海の魔女の指輪
「これくらいの報酬でいかがでしょうか」
人ではないと一見してわかる奇怪な老人が包みを広げる。
レリシア・エヴェリーナは気だるげに頬杖をつき、ため息をついた。
「深海のサンゴに大粒の真珠、海龍の鱗に人魚の涙。……こんなにそろえられたら、嫌とは言えないじゃない。多すぎる気もするけど」
「良いのです。我が主は貴女様の指輪にはこれほどの価値があると考えておられるのですから。それではよろしいですかな」
「仕方ないわね、でも納期は約束できないし、悪い事には使わないって誓ってほしいものね。それでも良いなら引き受けましょう」
「では、交渉成立ですな」
老人は嬉しげに膝を叩くと立ち上がり、レリシアに握手を求める。レリシアは苦笑いしながらその手を取った。
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隻眼のハンスは朝から酒場でくだを巻いていた。彼はついこの間、戦争から帰ってきたばかりだった。まだ血の滲む眼帯が生々しい。
「ああ、もう、アンメルヒルはひでぇもんだったぜ、英雄も兵士もあったもんじゃねぇ。死体、死体、死体、そればっかりだ」
また杯をあおって、下品にげっぷした。
「そんなに呑んじゃあ、傷に障らないかい」
店主は諌めたが、ハンスは鼻で笑って抱えたボトルを傾ける。
「ちょっとお兄さん」
ヴェールで頭を覆った女が、彼の肩を叩いた。
「あん?」
「あなたがいいわ。報酬ならたっぷり払うから、指輪を届けてほしいの。大丈夫、報酬はその指輪が払ってくれるし、行き先だってなるようになるから、おねがいね」
女は捲し立てて、ハンスの前に豪奢な指輪を置くと、あっという間に去って行った。
「はあぁ?」
ハンスは茫然と指輪を見た。
とりあえず、指輪をはめてみたハンスだが、不思議なことにその日から金に困る事はなくなった。
賭け事は常に勝ち、道を歩けば財布を拾い、林を歩けば宝石を見つけ、川で釣りをすれば魚の口から金貨が出てくる。こんな調子だった。
「こりゃぁすげぇ」
隻眼のハンスは好きなだけ酒を呑んだ。その時の彼は、その日暮らしで好きな酒が好きなだけ呑めればそれで良かった。酒は辛い戦場の記憶を忘れさせてくれるのだから。
ある日酒場でいつものように飲んでいると、店主が指輪に興味を持った。
「あんた、それをどこで手に入れたんだい」
ハンスは事の顛末を、酔った勢いのままペラペラと喋った。店主は少し考えて言った。
「そりゃ……エヴェリーナ商会の指輪じゃないかね。どうもこの近くに工房があるらしくって、俺は客が持っているのを見た事あるんだが、なんかこう、似てるんだなぁ、雰囲気が」
二人の会話に聴き耳立てていた客の一人が立ち上がる。
「エヴェリーナって、本当かい?なあ、オレに譲ってくれよ。探してるんだ。金ならいくらでも出すから」
ハンスは笑って、話にならないと手を振ると酒場を後にした。
それから隻眼のハンスは少し金を貯めるようになった。彼がエヴェリーナ商会の指輪を持っていると噂が広がり、金持ちに商人、貴族に泥棒まで色々な人が押し掛けるようになったのだ。うるさく思ったハンスはこの国を出ることにした。
「せっかくなら船旅も良いぞ」
ハンスは船に乗るために海の方へと旅を始め、酒場から酒場へと飲み渡りながら船代を貯めていった。飲まなければもっと早くに貯まっただろう。しかし、酒を手放すことは出来なかった。
ずいぶん時間をかけたが、彼は船に乗った。それは海岸づたいに進み、遠い遠い異国まで貿易をする船だった。
ある霧の深い朝、船に美しい歌声が響いた。客たちはその声にうっとり聴き惚れたが、船乗りたちは青ざめた。船がいつの間にか進路をそれて、海の魔女の縄張りへと迷い込んでいたのである。必死に船を元の航路へ戻そうとする船乗りたち、ふらふらと甲板に誘い出される乗客たち、船は騒然となった。
「あーら、こんなに大きい船は久しぶりだわぁ」
甲板の手すりに美しい女がもたれかかる。しかし彼女の下半身は魚だった。人々を美しい歌声で誘い、喰ってしまう海の魔女だ。
「もうダメだ……」
船員たちがへたり込む。魔女は手始めに一番近くにいたハンスに手をかけた。手首をつかみ、海中に引きずり込もうとして、はっと指輪の存在に気が付いた。
「あら、何?もしかして、これを届けに来てくれたの?」
ハンスは一瞬何の事かわからなかったが、指輪の事だとわかると涼しい顔をして、
「そうだ。でなければこんな所まで来ないだろ」
と言い放ち、指輪を魔女に渡した。
魔女は指輪をはめ、嬉しそうに手をかざして無邪気に笑う。
「ありがとう。ずっとこれが届くのを待っていたの。本当にありがとう」
彼女はハンスの頬に口づけをして海に飛び込んだ。彼女が船首をぐいっと押すと、船は再び動き始める。魔女はまた嬉しそうに手を振ると、今度こそ波間に見えなくなった。
海の魔女の海域から無傷で帰った船は初めてだったが、ハンスは船を降りた。
魔女の海域を出た後、船上で船乗りといつものように小金をかけた賭け事をしたが、さっぱり勝てなくなっていた。彼は思い出した。あの指輪は元から自分の物ではなかった。今までの幸運が、あの女の言っていた『指輪を届ける報酬』だったのだと。
降りた港で有り金のほとんどを使い、海辺に小さな家を買った。そこで彼はつきものが落ちたような生活を始めた。昼は海岸で魚を釣り、夜は前の住人が残していったリュートをつま弾く。酒は飲まず、女をつくる事もなく、淡々と色のない生活を送っていた。
そんなある日、家の戸を叩く者があった。彼の家を訪れるものは村の世話焼きばあさんか、色々取り立てに来る村長くらいだったから、ハンスは警戒もしなかった。
「いるよ」
ドアは遠慮がちに開いて、隙間から顔を出したのは美しい女だった。しかし残念なことに、目は泣き腫らして真っ赤になり、顔は涙と鼻水で酷いありさまだった。
「ふられちゃったあぁぁぁぁ」
女は叫ぶや否や、家に飛び込んできてハンスに抱きついた。ハンスは突然の事に目を白黒させて立ちつくす。そしてようやく言った。
「いやいや、誰だあんた。あー、家を間違えてないか?」
「覚えてないの? 私、あんたが指輪を届けてくれた海の魔女よ」
ハンスは女の言葉にはっとした。なるほど、確かに言われればあの時の魔女と同じ顔だ。しかし、
「……尻尾は?」
「指輪で消したわ。そういう指輪なの。好きな姿になれるのよ。私はあれでエルフになったの。前にね、海岸に森のエルフの王子様がいらっしゃって、んもぉ――かっこよくって!」
「…………」
捲し立てる魔女に、ハンスは呆れて言葉が出ない。
「好きになっちゃったんだけど、私、海の魔物じゃない?ぜぇーったい無理だと思ってね、飼ってた魚に頼んで、指輪、注文したの。エヴェリーナにっ。でもさぁ、すぐにばれちゃってね。もぉ、命からがら逃げてきたわけ」
「……………………」
「悲しみに暮れてたら、なんだかあんたのこと思い出しちゃってさ、指輪に着いた臭いを頼りにここまで来たの。ね、私をここに置いてくれない?」
「断る」
即答した。が、魔女は引き下がらず、
「おねがい」
「嫌だ、海へ帰れ」
「帰りたくないのよぉ。あんたに惚れちゃった」
「嘘つけ」
「嘘よ。お願い、帰れないの。海の魔女が恋をしたら手ぶらじゃ帰れない。ね、私を助けると思ってさぁ」
「なんであんたをわざわざ助けなきゃならんのだ。帰れ」
「ダメ?」
「ダメだ」
捲し立てられ捲し立てて、ハンスはため息をついた。魔女はふてくされてハンスから離れる。その様子を見て、また彼はため息をつく。
「しかし、まあ、もう夜だし、夜に知らない海を帰れというのも酷だろう。今夜だけ泊めてやるから、朝になったら帰れよ」
「いいの? 居ていいの?」
海の魔女は目を輝かせた。ハンスはうんざりしながら、
「ああ、だが朝が来たら出ていけ。いいな?」
だが、海の魔女は朝になっても出て行かなかった。それどころか彼女はハンスの家に居座り続けた。ハンスは半ば無視し、残りは出てけ出てかないのやり取りをしていたが、力でも口でも彼女にかなわないと悟っていたので、本気で追い出す事もなかった。二人はなし崩し的に一緒に暮らしていた。かいがいしくハンスの身の回りの世話を焼く彼女に、次第に出ていけとも言わなくなり、そうして何年かの月日が過ぎた。
終わりは突然やって来た。ハンスが病気で床に伏せたのだ。近頃この界隈で流行っている病で、全滅した村もあるという不治の病だった。海の魔女は必死に看病したが、ハンスの命を繋ぎとめることはできなかった。
「……おい、おまえ」
いよいよという時、死の床でハンスは海の魔女を呼んだ。
「何でしょう? のどが渇きましたか? 水ですか? それとも──」
「いや、……違うんだ」
「?」
「いままでありがとう。長い間、冷たくあたってすまなかったな。死体でもよかったら、俺を連れて海へ帰ると良い」
「…………え?」
海の魔女は目を見開いた。
しばらく無言のままハンスを見つめた。
そして気が付いた。
「あなた――」
ハンスはもう、動かなかった。
海の魔女は泣いた。泣いて泣いて、涙が枯れても、喉がつぶれても、泣き叫び続けた。でもどんなに泣いても、ハンスは戻ってはこなかった。
やがて泣きつくした彼女は、ハンスの遺体を抱きしめて、海へと帰っていた。
後日、海岸に人魚の死体が流れ着いた。人間の頭蓋骨をしっかりと抱き、手には指輪をはめていた。人々は気味悪がったが、指輪が素晴らしい出来の物だとわかると死体の指から抜き取った。そして、その時の指輪は「海の魔女の指輪」と呼ばれて、人魚と人間の遺骨とともに、現在まで伝わっている。