朽縄を打つ
「おはようございます」
「本日もお元気そうで何よりです」
まほが表を歩いていると、村人たちが一斉に頭を下げて道を譲った。
といっても、彼らが敬意を払っている相手はまほではない。まほは、自分の前を行く女主人を上目遣いで見た。
恰幅のよい中年女性だ。金貸し屋の未亡人で、亭主亡き後、女手一つで店を切り盛りして村一番の富豪となったやり手である。
そんな彼女を村の者たちは「女将さん」と呼んでいた。けれど、向けているのは敬意とは言いがたい感情だ。
「女将さん!」
憔悴した顔の男性が声を張り上げた。金物屋の旦那様だ、とまほはすぐに気づく。
皆の見ている前で、金物屋は地面に頭をこすりつけた。
「女将さん! お借りしているお金の返済ですが、今しばらくお待ちいただけないでしょうか!」
金物屋は全身をぶるぶると震わせた。
「つ……妻が病気になってしまい、どうしても医者に診せねばならないのです! お願いします! 来月にはきっとお返しいたしますから……!」
青い顔で懇願する金物屋を女将は冷たい目で見下ろしていた。このあと何が起きるのか察してしまったまほは、いたたまれなくなって目を伏せる。
「最初に決めた期日はしっかり守ってもらうよ。それができないなら、あんたの店をもらうからね」
女将は吐き捨てるように言って金物屋を地べたに置き去りにしたまま去る。まほは胸を痛めながら女将のあとを追った。
「鬼よりおっかねえや」
「まほちゃんもどうしてあんな女の元で働けるのかねえ」
耳のよいまほは、誰かがそう囁くのを聞き取った。自分まで批難されたような気がして罪悪感を覚えずにはいられない。だが、女将に逆らえるような身分ではないまほは、村人の言葉を黙って聞き流すことしかできなかった。
女将とまほは村の中でも一際多くの建物が並ぶ界隈にやって来た。女将はそのうちの一軒の店の前で足を止める。軒先の椅子に座っていた青年が、二人を見て媚びを売るような笑顔を向けてきた。
「まほ、先に帰ってな。あたしは仕事をしてくるからね」
女将は今にも舌なめずりをしそうな顔で青年を食い入るように見ながら言った。
「今日は反物屋が来るんだ。商品を受け取ってあたしの部屋に運んでおきな。新しく注文する服の一覧も忘れずに渡しておくんだよ」
「はい、女将さん」
まほは頭を下げる。ふと、青年と目が合った。
青年は思わせぶりに唇を舐め、椅子の上で身をくねらせながら軽くしなを作る。まほは真っ赤になって顔を伏せた。
「し、失礼いたします」
上ずった声を残してその場をあとにする。首を振って気持ちを切り替えた。
(女将さんは……どうしてあんなところに行きたがるのかしら)
女将は仕事――要するに借金の取り立てだと言っていたが、ここへ来た目的はそればかりではなかった。あの店は男娼専門の娼館なのだ。彼女はまだ日も高いうちから複数の男性を侍らせて楽しむつもりなのである。
けれど、そんな女主人の心がまほには理解できない。まほはうぶな娘である。男性から意味深長な視線を向けられるだけでも耐えられないのに、男娼相手に乱れた一時を過ごすなんて考えられないことだった。
帰宅すると客が来ていた。女将の言っていた反物屋の使いだ。客間に通し、商品を受け取る。
「それから、こちらがまほさんの分です」
反物屋が脇に避けてあった包みを開いた。入っていたのは、毒々しい色合いの緑の着物だ。
「いやあ、本当にいいご主人様ですねえ。女中にも着るものを買ってやるなんて。こちらの品は、なかなか値の張るものなんですよ」
「ええ……」
まほは曖昧に頷いた。ひっそりと嘆息する。
(女将さんは、どうして私にこんなことをするのかしら)
女将が冷酷な金の亡者であることは村の者なら誰でも知っていた。けれど、女将はまほに対しては、やたらと気前のいい面を見せることがあるのだ。今日のように着物を贈られたり、珍しい菓子類などをもらったりすることはしょっちゅうである。
しかし、まほはそれをありがたいと思ったことは一度もない。女将が買ってくる着物はどれも趣味が悪いし、まほは甘いものが好きではない。まほだけ特別扱いを受ける度に、女中仲間が冷ややかな視線を寄越してくるのも嫌だった。
(それに何より、あの目……)
まほにものを贈るとき、女将は独特の眼差しを向けてくる。たとえるなら、娼館の前に座っていたあの男娼がこちらに向けてきたのとそっくりの目だ。媚びるような、必死でこちらの機嫌を取るような目付き。
けれど、女将がそんな表情をする理由がまほには分からない。自分たちは主人と使用人の関係である。わざわざまほに気を使う必要なんてないはずだ。
(そうでなくとも、私は女将さんには頭が上がらないのに……)
まほの両親は村の長者だった。だが、家に押し入ってきた賊に襲われて命を落としたのである。今から五年前のことだ。
両親を失った幼いまほを引き取り、女中として雇ってくれたのは女将だった。もっとも、女将の家に来る以前のことをまほは何も覚えていない。おそらく、事件の衝撃で記憶が欠落してしまったのだろう。
かすかに覚えているのは、両親が愛情豊かにまほに接してくれたということだけだった。
ほどんど記憶にはないけれど、まほは時折優しかった両親のことを懐かしく思い出すときがある。女将は贈り物をするくらいにはまほを気にかけてはいるが、そこに愛があるのかは疑問だった。とにかくものを与えておけばいいとか、そういった適当さのようなものを感じてしまうのだ。
だが、贅沢を言ってはいけない。女将がいなければ、まほはどうなっていたか分からないのだから。
まほの生家が長者だったというのは見せかけだけでのことで、実のところ、台所事情は火の車だったらしい。女将にも多額の借金をしていたようで、両親が所有していた財産はその穴埋めのために皆没収されてしまった。
女将が引き取ってくれなければ、まほは負責を返すために娼婦に身を落とすことになっていたかもしれない。あの男娼のように客に媚びる自分の姿を想像し、まほはぞっとなった。
物思いにふけっていると、開け放してあった障子から客間にひゅうと風が入ってきた。畳の上に置いてあった次回注文予定の一覧が外へと飛んでいく。
「ああっ! 待って!」
まほは反物屋に断りを入れると、下駄も履かずに慌てて庭に飛び出した。ひらひらと風に舞う紙切れを必死に追いかける。
やっと風がやんだときには、まほは息が上がりかけていた。濡れ縁に落ちた紙を屈んで拾う。
「うっ……ううう……」
何か声が聞こえてきて、はっとなったまほは辺りを見渡す。そうして初めて、ここが奥の間に面する庭だと気づいた。
女将の家は広く、いつもあちこちで誰かが忙しく立ち働いている。だが、この奥の間だけは別だった。ここには何人たりとも立ち入ってはならないと女主人から厳命されていたのである。
そんな場所にまほがいたと知れば、女将は快く思わないだろう。まほは慌てて立ち去ろうとした。
だが、またしても例の声が聞こえてくる。
「う……ああ……」
(何かしら……とても苦しそう。……もしかして、この中から?)
まほは濡れ縁の向こう側の障子を見つめた。奥の間に誰かがいるのだろうか。
「あの……?」
声の調子からするに、病人か怪我人かもしれない。放っておくのもよくないような気がして、まほは小声で話しかけた。
「誰かいるの……?」
返ってくるのはうめき声だけだ。まほはいよいよ心配になる。
(ちょっとだけ……。ちょっとだけなら……)
女将に見つからなければいいのだと自分を納得させながら、まほは障子を薄く開いた。
だが、予想に反して室内は無人だった。暗くてよく様子が見えないものの、普通の座敷のようである。
(どうして女将さんはこんな場所を立ち入り禁止にしているのかしら……?)
それとは分からないだけで、貴重品でも置いてあるのだろうか。まほが疑問に思っていると、またしてもうめき声が聞こえてきた。
(……なんだか気味が悪いわ)
まほは二の腕をこすった。
無人の部屋から聞こえてくる人の声。まさか、ここには幽霊が出るのだろうか。それなら人を近づけたがらないのも納得がいくが……。
(……あら?)
室内の様子を観察していたまほは、奇妙なことに気づく。
部屋の中央に敷かれた畳がずれていたのである。
(もしかして……?)
ある可能性に気づいたまほは慎重な足取りで奥の間に入室する。そして、畳を剥ぎ取った。
思ったとおり、畳の下には地下へと続く階段があった。うめき声はこの先から聞こえているようだ。まほはごくりと息を呑む。
ここまで来たら引き下がるわけにもいかず、まほは好奇心に負けて階段をゆっくりと降りていった。しばらくして突き当たったのは木の格子だ。その先にあるものにまほは目を奪われる。
天井からぶら下がる手枷、足枷、首枷。ありとあらゆる種類の鞭や蝋燭に猿ぐつわ、杖。そのほかにも背の尖った木馬など、被使用者に苦痛を与えるための道具がいくつも置いてある。
だが、倉庫というわけではなさそうだ。床には畳が敷いてあり、布団も置かれている。ここが何なのか、まほはぴんときた。
(座敷牢だわ……)
それにしても、この異様な道具類は何なのか。これではまるで、誰かを拷問するための部屋ではないか。
「ううっ……」
呆然としていると、座敷牢の中から例のうめき声が聞こえてきた。突然のことに驚き、まほが小さな悲鳴を上げると、視界の隅で何かが動く。拷問道具の陰から、誰かがゆっくりと這い出てきた。
まほは息を呑む。
(綺麗な男の人……)
歳はまほよりもいくつか上だろう。おそらく二十代前半か。体温を感じさせない白い肌に、背中に垂れる濡れたような長い黒髪。体つきが細く、少々病的な痩せ方をしているが、それがかえって魅力的だった。
青年の物憂げに潤む瞳がまほの姿を捉えた。薄い唇がうっすらと弧を描く。まほは息が止まりそうになった。まるで男娼のような笑みだ。
いや、微笑み方だけではない。気怠げな仕草や艶めかしい雰囲気、蠱惑的な容姿。この青年はどこを取っても娼館で見かける春を売る男性そのものだった。
青年の正体を悟り、まほの体温が一気に上昇する。ここから逃げ出したくなってきた。
青年が四つん這いの姿勢でまほににじり寄ってくる。身動きした拍子に着物がするりとこぼれ落ち、骨張った肩が剥き出しになった。
(え……。何、あれ……)
まほは青年の体に赤くて細長いものが巻きついているのに気づいた。
(まさか……蛇?)
なぜそんなものが、とまほは混乱する。背中を汗が伝う感触がした。不意に、いくら格子を挟んでいるとはいえ、青年との距離があまりにも近すぎることに意識が向く。まほは動揺し、後ずさりした。
「まほ、君の過去を知りたくはないかい?」
青年の囁き声が聞こえた途端、まほは脱兎のようにその場を駆け出していた。階段を一息に登り切り、ずれていた畳を元の位置に戻す。
「はあ……はあ……はあ……」
奥の間から出たまほは、肩で息をしていた。心臓が喉元までせり上がってきたような気がし、視界がぐらぐらと揺れている。
「まほさん。まほさーん?」
庭の向こうから自分を呼ぶ声がする。まほはここへ来た目的を思い出した。懐にしまってあった注文品の一覧を震える手で取り出す。
「今行きます」
まほは努めて何でもないふりをして返事をしたが、その声は強ばっていた。
(何だったのかしら、あの人……。……いいえ。そんなことを気にしてはだめね。あそこで見たものは忘れてしまわないと)
まほはきつく自分を戒め、反物屋のところへ向かった。
けれど、無意識のうちにあの地下のことを考えてしまう。光の差さない座敷牢といくつもの拷問具、そして、あの艶めかしい青年――。その何とも異様な取り合わせの数々は、その日一日中、まほの心をかき乱し続けた。
夜になると、まほはおかしな夢を見た。夢の中で、まほはあの青年と会っていた。だが、今回の彼は牢には入っておらず、自由の身だ。
『……まほ』
青年は愛撫するようにまほの名前を呼ぶ。彼のほっそりとした手足がまほの肢体に絡みついた。青年はまるで蛇のようにまほの体を這い回り、彼女を散々に弄ぶ。
『まほ、まほ……』
やめて、とまほは言いたかった。どこかへ行って、と拒絶しようとした。
けれど、できない。なぜならば、青年に触れられることを望んでいるのは、ほかならぬまほ自身だったからだ。
空が白む頃に飛び起きたまほは、寝汗をびっしょりかいていた。体が奇妙に火照っている。まほは両手で自分自身をかき抱いた。
(こんなおぞましい夢を見てしまうなんて……)
まほは自分の心の汚れた部分に直面したような気になって赤面した。男性に体を触られたり、名前を呼ばれたりして喜ぶなんて、はしたないことこの上ない。
(……あら?)
まほは不思議なことに気づいた。どうしてあの青年はまほの名を知っていたのだろう。夢の中だけの話ではない。まほは実際に彼から名前を呼ばれたのだ。
それに、気になる点はほかにもあった。
――君の過去を知りたくはないかい?
彼の言葉を思い出す。まほの心がざわめいた。
(あの人は……私の何を知っているのかしら?)
記憶のないまほにとっては、過去などないも同然だ。まほという名前も長者の娘であったということも、全て女将から聞いた話である。
だが、女将もまほについてそれ以上の情報は持っていないらしかった。それだけではない。まほはかなりの箱入り娘だったようで、生前の長者と付き合いがあったという人に話を聞いてみても、誰もまほのことなど知らないというのだ。
(過去、ねえ……)
そんな状態だったから、まほは青年の言葉に心惹かれるものを感じていた。どうして彼は昔のまほを知っているのだろう。前にどこかで会ったことがあるのだろうか。
(もう一度……彼のところへ行けば分かるかしら)
決してあの青年の魅力に参ってしまったわけではない。ただ知りたいことがあるから会いに行くだけ。他に理由なんかない。
そんなふうに思いつつも、それがただの言い訳でしかないことをまほははっきりと自覚していたのだった。
****
「あなた、私の何を知っているの?」
女将が外出した隙を見計らって、まほは奥の間にある座敷牢に来ていた。
今日の青年はうなされておらず、部屋の中央に敷かれた布団にだらりと寝そべっている。
「どうして私の名前が分かったの? それに、『過去を知りたくはないか』ってどういうこと?」
「質問が多いね」
青年はまほのほうを見ずに、長い黒髪を人差し指にくるくると巻きつけて遊んでいる。女性のような仕草だが、彼には不思議と似合っていた。
「ここから出してくれたら、何でも教えてあげるよ」
やっとまほに視線を向けた青年が妖艶な微笑みを作る。まほの胸が甘く疼いた。
「どうしてこんなところに閉じ込められているの?」
まほは胸の疼きを無視したくて質問を重ねる。辺りに無造作に置かれた拷問道具を見て眉をひそめた。
「誰があなたをこんな目に遭わせたの?」
「聞かなくても分かるくせに」
青年は軽く首を振った。まほの表情が険しくなる。
(女将さんだわ……)
ここは女将の家だ。それに、女将はこの奥の間を立ち入り禁止にしている。十中八九、この青年が見つかるのを防ぐためだろう。
しかし、何のために彼を監禁しているのか。金貸し屋を営んでいる女将は、時として期日を守らない債権者たちに罰を与えることもあったが、この青年も同じ理由で自由を奪われ拷問されたということだろうか。
「ねえ、まほ」
青年は誘いかけるような声を出す。
「君も僕を鞭打ったり、縛ったりしたい? いいよ、好きにして。でも、そのためには僕をここから出さないとね」
青年の着崩れた着物の合わせ目の向こうには透けるように白い肌がある。そこにまた、あの赤いものが巻きついているのが見えた。
(違う……蛇じゃない。あれはただの縄だわ)
昨日は突然の出会いに気が動転していたのだろう。まほは自分の見間違えに気づいて胸をなで下ろした。
けれど、今度は別の意味で不安になった。この青年は縄で縛られている。その事実にまほは狼狽した。
――君も僕を鞭打ったり、縛ったりしたい?
青年の言葉を思い返したまほは、嫌悪で気分が悪くなった。
(この人が閉じ込められているのは……罰のためなんかじゃないわ)
潔癖なまほだが、うっかり耳に入った女将の話から、彼女が娼館でどのように羽目を外すのかは知っていた。女将には嗜虐症のきらいがある。要するに、相手を痛めつけるのが好きなのだ。
(彼は女将さんの異常な趣味につき合わされている男娼ってことね)
おそらく、女将はこの部屋にある拷問道具で青年を苦しめて楽しんでいるのだろう。彼の体の縄も、女将の手によるものに違いない。
(でも、彼はこんな生活をよしとしていないんだわ)
その証拠に、青年は何度もまほに「ここから出して」と頼んでいた。それに、昨日は大きな声でうなされていたではないか。青年の気の毒な境遇に、まほは同情を覚える。
「どうしたんだい、まほ」
頬が何かに包み込まれる感触がした。青年が格子の隙間から手を伸ばし、まほに触れている。
「そんなに悲しそうな顔をしないで。もっと傍に来てくれたら、僕が苦しいことなんて皆忘れさせてあげるよ」
青年が扇情的な口調で語りかけてくる。触れられている頬がじんじんとした。潤んだ瞳に射抜かれ、心臓が止まりそうになる。昨日見た彼に絡みつかれる夢を思い出したまほは竦み上がった。
「だめよ、そんなの……!」
まほは喘ぐようにそれだけ言うと、青年に背を向けた。どうしてここに来てしまったのだろうと己の軽率さを呪わずにはいられない。
だが、それも一時のこと。自分はまた彼に会いにこの場所を訪れてしまうだろう、とまほは確信していた。
****
「まほ、何をぼんやりしているんだい」
叱責の声が飛んできて、まほは我に返った。出先から戻ったばかりの女将が、不機嫌そうに眉をひそめている。
「早く替えの着物をお出し。それが終わったら、夕食の膳を運んでくるんだよ」
「は、はい」
まほは慌ててたんすの引き出しを開けた。中を引っかき回して、着替えを取り出す。
「まったく、しっかりしてくれないと困るねえ。最近のあんた、ちょっと上の空になってることが多いじゃないか」
女将がぶつぶつと文句を言った。まほは女将さんのせいですよ、と心の中で言い返す。
奥の間の座敷牢に隠されたものを見て以来、まほは女将の傍にいると落ち着きを失いがちになった。女主人の常軌を逸した行動に怯えや怒りを感じ、それと同時に、あの青年のことを思い出して悶々としていたのだ。
そんなまほの内心などつゆ知らず、女将は着替えを手伝わせながらぺちゃくちゃと喋っている。
「あの娼館はもうだめかもね」
女将は不満たらたらだった。
「何年か前からおかしかったけど、あそこの店主はもう本格的に使い物にならなくなり始めているよ。跡取りもいないし、あの店は近いうちに潰れると思ったほうがいいだろうねえ。そうなる前に、借りた分はきっちり返してもらわないとね」
(座敷牢の彼もあそこの娼館で働いていたのかしら)
女将が買い上げて、地下に閉じ込めることにしたのかもしれない。自分が買った「商品」なのだから、どう扱おうが自由だと思っているのだろうか。まほは頬を強ばらせた。
「失礼いたします」
女将の着替えが終わると、まほは厨房に向かった。すでに出来上がっていた女主人用の膳を料理人からもらう。
「毎度のことながら、女将さんはよく食べるねえ」
料理人は苦笑いしていた。皿に盛られていたのは、ほとんど二人前といってもいい量の料理だ。女将はいつもこれだけの食事を綺麗に平らげて返してくるのである。
(女将さんの分だけじゃないでしょうよ)
この屋敷で働く者たちは女将のことを大飯食らいだと思っているが、まほだけはその真相を見抜いていた。これは女将とあの青年の分の食事だ。
あれだけ周到に存在が隠されているのである。女将は秘密が漏れるのを恐れているのだろう。だから彼の面倒を見る使用人などを特別に用意せず、食事は手ずから与えているはずだ。
あの痩せた体つきから考えて、彼は残飯で命を繋いでいるに違いない。まほはますます青年が哀れになった。
「女将さんの分だけじゃないって、どういうことだい?」
料理人がぽかんとした様子で尋ねてくる。心の中で言っただけのつもりが、実際に口に出てしまっていたらしい。どう誤魔化そうかと、まほは冷や汗をかいた。
「もしかして、あの噂かい?」
料理人はにやりと笑った。「噂?」と今度はまほが途方に暮れる番だった。
「ほら、この家にトウビョウが憑いているっていう噂だよ」
「トウビョウ……」
「何だい? まほちゃんは知らないのかい? トウビョウっていうのは白蛇の憑きもののことさ。異類だよ、異類。こいつが憑くと、家が裕福になるっていわれてるんだよ」
「じゃあ、女将さんが営んでいる金貸し屋が流行っているのも……?」
「もしかしたら、トウビョウのお陰かもしれないね。けど、このトウビョウっていうのは注意しないといけない存在でね。住まいとして土瓶や甕を用意して、お供え物なんかをやって大事にしている間はいいけど、粗末に扱うと祟りがあるらしいよ」
(トウビョウ……。まさか彼って……)
まほは座敷牢の青年を思い出す。彼の妖しげな雰囲気は、人外といわれてもしっくりくるものがあった。
(自分の快楽のためだけじゃない。女将さんは、家を栄えさせるために彼を閉じ込めているの? ほかの人に渡したくないから?)
けれど、そんな状況を彼は望んでいない。つまり、女将はいつか報いを受けることになるのだろうか。
「まあ、ただの噂さ」
考え込んでしまったまほを見て、料理人は肩を竦めた。
「女将さんは神職の家の出なんだよ。だから、異類や変わった術なんかに詳しいんじゃないかって考える人もいてね。あんまり深刻に受け止める必要はないよ。仮にこの家に化け物がいたとしても、それがまほちゃんを傷つけるようなことはないさ」
料理人は慰めるように言って、「ああ、そうだ」とつけ足す。
「女将さんが出先でまほちゃんのために新しいお椀を買ってきたんだよ。今日のまほちゃんのご飯はそれに盛ってあげようね」
もしかして、厨房の奥に置いてあるあの品のない金ぴかの茶碗のことだろうか。女将はまたまほのために変なものを購入したようだ。どうして彼女の贈り物の感性はこうも最悪なのだろう。
その翌日、まほは女将が出かけている隙に、またしても奥の間に忍び込んだ。
「あなた、人間じゃないわね?」
まほは格子の向こうの青年にそう言った。
「トウビョウなんでしょう? 女将さんからこの家に憑くように強要されてるんじゃないの?」
「僕に興味津々だね」
格子に寄りかかりながら、青年は顔色一つ変えなかった。
「僕よりも、君は自分自身のことを知ろうとしたほうがいいんじゃないかい? たとえば『まほ』っていうのは、本当に君の名前なの?」
「当たり前でしょ」
この人は何を言っているのだろうとまほは困惑する。青年は「そうかな?」と返した。
「君は過去を忘れている。それなのに、本当に自分が『まほ』だと言い切れるの?」
「あなたの言ってること、意味が分からないわ」
まほは頭を振った。
「『まほ』じゃなかったら、私は何なの?」
「教えてほしいなら、僕をここから出してよ」
「……できないわよ、そんなの」
まほは苦い表情になる。こんな返事しかできないことが我ながら情けない。
「私は雇われの身なの。いくら私が女将さんに特別扱いされてるっていっても、あなたを逃がしたことが知れたら、今度はこっちが閉じ込められちゃうわ。しかるべきところに知らせてどうにかしてもらう、っていう手もあるけど、あまり上手くはいかないでしょうね。この村では女将さんは絶対的な存在だもの。裏切りが発覚した瞬間に私はおしまいよ」
「でも、君は危険だと分かっているのに、こうして僕に会いに来ている」
青年は柔らかな声で言った。
「だめだと分かっていても、人は誘惑には逆らえないんだよ。それが恋した相手に関係していることならなおさらだ」
「恋ですって!?」
まほはたじろいだ。
「何を言っているの。私は……」
「僕が好きなんだろう、まほ?」
青年がまほの両の頬を手で包み込んで、格子のほうに引っ張る。あっと思った時には、まほは青年からの口づけを受けていた。
「ここから出してくれたら、僕の全部をあげるよ」
吐息が感じられる距離で青年が囁く。
「まほの過去も、僕自身も、皆君のものだ」
青年の甘い声は毒のようにまほの血管に入り込んで、全身をくまなく巡る。まるで蛇に絡み取られるようだ、と思った瞬間、まほは奇妙な妄想に囚われた。彼に絡みつかれるよりは自分が彼に絡みつきたい。青年にまとわりつく縄のように、自分が彼を縛めてみたい――。
そんな考えに衝撃を受け、まほはしばらく口がきけなかった。自分の中にも、相手を痛めつけて楽しみたいという邪悪な衝動が眠っているのだろうか。
まほはあまりのおぞましさに鳥肌を立てた。胸に鈍い痛みを覚える。
「こんなのずるいわ……」
まほはいつの間にか涙を流していた。恐怖と絶望で体を震わせる。
「あなたはどうしてこんなことばかりするの? 私がうぶだからって、からかっているつもり? あなたって最低よ。一生ここに閉じ込められていたらいいんだわ」
打ちのめされたまほは、つい言わなくてもいいことまで口走ってしまった。
だが、反省はしなかった。どうせ、青年はいつもの調子でのらりくらりとかわすに決まっている。彼にとって大事なのは自由を得ることだけで、本心ではまほのことなんてこれっぽっちも気にしていないに違いないのだから。
そう予想していただけに、実際に青年が寄越してきた反応は意外だった。彼は眉を下げ、顔をうつむかせたのである。
「ごめんね、まほ」
青年が目を伏せる。
「僕はこういう愛し方しか知らないんだ。でも、これだけは信じて。僕は君を傷つけたいなんて少しも思っていないんだよ」
しんみりとした声に、まほは何も言えなくなってしまう。まるで捨て犬のようにしょげ返る美しい青年を複雑な表情で見つめた。
(彼は男娼。嘘の世界で生きる人だわ)
これまで青年は客を相手に偽りの愛を山ほど囁いてきたはずだ。それに娼館を辞めたと思ったら、今度は異常な女性に監禁されることになったのである。そんな状況に置かれた男性が、まっとうな愛し方を理解していないのは仕方がないのかもしれない。
「……あなたって困った人ね」
ほかにかけるべき言葉が思い浮かばない。
青年は自由を得るための手段として愛情を使おうとしているが、彼自身もそんなやり方は間違っていると気づいているのだろう。
けれど、ほかにどうすればいいのか分からなかった。全てはこれまでに経験してきた歪んだ環境のせいである。それなら彼を責めてもどうにもならないではないか。
「……私、もう行くわ」
まほは踵を返そうとした。その背に向かって、青年が声をかける。
「まほ、女将には秘密があるんだよ」
これまでの意味深長で浮世離れしたような口調ではない。甘さなど欠片もない真剣な声だった。
「僕だけじゃない。女将は君のことも縛りつけている。奥の間を調べてごらん。女将は大事なものをあそこにしまっているそうだよ」
「私のことを縛っている? それってどういうこと? あなたが言っていた私の過去に関係があるの?」
「僕の口から聞かされても、きっと君は信じないと思うよ。本当のことが知りたいなら、自分の目で確かめてみるんだ。さあ、もうお行き」
青年のほうから立ち去ることを促してきたのもさることながら、彼がこれまで餌として利用してきた「まほの過去」に関する手がかりをあっさりと教えてくれたのも意外だった。この変わり身を一体どう解釈すればいいのだろう。
不可解な気持ちになりつつも、まほは地下を出た。畳を元通りにして、奥の間を調べ始める。もうすぐ女将が帰ってくる時間だからあまりのんびりとはしていられないのだが、何故だかただちに取りかかったほうがいいような気がしたのだ。
気になるものは襖の中にあった。
「これは……甕?」
まほの腰より少し高いくらいの大きさだ。特に高価にも見えないごく普通の品なので、いつもなら見落としていたかもしれない。まほがこれに目を留めたのは、甕がトウビョウの住処になり得ると知っていたからだ。
(やっぱりあの人はトウビョウだったのね。でも、どうして甕を座敷牢じゃなくて、こんなところにしまっているのかしら? これじゃあ、まるで隠してるみたいだわ)
まさかこの甕が青年の言っていた「女将の秘密」なのだろうか。疑問は尽きないが、考えているだけでは埒が明かない。まほは明るいところで甕をよく観察しようと、障子をいっぱいに開けた。
けれど、細部まで見渡せるようになっても特に変わった点は見当たらない。甕の中を覗き込んでも空である。これが女将の秘密というのは勘違いだったのだろうか。
「あんた、こんなところで何をしているんだい」
背後から聞こえてきた冷たい声にはっとなる。そこにいたのは目尻を吊り上げた女将だった。
「この奥の間が立ち入り禁止だってこと、忘れたのかい?」
女将が大股で近寄ってくる。女将の怒りを一瞬で察知したまほの体を緊張が駆け抜けた。
「あんた、それは……!」
だが、覚悟していた怒声は響かない。その代わりに聞こえてきたのは、すっかり動転した女主人の声だった。女将は甕を凝視して固まっている。
「知ってしまったのかい?」
女将の声からは平静さが抜け落ちていた。
「まさか……あのことを……?」
「お、女将さん……?」
まほはおそるおそる口を開く。ここで言葉を違えればどうなるのかなど、考えたくもなかった。
「私……何も見ていません。この部屋にはたまたま入ってしまって……その……素敵な甕だな、と思って……」
女将が気にしているのは座敷牢にいる青年のことだろう。まほは彼と会ったことを隠し通そうと心に決めた。
「素敵な甕、だって?」
女将は拍子抜けしたような顔になった。その次に浮かんできたのは安堵だ。だが、その表情は一瞬の後に激しい怒りへと塗り替えられた。
「まったく、馬鹿なことをお言いでないよ!」
女将はまほの腕を乱暴につかんだ。
「早く出ていきな! ここはあんたのいるところじゃないんだよ!」
「い、痛っ……! 女将さん、離して……」
無理やり立たされそうになり、まほは身をよじって抵抗した。その拍子に甕を蹴飛ばし、倒してしまう。
想像以上に派手な音がして、まほはぎょっとなった。割ってしまったかもしれないと思い目をやると、先ほどは調べ忘れていた甕の裏側が見えた。
『まほら』
底にはたった一言、そう彫られていた。まほら。意味は「素晴らしい場所」「理想郷」といったところか。
けれど、まほはその言葉にそれ以上のものを感じ取っていた。
(まほら……)
まほは全身の毛が逆立つのを感じた。手足の感覚がゆっくりとなくなっていく。
「まほら、は……私の名前だわ……」
そう口にした途端、頭の中に鉄砲水のように過去の記憶が流れ込んできた。
まほは確かに長者の娘だった。いや、正確には娘のように可愛がられていた、と言うべきか。まほは長者夫妻の本当の子ではない。それどころか人間ですらなかった。まほは異類。長者の家に憑いたトウビョウだったのだ。
(長者の家が栄えていたのはトウビョウである私のお陰。ある日、女将はその秘密を知ってしまった……)
長者夫妻を殺したのは賊ではない。女将が雇った者たちだった。女将は長者を消し、トウビョウを自分のものにしようとしたのだ。
――あんた、「まほら」っていうのかい。
夫妻の死体をずかずかと乗り越え、家捜しを始めた女将は、まほが住処としていた甕と、その裏側に彫られた名前を見て凶悪な笑みを浮かべた。
――親愛の証のつもりだったのかねえ。人間に真名を教えるなんて、トウビョウも案外頭が悪いんだね。誠の名を知るのは異類を支配するための必須条件だって知らなかったのかい? もし長者があたしみたいな悪人だったら、どうするつもりだったんだろうね。
夫妻の血にまみれて呆然となっていたまほを女将は貪欲な顔で見つめた。
――あんたはあたしのものになるんだよ。あんたは今から過去をなくす。これからは「まほ」と名乗る小娘にでも化けな。いいね?
その命令にまほは逆らえなかった。まほは記憶を奪われ、自らの正体も知らないままに人間として生きることになったのである。
全てを忘れてしまう直前、まほは長者の家の近くにあの美しい青年がいたのを目にしていた。彼は女将の一連の悪行を目撃していたのだ。そのせいで地下に監禁されてしまったのだろう。
殺したほうが秘密が漏れる可能性を減らせると女将にも分かっていたはずだが、彼の美貌に目が眩んだに違いない。どうやら女将には、どこか詰めが甘いところがあるようだから。
たとえば、この甕をさっさと処分しなかったのがいい例だ。きっと、異類を征服した戦利品としてとっておいたのだろう。
「嘘を吐いていたのね」
まほの……否、まほらの口から出たのは年若い娘のものとは思えないような低くしゃがれた声だった。彼女は大きな白い蛇になっていた。真名を奪い返したことで、本来の姿を取り戻したのだ。
「あなたの言ったことに何一つ真実なんてなかった。長者が本当は貧乏で、あなたに借金があったっていうのもどうせでたらめなんでしょう? あなたはただ、私を手放したくなかっただけ。どうにかしてこの家に縛りつけておきたかったんだわ」
女将がやたらとまほらにだけ物を贈っていたのも、お供え物のつもりだったのだろう。力尽くで言うことを聞かせた相手の機嫌を取ろうとしたとは、なんと不可解な行動だろうか。人間のすることはさっぱり分からない、とまほらは呆れ返った。
「あなたも知ってるでしょう? トウビョウを粗末に扱ったらどうなるか」
まほらは女将に飛びかかった。長い胴体でじりじりとその太り肉の体を締め上げる。
「ま……ほ……」
女将の顔がどす黒くなっていく。そんな姿を見ても、まほらはまったく哀れみを覚えなかった。口を大きく開けて、鋭い牙を首に突き刺す。噴き出した血が辺りの畳を赤く汚した。
まほらがするりと離れると、女将は壊れた人形のように倒れ伏した。体がおかしな方向に捻れ、高価な着物は血で染まっている。悪徳の女主人はすでに事切れていた。
「こんなに早く終わらせるなんて、つまらなかったかしら。もっと苦しめてやればよかったのかも」
いかんせん祟りを与えるのはこれが初めてだったから、加減が分からなかったのだ。長者夫妻はまほらにとても優しくしてくれたから、呪ってやろうなんて考えたことは一度もなかった。
まほらは濡れ縁に出た。ふと、外が騒がしいのに気づく。
「皆、遅れるな! ついてこい!」
(この声は……金物屋の旦那様?)
まほらはすぐに声の主を突きとめた。先日、女将に借金の返済期日を延ばしてほしいと頼んで、すげなく断られていた男性だ。
「今日こそあの鬼を倒すぞ! 私の店は奴に取られ、そのせいで薬代が払えなくなって妻は死んだんだ! こんな暴虐、これ以上は許しておけん!」
「俺たちから巻き上げた金で建てた屋敷なんか、跡形もなく壊しちまえ!」
「火をつけろ! 借金の証文を全て焼き払うんだ!」
どうやら暴動が起きたらしい。女将の苛烈な取り立てに我慢ができなくなった村人たちが徒党を組んで屋敷を襲い始めたのだ。
これもまたトウビョウの祟りだろう。まほらの加護を得られなくなったことで、女将の家は没落する運命に陥ったのである。
どこからともなく焦げ臭い匂いが漂ってきた。どうやら煽りではなく、本当に放火した者がいるようである。
(そうだ、あの人……!)
冷めた気持ちで事態を傍観していたまほらは、冷水を浴びせられたような心地になった。地下にいるあの青年。閉じ込められた彼は何かあっても逃げることはできない。村人に見つかって私刑に処されるか、そうでなくとも炎や煙に巻かれて命を落とす危険もある。
まほらは頭で器用に畳をずらし、音もなく階段を滑り降りた。一番下までやって来ると、尾による強烈な一撃で錠前を破壊する。
「逃げて」
呆気にとられる青年に、まほらは強い口調で命令した。
「この家はもう終わりよ。女将は死んだし、村人は暴徒と化している。早く避難しないと、巻き添えを食うわよ」
「まほ……いや、まほら、って呼ぶべきかな。全部思い出したんだね」
青年は大きな白蛇となったまほらを見ても、少しも動じていなかった。人の姿でいた頃と変わらぬ態度で接してくれていることに、まほらは安堵を覚える。
「君は自力で記憶を取り戻した。それなのに……どうして僕を助けてくれたの?」
青年は不可解そうな表情をしている。何も理解できていない彼に対し、まほらは憐憫を覚えずにはいられない。
「あなたの愛し方は歪んでなんかいない、って伝えたかったからよ」
まほらは脱皮するように人の姿に化身した。この青年の前でこれ以上蛇の姿でいるのは危険だ。今のまほらなら、かつて望んだように簡単に彼に絡みついてしまえるのだから。自分の正体を知った後でも、まほらの心のどこかは未だに潔癖な娘のままだった。
「あなたは私に過去を知る手がかりをくれた。ここから出してあげるって約束も交わしていないのに。全てを知った私が監禁された悲劇の青年のことなんか見捨ててどこかへ行ってしまうかもしれない、ってことくらい、あなたなら簡単に想像できたはずよ。でも、あなたは私を助けてくれた。そういう利他的な行為は……まっとうな愛し方っていえるんじゃないの?」
青年が目を見開いた。そんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。
まほらの伸ばした手を青年が取った。触れられると肌が疼くような感覚がするのは相変わらずだ。やはり人の姿になっておいてよかった。もし今のまほらが蛇なら、衝動的に青年に巻きついていたかもしれない。
階段を登り、奥の間に出る。畳に転がった女将の遺体を見ても青年は無反応だった。彼女がこんなふうにむごたらしい最期を迎えると前々から予見していたのだろう。
濡れ縁から裸足のままで庭に出ると、青年は久方ぶりの外の空気を味わうように天を仰いだ。
さわさわと吹く風に長い黒髪が揺れている。それはいつまでも見つめていたくなるほどに美しい光景だったけれど、こちらに迫ってきている物騒な物音がまほらの甘い感慨を断ち切った。蜂起した村人たちが屋敷の奥まで押し入ってきたらしい。
「さあ、行きましょう」
まほらは青年をせっついた。驚いたような声が聞こえてきたのはその時のことだ。
「坊ちゃん? 坊ちゃんじゃありませんか!」
暴動の参加者だろう。こん棒を持った男性である。まほらは彼の姿に見覚えがあった。娼館で働いている下男だ。青年は彼に鷹揚な笑みを見せる。
「ああ、お前か。久しぶりだね」
「久しぶりだね、じゃありませんよ!」
下男がこん棒を投げ捨てて駆け寄ってくる。
「つけが溜っていた客に支払いの催促に行ったきり、五年も行方不明だったのですよ! 旦那様や奥様がどれほど心配なさったか! 食事も喉を通らず、すっかり弱ってしまわれて……」
「ねえ、ちょっと……」
まほらは下男の話を遮った。二人が何のことを言っているのか、まったくついていけていなかったのだ。
「坊っちゃん、ってどういうこと? あなた、男娼じゃないの?」
「男娼だなんてとんでもない!」
下男は目を丸くした。
「この方は娼館を経営するご夫婦のご子息なのですよ! つまり、跡取り息子ですな」
「娼館の跡取り……」
意外な事実に思えたものの、まほらはすぐに納得した。
男娼そのものではなくとも、家業として娼館を営んでいれば日頃から春を売る男性たちに接していたはずだし、その過程で彼も男娼のような思考回路や振る舞いを身につけていったとしてもおかしくはないだろう。
「坊ちゃん……今までどこにいたのか知りませんが、こんなにやつれてしまって、お可哀想に……。早く家に帰りましょう。旦那様と奥様もさぞやお喜びになりますよ。お二人のご病気もすぐに治るに違いありません」
下男が青年の肩に手を置いた。どうやら彼にとっては暴動に参加するよりも、雇い主の息子のほうが大切らしい。
下男は青年をぐいぐいと押して、彼を連れ出そうとした。だが、青年は「待って」とまほらに向き直る。
「君も一緒においでよ」
「……私?」
まほらは信じられない気持ちで聞き返す。青年は微かに笑った。
「僕は君と一緒にいたいんだよ」
彼お得意の人に勘違いを起こさせるような声色と表情だ。
そんなふうに言われると気恥ずかしいと思う気持ちがまだどこかにある反面、まほらは以前のように激しく動揺はしなかった。
これは彼なりの愛の表現なのだ。嘘を誠のように見せ、誠は嘘でくるんでしまう。それでも、たまに見せる本心のお陰で、彼は天邪鬼なだけの人ではないことをまほらは知っていた。
「そうね。私もあなたと一緒がいいわ」
まほらは素直に認めた。下男がきょとんとした顔でまほらのほうを見る。
「これは意外ですな。坊っちゃんとまほさんがお知り合いとは」
「まほじゃないわ」
まほらは自信に満ちた表情を浮かべた。
「私はまほら。理想郷の名を持つもの。愛する人に福をもたらすトウビョウよ」
そう言って、まほらは静かに微笑した。
その後、村人たちに火をつけられた女将の屋敷は全焼。それに巻き込まれて負傷したのは、女将に特別扱いされていたまほらを目の敵にしていた女中たちだった。
不思議なことに、暴動に参加した者の中で重い罪に問われた人物は誰もいなかった。女将の取り立てが厳しすぎることは村の者なら誰でも知っていたので、手心が加えられたのかもしれない。
廃業を余儀なくされた女将の金貸し屋とは対照的に、その日を境に娼館は右肩上がりの成長を遂げていくこととなる。跡取り息子を取り戻したことで店主の病も治り、全てが上手くいっていた。
「ひょっとして、金貸し屋の女将さんが囲っていたトウビョウを娼館の関係者が盗んだのでは?」
急成長を遂げる娼館を見て、村人たちの間にそんな噂が流れはしたものの、事の真相は誰も知らないだろう。
今トウビョウを縛っているものは何もない。彼女はただ、恋に囚われているだけなのだ。