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カエサル

 三月十八日のカエサルのパルティア遠征を前に、ローマでは一つの噂が流れていた。


 占い好きのローマ人が何かにつけてお伺いに出向く「シビラの予言」の中に、パルティアは、

『王によってしか征服出来ないであろう』

 というお告げがあったのだ。


「だからカエサルは王になるだろう」

 と、まことしやかに話す者。

 或いは共和制の将来を憂いて、ひそひそと囁く者。

 こちらも、

「カエサルは王になるつもりなのだろうか?」

 と。


 このように肯定論を説く者も、否定論を囁く者も、噂話の焦点は、つねにカエサルと王制についてであった。


 この時点では王制に対する懸念の方が多数を占めていたと思われる。

 何故なら、ローマにおける共和制は、元老院派と民衆派の血生臭い抗争の歴史でもあったのだが、共和制の制度そのものに関しては、民衆派に限らず元老院派にしても、共に守ってきたという強い自負があった事もまた確かなのだ。


 円熟したローマの共和制は長い年月を経ており、このところは取り立てて問題がある訳でもなく、いつの世でも保守層というものは現状維持派であり、それはもっぱら多数派なのである。


 終身独裁官といえば、実質的には王と何ら変わらないように思えるのだが、慎重なカエサルが密かに目指していたのは、王以上の者、すなわち、絶対君主たる皇帝、であったのだろうか?

 カエサルの時代ならば、近くにあってはアレキサンドロス大王。遠くにあっては秦の始皇帝が、知られていた筈である。


 ひとつ言える事は、この時代、巨大化したローマの支配力が及ぶ事となった周辺地域の民、すなわちガリアや、エジプトそしてアフリカや小アジアの地中海世界の民は、共和制など全く経験した事がないという事実なのだ。


 ガリアで長く戦い、その後ポンペイウスを追って、地中海世界を小アジアからアフリカ、そしてエジプトに至るまで長足で駆け抜け、これらの国々の実状をつぶさに見たカエサルなのである。


 クレオパトラとの出会いによるエジプトでの滞在の後でさえ「来た見た勝った」という具合に、地中海世界でもことごとく勝利を治めてきたカエサルとしては、これらの国々を統治し、民衆を支配して行く為には、やはり絶対君主が、解り易くて最も有効な統治方法だと考えたのではなかろうか?


 今まさに、ローマ人の悲願であるパルティア征服を成し遂げた後では、この偉大なるカエサルは益々不動の者となり、何事も自由自在に、そして誰はばかる事なく、何者にでも、成りたいように成れるという事だけは確かなのである。





 マルクス・ブルータスはローマの共和制の中で育った。

 そしてローマ人は誰でもそうであったのだが、共和制を信奉していた。


 巨大化した国家のシステムが、たとえ現状にそぐわなくなってきたとしても。

 或いは諸問題を解決する事の出来る、意欲と能力を持った超人的な男により、この先なされるであろう様々な改革によって、より発展して行くローマを造る事が可能であり、それこそが必然であったとしても。

 ブルータスとその仲間達にとっては、共和制こそが善であり、そこから逸脱する事は、何であれ悪だったのである。


 カエサルの造る新しい世界でも、エリートとしての将来を約束されているブルータスだったが、それはカエサルの厳しい評価の目に晒され続ける事をも意味していた。


 他人の評価というものは嫌なものだ。

 しかも、何事にも、超人的な自信に満ち溢れたカエサルに見据えられると、簡単な事でさえ失敗しそうに思えるのだ。

 萎縮してしまうからだ。


 カエサルはまぎれもなく英雄であった。

 英雄とは、ある種の異常者であるが故に英雄たりえるのかもしれない。

 だからこそ人々は憧れと共に恐れを抱き、あるときは自己犠牲の精神までも発揮して、英雄を守る為に死んで行ったりする。

 そのように、はた迷惑な影響力が大きい程、英雄らしい英雄と言えるのだろう。


 だから、その放つ影響力を受けた真面目な凡人が、正の力であれ負の力であれ、突拍子もない行動に走ったとしても、何ら不思議な事ではないのだ。


 さて、現実には母親の愛人であるカエサルの引き立てと尻拭いのお陰で、かろうじてエリートコースを歩んで来られたブルータスなのだが、不惑も過ぎたばかりの、働き盛りの本当の自分の実力はまだ発揮されていない。と強く感ずるのだ。

 この男、何事にも自信はあるのだ。


「ああ俺が世界一の金持ちだったらな。──

 人類を救う事なんて簡単じゃないか。

 世界中の学者を集めて、不老不死の薬を開発させて、皆に配ってやるのに。

 空を飛ぶ事だって簡単だ。

 鳥をたくさん集めて大きな籠にくくりつけて、有能な御者に調教させればいいんだ!」


 と思ったかどうかは知らないが、この共和制ローマの中で、

「自分はもう充分にエリートだ」

 という強い自覚を持っていた事は確かなのだ。


 そしてカエサルの自分に対する評価が不当に低い感じもする。

 こんな、無いものねだりの、或いは歪んだファザコンのような心理状態にあるブルータスのかたわらに、カエサルを恐れるあまり、今では憎しみだけを胸に抱くカシウス・ロンジヌスが、そっとすり寄って行く。


 俺達は、彼の〝教育的指導〟なんかもう欲しくない。

 彼の厳しい評価に一喜一憂するのはうんざりだ。

 彼さえいなければ、ローマを指導して行くのは、まさに俺達じゃないか。

 こうなったら「共和制の敵、独裁者に死を」である。

 そのほうがせいせいするのだ。

 こうして暗殺の決行日は、三月十五日の元老院会議の日と決められた。







 一メートル程上空へ出現した友和は、硬い石の床の上へ落っこちて、したたか腰を打った。


「痛っててて、また腰だっ! せっかくいいとこなのに! 何なんだよー!」

 と友和の叫び声が響く。


「きゃー」

「誰かいるわ!」

「男よー!」

 真っ暗な部屋の中で女達の悲鳴があがる。


 浴衣姿の友和は突然、頑丈な木製ベッドの並ぶ、しっくい壁の部屋の中に現われたのだ。

 すぐに明かりがともされたのだが、それは、ほの暗いランプの光であった。


 まだ酔っ払っている友和は、目の前の木製ベッドへ、もぞもぞともぐり込んだ。

 良い匂いの中で、

 ──ポヨヨン

 とした感触を感じた。


 能天気な友和は、思わず声を出した。

「わお! あったかい。オッパイだあ」


「きゃあ! 何すんのよー!」

 叫び声と同時に、

 ──ドゲシ!

 とばかりに、綺麗な長い脚に蹴っ飛ばされて、ベットの下へ転落して腰を打った。


「いててて! また腰だ! ちくしょーめ!」

 綺麗な長い脚の女は、勇ましくも素っ裸のまま、ベッドから飛び降りた。


「こいつ! 変なオヤジ! 誰なの?」

 と馬乗りになって叫んだ。


 老若取り混ぜた5、6人の、簡素な白い衣裳の白人女が、わらわらと取り囲む。

 すぐさま、これも脱色系白色の短い衣装を着た、腕っぷしも立派な3人の白人男が、騒ぎを聞いて駆けつけてきた。


「誰だこいつは」

「お! アポロニアが素っ裸」

「ベッドの中だもん。当たり前でしょ!」

「男はアッチ向いて!」

 男達は未練たらしくアポロニアに背を向けた。

(どうやらこの部屋の女達は、寝間着を着る習慣が無いようだ。)


「この男、変な恰好!」

「アポロニアの寝台に忍び込んだのよー!」

「夜這いにきたのよ!」

「誰なの? アポロニア」

「私、知らない男よ!」

「あ! こいつ、何か喋ってるわ」


「裸のおねいちゃん、俺は痴漢じゃない。嬉しいけど、どいてくれ」

 腰の痛い友和は苦痛に顔を歪めている。

 馬乗りのアポロニアは立ち上がって衣装をまとった。


 女の一人が言った。

「クサンティニアが御主人様に伝えに行ってるわ」


 唐突な黄色人種の中年男の出現に、皆が驚いているのは当然であった。

 石造りの屋敷の中はまるで穴倉の中のようでもあり、粗悪な獣脂の匂いが鼻を突く。





 男の一人が言った。

「お前は誰だ。何処から来たんだ?」

 友和に答えられるわけがない。

 瞬間、男の巨大なげんこつが、浴衣一枚だけの友和の無防備な腹にめり込んだ。

「ぐふう」

 激痛が走った。息も止まる。

 その時、女奴隷の寝所での騒ぎの報告を受けたこの屋敷の主人が、従者を伴って、廊下に姿を現した。


 そして主人は言った。

「コッポラ、手荒な事はやめなさい」


 取りあえずほっとする友和であった。

 もう一発食らったら確実に、胃の内容物を全部吐き出す事になる。

 こんな所でゲロなんか吐いたら、間違いなく殺されるに違いない。


 激しい鈍痛の中で特異点友和は、人々の服装や回りの様子から、ここは古代ローマなのだろうと目星をつける事ができた。


 ──おべべべ。痛ってえ! マジかよ? 今度は古代ローマだって訳か?


 痩せ顔の中年親父のくせに、貧相ではなく、不思議な風格を感じさせる主人が言った。

「こんな変な造作の顔は初めてお目にかかるな。ローマ人じゃないし、パルティア人でもエジプト人でもない。お前はインドの彼方の、噂に聞く処の、シーナの人間であろう」


 友和は答える。

「そうかシーナって中国の事か。うん。俺はそのまた向こうにある、日本の人間だ」


 主人が言う。

「そんなに遠い所からお前は船で来たのか?」


 女奴隷の一人が言う。

「この男、アポロニアの寝台に入り込もうとしたのよ」


 笑いながら主人が言った。

「インドの向こうのそのまた向こうの助平男が、アポロニアの寝所を目指してはるばるやってきたとすれば、アハハハ。アポロニア、お前もたいしたものだな」


 従者の一人が短剣の柄を握りしめながら言った。

「カエサル、こやつ刺客かもしれませんよ」


 主人であるカエサルが答える。

「そうかもしれんな。──

 カエサルの屋敷に真夜中に忍び込んできたのだからな。

 だがポンペイウスやカトーの残党に雇われたにしては、まるで無防備なこの衣服を見よ。

 ん? 模様がたくさん描いてある。

 トンボだ。上手いものだな」


 惑星温泉での宴会の途中から、ふいに飛んできた友和は、宿屋のトンボ柄の浴衣一枚の情けない恰好で震えている。


 しげしげと模様を眺めながら、カエサルが言った。

「こやつ、短剣でも隠し持っていたのか?」

 女共はかぶりを振る。


 駆けつけてきた警備隊長が言った。

「カエサル、我々にお任せを。こやつ、すぐさま拷問にかけて背後関係を吐かせます」


 友和はべそをかく。

「解った。カエサルってシーザーなんだろ? これには深い訳があるんだ。何故だか言葉だって通じてるじゃないか。とにかく拷問なんて、やめてくれよ」


 外はどしゃ降りの雨であった。


 ちょっと考えてからカエサルは言った。

「昔は私も夜這いが大好きだったよ」

 古参の家人達が笑った。

 気難しい顔の中に、いたずらっ子のような表情が宿っている。

 カエサルがこの表情で決定した事は、もはや何人も覆す事は許されないのが、ユリウス家の家訓であった。


「よし、この問題はもうお終いにしよう。バルブス、この男を連れて私の部屋へ来てくれ。アポロニア、お前も来なさい。じゃ皆、おやすみ」





 部屋に入るとカエサルは、アポロニアにワインを持ってくるように命じて、バルブスにチュニック(短衣)を取ってこさせ、浴衣を脱いで着替えるようにと友和に命じた。


 赤々と灯る燭台の下の四角いテーブルには、羊皮紙の地図が何枚も置かれている。

 他にも数字や矢印の書き込まれた羊皮紙が何枚かあった。

 まさにカエサルは、パルティア遠征の作戦の真っ最中であったらしい。


 大あくびをしてから、こめかみをつよく押さえる仕草をした後、皆にワインをすすめ、部屋の中央にある比較的小さい、まるで一刀彫のような、ごついガリア風のがっしりとした円卓の回りの椅子をすすめた。

 そして自らも旨そうに立ったまま飲み干した。


 カエサルが縁をなで回しているこの円卓こそは、ガリア戦のハイライトである『アレシアの戦い』において捕虜としたガリアの将、ヴェルキンゲトリクスの形見の品であった。


 その円卓の、家長の席とおぼしき、一際ごつい椅子に座って口を開く。

「さて、私がガイウス・ユリウス・カエサルだ。今夜は見逃してやるから安心するがよい。そのかわり名前くらい教えてくれたっていいだろう?」


 ワインを一気に飲み干して友和は答える。

「感謝する。江守友和だ。カエサルさん、俺はあんたがどれだけ偉い人なのか知ってるつもりだったが、不勉強なもので実はよく解らないんだ。申し訳ない」


 バルブスとアポロニアが笑った。

 現在、ローマの終身独裁官となり、地中海世界及びガリアでこれほど有名になった男の事を、このようにとぼけた言い回しで評するエモーリ・トモカズという男の言葉が、しかも言うなればカエサル好みの表現で発せられた事が、この二人の家人にとってはとてもユーモラスに感じられたのである。


 ともあれカエサルは、友和の名前の持つ響きに、何か感ずる処があったらしい。


「エモーリ・トモカズか? ──

 ガリアのものともブリタニアのものとも全く趣が違う響きだ。

 流石はシーナの更に向こうの国の名前だ。

 全く世界は広い。

 私にアレキサンドロス大王の若さと情熱があったらなあ。

 まあ、やっぱり、ブリタニア止まりだろうな」

 と言って笑った。


 アポロニアが唄うように言った。

「でも実際、ガリアと地中海世界は、全てカエサルの物ですわ」

 バルブスもしきりに頷いている。





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