お告げ
雨は激しく降り続き、石造りの館の室温は次第に下がってきた。
カエサルは、寒さに震える友和にマントを差し出した。
「あんたら丈夫だな。日本酒の熱燗が飲みたいよ。……仕方がない。ワインもっとくれ」
命が助かっただけでも有り難い処なのに、まったく図々しい男である。それが江守友和なのだ。
ワインは熱燗にしたらまずくなるのかな?
などと考えながら大きな椅子の上であぐらをかいて、マントに包まりグビグビ飲んでいる。
いつの間にかワインの入った水差しも、ふんだくって抱え込んでいる。
カエサルの妻のカルプルニアが入ってきた。そして言った。
「あなた、なんだか胸騒ぎがして、眠ろうとすると恐ろしい夢ばかりみるんです」
カエサルはカルプルニアにもワイングラスを渡す。
「あははは、例の『三月十五日には気をつけろ!』の、お告げが気になるんだな。いよいよ明日に迫ったからだよ」
これはまた、別のお告げである。
この時代のローマはお告げだらけなのだ。
カルプルニアは震えながらワインを飲み干す。
「ねえあなた、たまには私の言う事も聞いて下さい。せめて明日一日だけは元老院には行かないで下さい」
カルプルニアの肩を優しく抱きながら、カエサルはいたって陽気に話す。
「ガリアでは誰もが呪術に頼って生きている。ガリア人は皆が予言を信じ、行軍や作戦までも御託宣で決める。だからこそ、私は勝つ事が出来たんだ。もし私がお告げに従って戦っていたら、とうの昔にガリアの大地に屍を曝していただろう」
──そうか、カエサルが殺されるのは明日なのか?
しかし友和は、カエサルに関しての予備知識が、全くと言っていいほど無い。
だから、三月十五日が暗殺の決行日なのかどうか、それすらも確信が持てなかった。
お告げのエピソードがあった事さえ知らない。
燭台の炎が揺らぐ。
炎に浮かび上がるカエサルとカルプルニアの顔。
──そうだ。これはいつかテレビで見た。マーロンブランド主演の映画『ジュリアス・シーザー』と同じだ!
寒さのせいだけじゃない。鳥肌が立つ。
『シーザー暗殺』……このムードは確実に、ありそうなムードではないか。
こうなったらもう、黙っている事なんて出来ない友和であった。
そこでさっそく口を出す。
「ブルータスお前もか!」
ブルータスという固有名詞を聞いて、カエサルの目が丸くなった。
「カエサル、あなたが刺された後で叫ぶ有名なセリフだ! 何人もの議員の手によって元老院の中で、短剣で刺し殺されるんだ。不勉強でね。これ以上は解らないんだ。……ここはひとつ奥さんの言う通りにして、明日に限らず、元老院にはもう行かない方がいい」
「エモーリ、お前も呪術師なのか? お前の国も呪術が盛んなのか?」
と、広い世界に興味津々のカエサルなのである。
引っ込みのつかない友和は誠心誠意、本当の事を話した。
「信じてくれカエサル。実は俺、未来の世界から来たんだ。シーザーが、いやカエサルが元老院でブルータス一味に刺し殺された事は歴史上の事実なんだ。紛れも無い事実なんだ。だから助けたいんだ」
再び、いたずらっ子のような目を光らせてカエサルが言う。
「面白い! エモーリの国の占いは、未来の神様からの神託を受けるものなのだな?」
「うん、まあそう受けとってもいい。それでもいい。そうだ、あの腕時計がある。カエサルこれを見てくれ。未来の時計だ」
友和は、バー『ジャック・ルビー』でモータウン田村から貰った腕時計を見せた。(江守友和の冒険 『蛭』参照)
中途半端にアンチックなデザインの、そのアナログ風な腕時計は、針が止まっているではないか。
これでは、あまり趣味の良くない腕輪にしか見えない。
一瞥してカエサルが言った。
「その腕輪は私の好みではないな」
「ちくしょーめ! やっぱりこのデザインは、安っぽいんだ!」
と友和。
カエサルは、椅子にかけておいたトンボ柄の浴衣を手にとって、そのプリント柄を見つめながら言った。
「エモーリ、私が殺された後、ローマはどうなる?」
友和はありったけの知識を総動員だ。
「えー確か、アントニーが仇討ちするんだ。──
その後アントニーとクレオパトラがデキちゃって、オクタビ何とかと天下分けめの大海戦があって、アントニー、ああそうかアントニウスは、負けて自殺する。
クレオパトラは宮殿の中で、毒ヘビに自らを噛まして非業の最期を遂げるんだ。
綺麗だったなエリザベス・テーラー。
うん、失礼。
勝利者オクタビ何とかは、その後、帝政を敷き、ローマ帝国の初代皇帝となり、その後改名してアウグ何とか皇帝と呼ばれ、ローマ帝国の礎を創る。
……申し訳ない。ローマ史あんまり興味なかったし、俺、日本人だからね。
俺の知識じゃこの程度だな」
「成る程面白い。──
私は一段落ついたら『ガリア史』を書くつもりなんだ。
『ガリア戦記』の姉妹編として。
エモーリの、この面白いお告げを見習って、伝承や迷信を盛り沢山にして、今度は、うんと面白い物語にしようと思う」
全く信じてくれないカエサルなのであった。