春の指輪
「ごめん、もう一緒に遊べないの。遠くに行かなくちゃいけないの」
ルチア・エヴェリーナは目に涙をいっぱい浮かべ、草で編んだ指輪を差し出した。
「お別れに、作ったの。大切にしてね」
マリーはその指輪を受け取り、そっと指にはめてみた。
「私、マリーのこと忘れないわ。あなたも私のこと忘れないで」
ルチアは何度も振り返り、去って行った。
マリー・フェイデンは親友を一人失った。六歳の春のことだった。
マリーは指輪を大切にした。草で作った指輪だから、本来ならばいつかは枯れ朽ちるはずであったのに、その指輪はいつまでも青々として、春になると花すら咲かせるのであった。はずそうとしても指輪は指から抜けることはなく、マリーの成長とともに大きくなった。
やがて十回目の春が過ぎるころ、マリーは村でも評判の美しい娘に育った。彼女は靴屋の娘だった。父は国でも腕利きの靴屋で、王宮にも出入りしていた。彼女は父をよく手伝い、自らも父について王宮へ行くことがあった。そんな彼女を見初めたのは、事もあろうか王宮の主……その国の王であった。
王には妻子があった。王は彼女への思いを胸に秘め、彼女に美しい金と象牙でできた竪琴を贈り、王室付きの吟遊詩人に手ほどきを受けるように命じたのである。
マリーはすぐに竪琴が気に入った。めきめき上達し、あっという間に吟遊詩人から教えられることはなくなってしまっていた。彼女が弦をつま弾くと、旋律は鳥や蝶に姿を変える。彼女の声は花になり、あっという間に足元には青々とした草が生い茂り、壁には蔦が這いまわる。王はますますマリーを気に入り、王宮に眺めの良い一室を与え、幽閉した。そして彼女の存在を隠し、彼女の声も竪琴も春も、全部ひとり占めしたのだった。
王は政務の間にマリーの部屋を訪れ、全てを忘れ疲れを癒す。不思議な事に、マリーの音楽は本当に王を少年の日へと連れ戻してくれたのだ。治政の苦悩をまだ知らない、無邪気と好奇心に満ちた少年に。マリーも最初は畏縮していたものの、少しずつ心を開き、次第に王に心ひかれるようになった。
そうなってしまっては時間の問題だった。
最初に異変に気が付いたのは王妃だった。
王妃は政略結婚でこの国に嫁いできたものの、悲しいことに心から王を愛していた。時折いなくなり、帰って来ると生気がみなぎり若返ったようにすら見える。王妃は最初疑うことに戸惑った。王は彼女に対してずっと誠実だったし、王子や王女に対しても良い父親だった。しかし、疑念が生まれれば消し去ることは難しい。かといって、誰かに相談しよう事なら、事によっては一大事になってしまう。相談することも真偽を確かめてもらうこともできない。
そうしているうちに月日はたち、とうとう我慢ならなくなった王妃はこっそりと王をつけることに決めた。
ある夜、王は寝室を音もなく抜け出した。眠れぬ王妃は寝たふりをし、王がドアを出るとそっとその後を追った。王は「春の間」と呼ばれている部屋の前で止まった。そこは先王の妃で王の母が生前使っていた部屋だったが、現在は物置になっているはずである。王は音もなくその部屋に入り、王妃はドアに耳を当て息を殺した。
内容は聞き取れないが、男女の話す声が聞こえ、やがて優しい歌声と竪琴の音が聞こえてきた。
どれくらい王妃はその音に耳を傾けていただろうか。夜も更けるころ、王妃はそっとドアを離れた。
次の日、王妃は再び「春の間」を訪れた。ノックはしないで、ドアノブを握る。鍵はかかっていなかった。部屋は片付けられ、床にはカーペットがひかれている。部屋の中央に、ドアを背に置かれた椅子に若い女性が座り、竪琴をつま弾いていた。
「あなたは……」
王妃が思わずつぶやくと、女がゆっくりと振り返った。その顔に驚いた様子はなく、わずかに悲しみを堪えているように見えた。
「きっと貴女様が訪れるのが、わかっておりました。私はマリー・フェイデン、王の吟遊詩人です」
「吟遊詩人? ……白々しい」
思わず呟いて、王妃はハッと口元を押さえる。
「信じていただけないのも無理はないですわ。でも王妃様、誓って王とやましいことはございません」
「信じられるものかしら。……でも、何故かしら。あなたの目は、嘘をついていないように思える……」
王妃の言葉にマリーは微笑んだ。
「しかし、こうなってしまっては、王妃様も心安らかにいられないでしょう。私はここを発ちます。王には私は身を投げたとでもおっしゃってください」
言うが早いか、マリーはバルコニーへと飛び出し、手すりから身を投げた。あまりに突然のことに、王妃は一瞬動くのが遅れたが、後を追ってバルコニーへ出ると、蔦と花で形作られた翼をはばたかせ、無数の蝶と花びらを従えて、マリーが天空へと羽ばたく姿があった。王妃は言葉もなく、その姿が見えなくなるまで、彼女を見送っていた。
その後、マリーの行方を知る者はいなかった。その代わり、春を従えて諸国を巡るという吟遊詩人が評判になる。やがて「春の吟遊詩人」と呼ばれる彼女は、七十年戦争の初期に「春の魔女」と恐れられ、戦士として歴史に再び登場するのであった。
そして、彼女の指には生涯一つの指輪が輝いていた。枯れぬ若葉の「春の指輪」が。