夜魔の指輪
カーテンの閉め切られた部屋で、彼女は目を覚ます。
ここに太陽は影も作らない。
「いいかい、オースターラ。この指輪に願うんだ。健康で丈夫な体を。太陽の下で走り回れるくらいの体をね」
オースターラはベッドから起き上がって、大好きなパパの言葉を聞いた。隣には不安そうだけど微笑むママの姿もあった。
「エヴェリーナ商会はだいぶ渋ったが、ようやく手に入れたんだ。持ち主を望む体に変える魔法の指輪だよ」
パパの手には薄い桃色に淡く輝くふしぎな指輪。オースターラの手を取って、パパは指輪をはめてくれた。
「ずっとベッドの上はつらかったろう、オースターラ。これで堂々と陽の光を浴びていられるんだ」
うれしそうに、本当にうれしそうに、パパはオースターラを抱きしめた。抱きしめられてオースターラもうれしかった。
うれしかったけれど。
けれど、けれども。わたしは、おひさまの光は好きじゃないわ。
──透き通る白い髪。血のように赤い眼。春に生まれたオースターラは一週間後、十四歳になる。
いつからこうなることが決まっていたのか。オースターラは太陽の光に脆かった。
パパは悲しんだ。大事な一人娘がどうしてこんなことに。
ママは悲しんだ。こんな風に産んでしまった私が悪いの。
オースターラは悲しんだ。わたしがいるから、パパもママもかなしいの。
娘の部屋は陽の当たらない北側。窓はいつも閉め切って、カーテンで閉ざされた部屋をランプが照らす。
昼間は彼女はひとりぼっち。パパもママもおしごとでいそがしいの。
外のできごとを彼女は知らない。だから家庭教師のせんせいが来ていろいろ教えてくれる。おべんきょうの時間はすこしだけ、好き。
好きだけど。
けれど、せんせい。わたしは、せんせいが好きじゃないわ。
──雪のように白い髪。血のように赤い眼。春に生まれたオースターラは六日後、十四歳になる。
屋敷はメイドの人たちがお掃除お洗濯と忙しく駆け回る。オースターラの部屋も一日一回、メイドのベルティナが掃除に入る。
「お嬢様、お食事にしましょうか」
今日のランチはハムと野菜をパンで挟んだサンドイッチ。お茶を飲みながら、時計の針が来ないことを祈る。
時計の針は来た。鐘の音はひとつ。家庭教師のせんせいが来る時間。窓の外は光であふれてる。
「お嬢様。あと一時間後には先生が来ますからね」
オースターラは知っている。これから一時間、時計の針が二時を指して、鐘の音が二回鳴るまで、せんせいとベルティナは二人っきりになる。
「お嬢様も、先生が来るのは、楽しみでしょう?」
ええそうねリザ。わたしはおべんきょうの時間は楽しみだわ。
楽しみだけど。
けれど、ベルティナ。わたしはあなたとせんせいのしていることを知ってるのよ。
──雪のように白い髪。血のように紅い眼。春に生まれたオースターラは五日後、十四歳になる。
指輪の淡い桃色の光が少しだけくすんでいた。
パパはオースターラがちっとも変わらないことに首をかしげた。もしかして偽物をつかまされたのか、なんて呟きながら。
窓の外は星明かり。暗い部屋をランプが照らす。
「絶対に。絶対にきみの体を治すと約束しよう、オースターラ。きみと太陽の下で一緒にピクニックに行きたいんだ」
オースターラは太陽が好きじゃない。パパは太陽の人だから。パパとは夜でしか会えないから。
パパ。愛しのパパ。夜しか会えない私のパパ。せんせいよりかっこういい人。
わたしの体をなおすと約束した人。約束してくれた人。しあわせ。
しあわせだけど。
けれど、パパ。わたしは今の体しか知らないのに。一体何に直るというのかしら。
──雪のように白い髪。血のように紅い眼。花びらの舞う月夜に生まれたオースターラは四日後、十四歳になる。
指輪の淡い桃色の光が少しだけくすんでいた。
ママはオースターラの様子を不安に見ていた。魔法の指輪をうさんくさいと思っていたのだろうか。
窓の外は月明かり。暗い部屋をランプが照らす。
「ねえオースターラ、私のかわいい娘。なにか、なにか変なことになったら、すぐに指輪を外すのよ」
オースターラは太陽が好きじゃない。ママは太陽の人だから。ママとは夜でしか会えないから。
ママ。愛しのママ。夜しか会えない私のママ。微笑む姿が誰よりもすてきな人。
わたしのことをいつでも心配する人。心配してくれる人。しあわせ。
しあわせだけど。
けれど、ママ。わたしは今の体しか知らないのに。一体何を変だと感じるのかしら。
──幽鬼のように白い髪。血のように紅い眼。花びらの舞う月夜に生まれたオースターラは三日後、十四歳になる。
オースターラは本が好き。物語が好き。パパやママが買ってきてくれる本は、嫌いなお昼時のともだちだ。
一番のお気に入りは、おそろしい怪物の物語。夜な夜な喉が渇く男の正体は、血を吸って永遠に生きる夜魔。
だけど彼は太陽の下にいられない。
まるでわたしみたい。
太陽の下にいられないわたしは、誰も来ないお昼時が、メイドのベルティナとせんせいが二人きりでしているお昼時が嫌い。
太陽の下にいられないわたしは、パパもママもいる夜が、外に出ていられる月の夜が好き。
まるでわたしは、物語の夜魔のよう。健康で丈夫な体も、ピクニックも知らない私は、夜が好き。
好きだから。
ねえ、オースターラ。わたし、パパやママの望む体にはなれないわ。
──幽鬼のように白い髪。太陽を拒む紅い眼。花びらの舞う月夜に生まれたオースターラは二日後、十四歳になる。
指輪の淡い桃色の光は消えた。残ったのは、鈍く輝く血色のヘリオトロープ。
その日、家庭教師のせんせいと、メイドのベルティナが、誰も来ないはずの部屋で重なり合って倒れていた。二人とも首筋に痕を残して。
陽が沈んでから帰ってきたパパとママは、せんせいとベルティナのことを聞いて、慌ててオースターラのようすを見に来た。
「どうしたの、パパ。ママ」
オースターラは微笑んで尋ねる。ママのようなすてきな笑い方は出来ただろうか。なのに、
「……オースターラ?」
どうしてかパパの顔はひきつっている。ママも口元を抑えて、こわがって、る?
「なあに、パパ」
「きみの、くちもとの、赤いものは、……なんだ」
──幽鬼のように白い髪。太陽を拒む紅い眼。薄暗い部屋に生まれたオースターラは明日、十四歳になるはずだったのに。
春節の意を持つ名の娘、オースターラは真っ赤に浮かぶ月夜に飛び立った。背中に生えた翼をひるがえして舞う。今ここに夜を総べる魔は産み落とされた。春宵の姫君は月のひざしを浴びて笑う。頬に流れる涙も忘れて狂い笑う。
化物。ばけもの。バケモノ! 愛しい二人の罵る声がこだまして、狂い笑う。
雪のように透き通る、幽鬼の如き白い髪。
血のように赤く紅く輝く、太陽を拒む眼。
花びらの舞う春夜、薄暗い部屋に生まれたオースターラ。
その指には、鈍く輝く血星石の指輪がひとつ。
──オースターラはもう二度と、十四歳にはなれない。
「クォート家の没落ねぇ」
かの名高きエヴェリーナ商会の姉妹、その姉の方は、先ほど行商から聞いた情報を思い返していた。
クォート家といえばよく覚えている。治療や回復を目的とした指輪くらいならいくらでもあるのに、誰かの体を治すために、「体そのものを作り変える」指輪、なんて無茶苦茶なオーダーをしてきたから。
出来上がった指輪は彼女自身、かなりの出来栄えだったと自負している。使い捨てになってしまう欠点はあるものの、一時的な変身ではなく、さなぎが蝶になるような変化を所有者にもたらすのだから。
けれども家が没落とは、一体何があったのやら。貴族の世界はまことに怖ろしいもの、で済ましてしまえばいいのだろうか。
「それがねぇ。なんでも怖ろしい夜魔に襲われたんですって」
買い物帰りの途中、井戸端会議をする主婦の輪から妙な噂話が聞こえる。夜魔? 人の血を吸い、太陽を嫌い、夜に君臨する魔の者と聞いているけれど。その噂は既に大きく広がっているらしい。
話によるとその夜魔は、白い髪に赤い眼の少女の姿をしていて、その美しさに魅了されれば一滴残らず血を吸われて殺されるという。
「この噂話、続きがあってね」「あら、なぁに?」「私の親戚の娘がそこのメイドとして雇われててね」
主婦の一人が語り出す。その夜魔こそ、クォート家の一人娘だという。
夜魔として生まれた娘を恐れて屋敷に封印されていて、それが解き放たれたのだと。
「あら。私が聞いたのは違う話よ」「あら、どんな話?」「知り合いが見たのよ、例の夜魔を」
別の主婦が語り出す。その夜魔は元はただの村娘であり、悪魔から渡された指輪によって夜魔へと変貌したのだという。
その指にはめられた赤黒い指輪こそ、ただの人間を魔の者へと変える、夜魔の指輪なのだと。