アポロニア
友和は当然、奴隷部屋か馬小屋で寝るのだろうと思っていた。
だがカエサルは、客室を提供してくれた。
アポロニアという美しい娘が、身の回りの世話をしてくれた。
十七歳だと言う。しかも奴隷なのだという。
「私の太陽、アポロニアだ。手を出したらエモーリはライオンに食わしてやるから、そのつもりで」
こう言い残してカエサルは、自らの寝所にひきあげた。
人間が人間を物品のように所有する。その現実に、なんだかむず痒さを覚えてしまう。
本当に綺麗な娘であった。
空腹である旨を告げると、アポロニアはパンと干肉とワインを持ってきてくれた。
ほおばりながら友和が尋ねる。
「本物の奴隷かあ。驚きだな。アポロニアはどんないきさつでカエサルの屋敷に居るの?」
アポロニアの話はちょっと複雑なものだった。
「スパルタクス戦争の後でね、私のお母ちゃんは捕まって、クラッススの奴隷になってたの。──
ある日、食事に招待されたカエサルが、お母ちゃんを見初めて、クラッススにねだったんですって。
お母ちゃん、とっても美人だったの。
大金持ちのクラッススは、当時、自分の将来の為に、カエサルに投資を続けてたんですって。
だから、カエサルの欲しい物はなんでも与えたのね」
友和の知ってる名前が、やっと出てきた。
「おお、スパルタカスなら俺も知ってるよ。──
奴隷開放の反乱を起こした剣闘士だよな。
人間は皆平等だ!
まあ、負けちゃった訳だけど、立派な男だと俺は思うよ。
未来世界では別名、カーク・ダグラスってんだ」
スパルタクスを誉められ、アポロニアは嬉しそうだ。
「お母ちゃんは昔、カプアでスパルタクスと一緒に、クラッススと戦ったのよ。──
兄弟達と一緒にね。
クラッススは、スパルタクスに一度大負けしちゃって、面子を潰されたから、反乱に加わった奴隷達が憎かったの。
結局、最後には鎮圧されて、主立った奴隷は殺されちゃったけど、捕まった生き残りの人も、ずいぶん酷いめにあったんですって。
……だから、ユリウス家に来られた事は本当に運が良い事だって、お母ちゃんいつも言ってたの」
くりくりした目のアポロニアは、四肢の伸び伸びと美しい、日だまりのような素敵な匂いの娘なのだ。
板張り床の客室は温かく、ワインも美味く、ライオンに勝てる自信さえあったら、抱きしめてしまいたい友和であった。
このアポロニアの母親ならさぞかし美人に違いない。
当然、カエサルが欲しがったのも、夜伽をさせる為なのだろう。
……現実に、奴隷制度の世界に来たんだなあ。
との実感が、美人奴隷女であるアポロニアを前にすると、否応なしに伝わってくる。
話し続けるアポロニアの影が、しっくい壁の中でゆらゆらと、まるで影絵のように動いていた。
「私はスパルタクス戦争が終わってから十二年経って、奴隷のお母ちゃんと奴隷のお父ちゃんとの間に生まれた奴隷の子なの。……お父ちゃんもお母ちゃんも、五年前の流行り病で死んじゃって、一人ぼっちになっちゃったけど、時々考えちゃう事があるの。もしかして私、お母ちゃんとカエサルとの子供だったりして。……なんてね」
友和は思った。
こんなにも魅力的な奴隷娘に、カエサルが手を出していないという事自体、不思議な事じゃないか?
つまり結論としてアポロニアは、カエサルの娘なんじゃなかろうか?
「成る程、ライオンの話はカエサル自身の戒め、つまり訓戒なんだな」
「どういう事ですか?」
「つまり、アポロニアが魅力的過ぎるから。──
カエサルは自分に言い聞かせているんだよ。
未来永劫、男は自分の子供かどうかなんて、確信は持てないんだ。
だけど、自覚が無い訳じゃない。
少しでも自覚がある以上、あの男の場合、自分の娘だと思ってるに違いないよ。
『カエサルの子種が、他の男に負ける訳がないのだ!』なんてね。
あはははごめんな。
そして、血を分けた自分の娘に対しての偏愛も、未来永劫変わらないんだ」
「それじゃ私は?」
「間違いない。カエサルの娘だよ。カエサルだってそう思っている筈だ。何れにしても、お母ちゃんを愛してきたカエサルは、一日も早くアポロニアを開放すべきだと思うよ」
「ありがとうエモーリ。でも私は今の暮らしに不満は無いの。どうせ開放されたとしても何処かの有力者と、すぐに政略結婚させられるのが関の山だわ。それに、カエサリオンの事もあるし、……今は私の認知なんか出来る状況じゃないと思うの。だから私はこのままで、カエサルの所に居る方がいいの」
「まあ、時期をみて認知するつもりなんだろうな。いずれ開放するつもりには違いないよ。なんだったら俺が嫁に貰ってやろうか?」
「あらエモーリ、私はもっと若い殿方がいいな」
「くそ、本物の奴隷のくせに生意気な奴だ。ところでカエサリオンって、あのクレオパトラの息子の事かい?」
「そうよ。今、ローマに来てるのよ」
「へえ、本物のクレオパトラかあ。一度見たいものだな」
「とっても綺麗なひとよ」
「見たのか?」
「うん、みんながヴィラの前に押しかけてるの。誰だって一目見たいわ。だから私達も訪ねていったの。カエサルからのお届け物ですって、ワインを持ってね。勿論、中に通してくれたわ」
「どうだった?」
「とってもいい匂いのお香を炊き込めてたわ。綺麗な侍女に囲まれて、凄く大きな宝石を付けてるの。カエサリオンは奥の部屋で侍女達と遊んでたわ。シルクがふんだんに使われていて、まるで天国みたい。見た事も無い果物をすすめてくれたの。とても美味しいのよ。そして話しかけてきたの」
「クレオパトラ本人がか?」
「そうよ」
興奮を禁じえない友和は、ワインをごくんと飲んだ。
「続けてくれ」
「可愛いひと、カエサルの使いの者、ご苦労であった。……本当に可愛いひとって言ったんだから」
「わかったわかった。それから?」
「可愛いひと。カエサルからの言伝は何ぞあるのかえ? ──
……あるのかえ? ったって、何も無いじゃないですか。
だけど、ありませんなんて言えないじゃないですか。
咄嗟に考えたの。
……カエサルって私の事いつも、〝私の太陽〟って呼ぶの。
だから、……おお、私の美しき月よ。夜空に輝く宝石の女王よ。来たるパルティア遠征を終えたら、そなたとともにしばし休息を楽しもう。
待っていてくれ。楽しみにしている。
勝利の暁にはパルティア一の宝石をそなたに捧げよう。
……こう言ったの」
「ほう、やっぱりカエサルの娘だな。流石なもんだ」
「後で、事の次第をカエサルに報告したの」
「何て言った?」
「クレオパトラはパルティアをくれとは言わなかったかって。大笑いしてたわ。あいつは何でもかんでもクレオパトラだって」
「あははは。下手くそなオヤジギャグ。カエサルって憎めない男だな」
アポロニアとの楽しい一時の後で友和は眠りについた。