表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夢幻の奏憶

作者: 幻想冒険者

主な登場人物


生駒明日香

この物語の主人公。「相手の少し先の未来が見える」という自身が持つ特殊の能力のことで今までの人生で辛い思いをしてきたが、失意の中移り住んできた街で、同い年の青年「斑鳩隆」や様々な人達との出会いによって、人生に希望を見出していく。


斑鳩隆

海洋研究者の卵で大学院生。夏休みの間、研究の一環で滞在することになった街で明日香と出会い、共に思い出を築いていく。その時間の中で明日香の心の拠り所となっていった。


葛城富雄

喫茶「フダラク」のマスター。何かに導かれるようにやってきた明日香を雇い、隆と同じく、その出会いが明日香が成長するキッカケになる。

プロローグ


 明日香はアパートの部屋の窓から外を眺めていた。アパートは少し離れた郊外の高台にあるため、湘南の海が一望出来る。片隅に江ノ島が見えるその景色は正に絶景だ。だが、その絶景とは裏腹に明日香の気持ちは深く沈んでいた。

 この娘、生駒明日香はこの春大学を卒業し、東京で新社会人としてスタートしたのだった。

 だが、明日香のその不思議な能力のせいで、回りから浮いてしまい距離を置かれてしまっていた。心に深い悲しみを負った明日香は3カ月程で会社を辞めてしまい、東京からここ湘南の海辺に引っ越してきたのだった。傷心を癒すためとはいえ、仕事をしてない以上、将来のことは心配しながらも今は何も考えることが出来なかった。しばらくは事情を察した両親が仕送りしてくれているが、いつまでも甘える訳にはいかない。

 「はぁ、ここに引っ越してきて2週間···いつまでもこんなことしてて良い訳ないのは分かってるけど、でもどうしたらいいんだろ?」

 明日香はただ何となく湘南の海を眺めていた。さすがの湘南の海の絶景も今の明日香の心を癒すことは容易ではない。

 明日香はしばらくの間、何をするでもなく海を眺めていた。

 ふと気が付くと日が傾き始めていた。明日香は立ち上がると冷蔵庫を開けた。中にはマヨネーズやソースしかなく、食糧なるものはほとんどない。

 「明日は朝から買い出しに行かなきゃ。気が重いけど、何も食べない訳にもいかないし。」

 明日香はかろうじて残っている食材で夕食を作り始めた。簡単にではあるが、夕食を済ませると、いつも通りのライフスタイルを過ごすとその日は眠りに就いた。


第一章


出会い


 次の朝、明日香は起きると朝食は食べずに、しばらく朝のワイドショーを見た後、買い出しに出掛けることにした。最寄りのスーパーまでは1キロ程離れているが、自転車は持っていないが、高台ゆえに歩くのとそこまで時間は変わらない。気は重いが、明日香はいつもスーパーまで歩いて行っていた。

 いつも通り坂を下ると海沿いの通りを進んでいく。今は7月で季節は夏本番を迎えるが、朝はまだ海風が心地好い。湘南の海風に少しは心を癒されつつ明日香は海辺を眺めながら歩いていた。

 「さてと、今日は何が安いかな?それに、いい加減何かバイト始めなきゃ。いつまでもお父さんとお母さんに甘える訳にもいかないし。」

 明日香は独り言を呟きながら、色々とこれからのことを何気なしに考えていた。この街でバイトを探すこと、いずれはまた東京に戻るかそれとも実家に帰るか、でも折角憧れの東京での生活をこのまま呆気なく辞めてしまうことにもためらいがある。

 しばらく歩いていると、バス停に差し掛かった。バス停には30歳くらいの男性が一人いる。

 ふと何かを感じた明日香はその男性に近付くと、声をかけた。

 「すいません、そこにいるとカラスにぶつかりますよ?」

 「はぁ、何なんだよ?そんな訳ないだろ!誰だよお前」

 明日香は出来る限り相手を刺激しないように話し掛けたつもりだったが、案の定相手は明日香を不審がる。

 「そんなんですけど、でも···」

そうこうしていると、急にカラスが急降下してきて男性の頭に直撃した。

 「痛ってー!何だ、何が落ちてきたんだ?」

 男性が落下したものが明日香の言った通りカラスだと悟ると、信じられないような表情で明日香をねめつけた。

 「どういうことだ?お前何でカラスが落ちてくることが分かったんだ?気味悪いな!とっとと行けよ!」

 男性に捲し立てられると、明日香は何回も男性に謝りながら逃げるようにバス停を後にした。

 「あーあ、またやっちゃった。でもその場から避けてくれればよかったのになー。」

 明日香は呟いた。そう明日香の変わった能力とは、目の前の人間の数分先の未来が分かってしまうというものだ。明日香は善意で声を掛けるのだが、相手からしてみればまるで明日香が何かをしたと勘違いをしてしまい、明日香に非難の声を挙げるのだった。明日香が以前勤めていた会社でも何回もやってしまい周りから距離を置かれていた。それが、明日香が会社を辞めて東京からここ湘南の街外れに引っ越して来た理由だった。

 見える未来の範囲は一定ではなく、先ほどの男性のように直後の場合もあれば、長くて1日後の未来まで見える時もある。

 バス停から離れた場所まで走ってきた明日香は、一息つくと再び歩き始めた。他人の未来が見えたとして、別に言わなければいいだけなの話なのだが、明日香の性格上相手が危ない目に合うこともあり、どうしても言ってしまうのだった。とは言え結果としては相手は危ない目に合う上に、明日香も非難の目で見られてしまう訳だが。

 先ほどの出来事もあり、ほとんど無意識に歩いていた明日香はスーパーに行くいつもの道とは違う角を曲がって進んでしまっていた。スーパーまでは海沿いの道を真っ直ぐ進めばいいのにも関わらずだ。

 それでも明日香は操られるようにそのまま進んでいく。自分が間違った道を進んでいるとは気付いていないようだ。

 「あれっ、ここってどこ?私何でこんな所にいるのかしら?いつの間に道を間違っちゃったんだろう?」

 ふと我に返った明日香は辺りを見回した。初めて来る場所ではあるが、海が近くに見えるので元の道からそんなに離れてはいないだろう。すぐに元の海沿いの道に戻れる場所だ。

 だが、明日香は不思議と漠然とした何が気になりそのまま進む。しばらくすると、とある建物の前で立ち止まった。まるで初めからそこに行くことが目的だったように、ごく自然な感じで足を止めた。それは明日香本人にも説明出来ない本当に不思議な感覚だった。

 立ち止まったその建物は、どうやら喫茶店のようだ。見上げると「喫茶フダラク」と青い文字の白い看板が掲げてある。建物は薄い緑で、明日香は何とも可愛らしい印象を受けた。

 「こんな所に喫茶店があったなんて···知らなかったなぁ。でも何だか可愛らしくて良い感じ♪」

 明日香は導かれるように喫茶店の中へと入っていった。

 店の中は、7席のL字のカウンターがあり、窓際にテーブルが3つの小ぢんまりとしたものだったが、明日香はその秘密基地のような雰囲気の店内に外観同様可愛らしい印象を受けた。店内には客は若そうな男性が一人だけで、カウンターに座って、店長らしき人物と何だか楽しそうに話している。明日香が開けたドアの音に気付いた二人は明日香の方を振り向いた。

 「やあ、いらっしゃい。おや、初めて見る顔だねぇ?近所でも見かけたことがないかな。最近引っ越して来たのかい?」

 店長が先に明日香に声を掛け、男性の隣の席に促した。

 明日香はスーパーに行く途中だったことはすっかり失念して、誘われるままに席に着いた。初めての店ではあったが、店長にも隣の男性客にも不思議と緊張はない。横目で男性客を見ると明日香と同じくらいの年頃のようだ。明るい笑顔が爽やかな印象を受ける。

 「何にするかな?一応コーヒーには自信があるんだが···」

 「富さんのコーヒーは絶品だよ。見た目はこんなだけど。」

 「おい隆、一言余計だぞ!」

 店長はそう言いながらも顔は笑っていた。それは二人にとってはいつもの掛け合いなのだろう。この富さんと呼ばれた店長は、名前を葛城富雄といい、この喫茶フダラクの経営者で店長だ。年齢は40台半ばで、口周りと顎に髭を蓄えていて、少しばかり体重が気になる体型をしている。男性客は、斑鳩隆といい、フダラクの常連だ。中肉中背で、笑顔が爽やかな好青年といった印象だ。

 「それじゃ、お願いします。」

 明日香ははっきりとした口調で答えた。不思議とこの二人といると、元気が出てくるような気がする。それは明日香にとっても不思議な感覚だ。

 「それで、ここにはいつ来たんだい?学生さんかな?」

 富雄はコーヒーを煎れながら、先ほどの話を始める。

 「はい。引っ越して来たのは、1カ月くらい前です。今年の4月から東京で働き始めたんですけど、辞めてしまって···その後すぐここに来ました。」

 明日香は富雄と隆を交互に見る。二人共軽く頷きながら明日香の話を聞いている。

 しばらくするとコーヒーの香ばしい香りが漂ってきた。

 「はい、お待たせ!」

 富雄は明日香の前にコーヒーカップを置いた。

 「いただきます。」

 明日香は出されたコーヒーを眺めながら、その香りに惹かれていたが、富雄が促すとコーヒーを飲み始めた。

 「美味しい!」

 明日香は想像を超える味わいに小さめだが、思わず声が出る。

 気持ちも軽くなったようにも感じる。

「気に入ってくれたようで良かったよ。ところで明日香ちゃん、フダラクのことはどうやって知ったんだい?自分で言うのも何だが、ここはいつものメンバーしか来ないからね。」

 富雄は、あははっと笑いながら明日香に尋ねた。引っ越して来たばかりで、まだまだ土地勘もない明日香が一人でフダラクに入って来たことを不思議に思ったからだ。

 「えっ?ええと···自分でもよく分からないんですけど、何かボーッと歩いてるうちに、気付いたらこの店の前にいたんです。それで、可愛らしい店だなって思って思わず入ってしまいました。」

 明日香はフダラクに来るまでの経緯を包み隠さず答えた。正直なところ、明日香自身も何故フダラクに来たのか全く分かっていないのだが。

 「ほー、不思議だねぇ。でも俺としては、新しいお客さんが出来て嬉しい限りだがね。隆はどう思う?」

 「いいんじゃない?あまり深く考えなくても。何かの不思議な縁で知り合ったんならそれはそれで。それで、生駒さん!今年から働き始めたって言ってたけど?」

 富雄に話を振られて隆も明日香に気さくに話し掛けた。隆に先に親しげに話し掛けられたことで、明日香も隆に対してフランクな感覚を持つことが出来た。

 「私は、今年大学を卒業して、社会人になると同時に上京してきたの。」

 明日香が答えると、隆はすこしばかり驚いたような表情になる。明日香の話を聞いて、隆だけでなく、富雄も二人を見比べる。

 「ってことは生駒さんは俺と同い年ってことだよね。俺も今年大学を卒業したんだ!」

 隆は東京の大学を卒業し、同大学の大学院に進学した。そこで隆は海洋生物の研究をしている。そして、大学院が夏休みの間、湘南にある大学院の研究施設で、この辺りの海の生物の調査と研究をしているということだ。

 「へえっ!?隆と明日香ちゃんは同い年かい?これは運命的なものを感じるねぇ。」

 富雄はからかうような、いたずら好きのような笑い顔で隆を見る。隆は今現在は彼女はいない。富雄なりのアシストのつもりだろう。

 「何言ってんですか富さん?生駒さんが困ってますよ。ねぇ生駒さん!」

 急な話に明日香は何か返事をしようとするが、全く言葉が出てこない。ただ「いえそんな···」とだけ言うのがやっとだった。

 言葉に困っていた明日香だったが、ふとその瞬間、隆の未来が浮かび上がってきた。明日香に見えたイメージは、"明日、隆が海でサメに襲われる"というものだった。

 「あの、斑鳩君。明日は海に行くの?」

 明日香は親しく接してくれている隆に変な目で見られることを考えると心が傷んだが、内容が内容だけにやっぱり話さずにはいられなかった。

 「うん、明日も調査で海に行くよ。明日は船でちょっと沖の方まで行こうと思ってたんだ。」

 海洋研究の話をしたこともあり、明日香から海に行く話をされても隆は、全く不思議には思っていない。同じように気さくに答えた。

 「あの、その時なんだけど···斑鳩君はサメに襲われるの。だから明日は海に行くのは止めた方が良いかなって···」

 明日香は語尾が曖昧になってしまった。その後のことを考えたら当然ではあるが。

 「えっ、本当に!何で分かったの?」

 隆は富雄と顔を見合せながら不思議そうに尋ねた。だが、明日香を変な目で見るといった態度ではない。

 「あの···実は私、相手の少し先の未来が見えてしまうんです。それを相手に伝えると変な目で見られてしまって。じゃあ、言わなければいいんじゃない?って思われるかもしれないけど、その人が危ない目に合うことを考えるとどうしても言わずにはいられなくて。でも結局私がその人に変なことをしたみたいになっちゃって、それでいつも変な目で見られてしまうんです。」

 明日香はその特別な能力のせいで会社にいずらくなり、会社を辞めてここ湘南にくることになった経緯について話していった。

 「そうだったんだ!それは凄い能力だね。そういうことなら、明日は海に出るのは辞めとこうかな?」

 隆は明日香の言葉を真摯に受け止めた。明日香のことを疑っている様子は全くない。

 「辛い思いをしてきたんだねぇ、明日香ちゃん。でもここには明日香ちゃんを傷つけるような人間は誰もいないよ。少なくともフダラクの常連さんにはね。俺が保証するよ。」

 富雄は明日香に片目を瞑ってみせた。それは富雄には全く似合ってはいなかったが、明日香にとっては心強いものだった。


 「それで、明日香ちゃん。時間は大丈夫なのかい?何か予定があったんじゃないのかな?おじさんはずっといてもらって構わないんだけど。」

 富雄に話を振られて明日香はふと我に返った。

 「いけない、買い物の途中だった。」

 急ぐ用事ではないとはいえ、このまま初めての店に長居をする訳にもいかない。明日香はスーパーに行くことにした。

 「そうかい、新しいお客さんが出来て良かったよ。お代はいいよ。今日は俺の奢りだ。またいつでも遊びに来てよ。」

 「それじゃあ、気を付けて。あっ!気を付けるのは俺の方か!?」

 隆の言葉に明日香は思わず笑ってしまった。こんなに自然に笑ったのは本当に久しぶりだった。

 「本当にありがとうございました。斑鳩君も、私の言葉を信じてくれて嬉しかった。」

 富雄と隆は笑顔で手を振っている。明日香は恥ずかしそうにお辞儀をするとフダラクを後にした。



 明日香は元の通りに戻ると、再び海沿いにスーパーへと歩を進める。アパートを出た時と違い、海風が心地好く感じる。いや、海風が心地好いというよりも、そのように感じるのは、明日香に心の余裕が生まれたからだ。もちろんその理由はフダラクでの出来事に他ならない。

 明日香はフダラクを行きつけの喫茶店にしようと考えていた。まだフダラクで知り合ったのは富雄と隆の二人だけだが、二人共明日香に親切に接してくれた。その二人の人柄が明日香にそのように思わせていた。特に隆にはまだほとんど無意識に近いが、特別な感情を感じていた。

 フダラクの常連になれば、これからも隆に会うことが出来る。明日香はぼんやりとそんなことを考えていた。

 もちろん明日香と隆は今日初めて会ったばかりだ。隆に彼女がいるかどうかどころか、隆のことは何一つ知らない。でも、フダラクに来て何となく隆と同じ時間を過ごせれば、それだけでも明日香にとっては今までと違う日常になる。

 「フダラクに行く前と今は全然気分が違う。何だかこれから良いことが起こりそうな予感♪」

 明日香は足取りも軽く、弾むようにスーパーへと歩いて行った。


 スーパーで買い物を済ませた明日香は再び海沿いの道を海を眺めながら歩いていた。足取りも軽やかで、気分も上々ではあったが、まだ何も決まってはいない。そもそもこの不思議な能力とどう向かい合うか、仕事をどうするのか、この場所で当面のアルバイトを探すか、東京で就職活動をするのかなど、考えることは山積だ。

 それでも、明日香は少しずつではあってもこれからのことに希望を見いだしていた。そのくらいにフダラクとの出会いは、明日香の人生にとって意味のあるものになったということだ。

 


 アパートの部屋に帰ってきた明日香は、昼食を済ませると再び部屋を出た。別に用事があるからではない。何か現状を変えるために行動を起こそうと決心し、手始めにウォーキングをすると同時にこの街を見て回ることにしたのだ。

 まずは、海沿いの道をスーパーとは反対側に進んでみることにした。それは即ちフダラクとも逆方向だが、まさか同じ日に二回も行くわけにもいかないと思い、こちら側に行くことに決めたのだ。

 今明日香が歩いている方向は、江ノ島がある方で、前方左側にその江ノ島の景色が見える。実は明日香はこの街に来てからは、江ノ島を見るのは初めてだった。何しろ必要最低限の買い物以外で部屋を出ることはなかったからだ。しかも、全て江ノ島とは逆方向だ。

 しばらく歩くと浜辺に降りられる階段があった。明日香は階段を降りて浜辺に出た。今日は平日ということもあり、人はそこまで多くはない。夏休み中の大学生らしき若者がサーフィンをしているくらいだ。明日香が一人で浜辺にいても、誰も気に止める者はいない。

 そのことに明日香はほとんど無意識にホッとすると、海を見て黄昏始めていた。潮風と磯の香りが道沿いで感じるものとは違い、また一段と心地好い。

 潮風に明日香の長い髪が柔らかく揺られている。明日香は全く気にも止めずに、フダラクでのことを考えていた。今朝はまだ朝早かったこともあって、客としては隆一人だけだったが、今後はもっと他の常連客とも会うことに当然なるだろう。だが、明日香はそのことにまだ抵抗を感じてはいない。逆に楽しみにさえ思っている。それは隆もそうであるように、店長の富雄があの人柄であるがゆえに、その富雄の元に集まってくる人間も、きっといい人達だろうという明日香の期待によるものだ。それに、隆がそばにいれば他の皆とも上手くやっていけるようにも感じる。

 それからしばらく海を眺めていた明日香だったが、ふと割れに返り、思ったより長居してしまったことに気が付くと、また道沿いを江ノ島の方向に向かって歩き始めた。

 さすがに江ノ島まで歩いて行くには時間がないので、明日香は途中コンビニで飲み物を買うとアパートへと引き返すことにした。


 その日の夜、夕食を見ながらテレビを見て、シャワーを浴びるという、いつも通りに過ごした明日香だったが、その心情はいつもとは違っていた。今までは何となく虚しい気持ちになっていたのだが、今日に関しては凄く充実した、達成感というか満足感を感じていた。そして眠りに就く。明日やることも決めていた。


 次の日、明日香は買い物に出掛けた。だが、いつものスーパーではない。明日香が買おうとしているものは、履歴書と求人関係の雑誌だ。そう、明日香は本格的に、この街で仕事を探すことを決めたのだった。

 また、店先にバイト募集の貼り紙がある店があれば、参考にしようとも思っている。スマホの求人サイトより、地元で実際に歩き回って調べた方が思いがけない良い案件を見つけることが出来るかもしれない。

 明日香は道沿いをスーパーがある方に歩いて行く。必要なものは途中のコンビニで買うことが出来るが、まずは今まで行ったことがない場所を見て回ることにした。


 明日香は色々と店を見て回ったが、この辺りは個人経営の飲食店がほとんどだ。それゆえ、バイトを雇う余裕はなく、バイトを募集している店は皆無だった。それに、人と話すことが苦手な明日香にとって、見知らぬ街で接客業をやっていけるか、不安しかないが、この辺りには飲食店しか働き先はないように見える。

 その後、小一時間程歩き回った結果、3件バイトを募集しているカフェを見つけた。それらの募集の貼り紙を写真に撮ると、明日香はコンビニへと向かった。


 コンビニで買うものを買った明日香は、道沿いにある店も募集をしていないか見ながら帰り道を歩いている。だが、道沿いにあるのはガソリンスタンドくらいだ。買い物をしたコンビニもそうだったが、この辺りは個人経営ゆえかバイトの募集はしていなかった。

 明日香はその3件の募集の貼り紙を写真に撮ると、帰ってから検討することにした。後は求人誌の掲載次第だが、わざわざ買ったものの、期待はしていない。都合の良い仕事先が見つかるにこしたことはないが。

 明日香はアパートへと歩を進める。今の時間なら帰り着く頃には丁度昼食の時間になるだろう。もちろんコンビニで昼に食べるものも買っていた。午後からは、どの店から声をかけるか順番を検討するのと、履歴書を書くこと、また面接で何をどう答えるかも考えようと思っている。


 明日香はアパートの部屋に帰り着くと、まずはテレビでも見ながら一息着くことにした。

 しばらくは麦茶を飲みながらニュースを見ていた。すると、近所の浜辺近くにホホジロザメが現れたという一報が流れた。この辺りの海にもホホジロザメが現れることはあるにはあるが、ここまで浜辺に近いところに現れることはかなり珍しいケースだという。幸いサメが現れたことによる人の被害はないということだ。

 そういえば、隆は結局どうしたのだろう。明日香の言葉を信じてくれてはいたようだが。ただ、被害者がいなかったということは、隆がサメに襲われることはなかったということだ。

 明日香は自身が予知した未来なだけに、隆に何事もなかったことに胸を撫で下ろした。だがその反面、明日香の言ったことが本当に現実になったことで、明日香のことを変な目で見るのではないかという不安もある。それでも明日香のフダラクにまた行きたいという思いは消えることはなかった。

 明日香は昼食を食べ終わると、まずは求人誌から見てみることにした。色々と求人があるにはあるが、通勤に時間がかかったり、飲食店の接客だったりと、想定はしていたものの、明日香の期待に合う案件はなかなかない。引っ越し業者の荷物の仕分けならば、人と接することが苦手な明日香も出来そうな気がするが、通勤に電車で1時間もかかる。とは言え、どこかで妥協しないと永遠に仕事なんか決まらないのは分かってはいるが、また仕事のことでストレスを抱えては前の会社を辞めた意味がない。

 慌てて決めることもない。まだ時間もあるにはある。明日香は改めてじっくりと検討することにした。


 その後も、明日香は良さそうな募集がないかひとつひとつ見ていった。そして、その中から2件、近所の飲食店の1件を応募することに決めた。一息つくと、選んだ3件に応募の電話をして、更には履歴書も書き始める。

 なんやかんやで、履歴書まで書き終わる頃にはもう夕方になっていた。こんなに時間が経つのも忘れて物事に打ち込んだのは、かなり久しぶりだった。

 電話をするのには、かなりの時間と勇気を必要としたが、その甲斐あってか、3件とも面接をしてくれることになった。明日が1件で、自転車なら30分程だが、明日香は自転車を持っていない。今回の面接は歩いて行くことにした。自転車は採用されてからでよい。他の2件は3日後とその次の日で近所の飲食店だ。

 やるべきことを一通り終えた明日香は、何気なしにテレビを点けると夕方のニュースで先程のサメのことをまたやっていた。改めて隆が自分のことをどう思うか考えた明日香は、明日面接の帰りにフダラクに行ってみようと決めた。もちろん都合良く隆がいるかは分からないが、富雄の方から隆のことを教えてくれるだろう。

 ちょっとした充実感を覚えた明日香は面接の練習をしてから眠りについた。面接は緊張するが、その後にフダラクに行くことを考えると楽しみにも思うことが出来た。


 次の日の朝目が覚めた明日香は、久しぶりに入念に身仕度を整えると、面接を受ける店へと出掛けていった。

 明日香はいつもの海沿いの道を歩いていた。部屋を出る前はそこまで緊張はしていなかった明日香だったが、面接を受ける会社が近づくにつれて段々と緊張感が増してくる。

 明日香が今向かっている会社はとある大手の引っ越し業者のいち支店だ。引っ越しといっても明日香が応募しようとしているのは、実際に現場に行って荷物を運ぶのではなく、支店にある荷物の仕分けだ。人と接することも少なく、また力仕事ではないので、明日香は自分にも出来そうだと思い応募したのだ。応募の動機が後ろ向きではあるが、何より最初の面接だ。明日香は別に採用されなくても構わないと割り切って面接に望むつもりだが、そうであってもやはり緊張はする。

 明日香は気楽にやろうと自分に言い聞かせながら歩いて行く。しばらくすると、目的地の最寄り駅が見えてきた。時間にして後10分ほどだ。約束の時間まで全然余裕がある。明日香は自分に落ち着くように言い聞かせながら地図を確認し、更に進む。

 明日香は面接を受ける会社の前に来ていた。いよいよ最初の面接の時だ。明日香はダメで元々と言い聞かせながらドアを開けた。


 面接を終えた明日香は海沿いの道を歩いていた。まさかそんな結果になるとは思っていなかった。いや、そこまで考えが及ばなかった自分が世間知らずだっただけか?

 というのも、面接に挑んだ明日香は担当の社員の質問に何とか答えたものの、自分でも半分覚えていないくらいに舞い上がってしまった。その上、支店内で仕分けするだけの募集ということだったが、普通に現場にも出て貰うと言い出されて更に分けが分からなくなってしまった。

 そのようなことが、重なってか、結局は採用不採用の前に明日香の方から現場は無理だからと辞退してしまった。まあ明日香としてはまずは面接をひとつ経験してホッとした気持ちもある。

 後は接客は苦手だが、今のところは飲食店の面接に挑戦するしかない。とりあえずは初挑戦を終えたということで、明日香は計画していた通りにフダラクに向かうことにした。


 「やあ、いらっしゃい。また来てくれて嬉しいよ。」

 フダラクに到着した明日香は静かにドアを開けて、そっと中を覗いてみた。すると、富雄が気さくに声をかけてくれた。明日香は遠慮気味に前に来たときと同じ席に着いた。店内を見回すが、今は誰もいない。残念ながら隆もいない。

 「隆がいなくて残念だったね。隆は今日はミーティングで本校に行くって言ってたからね。来るとしたら明日あたりかな?」

 富雄は明日香の明らかに残念そうな表情を微笑ましい何とも言えない笑顔で見ていた。隆に気があるのがバレバレだからだ。当の明日香は富雄に隆への思いを見透かされているとは全く気付いてない。

 「今日は何にするかな?もうすぐ昼だけど、まだなら何か食べてくかい?今ならまだお客さんもいないからすぐに出来るよ!」

 富雄に言われて、明日香は時間が昼になろうとしていることを知った。それくらいに緊張していたということだ。富雄の一言に、一気に緊張感が抜けていった明日香は急に腹が減り始めた。というより腹が減っていることに気付いた。

 それじゃあ、と明日香はメニュを手に取った。そこには、フダラクらしい街の小さな喫茶店といったメニュが書いてある。

 明日香の目に"カルボナーラ"という文字が入ってきた。パスタの中でもカルボナーラが好きな明日香は頼んでみることにした。

 「はい、かしこまり~。ちょっと待ってて!」

 富雄は似合わないウインクを明日香に送ると料理に取りかかり始めた。

 富雄は手慣れた動きで料理を作っていく。明日香はその小気味の良い音に聞き入っていた。やがてカルボナーラの香ばしい香りが漂ってくる。

 「はい、お待ちどう!」

 富雄は明日香の前にカルボナーラを置いた。いつの間にか半分寝ていた明日香は、ハッとして我に帰る。

 「さあ、冷めないうちに食べた食べた!」

 富雄に促され、明日香はカルボナーラをひと口食べてみた。口の中にチーズの香りが広がる。味は濃厚で、かつ一般的なチーズより甘さを感じるが、決して甘ったるいものではなく、むしろ明日香にはこっちの方が気に入った。食べてしまうのが惜しいくらいだ。

 「どうかな?俺のカルボナーラはひと味手を加えたオリジナルなんだ。女性は甘いものが好きだから気に入ってもらえるといいけど···」

 富雄は自信がありながらも明日香に気を遣いながら尋ねた。

 「おいしい、凄くおいしいです。私甘いの好きだから、気に入りました。でも、チーズを甘くするとこんなにおいしくなるなんて、全く想像出来ませんでした。」

 明日香は驚きの交ざった笑顔で富雄を見た。この味がフダラクに来ればいつでも食べられる。面接での出来事に嫌な気持ちになっていた明日香は、少し気が晴れたように思う。

 「そうかい?気に入ってくれてよかった。実は隆もそのカルボナーラが好きでね、時々頼むんだよ。」

 明日香は富雄の言葉に軽い相づちをうつ。隆にそんなに甘いものが好きだというイメージがなかった明日香には、富雄の言葉は以外だったが、それでも明日香にとっては、自分が気に入ったものを隆も好きだということが嬉しい。次会った時にその話をしようと思う。

 「はあ~い、富雄さん!来たわよ~。あら新しいお客さん?若くて可愛らしいわね?」

 その時、フダラクに富雄と同年代くらいの二人の女性が入ってきた。思わず振り返った明日香を見ると、やはり不思議そうに尋ねてきた。

 「おや、吉野さんに三郷さん。いらっしゃい!またいつものやつでいいのかな?」

 二人と富雄のやりとりを見ての通り、この二人はフダラクの常連だ。毎日とまではいかないが、週に3回は二人一緒にフダラクにランチに来ている。

 二人はいつも通りの返事をすると、これまたいつも通りのテーブル席に座った。二人の注文を受けた富雄は先程と同様に軽快なリズムで料理を作っていく。

 「ねえあなた、初めてだけど、最近引っ越して来たの?」

 二人の内の一人が明日香に話しかけてきた。明日香は一瞬かまえてしまったが、振り返った富雄の顔を見ると安心出来た。

 「はい、一月前にここに来ました。生駒明日香と言います。よろしくお願いします。フダラクは2回目です。」

 富雄のお陰で明日香は自然に自己紹介することが出来た。

 「明日香ちゃんていうのね!私は矢田吉野、よろしくね!で!」

 「稲村三郷よ、よろしく!」

 矢田吉野と稲村三郷は富雄や隆と同じ様に気さくに明日香に挨拶してくれた。やはりフダラクの常連客は富雄を慕ってくるらしく、隆が特別ということではなく、皆良い人のようだ。

 明日香は吉野と三郷に再度よろしくお願いしますと言うと、二人に気にせずランチを楽しむように言われ、再びカルボナーラを食べ始めた。

 「そういえば、昨日この辺にホホジロザメが出たんだって!隆君大丈夫だったのかしら?」

 吉野が何となくその場にいる全員に問いかける。吉野と三郷も隆と知り合いで、隆のこともよく知っていた。

 「おぉ、吉野さんよく知ってるねぇ。実は昨日隆は海には行かなかったんだよ。何か予定が変わったとかで。」

 富雄は軽く振り向くと二人には分からないようにウインクしてみせた。明日香の能力のことはまだ二人には伏せておいた方がよいという富雄の気遣いだ。

 「へえ、そうなの?それは運が良かったわね。あらこういう言い方は失礼かしら?でも何事もなかったのは、何よりよ!」

 吉野の言葉に三郷も頷く。何より相手はあのホホジロザメだ。海にいたからといって必ず襲われることはないだろうが、一度襲われれば命すら落としかねない。これも全て明日香の能力のお陰だった。当然ながら、吉野も三郷も明日香の能力のことは知るよしもないが、明日香は内心そわそわしていた。隆が無事だった原因というか理由が自分にあるからだ。

 「ところで明日香ちゃん、今日はどうしたんだい?ここに来る前にどこかに行ってたのかな?」

 富雄の言葉に明日香は面接を受けに行っていたことを思い出した。別に隠すことでもないので、明日香は面接のことを富雄に話した。

 「なるほど!そういうことだったのかい?だったらフダラクで働くかい?」

 富雄はまるですでに明日香を雇うことを決めていたかのように、軽い感じで明日香に申し出た。

 「ええっ!気持ちは嬉しいですし、ありがたいことなんですけど···私見ての通り人と話すことが苦手で。接客なんかしたら富雄さんに迷惑掛けます。」

 「いやいや、別にそんなことは気にしなくていいんだよ。」

 富雄の思いもかけない提案にどう返事をしたら良いか分からずに、うつむいてしまった。

 頭の中ではフダラクで働いている姿を想像する。現実になれば楽しそうにも思うが、実際はどうなのだろう。明日香が接客が苦手なのもそうだが、今も富雄一人で充分間に合っているようなのに、自分を雇って大丈夫なのだろうか?明日香はいろいろと余計な心配をしてしまう。

 「あのう、お気持ちはありがたいですけど、私見ての通り接客が苦手ですから。お役には立てないと思いますけど?」

 明日香は丁重に申し出た。富雄からの提案ではあるが、自分ではやはり迷惑を掛けてしまいそうだ。

 「接客といっても、うちは気の知れた常連さんばかりだから、何の問題もないよ。それに、接客よりも頼みたいことが色々とあるからね。明日香ちゃんさえ良ければ、うちで働いて貰えたら凄く助かるんだけどな?」

 富雄は明日香に、自分に気を遣う必要は全くないという笑顔で明日香を見る。それにもう一つ明日香にとって重要なこともあるだろう。

 「いいんじゃない、働かせて貰えば?隆君にも会えるんだし!」

 吉野と三郷は気持ちが良いくらいにはっきりと隆のことを口に出し、そうよそうよと捲し立てる。逆にそう言って貰えたことが、明日香の後押しとなる。

 「でしたら···是非フダラクで働きたいです。」

 明日香は顔を赤くしながら富雄に頭を下げた。思いがけない形で、明日香の働き先が決まった。不思議と不安は全くない。毎日を充実させるために、頑張ろうという気持ちで満たされていた。

 「ありがとう助かるよ。働き始めるのはいつからでもいいよ。明日香ちゃんの都合のいい日からでOKだから。」

 「そんな、こちらこそ本当にありがとうございます。私なら明日からでも大丈夫です。よろしくお願いします!」

 富雄の優しさに罪悪感すら感じながら、明日香は富雄に感謝してもしきれないくらいだった。こうして明日香にとってこれ以上ない形で仕事が決まった。


 「ごちそうさまでした。本当にありがとうございました。明日からよろしくお願いします。」

 富雄の特性カルボナーラを食べ終わった明日香は富雄に再度礼を述べると、吉野や三郷にも挨拶をすると、その日はフダラクを後にした。三人共に笑顔で明日香を見送った。


 思わぬ形ではあったが、仕事が決まった明日香は、ここ最近では、初めての上機嫌でアパートへと帰っていた。当然ながら、いつまでも富雄の優しさに甘える訳にはいかないし、富雄もそうだが、他の常連にも迷惑を掛ける訳にもいかない。その点に関しては、気を引き締めようと思う。そして、何より隆のことだ。これからは、隆がフダラクに来れば確実に会える。そのことは、仕事が決まったことより明日香にとっては嬉しいことだった。

 アパートに帰って来た明日香はまずは、面接を受けることになっていた飲食店に丁重に辞退の連絡を入れた。その後、フダラクに提出するための履歴書を書き始める。雇用契約等の話は明日の朝店を開ける前に話し合うことになっている。すでに働くことが決まっていたが、明日香は今までで一番気持ちを込めて履歴書を書いた。


 次の日の朝、明日香は朝食を終えると、必要な物を確認して一つ気持ちを入れると、フダラクへと向かって行った。

 明日香は海沿いの道を歩いていた。朝の涼しい風がよりいっそう心地好い。フダラクを見つけてから以降、富雄や隆を初め常連客との出会い、そしてそのフダラクで働くことが決まるとなど、明日香にとって幸運が続いている。それに、フダラクを見つけたことも、ただの偶然というよりも、明日香には何か言葉では説明出来ない不思議な縁で導かれたように思えてならない。今もどうしてもそう思えてならない。ただ、今は折角良くなり始めた人生を最大限楽しむことに決めていた。


 「おはようございます。生駒です。今日からよろしくお願いします!」

 明日香はフダラクの脇のドアを開けた。まだ開店前なので、店のドアは開いていないからだ。

 「おはよう明日香ちゃん、待ってたよ。まあ、固くならないでリラックスして。今からシフトとか明日香ちゃんにやって

貰いたい仕事について、説明するから。」

 ドアを開けると、六畳の広さの部屋になっていて、簡易キッチンや冷蔵庫、電子レンジがある。部屋の中央にはテーブルが置いてあって、パイプ椅子が並べられていた。その椅子のひとつに富雄が座っていて、何やら書類を書いていた。富雄は明日香に何枚かの書類が置いてある席に座るよう促した。

 「えーとね、書いて欲しい書類があるんだ。別に俺はいいんだけど、きちんと書類を残さないと法律違反になってしまうからね。書き終わったら、シフトとか勤務時間とかいろいろ説明するからね。」

 その後必要な書類を書いた明日香は、フダラクで働くにあたり、富雄に説明を受けていった。明日香が働く日は、月曜火曜と木曜金曜の週4日で、時間は朝の9時から午後4時までで、時給はそんなに出せないからと謝られたが、それでも1200円スタートだ。当面は明日香一人なら、それなりに趣味を楽しみながらも充分生活していける。明日香には謝られる意味が分からない。

 一番気になる明日香にやってもらう仕事の内容だが、まずは店の掃除や食器洗い、また富雄の手料理を楽しみにしている、一人暮らしの高齢者宅への配達から初めて、いずれは調理にも挑戦して欲しいということだった。いきなり接客をやることも考えていた明日香にとっては、何とかやっていけそうな内容だったので、ホッとしていた。ただ、配達の最中に隆がフダラクに来てしまったら残念だが、それは、ただの贅沢だ。

 明日香は早速開店前の店の掃除を始める。一目見ると小綺麗に見えるが、コンロやキッチン回りは長年使い込まれた汚れがあるし、窓もよく見ると水垢がある。明日香は時間が許す限り汚れを落としていった。富雄も店に入り開店の準備を進めていく。

 10時になり、開店時間になったのて、明日香は店のドアの鍵を開けた。流石にまだ客はいない。

 明日香は引き続き掃除を始めた。カウンターやテーブルを拭いていく。しばらくすると、富雄のスマホの着信音が鳴った。

 「はい、おはようございます紀伊さん。はい、はい。抹茶ラテと卵サンドですね!分かりました。今から伺います。それで、新人の子が行くのでまあ待ってて下さい。」

 富雄はいつもの感じで相手と話している。どうやら一人暮らしの高齢者からの配達の依頼のようだ。

 「明日香ちゃん!悪いんだけど、お得意さんに朝食を届けてくれるかい?すぐに用意するから待ってて。これが住所で店の自転車を使って構わないから。」

 富雄はテキパキと注文の品の用意をしていく。明日香は返事をして、富雄から住所が書かれたメモを受けとると、スマホで地図検索する。自転車なら十分程で着く距離だが、飲み物を届けないといけないので、富雄がフォローはしてくれたものの、初めからいきなり失敗しないようにしなければと明日香は少しプレッシャーを感じている。

 「お待たせ。それじゃ、よろしくね。」

 富雄から袋を受けとると、明日香は届け先へと自転車をこぎ始めた。


 「あら、あなたが新人さん?可愛らしいわね。」

 明日香は無事に届け先に到着すると、インターホンを押した。届け先は県営のマンションの二階だ。すると、中からマダムといった感じの老婦人が出てきた。明日香は思わず自身の祖母を思い出す。

 「おはようございます。生駒明日香と言います。お届けの物をお持ちしました。」

 明日香は富雄から預かった紙袋を大事に紀伊婦人に渡す。

 「ありがとうね、はいお代。」

 明日香は代金を受け取り、挨拶をすると、フダラクへと引き返した。因みに紀伊婦人の家の表札には「天川」とあった。紀伊というのは、婦人の下の名前だと分かった。

 初めての配達を終えた明日香は、充実した気持ちでフダラクへと戻っていた。他人から見れば簡単なことかもしれないが、明日香にとっては、殻を破って成長する価値のある一歩になったのは間違いない。この調子で頑張っていこうと改めて思っていた。


 「ただいま戻りましたぁ。」

 明日香がフダラクに戻ると、富雄が次の配達の品を用意していた。今度は食べ物だけのようだ。場所も紀伊婦人宅と同じくらいの距離だ。

 「それで明日香ちゃん、悪いんだけど、帰りにスーパーで食材の買い出しに行って欲しいんだ!」

 そういう富雄は料理の仕込みをしていた。富雄はいつ誰が来て、何を頼むかを把握しているので、ある程度はすぐに出せるように前もって用意している。食材も、何をいつどのくらい補充すればよいかももう手慣れたものだ。

 明日香は元気よく返事すると、再び自転車に乗って出掛けて行った。

 次の届け先は、メモによると「笠置竜門」と言う人だ。名前からして男性のようだ。二人分の料理があるので、老夫婦ではないかと思うが、年齢など他のことは一切分からない。おそらく富雄が同じようにフォローしてくれてるはずなので、余計な不安は振り払って挑もうと決める。


 明日香は届け先に到着すると、どんな家か見上げてみた。今度はごく一般的な二階建ての一戸建てだ。ということはやっぱり子供が一人立ちした、老夫婦が住んでいるのだろうか?

 明日香がインターホンを鳴らすと、女性の声がして、ドアが開いた。

 「あなたが富雄さんが言ってた新しく入った子ね、配達ご苦労様ね!」

 中から出てきたのは、天川婦人と同じくらいの年齢の老婦人だった。明日香を見ると笑顔で迎えてくれた。その後ろには、また同じくらいの年齢の男性が無言ながらも柔らかそうな笑顔で立っていた。この人が、笠置竜門さんなのだろう。夫婦でフダラクのお得意さんということのようだ。

 「はい。あっおはようございます。生駒明日香と言います。お届けの物をお持ちしました!」

 同じように夫婦に挨拶をし、代金を受けとると明日香は更に意気揚々とフダラクへと戻る。


 フダラクへと戻った明日香は富雄に言われて少し休憩していた。早いものでもうすぐ昼時だ。ランチに来る常連客の対応のために、明日香自身の昼は1時間ずらすことになっている。まだ何も出来ないが、早く一人前になれるように富雄から色々と学びたい。

 明日香はキッチンに戻ると、まだ洗ってない皿があったので、洗うことにした。

 「あっ悪いねー明日香ちゃん。それで、今からランチタイムだけど、うちはそんなにお客さんは来ないから別に緊張しなくていいからね。」

 初めてのランチタイムを迎える明日香を気遣った富雄だったが、明日香には昨日様子から何となく昼時のフダラクの様子は想像していた。まあ富雄には申し訳ないが、のどかに時間が流れる方が今の明日香にとっては仕事がやり易いので、ありがたい。

 しばらくすると、ドアが開いて吉野と三郷が入ってきた。

 「こんにちは~。あら明日香ちゃん。すっかり板に付いてるじゃない!」

 まだバイト初日の午前中が終わっただけの明日香に吉野はいかにも吉野らしい軽いノリで明日香を称賛する。

 「ありがとうございます。」

 明日香は昨日よりも爽やかな笑顔で二人に頭を下げた。富雄も二人といつも通りのやりとりをしたあと、いつもの料理を作り始めた。

 明日香はすぐにキッチンに入ると、富雄に指示されたことをこなしながらも、富雄の手際見て少しでも覚えようと努力する。

 見れば見るほど富雄の手捌きは、上手いとか上手くないというよりも、何と言うか小気味が良く思わず見いってしまいそうになる。明日香は軽く頭を振ると自分の仕事に専念する。

 「よし出来た。それじゃあ、明日香ちゃんにお願いしようかな?吉野さん達のところに持って行ってあげて。」

 明日香は「はいっ」と元気よく答えると、出来立ての料理を二人のテーブルに持っていく。

 「お待たせしました!」

 明日香は吉野と三郷の前に笑顔で料理を置いた。

 「どうぞ、ごゆっくり。」

 「明日香ちゃん、ありがとうね~。」

 キッチンに戻る明日香に二人共に軽く手を振る。本当に小さなことではあるが、明日香にとっては全てが新鮮なことだった。それに、明日香は自分のことを接客が苦手だと思っていたが、フダラクで仕事をしていると不思議と自然に言葉が出てきた。これも明日香とフダラクの見えない縁故だろうか。だが、明日香には気負いはない。実際に明日香はまだまだいろんなことを勉強しないといけないという思いで、油断する気持ちは一切なかった。


 「どうも~富雄さんごちそうさま~。それじゃ明日香ちゃん、頑張ってね!」

 ランチを終えた吉野と三郷は富雄と明日香に声をかけるとフダラクを出て行った。

 それからしばらくランチタイムの接客を続けた明日香は富雄に休憩するよう言われた。

 「冷蔵庫に生姜焼きが入ってるから、中で温めて。ご飯とみそ汁はそこから好きな分だけ持って行ってね。」

 そう言うと、富雄もさすがにひと息着くようで、明日香が控え室に入ってしばらくすると、富雄も入ってきた。そして、インスタントラーメンにお湯を入れるとタバコを咥えながら外に出る。

 明日香はインスタントラーメンを見ながら、もしかしたら明日香にくれたおかずは今まで富雄が昼食にしていたものではないかと思い少し気まずくなってしまった。かと言って、今更代わりにラーメンを食べ始めるのも変なので、明日香は言われた通りに昼食の用意をすると、食べ始めることにした。後で何となく聞いてみようと思う。

 明日香が昼食を食べ始めてからしばらくすると、富雄が戻ってきた。

 「どうかな。いわゆるまかないだけど?普段メニュ以外の料理は作らないからね。」

 富雄はインスタントラーメンをすすりながら明日香に尋ねた。そういう富雄はラーメンにライスという如何にもな感じだ。

 「はい、とても美味しいです。でも、これはいつも富雄さんが昼に食べてるものじゃないんですか?それを私にくれたせいで、富雄さんがカップラーメンになってしまったんじゃないですか?」

 明日香は懸念していたことをおそるおそる聞いてみた。

 「いやいや、俺は前からこんなだよ。そのまかないは明日香ちゃんの為に用意したんだ。男一人の昼飯だから適当だよ。」

 明日香の心配とは逆に、富雄は今まで自身一人、いわゆる男一人だったので、昼飯はいつも簡単に済ませていた。

 だが、明日香にも同じようにさせる訳にはいかないので、明日香にはきちんとしたまかないを用意することにしたのだった。

 「だから、本当に時間がないときはコンビニの弁当だったり、こんな風にカップラーメンになるときもあると思うけど、勘弁してね。」

 富雄は残りのスープをすすりながら明日香に申し訳ないという笑顔で言った。

 「いえ、そんな。まかないを出してくれるだけでも本当にありがたいです。」

 富雄も申し訳なさそうな態度に、明日香は戸惑ってしまった。明日香にとっては、どんなに簡単なものであっても、まかないを出してくれること自体が本当にありがたいことだった。毎日自分で弁当を用意したり、コンビニなどに買い物に行くのは何気に大変だからだ。


 「さてと!そろそろ店に戻ろうか?運が良かったというか、昼飯の間だれも来なかったね。それ、もうそろそろ隆が来るんじゃないかな?」

 富雄は立ち上がると、店へと入る。明日香も続いて店に入るが、富雄の言葉に急に落ち着きがなくなってきた。明日香自身も昼過ぎのどこかの時間に隆が来るのではと、予想というか期待をしていたが、富雄という自分以外の人間に言葉にされることによって、現実のこととして意識することになった。

 隆と会ってまだ2日しか経っていないのだが、明日香の心にはまるで長年会ってない大切な人に久しぶりに会うような緊張感が漂っている。

 富雄と明日香が店に戻って最初に現れた客が何と隆だった。

 「こんにちは~富雄さん来ましたよ。」

 隆はいつもの調子でカウンターの席に着くと、富雄にコーヒーを注文した。そこで、ようやく明日香がいることに気付いた。しかも見たところ客ではなく、店員としてのようだ。

 「やあ、明日香さん!え、フダラクで働くことになったの?」

 明日香がフダラクに初めて来たのは一昨日の話だ。初めは少し驚いた表情を見せた隆だったが、富雄と共に明日香の身の上は聞いている。富雄が明日香の為を思ってのことだとすぐに理解した。

 「うん。でも今日からだからまだ全然だけど。」

 明日香は緊張しながらも、隆に会えた嬉しさで言葉を返すことが出来た。

 「いやあ、いい加減人手が欲しかったし、それが明日香ちゃんで本当に助かったよ。で、隆!コーヒーでいいのかい?」

 富雄はそう言いながらもすでにコーヒーを煎れ始めていた。隆ももちろんと頷くと、何となくそわそわしていた明日香に話し始めた。

 「そう言えば、明日香さん。昨日は助かったよ。昨日丁度海に出ようと思ってた時間にサメが出たんだってね?しかもホホジロザメだよ?明日香さんの忠告を聞いて、昨日は海に行くこと自体を止めたんだ。別にどうしても行く必要がある訳じゃなかったから。もし明日香さんに忠告されてなかったらと思うとゾッとするよ。ありがとう明日香さん!」

 隆は明日香の能力を実際に体験した訳だが、それでも明日香に対して全く不審に思うことはなく、変わらぬ笑顔で接している。富雄もそんな隆と明日香を微笑ましく見ている。

 「私もサメが出たってテレビで見た!だから、隆君がどうしたのか気になってたの。私のこと信じてくれて嬉しい。」

 明日香は自分の言葉を信じてくれて、更に能力のことを知っても変わらずに優しく接してくれる隆に、その思いを段々と強くしていた。

 「隆!と言うことは明日香ちゃんは命の恩人なんだ。お礼に食事にでも誘ったらどうだ?」

 富雄は悪戯っぽい笑みを浮かべて隆を見ている。もちろん二人の仲が上手くいくようにという富雄なりの応援で、要するに恋のキューピッドという訳だが。

 「いやだな~、変なこと言うと明日香さんが困ってしまいますよ。ねえ、明日香さん?もちろんお礼はするけど、それが一緒に食事って、ねぇ?」

 隆は場の空気が悪くならないように、それでいて明日香が断りやすいように言葉を選ぶ。コミュニケーション上手な隆ならではの返しだった。

 「いいじゃないか?食事くらい?明日香ちゃんはどうなんだい?そんなに変なことかな?」

 富雄は隆に対する明日香の態度で、明日香が隆を想っていることに気付いていた。なので、二人を一緒にしようとすることが、明日香にとって決して迷惑にはならないと確信していた。

 「えっと、えーそれじゃお願いします。」

 明日香は富雄に言ったのか隆に言ったのか分からない言い方になかったが、それでも隆と食事に行きたいという意思表示が出来た。

 「ほら、隆。で、たまには小洒落たレストランで女の子と食事も悪くないだろう?」

 富雄はそう言いながら、隆の前にコーヒーカップを置いた。富雄は隆に今は彼女がいないことを知っている。明日香にも付き合っている男性がいないこともだ。何の因果か二人は同い年でもあるし、これ程カップルに相応しい男女はそうそういないのではないか。

 「えぇ、明日香さんまで?でも明日香さんさえ良ければ、お礼もしたいしディナーに誘おうかな?」

 隆も明日香に若干でも気があるのか、まんざらでもない様子で明日香を誘った。

 「そうこないとな、隆!ねえ、明日香ちゃん?」

 富雄は明日香にお得意の似合わないウインクを送る。しかも、ドヤ顔が何とも言えない。

 「は、はい。」

 富雄の振りに明日香はドギマギしながら答える。何と隆とのディナーが目の前で自然に決まってしまった。バイトが決まったことといい、隆とのことといい怖いくらいに物事が順調に進んでいる。今までが最悪だった分、やっと明日香の運気も上がってきたということだろう。

 「それじゃ、いつにする?富雄さん、明日香さんのシフトはどうなってんですか?」

 隆はまだ明日香がバイト初日であることから、平日と週末のどちらが都合がいいのか富雄に明日香の予定を質問した。

 「明日香ちゃんには平日4日入ってもらうことにしたんだ。だから週末がいいだろう?」

 富雄はまたもドヤ顔で隆を見る。少なくとも隆にはドヤ顔に見えた。まさか富雄が隆と明日香が会いやすいように明日香を週末休みにした訳でもないとは思うが。

 「オーケーです。なら明日香さん、いつの週末がいい?今週末だと急だよね?来週以降だといつがいいかな?」

 隆はコーヒーを飲みながら、自身のスマホのスケジュールのアプリを見て週末の予定を確認している。

 「ええと、私は別にいつでも構わないけど?隆君の都合に合わせられるから。」

 周りに遊ぶ友達もいなければ、習い事をしている訳でもない明日香に都合が悪い日などない。何なら今週末でも全く構わないくらいだ。

 「そう?それなら来週の土曜にしよう。それでいいかな?」

 それから隆と明日香はお互いに連絡先を教え合い、隆の和食、洋食、中華などどの料理がよいかの質問に明日香が洋食を希望した。隆はそれならと、良さげなレストランを知っているので、そこにしようと決まった。隆にとっては、いきなり今週末明日香と食事に行くとは全く予想外のことだったが、それでも明日香に気を付かいながらもテキパキとスケジュールを決めていく隆を明日香はただただ尊敬した。

 「それじゃ、富雄さんご馳走様っす。明日香さん、今週土曜の夕方6時にフダラクで。で、一緒にレストランに行こう!」

 会計を済ますと、隆は明日香に手を振って出て行った。

 明日香が隆と約束したのは木曜だったからか、その日以降隆はフダラクに顔を見せることはなかった。そして、当日の朝を迎えることとなった。


 明日香は当然と言うか何と言うか、前日はほとんど眠れなかった。だが、いつもと違う日常に心が踊る。異性と二人きりの食事などいつぶりだろうか?高校時代たまたま付き合っていた同級生と映画に行った帰りのランチに行ったきりだから、かれこれ7年ぶりだ。今日はバイトは休みなので、隆との待ち合わせの時間まで特段にやることはない。いつまででもバイトという訳にはいかないと思っている明日香は、いずれは正社員として働くために資格の勉強をしないといけないとは思っている。だが、今日は何も手につきそうにない。


 テレビを見たりスマホをいじったりしながら、何とか隆との待ち合わせの時間が近づいてきたので、明日香は出かける準備を始めることにした。自身が持っている服の中で一番のお気に入りのものを着て、メイクもより気持ちが入る。肩掛けのバックなど人並みにオシャレを決めると明日香は意を決してフダラクへと出かけた。


 明日香はフダラクに着くと中へと入る。店内には隆が富雄と話していた。明日香はバイトはなかったが、土曜は富雄が一人でやっている。因みに日曜も富雄一人でやっているが、水曜は定休日である。

 「やあ、明日香さん。それじゃ富雄さん、行ってきます!」

 「ああ、楽しんでこいよ。明日香ちゃんもね!」

 富雄は軽く手を振って二人を見送る。隆は同じく片手を上げて答え、明日香は軽く頭を下げて、二人はフダラクを後にした。

 「へえ、それでフダラクで働くことになったんだね?」

 隆と明日香は予約したレストランへと向かっていた。フダラクからレストランまでは歩いて10分程だ。二人は歩きながらお互いのことについて話している。明日香は自身がフダラクで働くことになった経緯を、隆は一昨日フダラクで話した夏休みの間研究でここに来ていることの続きをお互いに話していた。

 「うん。採用してくれるところが無かったらどうしようと思ってたから、富雄さんには本当に感謝してる。私、人と接するの苦手なのに、それでも採用してくれたんだから。」

 富雄は一人では手が回らないからと、明日香を同情ではなく一人の働き手として雇ったと言ってはいるが、それでも明日香は本当は富雄が明日香のことを思って多少無理を承知でフダラクで働かせてくれていると思っている。だからこそ一日も早く一人前に出来るようになりたいと思っている。

 「大丈夫だよ。富雄さんだっていつもやらかしてるんだから。まあ一人で切り盛りするのは大変だろうけどさ。だから明日香さんがいてくれて助かってると思うよ!」

 隆は富雄が一人で大変そうにしているのを知っている故に、富雄が決して同情とかではなく明日香だからこそ雇ったと思っている。当の富雄にしても、明日香が人と接することが苦手と言っても、明日香の誠実で真面目な性格を見て、仕事を任せられると思ったからで、人と接することにしても、明日香が思い込んでいるだけで、何かキッカケがあれば、すぐに変われると思っている。


 「ここだよ。フダラクと同じで小さな店だけど、隠れ家的な感じで凄くいい店なんだ。」

 隆と明日香は、目的のレストランの前に辿り着いた。そのレストランはフダラクと同じで小さな店ではあるが、まるでおとぎ話の絵本に出てくるような外観で、どんな店なのか入ってみたくなるような雰囲気がある。

 見上げると「洋風レストラン平群」とあった。

 「フダラクと同じで可愛らしいお店ね。」

 明日香のレストランに対する印象に隆は笑顔で返すと、二人はレストランへと入って行った。

 レストランに入ると、店内も北欧を思わせるような木目調のデザインが何とも赴きを感じさせる。中はカウンターとテーブル席が四つで、客はカウンターに一人、テーブル席に女性の二人組がいた。

 店員がやって来ると、隆は予約があることを告げる。二人はテーブル席のひとつへと案内された。

 隆は手慣れた様子だが、明日香は場違いな雰囲気に戸惑っているようだ。

 「さあ、明日香さん。遠慮しないで好きなもの頼んで!何せ命を助けてもらったんだから。命には代えられないよ。」

 隆は明日香が遠慮しないように、先んじて気を利かせる。好きな物を頼んでくれで終わりではなく、更に一言付け加えるあたりが隆らしい。

 「うん、ありがとう。それじゃそうするね。」

 いつもの明日香ならば、遠慮して明日香自身が食べたい物より安い物を選んでいたかもしれないが、隆の優しさに惹かれたこともあり、隆の優しさを素直に受けることにした。

 メニュを頼むと、隆と明日香は改めてお互いのことについて話し始めた。出身や学生時代のこと、部活や修学旅行のことなどだ。明日香は人と話すのは苦手だと思っているが、隆の絶妙な会話のリードにまるで昔からの友達のように、いやそれよりも会話が弾んでいた。

 隆は岡山県出身で大学院も岡山だが、夏休みの間だけこの辺りの海洋研究のために、大学院の施設に寝泊まりしながら研究を続けていた。そして、大学院の紹介で近くの塾の講師のバイトもやっているという話だ。隆がフダラクを見つけたのは、隆がコーヒーが好きで、地元ならではの喫茶店が近くにないか探していた時に、偶然見つけたからだ。

 明日香は山梨県の出身で、大学まで地元で過ごした後、就職すると同時に東京に来たのだ。明日香は東京に憧れを持っていて、いつか東京で生活してみたいと思っていた。山梨は東京からそこまで遠くはないのだが、何故明日香が東京に憧れたかといえば、山梨から何となく見える都会の夜景の美しさに感動したからだった。

 二人の元に料理が運ばれてきた。隆は、牛のステーキにエビフライと何とも若い男性らしいく、明日香は鮭のムニエルと明日香らしいスマートなメニュだ。

 「それじゃカンパイ!」

 二人は、隆が折角だからと頼んだ若者向けのワインで乾杯した。明日香は当然ながらワインを飲むのは初めてだったが、グラスを顔に近付けると、葡萄の甘い香りが鼻を抜ける。明日香は一口飲んでみた。すると、期待通りの甘く滑らかなのど越しのよい味わいでまるでアルコールではないような感じがする。

 「美味しい!」

 明日香は思わず口に出して言った。酒自体は飲んだことが無いわけではなかったが、ワインというものがここまで美味なるものとは想像していなかった。

 ワインを楽しんだ後、二人は料理も食べ始める。店のコンセプトが若者向けということで、味加減も隆と明日香の二人には程よい味付けだ。その後も二人は料理を楽しみながら、会話も弾んでいった。

 「明日香さんは海はどう?今度は富雄さんや他の皆も誘って一緒に行かない?皆で盛り上がれば絶対楽しいし、夏の思い出にもなると思うよ?」

 メインの料理を終えて、デザートを食べている時に、ふと隆が提案してきた。皆でなら明日香も参加しやすいし、断るのも人の多いのは苦手だからと断りやすい。隆なりに明日香に配慮した提案だった。

 「まあ今ここできめなくても、またフダラクで富雄さんとも話して決めようか?」

 「隆君って、本当に会話が上手というか、その場をコントロールするのが凄いのね?」

 明日香は隆の段取りの良さと気配りの行き届いた会話のテンポの良さに感心するばかりだ。自分も隆のように上手く会話が出来ればよいのにと思う。

 「いやあ、そうかな?まあ研究の癖で、他のこともああしよう、こうしようって考えてしまうからかな?でもありがとう。明日香さんだけだよ、そう言ってくれたの。」

 隆は気付けば周りに気を配っているような人間だが、隆自身はそれを特別なこととは思っていない。ごく自然にやっていることだ。今まで人に言われたこともなかった。だが、明日香に尊敬されたことは嬉しいと思った。

 それに、明日香の未来が分かる能力の方がただただ凄いと思う。明日香はその能力のせいで周りから悪く思われていたと言うが、隆には何故そんなふうに明日香を悪く思うのか全く理解が出来なかった。素晴らしい能力だと思うが、世の中にはいろんな考えの人間がいるということだろうか。


 「あー旨かった。やっぱりここは何頼んでも間違いないや。ねえ明日香さん?」

 「うん、本当に美味しかった。雰囲気も良いし、素敵なレストランね。」

 明日香はフダラクと同じようにこのレストラン平群も好きになっていた。隆のセンスの良さもそうだが、趣味嗜好が自身と似ていることに嬉しい気持ちになる。だが、確かに今日は隆と話をしながらディナーを楽しんだが、踏み込んだ話は出来なかった。それでも、皆で海に行こうという提案は明日香にとっては重要なことだとも思う。

 その後会計を済ませると二人は平群の外に出てきた。もちろん食事代は命を救われたお礼ということで、隆が全額支払ったのだが、席を立ってレジで会計を済ませるまでの立ち振舞いがこれがまた女性をエスコートするのに相応しくスマートで、その一連の流れるような動きに明日香は思わず見とれてしまった。

 「それじゃ、明日香さん今日は楽しかったよ!明日香さんは道はそっちだよね?俺は研究室はこっちだから。」

 隆の大学院の研究施設は海からそれほど離れてはいないが、明日香のアパートからは別方向だ。今日のところは二人はここで解散することにした。

 「私も!今日はありがとう。凄く楽しかった。料理も本当に美味しかった。」

 明日香は離れていく隆に自然に手を振っていた。自分でも驚くぐらいに自然にそうしていた。明日香はこれからも隆や富雄、そしてフダラクと関わっていくことで、今までの自分の殻を破って成長していけると改めて思うようになっていた。



第二章


導き合う心


 明日香はフダラクへと向かっていた。隆とのディナーを楽しんだ次の日は日曜で、別にどこに行くこともなかったが、嬉しい気持ちで日曜を過ごすことが出来た。昨日もバイトだったのだが、残念ながら昨日は隆はフダラクには顔を見せなかった。そんなに毎日は来ないだろうとは思いつつも今日こそはと期待してしまう。

 隆とのことは、昨日富雄に聞かれたが、富雄も良識のある人間ゆえに、ただ楽しかったかどうか聞かれただけで、何を話したとか根掘り葉掘り聞かれることはなかった。詳しい話は隆本人が来てから改めて話そうということだろう。いつものように吉野と三郷が来たがまだ皆で海に行こうという話はしていない。よって昨日は特に何事もなく過ぎていった。

 「おはようございます!」

 明日香は快活に挨拶をしながら中へと入る。そこにはいつものように富雄が書類とにらめっこしていたが、明日香が入ってくると笑顔で挨拶を返してきた。

 「おはよう、明日香ちゃん!今日は隆のヤツ来るといいね?隆を交えて色々と話したいことがあるんだろう?」

 富雄は心から明日香と隆を応援したいと思っている。明日香もその気持ちは嬉しいと思っているが、ただ懸念していることもある。それでも今は隆を想う気持ちを大切にしたいと思う。

 「はい···でも隆君も、研究と塾講師のバイトでそんなに何回もフダラクに来ることは出来ないだろうし···でも今日は来そうな気がします。理由はないです!」

 明日香は予感というより完全に自身の希望で今日は隆が来ると思っている。その場合いざ来なかった時のショックは大きいが、そう思わずにはいられない。

 「そうかい?俺も何だか今日あたり隆が来そうな気がするな。」

 時間になると、富雄と明日香は店の開店準備に取りかかった。今日は朝の配達もないので、明日香は店掃除を始めた。まずは外の店の前を掃除し始める。富雄はコーヒーの焙煎の用意や料理の仕込みを始める。

 外の掃除を終えた明日香は、店内に戻ると次はテーブルを拭き始めた。外で体を動かしていたので、店内のクーラーが心地好い。

 各テーブル席のテーブルと椅子を拭いた後、椅子の位置を揃えていく。それが終わるとカウンターのテーブルを拭いて、置いてあるメニュ何かを揃える。特にいつも隆が座る席は綺麗に揃える。

 その時ドアが開く音がした。明日香が振り向いて、「いらっしゃいませ」と言おうとしたが、入ってきたのは何と隆だった。明日香は思わず声が上擦ってしまった。

 「富雄さんおはようございます。おはよう明日香さん!」

 隆はいつものように明るい笑顔で富雄と明日香に挨拶をする。そしてたった今明日香が綺麗にしたお決まりの席に着くと、これもまたいつものようにコーヒーを注文する。

 「おう!おはよう隆。待ってたぞ。」

 明日香も隆に挨拶を返すとそれとなく隆の近くに寄る。

 「今日は研究室と塾講師のバイトは休みかい?」

 富雄はコーヒーを隆の前に置いた。淹れたての香ばしい匂いが漂ってくる。

 隆は夏休みとはいっても、海洋研究と塾講師のバイトでそんなに休みを満喫するという時間はないのだが、研究室やバイトに行く前または後にコーヒーを飲みに来たり、食事時に時間が合えば昼や晩をフダラクで済ますこともある。昨日はたまたまフダラクに行かなかっただけで、今日はこれから研究室に行くので一息着きに来たのだった。

 「そうか。これからか?で、どうだったんだ。ちゃんと明日香ちゃんにお礼はしたのか?」

 富雄はカウンターに肩肘を着いて隆と明日香を見比べる。明日香はただ土曜のことだけではなく、皆で海に行く話もすると思うと、一体どんな話の流れになるのか少し緊張する。

 「本気でオススメのレストランなんですから、喜んで貰えたと思いますけど。明日香さんどうだった?」

 隆の質問に明日香はすぐに、楽しかったと答えた。隆も決して得意気になることなく、嬉しそうに言葉を返す。

 「ところで、富雄さん。明日香さんとも話したんだけど、今度時間がある時に、皆で海に行かないですか?俺や明日香さんと富雄さんと他の知り合いも誘って!」

 隆は土曜に明日香と話した皆で海に行く話を話し始めた。明日香にとってはその話題を切り出すことすら一大決心なのだが、隆はあっさりと話し始めた。

 「いいんじゃないか?ここは海も近いし。皆にも声かけてみよう。」

 富雄も隆の考えに賛成した。富雄としては、隆と明日香の距離が更に近づく機会が出来るのは喜ばしいことだ。

 「お願いしますよ。楽しみだね明日香さん。」

 明日香は嬉しそうに返事をした。一体どんな風になるんだろうと広がる期待と若干の心配を感じる。

 その後海の話の詳細はこれから決めていくことにして、三人は土曜の話で盛り上がった。

 話が終わると隆は、研究室に行くと言ってフダラクを後にした。時間にして小一時間もなかったが、明日香は例の海の話が、半ば現実として実感がなかっただけに、実際に話題に出たこと、その日が時が経てばいづれやってくることを不思議に感じていた。

 「なるほど、皆で海かぁ。そういや俺も最近行ってないなぁ。その提案をしたのは隆かい?」

 富雄の質問に明日香は深く頷いた。隆としても下心は全くなく、ただ夏らしく皆で海で楽しもうと、良い思い出になればよいと思って提案しただけだ。それに、隆が言うと不思議と印象良く受け入れることが出来た。

 「そうか···隆らしいと言えば隆らしいな。まあ、折角海が目と鼻の先にあるんだし、夏らしく海を楽しまないともったいないのも一理あるな。」

 富雄は隆が使ったコーヒーカップを片付けながら、近くにありながらも、久しく行っていない海をイメージする。話だけならフダラクのサーファーや海好きの常連に聞いてはいるが、いざ自身が行くとなるとハードルが高い。富雄にとっても隆の提案はいつもと違った体験をする良いチャンスと言えるかもしれない。


 「こんにちは~。富雄さん今日もいつものお願いね。」

 隆がフダラクを出て昼近くになり、いつものごとく吉野と三郷がやってきた。隆から海の話を聞いた富雄は二人に提案してみることにした。

 「どうもこんにちは。いらっしゃい!吉野さん、三郷さん。つい今さっきまで隆がいたんだけど、隆が皆で海に行こうって提案したんだけと、二人はどうかな?」

 言いながら富雄は吉野と三郷のいつものメニュに取り掛かる。その小気味の良い音が店内の雰囲気も和やかにするようだ。

 「海~?面白そうじゃない。いいと思うわよ。他には誰が行くの?」

 富雄はつい今しがたまで隆と話していたことを吉野と三郷にも話していった。

 「そういうことね。隆君らしいと言えばらしいわね。皆で行きましょうよ!水着にはならないけど!」

 吉野と三郷は言ってからあははっと笑ってみせた。海はただのきっかけであって、皆で集まって楽しむことが明日香のためにも重要なことだ。

 「ならお二人共参加だね。はいお待ち。明日香ちゃん頼むね。」

 富雄は吉野と三郷二人分の料理をカウンターに乗せた。出来立ての良い香りが店内に広がる。

 明日香は二人の料理をテーブルへと運ぶ。

 「お待たせしました。」

 明日香が二人に一礼すると、吉野が話しかけてきた。

 「明日香さんも行くんでしょ?」

 明日香は笑顔で返事をする。先に隆から提案された話ではあるが、明日香自身もその場にいて二人で話し合ったことなので、その話がこうやって皆に受け入れられていくことに明日香は嬉しさを感じる。

 「何人かで集まって海に行くなんていつぶりかしら?そう言えば富雄さんや他のお客さんと一緒に何かするって、何気に思い付かなかったわね。」

 三郷の言葉を聞いて、富雄も同じことを考えていた。何で今までそういう発想が思い浮かばなかったのだろう?言われてみればその通りなのだが、それを言葉にして提案出来るのはさすが隆である。


 「ごちそうさま~。海のこと決まったら教えてね。それじゃ明日香さん頑張って!」

 ランチを終えると、吉野と三郷はフダラクを出た。明日香は二人に一礼するとテーブルの皿を片付け始める。皆で海に行くことは、隆に提案された時は社交辞令的なあまり現実味がないような、どこか夢のような話に感じていた明日香だったが、実際に富雄や他の人達に話をすることで、時期がくれば実現する話だと少しながら実感すると凄く幸せな気持ちになる。


 「こんちはー!マスターいつものコーヒーおねしゃっす!」

 午後を小一時間程過ぎて店も辺りも落ち着いてきた頃、その落ち着きとは全く逆の雰囲気の男性がフダラクに入ってきた。富雄とは親しいようだが、明日香は始めてみる客だった。隆も気さくで明るい性格だが、目の前の男性はまた違うタイプだ。所謂チャラいというのが明日香の第一印象で、少し警戒していまう。

 「おう、王寺。しばらくだな?3ヶ月くらいか、店は順調か?」

 富雄に王寺と呼ばれた男性が席に着くと、富雄はコーヒーを淹れ始める。男性は短髪の茶髪で、細身で背が高い。年齢は30半ばくらいだろう。ピアスにネックレスをしているが、富雄に雑ながらも敬語を使っているので、根っからの不良という訳でもなさそうだが。

 「いやあ、大変だとは覚悟してたっすけど、想像よりはるかに忙しかったっすよ。フダラクにも忙しくて来る暇がなかったってよりか、気付いたら3ヶ月経ってたって感じで···」

 王寺の話によると、今年の4月から独立してアクセサリーなどの小物屋を始めたという。それゆえ店が軌道に乗るまでは経営の勉強や融資など忙しくしていたということだった。その上王寺のこの性格もあってか、半ば見きり発車で店を始めたことも忙しくなってしまった理由だろう。

 「それは大変だったな。で、その後は順調なのか?まあ多少は落ち着いたから俺んとこに来たんだろうがな。」

 富雄は王寺の状況を予想していたかのように例のイタズラ好きの子供のような笑みで王寺を見る。王寺も何もかもを富雄に見透かされていることはすでに分かっているのか、首を竦めて笑ってみせた。

 「ところで、彼女は?バイトを雇ったんすか?」

 王寺は明日香を見ながら言った。当たり前だが王寺に話を振られて、明日香はドキッとして思わず下を向いてしまう。

 「ああ、生駒明日香ちゃんて言うんだ。今月からはたらいてもらってるんだ。明日香ちゃん、こっちは···」

 「黒滝王寺、よろしく!」

 富雄に促されて王寺は明日香に自己紹介する。悪意はないように見えるのだが、その雰囲気にどうも明日香は構えてしまう。

 「生駒明日香です。よろしくお願いします。」

 それだけ言うと何を言えばいいか分からず恥ずかしそうに下を向いてしまう。

 「へえ、こんなに可愛い娘がマスターのとこにバイトねぇ。マスター何か良からぬことを考えてんじゃないすか?」

 王寺ははははっと笑うとコーヒーを一口飲んだ。こんなことをさらっと言ってみせるあたり、この王寺も隆とタイプこそ違うものの、ムードメーカーの素質がありそうだ。

 「何をバカなことを言ってんだ!お前こそ、御杖さんとはどうなんだ、上手くやってるのか?」

 富雄の言う御杖とは、王寺の彼女で薬師寺御杖という。まだ正式に婚約している訳ではないが、いずれは一緒になることを考えていた。それ故王寺が店を始めるにあたり、将来のことを考えると当然不安はあったが、それでも御杖は王寺の側にいようと決めた。

 そんなこともあり、王寺は御杖に苦労をさせないように、また御杖の両親に認めてもらうために、見た目のチャラさとは裏腹にこの数ヶ月は正に死ぬ気で働いた。そして、最近になってようやく経営が軌道に乗り、その他周りのことも落ち着いてきたので、富雄への報告も兼ねてフダラクを訪れたのだった。

 「いやあ、そのことでは御杖には苦労させてしまいましたけどね。でも心配無用、御杖とは上手くやってますよ。」

 王寺は親指を立ててみせる。王寺に彼女がいると聞いて、明日香は思わずホッとしていた。警戒心も少し薄らいだように感じる。

 「そうだ!なあ王寺。皆で海に行こうって話をしてるんだけど、お前と御杖さんもどうだ?まだいつにするかは決めてないんだがな。」

 富雄は隆が皆で海に行こうと提案したこと、自身と隆、明日香、吉野と三郷が賛成していることを話した。

 「へえ、隆の提案ねぇ。面白そうじゃないすか?いいっすよ、一日くらい。一段落着いて久しぶりに気晴らしでもって思ってたとこすから。店は水曜定休で土日は営業日すけど、別に前もって言ってくれればOKっす。」

 その後富雄と王寺、そして明日香はしばらくの間世間話をしていた。王寺は自身に結婚を意識した彼女がいることもあり、明日香を変な目で見ることはなく王寺なりに親しく話してはくれたのだが、何せ明日香の苦手なタイプである故に、明日香は王寺と上手く話せなかった。ただ、王寺はそんな明日香の性格を分かっているのかいないのか、明日香に嫌な顔を見せることはなかった。

 「それじゃマスター俺は店に戻ります。今度は御杖も連れてきますよ。で、海の件は話が進んだらまた知らせてくださいよ。」

 「ああ、分かった。またな!」

 世間話を終え、王寺はコーヒーを飲み終わると、ドアに向かう。

 「明日香ちゃんも。以後よろしく。ぢゃあバイト頑張って!」

 王寺は明日香に軽く手を振ると出ていった。明日香は挨拶くらいはといつもより大きめの声で礼を言い頭を下げた。


 「あのう、今の人は···?」

 明日香は王寺について改めて富雄に質問する。いきなり初対面の人間に会ったうえに明日香の苦手とするタイプだったこともあり、ほとんど会話の内容が頭に入ってこなかった。なので、次に会う時に失礼がないようにしなければと思う。

 「いやあ、驚いたよね?俺も最近来てなかったから、ついついアイツのことが頭から抜けてたよ。だからアイツが来るなんて全く予想出来てなくてね。ごめんごめん。」

 富雄は申し訳なさそうに首をすくめる。王寺が決して悪い人間ではないことは、寧ろ自身の店を出して頑張っていることは充分に理解しているが、何せあの性格だ。いきなりでは明日香を驚かせてしまうことは今考えれば当選だが、ここ3ヶ月顔を見せなかったことと、明日香との出会いもあり、すっかり失念していた。それゆえ明日香を驚かせてしまったことを本当に申し訳ないと思っていた。

 「いえ、富雄さんは悪くないです。私が臆病なだけで···いきなりで驚いたのと、なんだか遊び感覚でナンパされるんじゃないかって勝手に構えてた私が悪いんです。」

 明日香は慌てて自身の胸の内を告白する。明日香の性格からすれば、王寺のようなタイプはそのように見えてしまうものだろう。

 「確かに。まあ見た目も見た目で、性格もあんなだからなぁ。でもね、本当は凄く真面目でいいヤツなんだよ。テメエで店始めて頑張ってるし、彼女も大切にしてるからね。」

 明日香は富雄の言う通りだと思う。ただの不良が店を経営したり、彼女を大切にしたり、何より富雄も親しく接したりはしないだろう。いや寧ろ自分なんかより全然しっかりしている。自分の方がなかなか仕事が決まらずに、やっと富雄のところで働かせてもらっているのだ。明日香に王寺を悪く思う気持ちは全くない。

 「はい。今日は初めてで驚きましたけど、悪い人ではないことは分かります。次はもう少し普通に接したいと思います。」

 そうは言うものの明日香にはその自信はない。ただ何とか努力しようとは思っていた。ただ富雄は明日香の成長を少しずつではあるが、実感していた。初めて出会ってからまだ間もないが、それでこれだけ成長している。明日香はまだまだ自信なさげだが、富雄はこのまま隆を中心に皆と接していけば、何も心配することはないと確信している。自分はそんな明日香と、そして隆との絆を温かく見守るだけだ。


 「さあて、全員集まったな!それじゃ出発だ!皆忘れ物はないな?」

 富雄は集まったメンバーに向かって声を挙げた。あれから一週間ほどだが、ちょうどよく皆が都合を合わせられる日があった。しかも平日なので、夏休みとはいえ、土日に比べれば人も少ないだろう。

 参加するメンバーはフダラクに集まっていた。集まったメンバーといえば、隆と明日香、そして富雄、更に吉野、三郷、王寺と王寺の彼女の御杖も参加している。隆も夏休み中の学生で、他も個人経営ということもあって、平日を休みに出来たのだ。

 「何で富雄さんが仕切ってんのよ!この話は隆君が提案したんだから隆君がリーダーよ。ねえ?」

 吉野は富雄が張り切るのが不服なのか、隆に先頭に立って欲しいのか、富雄にツッコミを入れた。王寺も便乗してガヤを入れる。だが、隆としては年長者の富雄がイニシアチブを取ることは全く構わないと思っている。

 「俺は別に構わないですよ。いいじゃないですか?富雄さんが一番年長者だし。」

 隆は半分は冗談だとは思うが、不服そうな吉野を笑いながらたしなめる。周りの皆もどちらかと言えば隆が仕切る方がいいと思っているが、当の本人が富雄に任せるというなら別に構わない。肝心なのは海を満喫することだ。

 「そう?まあいいわ。それじゃ行きましょうよ。」

 吉野は何となく隆と明日香を先頭に促すと隆の背中を軽く押した。隆と明日香が歩き出すと他の皆も続く。フダラクから浜辺までは会話しながらのんびり歩いても20分はかからない。

 隆達一行はそれぞれに談笑しながら歩いている。

 明日香は初めてフダラクに来た日のことを思い出していた。明日香がフダラクを初めて訪れてからまだ数週間が過ぎただけだが、遠い昔のことのようにも感じる。あの時何かに導かれるようにフダラクに来た時には、まさかこんな風に何人もの仲間と海に出かけることになるとは思ってもいなかった。

 それも今隣を歩いている隆との出会いが全てだと明日香は改めて思う。

 そんな隆に明日香は淡い恋心を抱いているが、隆に気持ちを打ち明ける勇気など全くないし、隆の気持ちを確かめる度胸もない。隆本人や周りの人間の誰も気付いてはいない。もちろん二人がそういう関係になれば応援したいと思うが、それは飽くまで二人の問題だ。

 特に明日香には明日香のペースがある。今は温かく見守るだけだ。特に富雄なんかは隆と明日香が並んで歩いている姿を後ろから微笑ましく見ている。

 王寺も富雄から二人の事情を聞いているのか、隆や明日香に対して例えボケであっても冷やかすようなことは言ってない。


 「さあ、着いたぞ。さすがにまだ人は少ないな。」

 隆達一行は海水浴場に到着し、浜辺へと降りてきていた。平日の朝と言うこともあり、まだ人は数えるくらいしかいない。これなら今日一日人混みを気にせずに海水浴を楽しむことが出来るだろう。

 一行は海の家で準備を済ませると砂浜にやってきた。そして改めて海を一望する。

 一行の目の前には、晴天の青空と眩い海が広がっている。それに、広大な水平線がまるで時が止まったかのような悠久の時の流れを感じさせ、吸い込まれそうな感覚にもなる。

 明日香は海を眺めるだけでなく、実際に泳ぎに来るのは小学生以来だ。

 一行は目の前の景色に見入っていたが、誰とはなしに全員で輪になると、ボールトスを始めた。ボールを持って行くのを提案したのは富雄で、皆は子供っぽい遊びだと茶化していたが、いざやってみると皆ボールを落とすまいと必死にボールを追う。

 その内に上手くボールを回せるようにそれぞれに声も出し合う。人と接することが苦手な明日香ではあるが、そこは特殊な能力で事前にボールの行方が分かる明日香はゆったりとした動きながらボールを落とさない。

 その姿を富雄と隆は優しい笑顔で見守っていたし、明日香の能力のことを知らない四人は明日香が一生懸命に頑張っていると映ったのだろう、拍手と称賛の声を掛ける。

 しばらく時間が経つのも忘れて楽しんでいたが、最年長の富雄が足が縺れて転んでしまった。やはり歳には勝てないらしい。だがさすがに他の皆も流れが止まったことで疲れていることに気付く。だいぶ汗もかいていたが、爽やかな汗だった。


 それからまた昼まで遊んだ後、一行はランチの為に海の家に戻ることにした。

 今年からこの街に来た明日香と隆以外の四人は海の家の店主とも昔からの気の知れた仲だった。それで、昼はこの店名物の冷やし中華を富雄が人数分頼む。海の家の他にも通りには色々な飲食店があり、学生や若者はそちらに行くこともあってか、一行がいる海の家はそこまで客はいない。なので、体を伸ばしてくつろぐことが出来る。久しぶりに心地好い汗をかいた一行は料理が来るまでの間、富雄や王寺なんかは横になりながら談笑している。

 「それで隆。どんな研究をやってるんだ?」

 ふと王寺が隆に話しかけてきたが、ただ単に研究のことを聞きたいだけではないのは皆が思っていることだが、それと同時に夏休みが終わった後のことも当然頭にある。周りの大人達はまだまだ若い明日香と隆がどんな判断を下すか暗黙の了解で見守る。そのことに関しては、王寺も富雄から事情聞いていたので、自身も付き合っている女性がいるゆえに煽り立てるようなことは言わない。

 「この辺りの海の生態とか、環境とかですよ。来年の年明けに、教授が学界に発表する日本各地のデータ収集のひとつなんですよ。俺がこの辺りを担当してるんです。院生は専ら海岸近くですよ。」

 研究機関と共同での研究なので、沖合いは当然専門の船や潜水艦を使って調査する。隆達学部生や院生は海岸近くの生態や環境の調査になる。とは言っても地球温暖化の影響が身近な海岸や砂浜辺りにどんな影響があるかを調査することも無視出来ない重要な調査だ。

 そんな隆と王寺の話を聴きながら、明日香は羨望の眼差しで隆を見ていた。隆と違って自分は会社を辞めて今はアルバイトの身だ。しかも、半ばお情けで働かせてもらっているようなものだ。とても自分と隆が釣り合うとは思えない。

 それに、隆は夏休みが終わったら、奈良に帰ってしまう。そこで、また隆の生活が始まる。明日香もいつまでも富雄に迷惑をかける訳にもいかない。明日香は隆への想いに対してどう結論を出すべきか、未だ答えが出せずにいる。それに、隆が自分のことをどう思っているかも分からない。今は隆が側にいて笑顔で話してくれる、そんな状況にただ身を任せるしかなかった。

 「王寺さんの店は何処なんですか?今度行きますよ。」

 隆の質問に他の皆も王寺に顔を向ける。ここにいる人間はまだ王寺の店に行ったことがない。知り合いの店だけに、どんなものか見てみたいと思っている。

 「ああ、それなら連絡先を教えてくれれば、地図を送ってやるよ。」

 そう言うと、隆だけではなく皆王寺とLINEを交換する。明日香は少しばかり抵抗はあったが、隆や皆も交換しているし、御杖ともLINEを交換したので、王寺ともLINEを交換した。人数だけで言えばフダラクに来る前の倍は友達が増えている。皆明日香と親しく接してくれる大切な仲間だ。


 「ほい、冷やし中華7人前お待ち~。」

 その後も隆達が談笑していると、海の家の主人が冷やし中華を持ってきた。具沢山で麺の色艶も良く、見た目から食欲をそそる。主人は一言二言皆と話すと台所へと戻って行く。

 「いただきま~す!!」

 隆達は冷やし中華を食べ始める。野菜もシャキシャキで甘味もあり、麺もモチッとしていてしかもコシもしっかりある。何より汁が野菜にも麺にも良く合うし、汗をかいた体に浸みる。

 「美味しい。やっぱりここの冷やし中華は違うわね!」

 吉野の言葉に三郷と御杖は何回も頷く。王寺は黙々と麺を啜っている。

「どうだい?隆、明日香ちゃんここの冷やし中華旨いだろう?」

 富雄は初めてこの海の家の冷やし中華を食べる隆と明日香に尋ねる。二人とももちろん答えは同じだ。

 「はい、とても美味しいです。」

 明日香が答えると、

 「富雄さんより料理の腕は上なんじゃないですか?!」

 と隆が茶化す。

 「ばーか。んな訳ないだろうとも言え···ないしな。まあそうかもしれないな。」

 富雄はわははと豪快に笑う。その笑いぶりに皆も笑う。

 「まあ、料理の腕は負けを認めても、コーヒーを淹れるのはそうそう誰にも負けるつもりはないぜ。」

 それは皆が認めるところだろう。皆富雄のコーヒーに安らぎを求めてフダラクへとやって来るのだ。

 ランチを終えると、場の勢いでビールを飲んでしまった富雄と王寺はそのまま海の家でくつろぐことにした。吉野と三郷と御杖は砂浜を歩き回ることにして、流れで残った隆と明日香が二人で沖の方まで泳ぎに行くことになった。一見偶然の流れで隆と二人になったように見えるが、明日香には富雄達に仕組まれたように感じられる。ありがたいようなくすぐったいような何とも言えない気持ちだ。


 「どうしようか、あの島まで行ってみようか?」

 隆は一番近くにある島を指差す。この辺りが特に島が多い地域という訳ではないが、江ノ島の近くは小さな島が転々としている。

 「そうね、行ってみましょ。」

 今のところ、明日香に危険な予兆は浮かんでこない。そう都合良くいつでも危険を予知出来る訳ではないが、少なくともあの島に行くこと自体に危険は感じない。明日香は隆の提案を受け入れることにする。

 二人は島に向かって泳いでいる。昼を過ぎているとはいえ、今日は波が穏やかだからか、サーファーの姿もまばらで、他の海水浴客もほとんどいない。隆と明日香は正に二人だけの時間を過ごしていた。

 二人は島に辿り着くと、改めて島を眺めてみる。小島と呼ぶにしても小さい島だが、二人だけの時間を過ごすには最適な場所だろう。

 隆と明日香は島を見てみることにした。

 見てみると言っても本当に何もなく、小さな草花が咲いているだけだった。だが、明日香にとっては隆と二人きりになれることが嬉しい。

 二人は砂浜に座ると、海水浴場の方を眺める。朝よりは人が増えたが、休日の混雑というほどではない。吉野達も海の家に戻ったのか女性三人組の姿はなかった。

 「吉野さん達も海の家に戻ったみたいだね。まだ2時前なのに。俺達はどうする?戻りながらもうひと泳ぎしようか?」

 隆は明日香に提案すると明日香も同意したので、二人はまた海の家のある砂浜へと戻りながら泳ぐことにした。

 何となく明日香が先に海に入り、隆が続いて入って明日香に続こうとしたその時、明日香が急に悲鳴を上げて倒れてしまった。まだ辛うじて足が着く深さだったこともあり、隆は明日香を連れ砂浜へと引き返すと座らせて楽な姿勢にした。そして、その時に明日香の側にアンドンクラゲらしい色合いのクラゲを目撃した。明日香はそのアンドンクラゲに刺されてしまったのだ。この時期はクラゲが増えてくる時期ではあるが、まさかアンドンクラゲがこんな浅い場所にいるとは隆は考えていなかった。それに、何か危険があるとしても明日香には危険を予知する能力があるので、つい油断してしまったのだ。

 「明日香さん、どう?痛い···よね。ごめん俺がいながら。何が海洋学の研究やってますって話だよね。」

 そうは言うがそこは海洋研究者のはしくれだ。クラゲに刺された時の応急処置は理解している。隆は赤黒く腫れている明日香の右足に触手がないか見てみる。すると一本だが触手が絡み付いている。こういう場合は触手を海水で洗い流して取り除くことだ。逆に真水は使ってはいけない。もちろん触手を素手で触ってはいけない。

 「隆君のせいじゃないわ。たまたま運が悪かっただけ。」

 明日香は苦しそうだが、意識ははっきりしている。何とか軽症で済めばよいが。

 「ちょっと待ってて。何か使えそうな物を持ってくる!」

 そう言うと隆は小島の中へと走っていく。触手を直接触らないでいい厚めの葉っぱと海水を掬える何かを探すためだ。


 「明日香さん!応急処置してみるけど、痛かったら言ってね!」

 小島の中から使えそうな物を持って戻ってくると、隆は処置を始めた。緊急事態とはいえ女性の体に触れることに隆は少なからず罪悪感を抱きながらも処置を進める。当の明日香は隆に体を触られることには全く抵抗は感じていない。

 明日香の足は以前として赤黒く腫れているが、隆に応急処置を施されて安心したのか少し落ち着きを取り戻したようだ。

「ありがとう。隆君が一緒で良かった。」

 「そんなことは。でもこれで何とか悪化しなければいいけど。後は早く病院に行かないと!」

 今いる小島からではどんな方法であっても時間がかかるのは同じだ。誰か砂浜にいてくれれば何かしら合図を送ることが出来るが残念ながら誰もいない。

 こういう場合は変にあれこれ考えるより行動する方が早いと判断した隆は急いで海の家に戻ることを決めた。そして富雄に事態を説明して皆で行動すればよい。

 「明日香さん、今助けを呼んでくるから待ってて!」

 隆は明日香の返事を横目で確認すると急いで海の家へと戻って行った。


 「まあ、とにかく大事に至らなくて本当に良かった。医者の話だと毒の影響もなく、腫れも数日で収まるそうだ。」

 富雄が皆に説明する。その後、隆は海の家に駆け込むと富雄に事態を報告した。

 それを受けて富雄と皆は救急車を呼んで、ボートで明日香がいる小島へと向い明日香を救助した。明日香を連れて海の家に戻ると救急車が到着していて、すぐに近くの病院へと運ばれた。

 毒性の強いアンドンクラゲに刺されたものの、応急処置が速やかで適切だったから軽症で済んだと医者からの話だった。

 「それにしても隆はさすが海洋研究者だな。隆のおかげで明日香ちゃんが重症にならずに済んだんだから。」

 富雄は隆の肩に手を置いた。富雄も他の皆も、明日香自身もクラゲに刺されたのが隆の責任だとは全く思っていない。むしろ隆の適切な応急処置と判断を褒め称えた。

 だが、隆は表情にこそ出さずに今までと同じように、周りに笑顔で接しているが、明日香に辛い思いをさせてしまったことに責任を感じていた。



第三章


過ぎ行く季節の中で


 明日香がアンドンクラゲに刺されてから数週間後


 「なるほどねぇ、そう言うことか?そう言われてみればそうだけど、あの時は慌ててそれどころじゃなかったからなぁ。」

 数日で回復した明日香はフダラクに復帰していた。そしてある日、富雄と明日香、隆の三人だけの時に、何故明日香がアンドンクラゲに刺されることを予知出来なかったのかを話していた。

 明日香の話によると、例えば以前のサメの場合は、サメは襲ってくるから危険だと予知出来る。だが、クラゲに関してはただ海に漂っているだけで襲ってくる訳ではない。飽くまで人間の方からクラゲに近づいて結果として刺されてしまう。ゆえに危険なこととして予知出来なかったのかもしれないということだった。ただ明日香の能力に関しては、明日香自身も全てを理解出来ている訳ではない。

 「クラゲには刺されてしまったけど、皆で出掛けたのも本当に久しぶりだったから楽しかった。夏のいい思い出になりました。」

 明日香はクラゲに刺されたことで、隆を悪く思うどころか、どんなことがあっても隆と一緒なら何とかしてくれると以前に増して信頼が強くなった。それに伴い淡い気持ちもより強くなってしまったが。

 「まあ、色々危険はあるが、だからって怖がってたら部屋から出ることなんか出来なくなるもんな。と言うことで隆!もう夏も終わりだ。季節は秋になろうとしているが、どうだ?9月の中頃まではここにいるんだろ?それまでにもう一回皆でどこか行こうじゃないか!」

 富雄は意識的にかどうか、何となく上の空の隆に話しかける。隆はコーヒーを啜っていたが、富雄に話を振られて慌ててて向き直る。

 「そうっすね!奈良に戻るのは9月20日です。秋は行楽シーズンですからね。海は近場だったし、紅葉にはまだ早いすけど、今度は少し遠出して山にでも行きますか?」

 隆は明日香がアンドンクラゲに刺されたことに未だに責任を感じているが、そのことで周りに気を遣わせる訳にはいかないので、表面上はいつも通りにしている。

 それに、皆で山にハイキングに行って頂上からの景色を見れば気が紛れるかもしれない。いつまでも引き摺るのもよくないと思っている。

 「明日香ちゃんはどうかな?でもまた危険な目に会うかもしれないけど、まあ明日香ちゃんの判断に任せるよ!」

 富雄にはそう言われたが、明日香の答えは決まっている。

 「行きます。また皆で遊びに行きたいです!」

 明日香は自分からはなかなか言い出せないものの、また皆で遊びに行きたいと思っている。それに隆と一緒にいられる時間も限られている。海でクラゲに刺されたぐらいで、折角の機会を諦める気は全くない。

 「そうかい。それじゃまた計画を立てないとね。」

 それから富雄は常連客に山にレジャーに行かないか誘った。たが、今回は王寺と御杖は店のこと等でどうしても都合が合わず、他にも声をかけてみたが、山に遠出ということがネックなのか、丁重に断られてしまった。

 結局集まったメンバーは、隆と明日香と富雄、吉野と三郷の五人だった。そして、9月の最初の水曜日に行くことに決まった。


 ハイキングまで二週間、明日香の心境は複雑だった。早くハイキングに行きたいが、それは隆が奈良に帰る日も早く来てしまうということだ。実際その日もそう遠くない話だが、明日香は隆とのことにどう決着をつけるかまだ答えは出ていない。

 その日、明日香はお得意さんへの配達を済ませた後、フダラクで使う食材の買い出しの為にスーパーを訪れていた。昼にはまだ少し早いので客は多くはない。

 明日香は富雄に頼まれた食材を探している。今日買うのはパスタや小麦粉や調味料等だ。

 「明日香さん?」

 ふと、明日香は後ろから声をかけられた。後ろからだったが、聞き慣れた声に明日香は一瞬で緊張してしまう。振り返るとやっぱり隆がそこにいた。

 「おはよう明日香さん!富雄さんのお使い?」

 隆は普段と変わらない調子で明日香に話しかける。同じ街に住んでいるので、偶然出会すことも珍しいことではないが、明日香にとっては突然のことで戸惑っている。

 「えっ?うん、そうだよ。今日は朝からお得意さんに配達で、終わったら食材を買うように頼まれてるの。隆君は?」

 隆のカゴに何気なく目を向けると、弁当やら飲み物やら自炊するであろう食材やらが、入っている。将来有望な隆とはいえ今はまだ学生だ。生活費のやり繰りには気を遣っている。隆の家系は地元では名のある名士ではあるが、隆は親に甘えるつもりはない。断っても実家から仕送りしてくるのだが、隆はその金には一切手を着けてはいない。自身で塾講師で稼いだバイト代でやり繰りしている。

 「俺は今日の昼飯と自炊の食材を買いにね。富雄さんのカルボナーラは旨いけど、いつもいつもだと金が無くなってしまうからね。」

 隆は心なしか照れ笑いを浮かべている。隆としても明日香にプライベートな一部を見られて若干の気恥ずかしさがあるようだ。

 その後明日香と隆は二人一緒にスーパーの中を歩いていた。今度行こうと思っているハイキングの話をしている。隆は山のレジャーも好きで春や秋には山に登って頂上からの景色を見ることが好きで、明日香も同じように山の自然が好きだという。話しながらも明日香は今自分と隆が周りからどんなふうに見えているのか気になっている。ただ、カゴを一つずつ持っているので、知ったもの同士がたまたま出会っただけにしか見えないだろうと思うと残念な気持ちになってしまった。


 「明日香さん、富雄さんには急ぐように言われているの?」

 会計を終えて出口に向かっていると、途中のフードコートの前で隆が明日香に声をかけた。明日香はちらっと時計を見るとまだ10時判だ。富雄には12時までに戻ってくればいいと言われているので、小一時間は余裕がある。明日香がそのことを告げると、

 「それじゃあちょっと飲み物でも飲んでいかない?それとも他に何か用があった?」

 隆にそう言われた明日香は、その提案を即OKした。隆としては、相手が誰であっても同じように接するかもしれないが、明日香にとっては思いもかけない提案だった。ただ、すぐに返事を返せたのは大きな進歩だろう。

 二人はフードコートへと入る。明日香が席を確保し、その間に隆が飲み物を買いに行く。まだ人も少なく一息つくには丁度いい。

 程なくして隆は飲み物を持って戻ってきた。

 「お待たせ、はいどうぞ!」

 「ありがとぅ···」

 隆はテーブルにカップを置くと、自身も席に着く。

 「さっ、飲もうよ。」

 隆が飲み物を飲み始めると、明日香もカップを口にする。配達の後で喉が渇いていた明日香には冷たい飲み物がより美味しく感じられる。

 「どこの山がいいかな?高い山だと富雄さんがバテそうだからね。俺あんまり詳しくないけど、明日香さんは知ってる?それとも富雄さんに決めてもらおうか?」

 隆は話ながらどんな山があるかスマホで検索する。明日香もよくは知らないので、何となくスマホを見てみる。この辺りにも山々はあるが、すぐには決められない。どのくらいの標高なら無理なく登れるかもあまりピンときていない。

 「この大山ってどうかな?ここから一番近いし、ちょっと高いけど途中まではケーブルカーもあるし。」

 隆が明日香にスマホを見せた。明日香が覗くと、そこには神社や頂上の絶景が載っている。標高は1200mを越えていて、少し高いと感じるが、途中まではケーブルカーが通っている。それにここから一番近いのなら山登りに疲れてしまっても帰りのことを気にすることもない。

 「わあ、素敵な景色!凄くいいと思う。私大山に賛成!」

 それに、明日香は隆と一緒に山登りを楽しんで頂上からの景色を眺めることが出来るならどの山でも構わないと思っている。重要なのは隆と一緒に出かけるということだ。

 隆と明日香は、登る山を大山に決めると、飲み物を飲みながら他愛もない世間話に花を咲かせた。その後、明日香はフダラクに、隆は部屋へと戻って行った。


 フダラクへと戻った明日香は、スーパーで隆と会って登る山を大山にしようと決めたことを話した。標高を聞いて一瞬驚いた富雄だったが、ここから一番近いことと、ケーブルカーがあることを聞くと、渋々ながらも賛成してくれた。

 三人がすでに賛成していることもあってか、吉野と三郷も大山でOKした。これで、隆達が大山に行くことが正式に決定したのだった。


 「さあて、それじゃ行くか?まだ9月だが、今日だけ気温が低くて山登りには丁度いい。日頃の行いのお陰かな?」

 富雄はお得意のダサいウインクを皆に向ける。皆富雄に鋭いツッコミを入れたが、今日の気温なら暮れゆく秋を堪能するには絶好の条件なのは確かだ。

 海に行った時と同じように皆は一度フダラクへと集合していた。各々富雄が用意した弁当や飲み物をリュックに入れる。更に隆と富雄、それに吉野の三人はデジタルカメラも持ってきている。

 準備を整えると隆達一行は大山へ向けて出発した。


 大山までは電車で2時間ほどで、乗り換えも一回だけだ。海に行った時と同じく、今日も平日で夏休みも終わっているので人も多くない。隆達一行はのんびりと電車に揺られながら目的地を目指す。

 「隆君、明日香さんお菓子食べる?」

 吉野が持ってきたお菓子を隆と明日香に差し出す。隆達は四人掛けの席に隆と明日香、富雄と吉野と三郷とそれぞれ座っている。これもまた富雄達三人がそそくさと三人で一緒に座ったためで、自然と残った片方に隆と明日香が座ることになる。隆はただ空いている方に座っただけだったが、明日香は少なからず意識している。

 一行はお菓子を食べながら談笑している。話題の中心は何と言っても隆がもうすぐ奈良に帰ってしまうことだ。奈良に戻った後は、すぐに研究したデータを学界に発表するために資料作成や会議などで忙しくなるという。更に隆は博士課程に進むので、来年はその為の勉強と研究で忙しくも充実した日々が続く。周りも隆と明日香のことは気になるし、上手くいくとよいとは思うが、こればっかりは本人達次第だ。隆と明日香がどんな結論を出すのか、富雄達は二人の行く末を見守ることしか出来ない。

 隆が自身のこれからについて明るく話したことで、その後の話題も暗くなることなく、レジャーの楽しい雰囲気で盛り上がった。特に盛り上がったのは、富雄がどこでギブアップするかだった。


 駅に着くと、一行はケーブルカーの乗り場へと向かう。中腹まではケーブルカーで登って、そこから歩いて神社を目指す。

 ケーブルカーも隆達以外には三人だけだったので、座って景色を眺めることが出来る。

 ケーブルカーはどんどん高度を上げていく。森の高さを越えると自分達のいる街の景色が姿を現す。頂上の景色はどんなにいい眺めだろう、しかもその景色を隆と見ることが出来る。明日香は気持ちが高ぶっていくのを感じていた。

 「さあ、ここからが本番だ。気合い入れて行こう!」

 ケーブルカーを降りた一行は、いよいよ頂上の大山阿夫利神社本社に向かって山登りを始めた。富雄が皆を鼓舞するが、皆は富雄のことを心配している。まあ登山道が整備されているので、もしはぐれても遭難することはない。

 一行は木々の中を登っている。今日の涼しさのおかげで、秋の深まりを感じながらの登山は本当に最高だ。


 「ちょっと!富雄さん、もうギブアップなの?」

 吉野の声に皆が後ろを振り向く。気が付くと富雄が四人から僅かだが離れて歩いている。顔には大量の汗をかいていて、ハンカチではなく、タオルで拭っている。

 「いやいや、まだまだ大丈夫。でももう少しゆっくりで頼むよ。皆速いんだから。慌てなくても山は逃げないよ!」

 富雄の言葉に呆れはしたが、確かにペースを考えて登らないと、途中でバテてしまうだろう。一行は飲み物を飲みながら一息つくと、富雄のペースに合わせながら山を登って行く。

 さすがに疲れたのか、富雄に続いて吉野と三郷もペースが落ちる。三人は隆と明日香のやや後ろにいる。

 「ほら!もう少しで下社ですよ。頑張りましょう!」

 隆が指差すと、[大山阿夫利神社下社まで200m]の看板がある。富雄はもちろん、吉野と三郷もさすがにここまでくると疲れきっている。これでは三人は本社を目指すのは無理だろう。

 隆と明日香は三人の隣に着くと励ましながら何とか下社へと到着した。

 「ひゃ~これはしんどいな。でもここは本社じゃないんだろう?」

 富雄が真上にそびえる頂上を見上げながらゲンナリする。ここからの眺めも絶景に値するのだから、頂上からの眺めは更に見応えがあるのは間違いない。だが、富雄には更に頂上を目指す体力も気力も残ってない。それは吉野と三郷も同じようだ。

 「隆、明日香ちゃん。俺達はここで休憩してるから、頂上へは二人で行ってきてよ。もう俺達へとへとだから。」

 富雄は吉野と三郷を見ると、二人とも隆と明日香に頷いてみせる。どうやら隆と明日香に気を遣うと言うよりは本当に疲れきっているようだ。だが、意図的にではなく、ごく自然な形で隆と二人で頂上に行くことになって、明日香は何とも言えない心の高ぶりを感じている。

 「分かりました。それじゃ明日香さんと頂上まで行ってきます。行こう明日香さん!」

 明日香はやや気持ちの入った返事をすると二人は頂上を目指して山を登り始めた。

 「気を付けるのよ~!!」

 吉野と三郷が手を振りながら二人を見送る。富雄は複雑な表情で二人を、特に明日香を見ていた。

 「もうへとへと。富雄さん!日陰で座りましょうよ!」

 富雄と吉野と三郷の三人は隆と明日香が戻ってくるまで下社の近くで休憩することにした。

 意図的に二人きりにした訳ではなかったが、結果として隆と明日香が二人で頑張って頂上に挑戦するのは悪いことではないと思う。後は二人次第、もっと言えば明日香次第だろう。

 「一休みしたら色々見て回りましょうよ?ここからでも景色良さそうよ!」

 吉野の言葉に富雄と三郷も頷いた。

 「でも明日香さんはいいわね。一緒にいる男の人がイケメンで。」

 三郷が富雄を一瞥すると、

 「それはお互い様だ!わははっ!!」

 と富雄は笑ってみせた。


 一方隆と明日香は頂上の本社を目指して山登りを続けている。隆はまだまだ表情に疲れは見えないが、明日香は少し疲れが見え始めている。ただその足取りはしっかりとしている。

 隆は明日香のペースに合わせて、明日香は隆の足手まといになるまいとお互いのことを考えながら歩を進めている。

 本社までの道のりは思っていたよりハードだったが、それでも明日香は隆と二人で同じ目標に向かっている今の状況を嬉しいと思っているし、二人きりの時間を過ごせていることにも喜びを感じている。

 「きゃっ!」

 足元には注意しながら進んでいたつもりだったが、明日香は足を滑らせてバランスを崩してしまった。更に運が悪いことに掴まるものが何もない。一瞬目の前が真っ白になって、そのまま下に落ちていくことが頭を支配したが、隆が瞬時に反応し明日香の手を掴んだ。

 「大丈夫明日香さん?」

 隆は明日香がバランスを取って自身で立てるところまで手を引いた。

 「ありがとう。大丈夫、ちょっとバランスを崩しただけ。」

 明日香は隆に笑顔を見せる。明日香の手には隆の手の感触が残っている。隆は明日香が何ともないことを確認すると、再び山を登り始めた。明日香もこれ以上隆に迷惑はかけたくないと転ばないようにだけは気を付けながら歩を進める。

 隆はちらちらと明日香を気にしながらも必要以上に話しかけてはこない。明日香は初めは何故だろうと何か悪いことをしたのか気になってしまったが、自身の呼吸が荒くなっていることに気が付くと、しゃべると呼吸が辛くなるからという、それが隆の気遣いであることを理解した。

 体もかなり疲労が出ていたし、足腰も痛みが出てきている。だが、今の明日香にはその疲れさえも、流れる汗も自分自身が頑張っている、生きている証拠に思えて、モチベーションは逆に上がっている。

 「もうすぐ本社だ。頂上までもうひと頑張りだよ!」

 案内板を見つけた隆が、明日香に振り向いて笑顔を向ける。ここまで山を登ってきたにも関わらず隆の笑顔はいつもと同じで辛そうな感じは一切ない。

 もう少しで頂上だということと、隆の笑顔に励まされて明日香の足取りはより力強くなる。そして、ついに頂上である本社へと辿り着いたのだった。


 「やった。やっと辿り着いたよ。やったね明日香さん!」

 隆が明日香に手のひらを上げると明日香はその手に向かってハイタッチした。

 二人の前には大山阿夫利神社本社がその姿を現している。二人は早速景色が見える展望広場に急ぎ足で向かう。

 展望広場に着いた二人は思わず息を飲む。そこには今までに見たことがない絶景が広がっていた。明日香も隆も今までに大山より高い山に登ったことはない。正に生まれて初めての絶景だった。

 「···」

 明日香は眼下に広がる絶景にしばらく言葉が出ずただ立ち尽くして景色に見入っている。 

 「凄い、やっぱり写真で見るのと全然違う。」

 隆もその絶景に感動している。今までに何回か山には登ったことはあるが、頂上からの景色はどの山も良いものだ。

 隆と明日香はしばらくの間、いや更に長い時間言葉もなくただ絶景に見惚れていた。そして、絶景の美しさに触発されたが、明日香がついに、というかやっと気になっていたことを隆に尋ねる。

 「ねえ、隆君はまた奈良に戻ってしまうんだよね?その後はずっと奈良?」

 明日香は努めて冷静を装っているつもりだったが、思わず声が上擦ってしまう。明日香は隆が大学院を卒業した後、働くことになる研究機関がどこにあるかが気になっていた。有名な研究機関なら東京にあるかもしれない。そしたらまた会えるだろうか?

 「うん。今月の20日に奈良に帰るよ。それから卒業まではまあ奈良だけど、その後のことはまだ4年もあるし、今は分からないかな。研究機関によっては一ヶ所じゃなくて、いろんな場所に転勤になるかもしれないし、俺自身海外でも働きたいと思ってるからね。」

 隆から海外という更にスケールの大きな言葉が出たことに明日香は一瞬だが動揺してしまう。とは言え隆が自分とは比べ物にならないような人生を送るだろうことは想像していたことでもあるので、以外と冷静だった。それに卒業までと言っても、隆は博士課程まで進むので後4年もある。さすがに「4年後また東京で一緒になるかもしれないから、それまで我慢して遠距離恋愛しましょう」と訳の分からない告白は出来ない。隆と二人きりで絶景を見ているという、今の幸せな現状とは全く正反対な思いに明日香の心は支配されていた。

 「明日香さんは?このまま富雄さんのところで働く訳じゃないんだよね?またいつか東京で働くの?」

 「どうかな。私もいつまでも富雄さんのお世話になる訳にもいかないし、また東京に住みたいって思うけど···」

 明日香が東京を離れてこの街にやって来たのは、明日香の精神的なことが原因だ。そのことを解決しないまま東京に戻っても同じことの繰り返しになることは目に見えている。

 「昔のことを気にしてるの?確かに明日香さんにとっては辛い過去だけど、俺は明日香さん、初めて会った時に比べて本当に変わったと思うよ。」

 隆は笑顔のまま口調は誠実に語る。明日香が隆の方を振り向くと目が合って思わず目が泳いでしまう。

 「初めて会った時は全然笑わなくてずっと下を見てばかりだったけど、今は表情もだけど全体的な雰囲気が明るくなったと思うよ!」

 隆に言われて明日香は急に恥ずかしくなってきた。もしかしたら顔が赤くなっているかもしれない。まさか隆からそのようなことを言われるとは思っていなかった。

 「そうかな?自分ではよく分からないけど。でもありがとう、そう言ってくれて。」

 明日香は隆や富雄達との出会いをきっかけに何とか自分を変えたいと思って自分なりにではあるが、努力はしてきたつもりだ。明日香自身に実感がなくても周りの人間は明日香の成長を感じていた。後は明日香の一歩踏み出す気持ち次第かもしれない。

 「明日香さんの好きなことって何?得意なこととか?」

 隆に言われて明日香はハッとした。そう言えば何とか生活するのに必死で、自分が何をしたいとか夢とかについて失念していた。昔は明日香にも夢があったはずだ。

 「私の好きなこと?ええと···よく分からない。ごめんね。」

 明日香の頭の中には色々なことが浮かんでいたが、夢と言えるほどのものではないし、すぐには言葉に出来ない。

 「いや、別に謝ることじゃないよ。俺の方こそいきなり大それたことを聞いてゴメン。でもフダラクで働いてる明日香生き生きしてるから、明日香さんが自分自身で思ってるより明日香さんは人と接するのは向いてるんじゃないかな?明日香さんの能力のことだって、言葉を工夫すれば上手くいくかもしれないし。まあ世の中にはいろんな人がいるからね。」

 隆に言われて明日香はフダラクで働いている自分を思い出している。確かに初めは富雄が間に入ってくれたから、上手く"他人"と接することが出来た。だが、いろんな人達と接していくうちに、だんだん初めて会う人とも自然に話が出来るようになっていった。今ではフダラクの看板娘と言われることもある。何より明日香はフダラクのバイトに、やり甲斐と誇りを持っている。

 能力のことも、初対面の人間にいきなり危ないと言われたら、怪しまれるのは当然だろう。たが、ちょっとした声掛けの違いで相手の印象も変わるだろう。

 「そうね。うん、いつまでも今のままじゃダメだから、もっとよく考える。ありがとう私のこと気にしてくれて···。そ、それで隆君の夢は、もちろん海洋研究者だよね?」

 明日香は気まずくなって話題を隆に変える。隆の夢は海洋学を研究することは分かっているのにだ。言いながら明日香は相変わらずだなと自己嫌悪に陥ってしまう。

 「そうだね。海洋学って言ってもいろいろあってね、俺は海洋プラスチックが生態系に及ぼす影響とその対策について研究したいと思ってるんだ。もちろん今の現状を研究するだけじゃなくて、解決のための新しいことも開発出来たらいいなって思ってるけど、まあそれはまだまだ先だね。」

 隆は、分かりきったことを聞いてしまった明日香のことをフォローするように、自分がやりたいと思うことを詳しく教えてくれた。明日香の心情を思ってのことか、明日香には分からない。

 「凄いね!何だか隆君が雲の上の人みたい···」

 明日香は自身と隆とのあまりの違いに途方もない気持ちになって、眼下の景色を遥か彼方を見ながら辛うじて聞こえる声で呟いた。その横顔を見た隆は、明日香のその今でに見せたことのない憂いを帯びた横顔に思わず見惚れてしまった。明日香に気付かれる前にすぐ正面に向き直ったが。

 「いやあ、そんなことはないよ。皆それぞれだよ。富雄さんも吉野さん達も、王寺さん達だって。皆頑張ってるから。もちろん明日香さんだってね!」

 明日香は気付いてないようだが、隆は照れ隠しを誤魔化すようにいつもより高いテンションで話しかける。

 「そうね、富雄さんのところで働く間、じっくり考えてみる。ありがとう隆君、励ましてくれて!」

 明日香は隆と比べるよりも、まずは自分が何をやりたいのか、自分が人の為に役に立つにはどうすればいいのかを考えることに決めた。隆に話したこたで、幾分気が楽になったように思う。やはり人と接することは自分が思っている以上に大切なことだと改めて明日香は思う。

 その後二人は大山の頂上から見える景色をただただ眺めていた。自分達の住んでいる街が見え、その先には海が広がっている。江ノ島も見えるし、その周辺の砂浜や島々も見える。

 明日香は隆が自分を意識して隣で一緒の時を過ごしている、体が触れている訳ではないが、隆の暖かさを感じる。そんな今の状況に淡い幸せを感じる一方で、一歩踏み込んだ話が出来ないことに複雑な気持ちにもなっていた。


 「さてと、そろそろ行こうか?富雄さん達待ちくたびれてるだろうし。」

 どのくらいの間景色を眺めていただろうか、隆が若干柔らかい口調で喋り出す。この時間をいきなり途切れさせない隆の明日香に対する気遣いだろうか。明日香も自然な感じで隆を見る。

 「富雄さん、吉野と三郷さんの相手して山登るより疲れてるかも!」

 隆と明日香は富雄達がいる下社へと戻ることにした。

 明日香は隆と二人きりで踏み込んだ話をして少しは吹っ切れたのか、また雰囲気が明るくなったように見える。二人は手こそ繋いではいなかったが、仲良く笑いながら下りていく二人を見て周りの人々は、若くて仲が良いカップルだと思っているだろう。

 隆と明日香は、時には高低差がある場所は隆が先に下り、明日香の手を取って下ろしたり、絶妙なエスコートによって二人は下りている。明日香も隆を信頼しきって、躊躇なく隆へと飛び込む。

 隆と明日香はカップルではないのだが、二人のそんな姿を見た本当のカップルでさえ、羨ましくなるくらいの信頼関係に見える。更に二人は周りの目を釘付けにしながらどんどんくだりを下りていった。


 「あっ、戻って来たわよ!何だか前より仲良くなってない?」

 下社に戻って来た隆と明日香に吉野が最初に気付いた。吉野の言葉に富雄と三郷も同じ印象を受ける。ただ、二人の様子を、特に明日香の様子を見る限り、二人は正式に付き合うことになったという訳ではなさそうた。だが、何とも説明出来ない仲の良さを二人から感じ取れるのだ。

 「ただいま~。いやあ、疲れました。」

 言葉とは裏腹に爽やかな笑顔で隆が富雄達の前で立ち止まる。秋の涼しさがあるとは言えさすがに汗をかいていて、額の汗を拭っている。その姿さえも爽やかに見える。

 明日香も同じように爽やかで、また一段と殻を破ったように見える。ただ富雄達三人から見れば、二人がそいうい関係になった訳ではないことが残念ではある。とは言えそれは周りがどうこう言うことではなく、二人の問題だ。今まで通り暖かく見守るしかない。

 「おう、お帰り。どうだった、頂上の景色は?」

 富雄達三人は、二人と分かれた後景色を眺めたり、ランチをしたり、土産物屋をうろうろしたしりて時間を潰していた。頂上まで行った隆達と違い、一休みして疲れも癒えていた。

 「ええ最高でしたよ。ここからでもいい景色ですけど、やっぱり頂上は違いますよ。写真も撮りましたけど、実際の景色とは比べ物になりませんね!」

 そう言いながら隆は自身のスマホの画像を富雄達に見せる。

 「本当、いい景色ね。でも私達はまた今度でいいわ。」

 「そう言って。今度なんか来ないんじゃないか?」

 吉野と三郷の言葉に富雄はすかさずツッコミを入れてわははと笑う。その富雄を見て皆つられて笑ってしまった。

 「明日香ちゃんも疲れただろう?二人とも少し休んだ方がいい。それから帰ろう。」

 一行は五人で座れる場所に移動すると、隆と明日香の為にしばらく休憩することにした。富雄は二人に飲み物を差し出す。二人は飲み物の入ったカップを受け取ると一気に飲み干した。冷たい飲み物が疲れて渇いた体に染み渡るようだ。明日香に関しては自身がのどが渇いていることをすっかり失念していた。そのくらい隆と過ごす瞬間に集中していたということだ。

 隆達五人はそれぞれの場所でのことを談笑していた。特に隆と明日香の頂上での話を富雄達三人は微笑ましく聞いていた。


 「もういいですよ、そろそろ帰りましょうか?」

 充分にリフレッシュ出来た隆は明日香を見ながら立ち上がる。明日香も頷くと同じように立ち上がった。何故か隆と明日香より長い時間休憩していた富雄達の方が腰が重いようだ。

 「それじゃ行くか!」

 富雄が立ち上がって吉野と三郷を促すと、二人も意を決して立ち上がる。一行は富雄、吉野、三郷の三人に隆と明日香が後ろからペースを合わせるように山を下り始めた。

 隆が山を下りている間も山を登っている登山客はそこまで多くはなかったがまだまだいた。その登山客は隆達とすれ違うと挨拶をする。隆達も挨拶を返す。明日香も挨拶するが、山では知らない者同士でも挨拶を交わすことを知って、またひとついい経験が出来たと思う。

 「富雄さん、大丈夫?何だか明日香さんに介護されてるみたい。おじいちゃん頑張って!」

 隣で富雄を気遣っている明日香を見て吉野が冗談を言う。富雄は

 「何がおじいちゃんだ、俺はまだまだ行けるぞ。それにお二人さんこそ、ギブアップじゃないのかい?」

 と負けずに減らず口を返した。

 「!!」

 そこで、ふと明日香は吉野の言った、"介護"という言葉にはっとした。

 「そう言えば、フダラクで働くようになって年配の人の家に配達に行くようになってからは、話す機会も増えたし、何か危ないことがあったらそれとなく呼び掛けてたっけ?」

 実際明日香はフダラクになかなか来ることが出来ない年配宅に配達に行くことで、年配の人々との会話の機会が増えた。最初は戸惑っていた明日香も徐々に自然に会話が出来るようになっていった。そして、明日香の能力で危険が迫っているなら、ダイレクトには言わずに何気なしに気遣う言葉で注意喚起した。そのことで、危険を回避出来たケースも一回二回の話ではない。

 「私に向いていること···介護の仕事とか?」

 隆に言われた時は動揺していて思い付かなかったが、明日香は配達先で年配の人間と話すことが楽しみにもなっていたし、明日香の能力を活かすことも出来る。明日香は目標を見つけた気がしていた。

 「明日香さんどうしたの?老人の介護に疲れた?」

 考え込んでいたせいで、いつの間にか黙り込んでしまっていた明日香は吉野と三郷に声を掛けられてハッと我に返った。隆が笑顔で明日香と富雄を見ている。富雄は相変わらず吉野にツッコミ返す。

 「いえ、何でもないです。介護だなんて、皆まだまだ大丈夫ですよ。あと少し、頑張りましょう!」

 明日香は空元気で誤魔化した。だが、今思い付いたことは、また家に帰ってから落ち着いてじっくり考え直そうと思っていた。


 「おう、戻って来たかい?お疲れさん!」

 隆達一行が麓まで戻ってくると、王寺と御杖が車で迎えに来ていた。帰りは疲れて電車に乗るのもしんどいだろうと富雄が王寺に迎えに来れるかどうか連絡してくれていたのである。王寺達も夕方迎えに行くだけならと快諾して、隆達が麓に下りてくるのに合わせて迎えに来てくれたのだった。

 「悪いな王寺!御杖さんも。でも本当に助かるよ。」

 富雄が二人に歩み寄ると、隆達四人も集まってきた。

 「本当に。二人が神様に見えるわ!」

 疲労困憊で正直高い金を払ってもタクシーに乗りたいと思っていた吉野と三郷には二人の存在が神々しく見えたことだろう。隆と明日香も二人の思わぬ出迎えを嬉しく思う。

 王寺と御杖を加え七人になった一行は、日が傾き始めた空の下家路に着いた。


 「何だ。頂上に行ったのは隆と明日香さんだけか?」

 富雄の山での話を聞いていた王寺は、運転中だが富雄を振り向いて笑ってみせた。富雄と吉野、三郷が途中で降参した姿が容易に想像出来ることが何とも可笑しい様子だ。

 隆達五人と、王寺と御杖の七人は王寺の運転で帰り道を進んでいた。車は王寺所有のハイエースで仕事にも使っているものだ。なので一台で七人全員が乗ることが出来る。王寺が運転で御杖が助手席、富雄と吉野と三郷が中央席、隆と明日香が後部席に座っている。

 「そうですよ。富雄さん達は下社までが限界でしたからね。」

 隆も皆で車で帰ることが出来て心なしかいつもより楽しそうだ。

 「で、どうだったんだ。頂上の景色は?大山って言ったら1200mくらいあるんだろ?やっぱり良かったか?」

 王寺の質問に隆は待ってましたとばかりに自身のスマホを差し出した。御杖がそのスマホを受け取る。

 「わあ、綺麗。いい眺めね!」

 スマホの頂上の景色の写真を見た御杖は、しばらく眺めると王寺にも写真を見せる。

 「おう、いいじゃねえか!」

 「実際の景色はもっと良かったですよ。写真とは全然違いますね!」

 隆の言う通りいくら性能が良いカメラでも、実際の絶景を目の前にした感動には敵わない。隆と明日香は行動することの大切さを実際の体験を通して知ることが出来た。


 「それじゃまた!」

 王寺と御杖が五人に一声かける。隆達五人をフダラクに送り届けると、まだやることがあると二人は店へと戻って行った。

 「今日はありがとな、気を付け帰れよ!」

 富雄は王寺に片手を挙げて見送る。他の四人も王寺と御杖に手を振って見送った。

 「今日は楽しかったわ~それじゃまた。」

 吉野と三郷も早く帰って羽を伸ばしたいようで、そそくさと帰っていった。

 「二人も早く帰って休むといい。俺なんかよりずっと疲れてるはずだろうから。じゃまた!」

 富雄の言葉に、隆と明日香は気付いてしまったように急に疲労感が襲ってきた。今日のここまでの楽しさゆえに疲れも忘れてしまっていたのである。

 「お疲れ様でした。失礼します!」

 隆と明日香も富雄に挨拶するとそれぞれの場所へと帰っていった。



第四章


想いの先に


 大山のハイキングの後、明日香はその大山で思い至った自身がやりたいことについて日々考えていた。決して自分の気持ちに嘘をついたり誤魔化したりしているのはなく、介護の世界で働きたいと思ったのは明日香の正直な気持ちだ。

 明日香はどうすれば、働くことが出来るか必要な資格や募集中の施設などを調べて勉強も始めていた。そして、隆が奈良へ帰る日も徐々に近づいていた。


 「明日香ちゃん、どうしたの?何だか元気ないみたいだけど···ってもうここまできてこんな言い方も野暮だね。隆のことだろう?」

 富雄は今までは明日香に気を遣って直接的なことは言ってこなかった。だが、隆が帰る日が後残り僅かということもあって、いよいよはっきりと言うことにしたのだった。

 「はい。今までは隆君が帰るっていっても、まだまだ先の話で何となく実感がなかったんですけど、その日が近づくにつれて急に現実味を帯びてきてしまって···」

 明日香は大山山頂で隆と話したこと、そして明日香の隆に対する想いを富雄に話した。

 「そうか、山頂で正式に付き合うことになった訳じゃなかったんだね?でも確実に遠距離になるって分かってるのに、そんなに簡単な話でもないか。うーん···思い切って隆に明日香さんの気持ちを話してみたら?余計なお世話なのは分かってるけど、もう最後だからさ。」

 富雄も今まで二人の問題だからと隆からは明日香のことをどう思っているか聞いてはこなかった。なので、こうなったら明日香に思い切ってもらうしかないと考えている。結果がどうあれこのままさよならする方が明日香にとっては良くないようにも思う。

 「そうですよね。はい、隆君と話してみます。でないときっと後悔すると思いますから!」

 明日香は富雄に笑顔で答えたが、富雄にはその笑顔はどこか痛々しく見えた。


 富雄には隆に気持ちを伝えるとは言ったものの、まずは隆と会う約束をしなければならない。連絡先は知っている。ただ連絡するだけだ。だがそれがなかなか出来ないでいる。

 その日明日香はバイトから帰ると、夕方を作ろうと冷蔵庫を開けてみて、何も食材がないことに気付いた。ここ数日隆のことで頭がいっぱいで冷蔵庫の中身にすら気がいってなかった。

 「あ~あ、ダメだな私。まあいいか、何か買ってこよう。」

 もう辺りは暗くなっていたが、明日香はコンビニで何か買いに行くことにした。気晴らしに夜の海を見たい気分になったからだ。そんな気分になったのも、海が歩いて行ける距離にあるからではある。

 明日香は夜の海沿いの道を歩いていた。少しずつではあるが、秋の深まりを感じる涼しさになってきている。心地好いそよ風が明日香の髪を優しく揺らす。明日香は夜の海を横目で眺めながら歩いている。

 何となく海を眺めていた明日香だったが、砂浜に人がいるのを見つけた。別に人がいても不思議でも何でもないことなので、気にしていなかった。だが、よく見るとその人影は隆に見える。初めは見間違いかと思ったが、近付くにつれて人影はっきりしてくると、やっぱり隆だった。

 明日香は何でこんな時間に、しかもこんな場所に隆がいるのか全く想像してなかった。そして、目と鼻の先に隆がいると分かると急激に緊張してきた。隆とは二人きりでも話したことは何回もあるのにだ。

 だが、明日香は緊張しているにも関わらず、自然と足は隆のいる砂浜へと向かっていた。

 明日香は砂浜へと下りると、隆の方に向かって更に近付いていく。

 「···!明日香さん?明日香さん!どうしたの、こんな時間に?」

 近付いてくる明日香に気付いた隆は、一瞬驚いた表情を見せたがすぐにいつもの笑顔で明日香に話しかけた。

 「隆君こそ。誰かと思ったら隆君だったからビックリしちゃった!」

 明日香は隆の隣に並ぶと夜の海を眺めながら他愛もない世間話を始めた。

 明日香は何故この時間に海に来たのか理由を説明した。隆はというと、この街に来て以来昼間の海は、当然ながら何度も来ているが、ふと夜の海を見てなかったことに気付いて奈良に帰る前に、この夜の海岸を見に来たということだった。

 「もうすぐだね。隆君が帰ってしまうまで。」

 明日香は隆の目の前に来るまではかなり緊張していたが、隆と話した途端に不思議と緊張は消えて自然と隆に話しかけていた。

 「うん。短い間だったけど、皆でフダラクで話したり、海や山に行ったり、本当に楽しかったよ。なんだかずっと前からこの街にいたような感じがするよ。」

 隆はこの街に来てから今までのことを思い出していた。ただ夏休みの間だけ、研究で滞在するだけだと思っていたのが、気付けばいろんな人達と出会って、楽しい思い出も出来た。それも偶然フダラクを見つけて何となく立ち寄ったところから始まったように思う。

 「隆君···あのね、この前山頂で私が何がしたいかあの時はまだ答えることが出来なかったけど、私決めたの。私、介護の仕事をすることに決めた!」

 明日香は隆に何故介護をしようと決めたのか、大山からの帰り道から今まで考えていたことを隆に一言一言大事に話していった。その間隆は優しく頷きながら聞いている。

「そうなんだ。人の心に寄り添える明日香さんにピッタリだね!」

 隆は一生懸命に誠実に語った明日香に、同じように誠実に答えた。明日香が自分一人で考えて導き出した答えだ。心から応援したいと思う。

 「もうしばらくは富雄さんにお世話になるけど、頑張って資格を取ったらすぐに仕事を探すわ。皆に勇気を貰ったから、今度は頑張れると思う。もちろん隆君からも!」

 それから二人は何も言わずに夜の海を眺めていた。昼間はまだまだ暑いが、朝晩は寒いくらいに涼しい。今も夜風が心地好く流れている。本来闇というのは、どちらかと言えば怖いイメージがあるものだが、今宵は満月だからだろうか、目の前に広がる夜の海は何故か二人を暖かく見守っているように明日香は感じられる。果たして隆はどのように感じているのだろうか?

 明日香は意を決すると、今まで言えずにいたことを話し始めた。

 「あのね隆君。隆と出会ってから二ヶ月くらい、本当に楽しかった。二人だけで素敵なレストランにも行ったし、海にも行って危ないところを助けてくれたし、山に行ったときも、二人だけで山頂まで挑戦したし、こんなに毎日が楽しかったのは本当に生まれて初めてだった。本当にありがとう。」

 明日香は笑顔の中に僅かに憂いを帯びた表情で隆を見る。隆はその明日香の憂いに気付いているのかいないのか、

 「俺も明日香さんと一緒にいろんな思い出が出来て楽しかったよ。俺の方こそありがとうだよ。」

 と笑顔を見せるが、明日香は首を振りながら言葉を続ける。

 「隆君。あのね、私、分かってるんだ!隆君が奈良に帰れば少なくても数年、いや、もう何十年も会えないかもしれないこと。そんなんじゃ関係が続かないってことも。でも、だからって何も言わないまま終わってしまったら、後できっと後悔する。だから、今までどうしても言えなかったけど、でも私も成長した。もう逃げない。隆君···私、隆君のことが好き!」

 明日香の言葉をじっと聞いていた隆は、驚いた表情は見せずに、まるで明日香の気持ちをすでに分かっていたようにいつもの優しい笑顔で明日香に向き直る。

 「明日香さん!俺は···」


 隆と明日香は砂浜を二人で歩いていた。明日香が夕食を買いに行くところだったと聞いて、途中まで一緒に帰ることにした。隆と明日香の距離は今までより近くなったように見える。だが、いわゆる恋人同士がするような手を繋いだり腕を組んだりはない。

 「それじゃ、俺はこっちだから。」

 二人は砂浜から通りへと上がって来ると、また海沿いの道をコンビニの方へ歩いていた。ほして、隆が大学の施設がある方に差し掛かると申し訳なさそうに、名残惜しそうに明日香に話しかけた。

 「うん、じゃまた。まだフダラクには来てくれるんだよね?」

 明日香は少し頭を傾げながら答える。隆はその仕草に少しドキッとしながら、

 「もちろん行くよ。最後に明日香さんが淹れてくれたコーヒーを飲ませて貰おうかな!」

 それを聞いて明日香は口に手を当てて今までにないくらいに笑ってみせた。

 「じゃね。気を付けて。おやすみ!」

 「おやすみなさい!」

 隆も明日香も笑顔の裏にどこか悲しさを伺わせた表情で去って行った。


 それから数日の間、隆は今までと同じようにフダラクに顔を見せた。そして、今までと同じように富雄や明日香、他の常連客と気さくに話した。別に隆や明日香に変わった様子はない。

 ただ富雄には二人が、特に明日香が何が吹っ切れたような、一区切り着けたような、そんなふうに見える。富雄は明日香から話すまで待つことにしている。

 そして、隆が帰る当日空港まで見送りに行けない人の為に、フダラクで隆のお別れ会を開くことになった。隆が帰る日は土曜日で、お別れ会はその前日の金曜日の昼間フダラクで開くことになった。

 それからお別れ会の日まで、もうすぐ終わってしまうとは思えないくらいに、いつも通りの日々が過ぎていった。


 そしてお別れ会当日、


 「···と言うことで、堅苦しい挨拶はこのくらいにして、皆大いに食べて飲んでくれ!それじゃカンパイ!」

 富雄の乾杯の声に続いて皆も乾杯の声を上げる。

 「これくらいって、充分長かったわよ。校長先生かってくらいにね!」

 吉野のツッコミに一同から笑いが起こる。お別れ会といっても仰々しいものではなく、隆の希望もあり、オードブルなどの料理を囲んで皆でランチを楽しもうという形だ。それに、今日は開店休業のような状態で事前に話をしてなくても当日の参加も店の出入りも自由の誰でも何でもOKである。

 料理はもちろん富雄の手作りで、明日香もこの日はいくつか料理を担当している。店の中央に料理を置いてあるテーブルがあり、皆自由に料理や飲み物をそれぞれの席に持ち寄って食べて飲んでいる。

 集まったのは、海に行ったメンバーの他にもフダラクによく通う常連客が何人か来ていた。

 今中央のテーブルには富雄と王寺と隆がいて、料理を摘まんでいる。富雄と王寺は昼間からビールだ。明日香は吉野と三郷と同じテーブルにいて、富雄の長い乾杯の音頭を聞いていたところだった。

 「まあ、いいじゃないか。それより今日は俺の奢りだ。遠慮しないで食べて飲んでくれ!」

 富雄は吉野のツッコミなど全く気にすることもなく残りのビールを飲み干す。王寺もビールを旨そうに飲んでいる。

 「ところで隆君、明日は何時に空港に行くの?」

 吉野が隆に質問すると皆何気なく隆に注目する。隆は富雄の隣で料理を食べている。

 「10時の便に乗ります。まあ9時半ちょっと前には空港に着くように出ようと思ってます。」

 空港とは羽田空港のことだ。ここから羽田空港までは電車で1時間15分くらいだ。ただし出発時間の15分前には搭乗手続きを済ませないといけないので、多少は時間に余裕を持ってこの街を出発しようと思っている。

 「そう、大変ね。でもいいわよねぇ。やりたいことがあって頑張ってるって。」

 吉野と三郷が、「いいわよね~」と二人で同時に声を出す。

 「何言ってるんだ二人とも。"若いって素晴らしい"みたいなこと言って。ハッキリ言って個人の気持ちの問題で、年齢は全く関係ないからな!」

 王寺が笑いながらも鋭くツッコミ入れると富雄も、如何にもと言うように何度も深く頷いている。自身が店を経営している二人だからこその説得力だ。

 「や~ね~。私達だって···ねぇ?」

 吉野と三郷は自分達は違うと言うようにお互い顔を見合わせて頷いた。

 王寺はどうだかと言わんばかりに手の平を上に両手を挙げてみせた。


 「お待たせしました。コーヒーを淹れたので、どうぞ!」

 皆の食事がある程度落ち着いて食後の雰囲気になり始めたところで、明日香がコーヒーを持ってきた。富雄のコーヒーに負けず劣らずの香ばしい薫りが辺りに漂う。

 「あら、そうなの?玉子焼と生姜焼きも明日香さんが作ったんでしょ?ホント美味しかったわよ!」

 三郷の感想にその場の全員が頷いた。この街に来てからは明日香は皆によくして貰っているが、やはりこのように皆に暖かい目で見られると恥ずかしくなる。チラッと横目で隆を見ると、隆も優しい笑顔で再度頷いて見せる。

 明日香は皆に頭を下げると、富雄に全員にコーヒーを出すように言われて一人一人にコーヒーを配っていった。

 明日香のコーヒーに関しても、全員が美味しいと褒めてくれた。明日香としては、皆に認めて貰えたことも嬉しいことだが、明日香の淹れたコーヒーが飲みたいという隆との約束を果たせたことが何より嬉しかった。

 その後も集まった皆で談笑しながら、隆のお別れ会は楽しい雰囲気に包まれながら過ぎていった。

 「それじゃ名残惜しいが皆も予定があるだろうし、ここでお開きにしよう。最後に隆から一言貰おうか!」

 富雄が隆の肩に手を置くと、隆はカウンターの前に皆を見渡せる場所へと移動した。

 「皆さん短い間でしたけど今までお世話になりました。ありがとうございました。いい人にも多く出会えましたし、皆でいろんな所に行って素晴らしい思い出が沢山出来ました。全部俺の宝物です。本当にありがとうございました!」

 富雄の乾杯の音頭とは全く逆に、隆の挨拶に皆が大きな拍手を贈る。皆が隆に激励の言葉をかけてくれた。

 こうして隆のお別れ会は、お別れ会という性質ながら、隆の性格同様皆が思わず笑顔になるような楽しい雰囲気で幕を閉じた。


 「残念だが俺達はここまでだ。じゃあな、頑張れよ隆!」

 富雄が隆と固い握手を交わす。隆の見送りに羽田空港まで来たのは、富雄と明日香の二人だ。三人は手荷物検査所の前に来ていた。検査所に入ればいよいよお別れだ。

 富雄は隆と握手を交わした後、明日香にお得意の目配せをして先を促す。富雄は隆と明日香のことを一番気にかけていたが、ここまでくれば後は二人の問題だと悟っているゆえに、もう何も言わない。これからは明日香次第だ。

 明日香は隆の前に来ると、最早気持ちに一切の迷いはなく隆を見据えた。そして隆にしか聞こえない声で話しかけた。

 「これでお別れだね。でもさよならは言わない。さよならはこれで終わりの場合に言う言葉だから。」

 明日香は小さい声ながら、力強い眼差しで隆を見ている。

 「うん。そうだね。別にこれで明日香さんや皆との関係が終わりだって決める必要は全くないよね。」

 そしてしばしの間、隆と明日香は二人だけにしか聞こえない声で何か話していた。富雄は

少し離れたところから二人を見守っている。

 話が終わると隆と明日香は、同じように握手を交わす。

 手を話すと隆は富雄と明日香に大きく手を振ると、手荷物受取所へと消えていった。

 「隆と明日香ちゃんのことだから、きっとお互いに納得出来るまで話し合って出した答えだと思う。だから俺は何も言わない。これからのことも明日香ちゃんが納得いくように行動すればいいと思う。でも、明日香ちゃんが困ったことがあったらいつでも相談に乗るよ。て言っても俺だけど。まあ女性同士、吉野さんや三郷さん、御杖もいるからね。皆明日香ちゃんの味方だから。」

 そう言う富雄の隣で明日香は静かに泣いていた。


 隆を手荷物受取所で見送った後、富雄と明日香は展望デッキへと上がって来ていた。最後に隆が乗っている飛行機を見送る為だ。

 二人が滑走路を見ていると今まさに隆を乗せた飛行機が離陸し始めていた。飛行機は力強い轟音を立てながら大空へと飛びって行った。富雄と明日香はその姿が見えなくなるまで見守っていた。明日香の目には最早涙はなく固い決意の表情があった。



エピローグ


それから五年の月日が流れ···


 「あっ、主任。ちょっと来てください!」

 廊下を歩いていた明日香は、とある部屋の中から新人ヘルパーに呼び止められると、その部屋の中へと入った。

 中に入ると、老人が倒れていて苦しがっている。息が出来ないでいるようだ。

 「まあ、香芝さん。どうしたんですか?」

 明日香は老人の側で跪くと老人に話しかける。

 「見回りをしてたら急に大きな音がしたんで、見てみたら香芝さんが倒れてたんです。でも私どうしたらいいか分からなくて···」

 新人ヘルパーは今にも泣き出しそうにしている。真面目で働き者だが、まだ緊急時になると戸惑ってしまうのだ。

 「磯城ちゃん、落ち着いて。こういう時は私達まで慌てちゃダメ。落ち着いて状況を確認するの。」

 とは言え内心は明日香も動揺していたが、明日香にはあるビジョンが見えていた。それは、倒れている老人が呼吸が止まってしまい完全に意識を失うものだ。それで明日香はその老人が何がを誤って飲み込んで喉に引っ掛かってしまったと確信した。

 「磯城ちゃん、すぐに救急車を呼んで!それと誰でもいいからこの部屋に連れてきて!」

 磯城と呼ばれた新人ヘルパーはひとつ返事をするとスマホを取り出しながら部屋を出ていった。

 明日香は横向きに倒れている老人をうつ伏せにすると背中を叩いた。すると、老人が咳き込み飴玉を吐き出した。恐らく舐めていた飴玉を勢い込んで飲み込んでしまったのだろう。飴玉を吐き出すと、老人はしばらく咳き込んでいたが、やがて落ち着きを取り戻し始めた。

 それから、10分ほどで救急車が到着し、老人は病院へと搬送された。だが、幸いなことに明日香の暑中見舞いが素早く適切だったことで老人は何も問題なくその日の内に老人ホームへと帰って来た。

 救急隊の話では、初期の対応が適切だったから今回は助かったが、そのまま物を喉に詰まらせたままだったら、いくら救急搬送しても命を落としてもおかしくないと言うことだった。

 明日香が、老人が苦しんでいる原因が何かを喉に詰まらせたからだとすぐに分かったから素早く適切な処置が出来た訳だが、もちろん明日香の能力によるものだ。

 明日香は、隆が奈良に帰った後もしばらくはフダラクでバイトを続け、料理の腕を磨き、年輩の人間との交流も深めていった。

 その後、東京の老人ホームに就職が決まると、元々の直向きで優しい性格に加えて、富雄に習った料理の腕と年輩の人間と接してきた経験、更に明日香の特殊能力を駆使して明日香はどんどん評価を上げていった。明日香の性格と確実に結果を残すことに、誰も明日香を悪く言う者はいなかった。そして、26歳で主任になると、後輩の指導もするようになっていた。

 そんな明日香も今年で28歳、明日香を働き始めた当初から知っている人々は冗談混じりに結婚の話を持ちかけてくる。今現在、明日香は独身でお付き合いをしている異性もいない。晩婚化が進んでいるとはいえ、周りの人々は不思議に思っていた。

 明日香は今、事務室の自身のデスクに座って必要な書類に目を通している。

 フダラクを辞めて、思い出の街を離れてから三年、明日香は一度も街を、フダラクを訪れてはいない。別に決別したわけではなく、新たに働き始めて以来本当に忙しく他のことを考える余裕がなかったからだ。

 そして、ある程度仕事にも慣れて余裕が出てきた今、明日香はフダラクのこと、皆のこと、隆のことを考えることが度々ある。とは言えまだ三年だ。あの街の人達は相変わらずだろう。明日香は変わらない皆の姿を想像すると、思わず笑ってしまう。

 だが、隆はどうだろうか?博士課程まで進んだ隆は、今年から働き始めているはずだ。

 「きっとどこか凄い研究所とかで働いているんだろうな···」

 明日香は何となく白衣を着て何かの研究をする隆を想像している。

 「···主任、主任!どうしたんですか?!」

 いつの間か物思いに耽ってボーっとしてしまっていた明日香は、自身を呼ぶ声にハッとして声の方を振り返った。

 「どうしたんですか主任?この書類確認お願いします。」

 「う、うん。ありがとう。」

 明日香は後輩が差し出した書類を受け取って、デスクに向き直るとひとつ溜め息を着いた。

 「ダメだなあ私。最近どうもあの頃のことを考えちゃうな~。そういう時期なのかな?」

 ここで働き始めた当初は、新しい環境に慣れることと仕事を覚えることに必死で、他のことを考える余裕がなかったが、仕事や生活に余裕が出てきたからこそ、あの時のフダラクで働いて、街の人達と楽しく過ごしていた日々を考えることが増えた。もちろん隆のこともだ。

 明日香は久しぶりにフダラクに行きたい気分になっていた。今は定期的に休みはあるし、フダラクにも客として訪れることには何の問題もない。明日香会えば皆喜ぶだろう。ただそこにはもう隆はいない。それにフダラクに行きたい気分ではあるが、何となくだが一歩踏み出す勇気がなかった。


 そんなモヤモヤした日々を過ごしていたある日のこと。

 その日は老人ホームの月一回のイベントで全員参加のクイズ大会が催される日だ。時間は午前中の数時間だけだが、全員で集まって募る話をしながらイベントを楽しむことで、孤独になって塞ぎ込むことを防止しようという目的があった。

 明日香は自分が落ち込む姿を見せる訳にはいかないと、何とか気持ちを切り換えてイベントの準備をしていた。

 他のスタッフはそんな明日香の気持ちなど全く知らず月一のイベントに皆笑顔で準備を進めている。


 クイズ大会は大いに盛り上がり、その後は皆でお菓子や飲み物を飲みながら楽しく談笑していた。

 ふと、誰か着けたのか分からないがテレビのスイッチが入り映像が流れ始めた。今は午前のワイドショーをやっている。

 「それでは次のトピックスです。今日は今話題の若手海洋研究学者である、斑鳩隆さんの特集です。」

 テレビから聞こえてくるアナウンサーの声に明日香は全身に寒気かするくらいに驚いた。思わず悲鳴を上げそうになったくらいだ。幸い周りの人達は明日香の動揺には気づいていないようだ。

 テレビでは、アナウンサーが隆の経歴を紹介している。言うまでもなく明日香のよく知っている隆本人で間違いない。隆は大学院卒業後、とある国の海洋研究機関で働き始めるとすぐに頭角を表した。重要な研究チームに抜擢され、更にはその端正な容姿と人当たりの良さでたちまちメディアの目の止まるところとなったのである。

 隆の名前を聞いて初めは人生で一番驚いた明日香だったが、隆が今も元気で活躍している話を聞いて心が温かくなるような嬉しい気持ちになる。

 「夢を叶えたんだね。でも隆の夢はこれからかな?それでね、私も頑張ってるんだよ?」

 明日香は心の中でテレビに映る隆に語りかけていた。今の自分の姿を見て隆は何と言ってくれるだろうか?明日香はそんなことを考えていた。

 「あっ。この人最近テレビで見かけるようになったわね。凄いわねぇ、新人で異例の抜擢だそうよ?」

 テレビを見ていた一人が、茶菓子を頬張りながら隣に話しかける。

 「ホントよねぇ。何だか遠い存在というか雲の上の存在って感じ?一体誰がああいう人と知り合いになるのかしらね?」

 そんな二人の会話を聞きながら明日香は考える。確かに今の隆はテレビに出ている人、どこか遠い存在の人だ。だが、明日香はかつてその知り合いになることも不可能なテレビの中の人と知り合いだった。いや知り合い以上に一緒に食事したり、海に山に行ったり楽しい時を共に過ごした。周りの人達からしたらテレビの中の存在の人とそんな関係だったことに、何とも言えない不思議な気持ちになると同時に、淡い思い出をおもいだしたことで、顔が熱くなるのを感じている明日香だった。

 隆の特集は10分ほどで終わったが、明日香はフダラクに行きたい気持ちが更に強くなってしまった。

 「次の休みにフダラクに行ってみようか?」

 そんなことを考える明日香だった。


 フダラクに行きたい気持ちが強くなるのとは裏腹に、いざ休みの日になると、怖じ気づいてしまって結局行かないという日々が続いてしまっていた。地に足が着いていないような状況に明日香は自分でも嫌気が差してしまう。

 「あ~あ、こんなんじゃダメだ。はっきりしないと!仕事にも影響が出ちゃう。」

 そうは思うものの、なかなか決心が着かないでいた。


そんなある休みの日


 その日明日香は不思議な既視感に襲われていた。言葉にするのは難しい感覚だが、明日香は以前にも同じようにような感覚になったことがある。それは、初めてフダラクに行くことになったあの日だ。あの日も何かに導かれるように自然にフダラクへと辿り着いていた。

 今までフダラクに、思い出の街に行くことを躊躇っていたのが嘘のように、その日明日香はフダラクへと何かに導かれるように向かっていた。明日香は最後の乗り換えを終え、かつて住んでいた時に使用していた駅に行く電車に揺られている。明日香のソワソワした落ち着かない気持ちなどつゆ知らず、電車はのんびりと海を眺めながら走っている。

 明日香は海を眺めながら、やがて隆と話した夜のことをぼんやりとだが思い出していた。今でもあの夜のことはどこか浮世離れしていて、絶対にそんなことはないと分かっていても、実は夢だったんじゃないかと思うこともある。

 そうやって海を眺めている内に、明日香はフダラクに行く前に隆と話した砂浜に先に行ってみたい気持ちになった。もちろん砂浜に行っても隆がいる訳はないのだが、ただ思い出の場所のひとつに立ち寄りたいと思ったからだ。


 やがて電車は思い出の駅へと辿り着いた。明日香は駅から出ると懐かしい思いになりながら辺りを見回す。

 しばらく周囲の海、街、山々を眺めると明日香は砂浜へと歩き始める。絶対に隆はいない、いる訳がないと自分に言い聞かせる反面人生で一番大きな期待をしている自分でも訳が分からない気持ちを抱きながら歩みを進めていった。


 かつて何度も通った海沿いの道を、思い出の砂浜へと向かって明日香は歩みを進めていた。絶対にそんなことはあり得ないと思いながらも、高鳴る鼓動を押さえきれない。明日香の歩調は更に速くなる。

 やがて、あの日の夜隆と会った場所に近づいてきた。明日香は砂浜をこれでもかと言うくらいに目を凝らす。何と砂浜には一人の青年が立っている。そして、その青年が誰かを明日香は誰よりも知っている。

 明日香は砂浜へと降り、その青年に近づいて行った。絶対にあり得ないと思いながら、絶対にいて欲しいという明日香の願いが届いたように、そこにいたのは隆本人だった。

 明日香が近づいてくるのに隆も気付いて明日香の方に向き直る。そして、あの時と変わらぬ笑顔で明日香を迎える。

 明日香は人目も憚らず隆の胸へと飛び込んで行った。隆も優しく明日香を抱き止めた。


 二人を祝福するように、太陽は淡く輝き、波は穏やかな音を奏で、そよ風が優しく流れていった。

タイトルについて


この物語のタイトルである、「夢幻の奏憶」は「むげんのそうおく」と読みます。この言葉は私が勝手に作り上げた言葉です。これは、この物語の主人公の、生駒明日香と斑鳩隆が共に、まるで夢のような幻のような、不思議な時間を共に歩み記憶を奏でていく、というような思いを込めて考えました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ