蚕の指輪
夢路家といえば養蚕業と製糸工場の運営によって財を成した大富豪だ。その一人娘のマユは村で評判の美人であり、そんな彼女の夫、夢路家の婿養子になる人とは、それはもういつまでも幸福の絶頂であることだろう、と誰もが思っていた。
その婿養子になるはずだった青年が、女郎と駆け落ちしたと噂になるまでは。
マユは部屋に閉じこもった。何日も泣き続けて、とっくに涙も尽きてしまった。畳に横たわって天井をぼうっと眺め続けて、他に何もしようとは考えられなかった。
夢路家の婿養子になるはずだった、そして彼女の夫になるはずだった青年は、物心ついた頃から一緒にいた幼馴染だった。ほとんど兄妹のような関係だったけれど、彼と夫婦に成ることはもう当然で、彼のことは全て知り尽くしていたと思っていたのに、彼に仲良い女郎がいたどころか、彼がそのような場所に通い詰めていることさえ知らなかった。彼が、同じ年月を重ねてきたマユよりも、見知らぬ男に身体を売る女を選んだということが、今まで生きてきたマユの十数年全てを粉々に砕いていた。
彼は嘘を吐いていて、マユも夢路の家もそれを真実だと勘違いしていたのか。何故誰ひとり彼の嘘に気付かなかったのだろう、今となってはわからない。
けれど、マユでもわかる。もう夢路家に先は無いということ。跡取りの裏切りに揺るがされた夢路家に追い打ちをかけたのは、虫にかかる病。蚕たちは繭を作り出すことも出来ず次々と死に絶えていき、製糸工場を動かすこともままならず、雇っていた人たちも解雇せざるを得なくなる。そうして失われていく資産を補填するために家具を売り工場を売り、土地すらも売り渡した。当代の夢路家長は無能と罵られ、無根拠な風評も手伝って、信用は坂を転がるように失墜していく。残されたのは、この家と、娘であるマユと、積み重なった借金の山。
もう、未来は無い。そんなもの見えやしない。だったらいっそのこと。
そう思った時、ふと指に熱を感じた。見ると、深い群青色の指輪が、淡く光っている。この工場に勤めていた異国の女性が故郷に戻るとき、餞別に渡してくれた指輪。マユの父は彼女を嫌っていたけれど、マユは彼女を慕っていたから。
「その指輪は過去。おもいでをもう一度見せる指輪なのです」
艶めかしい茶褐色の肌と、尖った長い耳を持つ異国の女性はそう言っていた。回顧の指輪、なのだと。
おもいで。彼との記憶。群青色の光が強くなり、マユの意識は、さかのぼる。
ふと、マユは縁側で目を覚ます。目の前には幼い頃の彼。彼の膝を枕に、マユはその顔を見ていた。どこか遠くを見ているような。夕暮れに照らされる彼の顔が、とても格好よく見えたのだ。
「おれはいつか、あの山の向こうを見たいんだ」
そう、誰にも聞こえないような呟きに、マユは目を閉じて、返す。
「私も、連れてってほしいな」
彼の手がマユの髪をなでてくれる。それがなんだか、とてもやさしくて。そんな夕暮れの茜空が、いつまでも続けばいいと願った。
沈む朱光が彼に陰を落とす。結局マユはその時、彼がどんな顔をしていたのか、知らないまだった。
少し時は進み、彼の体がたくましく、マユの背も伸びた頃。彼は名門の大学に入学し、夢路家から一時離れることになった。マユは彼と離れることを最初は楽天的に考えていたけれど、三日も過ぎると寂しさに涙をこぼした。
手紙はひと月置きに届いた。学校の講義は難解だが面白く、外国の文化も興味深い。友人も多く出来たといったことが書かれ、彼の今いる風景を幾度となく想像した。
あちらは桜は咲いているだろうか。夏の暑さに倒れてしまいやしないだろうか。紅葉は見られるだろうか。雪はあちらも同じように降るだろうか。
こちらに帰ってくる頃には、彼はきっと立派な人になっているだろう。だから、そんな彼にふさわしい妻になれるように、マユはひと月ごとの手紙を送りながら、身を綺麗に、化粧や家事も上手になるように特訓したものだ。確か、異国の女性から指輪をいただいたのは、その頃だったろうか。
大学が正月休みに入った頃、彼が一度こちらに帰ってきた。別人と思えるほど見違えた彼の姿に、マユの胸は高鳴って、少しだけ怖ろしいとさえ思ったけれど。
「マユは相変わらずだな」
そう言ってマユの頭を撫でる彼の手が、眼が、どうしてそれほどやさしいと感じなかったのだろう。
正月が明けて彼が大学へ戻り、それからひと月、手紙が来なくて。きっと正月に来たからそれでいいと思ったのだろうか。けれど二月、三月と手紙は来なくなり、彼が女郎と、異国へ逃げたと、父から聞いたのは、五月の半ばにも、なって、から、…………。
──違う。こんなおもいではいらない。
ふと、マユは縁側で目を覚ます。目の前には、夕日に照らされる幼い頃の彼の顔。
彼の手がマユの髪をなでて、こんな時間がいつまでも続けばいい、って。
それから彼は大学に行って、ひと月ごとの手紙でしかやりとりは無くなって、そして、それで、
──違う。こんなおもいではいらない。
いいや違う。いらないのは思い出じゃない。彼がいなくなる未来。そんなもの、いらない。
マユは縁側で目を覚ます。目の前には、夕日に照らされる幼い頃の彼の顔。
彼の手がマユの髪をなでて、こんな時間が永遠に続けばいい。
ずっとずっと、この茜空の世界の中にいればいい。
明日なんていらない。
夢路の家が滅びる未来なんて、彼がマユよりも見知らぬ女を選ぶ未来なんて、私が幸せになれない未来なんて、いらない。
彼女はそう、指輪に願って────
それから時が経って。
建物の造りが木からコンクリートへと移り変わる中で、古い時代の技術を復活させる活動がにわかに流行り、養蚕業の調査が行われた。そして廃村となった養蚕の村跡、その中でもひときわ目立つ夢路家の屋敷の奥で、奇妙なものが発見される。
とても大きな、カイコの繭。しかもその中には、うずくまるように眠る少女の姿が見えるという。
繭は切っても突いても、どころか風雨や火にすらもなんの変化も起こさず、少女は外からのどんな呼びかけにも反応を見せない。ただ、夢を見ているように眠るばかりである。精密な検査の中で、少女の指に指輪らしきものがはめられていることが判明したが、この指輪がどのような力によって彼女を繭に閉じ込めているのか、それとも彼女が自ら繭に閉じこもっているのか、具体的なところは何一つわかっていない。
蛇足ではあるが、屋敷跡から発見された当主の日記には、養子とした男が恩を忘れ家を裏切り、女郎と駆け落ちしたことが全ての災厄の原因だと罵られている。だが、実際に夢路家が潰れた大きな理由はウィルスによる蚕の病死と推測される上に、当時その原因だという男性が留学生として外国に渡った記録があり、しかも三年後に自国に戻っている。さらに女郎とされた人物は実際にはエルフ系の留学生であり、当主の異人種に対する偏見や思い込みもあったのではないかと思われる。
少なくとも。繭が羽化する兆候は、今のところ見られない。
マユは縁側で目を覚ます。目の前には、夕日に照らされる彼の顔。
永遠の茜空の中で、繭の中の蚕はこの瞬間を懐古し続ける。
ああ、そうだ。だから今も、気付けばマユは、縁側で目を────




