こらないと決まっております」
「そなたは何者じゃ。ここはどこじゃ」
矢継ぎ早に質問するイザベルに、女は少し笑って答える。
「私は夏 香月、皆は夏妃と呼びます。ここは都のはずれ。皇帝の離宮です。私の住まいですよ」
それから二人はすぐに意気投合して、イザベルは仕事の合間に何度も夏妃のもとへ訪れた。指輪の力か、不思議と言葉は通じあっていた。イザベルも夏妃も、互いが初めての友と呼べる存在であった。相談を持ちかけるのはいつもイザベルであった。女王として、年頃の一人の女性として、イザベルは多くの問いを夏妃に投げかけた。夏妃はイザベルとほとんど同じ年だったが、学問、思想、哲学、兵法など多岐にわたって造詣が深く、何でも納得のいく答えをイザベルに示した。
ある時、イザベルは夏妃に問うた。
「そなたは素晴らしく優れているのに、なぜこのような場所に押し込められているのか」
すると夏妃は悲しそうに笑って、小さな……いびつなまでに小さな足をさすりながら答えた。
「この国では女は飾り物。このように足を小さく折りたたまれて、自由に出歩くことすらままなりません。それに今、国の政治は皇后一族が牛耳っています。私の父は宰相でした。最期まで皇后に盾つきました。そんな父を持つ私は邪魔者。殺されてもおかしくはないのに、皇帝は私をここに幽閉することで、私を守ってくださっているのです」
ある日のことだった。
イザベルがいつものように指輪を回して離宮に赴くと、何やら様子が違っていた。いつも静かな夜のはずが、塀の外では空が赤くなるほど街が燃えている。時折兵士の怒号や女子供の悲鳴が聞こえた。まだ離宮に火の手は回ってはないものの、明らかに時間の問題であった。
「何の騒ぎじゃ」
イザベルは今まで入った事のなかった屋敷の中に入ってゆく。廊下で何人か使用人とすれ違ったがみな異様に慌てていて、イザベルの事など気が付かないようであった。イザベルはどんどん屋敷の中を進んでゆく。そして、とうとう一番奥の部屋で、夏妃を見つけた。
夏妃は短剣を自らに向け、今まさに喉元に突き刺そうとしていた。
「おやめなさいっ」
イザベルが叫ぶと、夏妃は魚が陸で跳ねるように身を震わせ、短剣を取り落とした。
「何をしているのじゃ、自害など私が許さない」
「イザベル、あなたも逃げないと。蛮族が都まで攻め入りました。皇帝も殺され、もう国は滅びます。私も国と共に逝きます。それに、捕まれば死よりもつらい目にあうでしょうから。さ、早く」
落ち着きを取り戻したように見せ、短剣を再び拾い上げながら言う夏妃の手を、イザベルは叩き落とした。
「今ここで王妃として死ぬのなら、王妃の自分を捨てて私の元に来なさい。そなたの才は知っている。その力、私の元で存分に振るうがいい。私の国は小国だが、そなた一人養うくらいならわけもない事じゃ」
「イザベル、あなた……」
近くで悲鳴が上がる。とうとう屋敷に火が放たれたのだ。兵士の怒号がなだれ込んでくる。
イザベルは急いで夏妃の手をとると、急いで指輪を回した。にわかに立ち込めた霧に、赤く燃える空も、怒号も悲鳴も、夢のように遠くへ流れ去っていった。
最初、夏妃は女王の変わった友人という立場で王宮に迎えられた。美しい容姿、纏う異国の香り、優雅な物腰、人当たりの良い性格、そして何よりも溢れる知性と才能で皆の人気と信頼をとりつけていった。そして、先王時代からの老宰相が一線を退いた後、彼女はルーナ・エスターテと名乗り、女王の右腕として宰相を務めた。彼女は新しく杖をあつらえ、小さく不思議な形の足でも颯爽と歩いたが、国の靴屋は彼女のための靴作りに苦労したという。
七十年戦争において、没落したり断絶した王族や貴族の家系は多かった中で、イザベル女王の国は小国ながら生き残り、後に列強の一員となってゆくことになる。
イザベルと夏妃は、王と臣下に立場が変わった後も、終生唯一無二の友人として過ごし、午後には二人だけの庭園で茶や菓子を楽しむ姿が見られたのだった。