03:絵描きの男と旅人の女 ③
「市場に出かけてきますね。何か買ってくるものはありますか?」
「……いや、ない。僕のことは気にしないでくれ」
「そうですか。では行ってきます」
唐突な告白があった次の日だというのに、オリビアの態度は以前と何も変わらなかった。特に照れている様子はなく、かといってよそよそしいわけでもない。相変わらず他人よりも近く、友人よりも遠い距離感で、彼女はローレンスに接していた。
寧ろ心境に変化が生まれたのは彼の方だった。突然、会ったばかりの人間に告白をされ、かと思えば告白をした女の態度は変わらない。狐につままれるというのはこういうことを言うのだろうか。彼の変わり映えのない……けれど完璧だった五百年が、突然放り込まれた石ころひとつで多少なりとも波立ったのが分かった。
(…‥彼女といると、少しだけ昔のことを思い出すな)
ふと、ローレンスはそんなことを思った。
──かつて、彼はただの人間だった。
寿命はせいぜい80年ほどで、絵描きとは無縁の学者をしていた。相変わらず仏頂面だったものの、誰もが彼の未来には輝かしいものが待っているのだと信じて疑わなかった。けれど、彼は迂闊だった。あるいは若者ゆえの万能感が彼をそうさせたのかもしれない。彼はこの世界にいくつかある『決してしてはいけないこと』のひとつを犯してしまったのだ。
神さまに逆らうこと。
最も単純で、当たり前のこと。けれどそれこそが、ローレンスが五百年も生きることになった原因だった。
短い記憶の波が、ローレンスの頭の中で押し寄せては引いていく。何だか頭が痛くなってきたローレンスは部屋へ戻り、そのまま崩れるように机に突っ伏した。目を閉じると、懐かしい夢が彼の瞼をそっとなぞった。喜びも、悲しみも、今では全てが嘘のように曖昧で、かと思えば、ただひたすらに重たく胸の中に居座り続けている。
(……そうだ。彼女と似ているんだ。強引で、大げさで、本心が分からない腹立つところが)
白い肌。細い腕。
陶器でできた人形のように、儚さを体の全てを使って体現していた彼女。笑うたびに光が舞うようだった底抜けに明るい彼女。もう二度と、自分の名前を呼ぶことはない、彼女。
美しい日々はやがて終わり、暗く沈んだ泥のような今だけが残った。
『あなたの幸せを願ってる』
その言葉はまるで、優しさでできた呪いだ。
◯
「──さん。……ロー……スさん。……‥ローレンスさん。起きてください。もう夜ですよ」
名前を呼ばれて、ローレンスはやっと目を覚ました。どうやら昼前にオリビアを見送ってから、もうだいぶ時間が過ぎていたようだ。ローレンスは、いつの間にか痛みが引いていた頭を片手で軽く抑えながら、不思議そうな顔でこちらを見つめるオリビアをじっと見つめ返した。
「わざわざ声をかけにきてくれたのか?手間をかけさせたようですまない」
「あ、いえ。こちらこそ、外から声をかけても返事がなかったので、勝手に入ってきてしまいました」
「構わない。隠すようなものもないからな」
言葉の通り、彼の部屋には隠すようなものはないが、散らかり具合で言えばどの部屋よりも酷いものだった。スケッチ案は机も床も関係なく散らばり、絵の具やら鉛筆やらが足元に転がっている。換気も最低限しかされていないせいで、独特な匂いで頭がクラクラするようだった。
オリビアは呆れた様子で苦笑いをしたが、ローレンスはその表情の意味を理解することはできなかった。
「せめて換気だけはしっかりしましょうね。体に毒ですよ」
そう言ってオリビアは窓を開いた。涼しい夜風が部屋に入り込んで、ローレンスの寝ぼけた頭を妙にすっきりとさせてくれるようだった。
「聞きたいことがあるんだが」
ふいにローレンスが言った。
「私にですか?」
「君以外に誰がいるんだ」
「まぁ、そうですけど」
短いやりとりの後、オリビアはローレンスを見つめた。ローレンスの『聞きたいこと』とやらを待っている様子だった。それを察したのか、もしくは彼女の意思など最初から関係がなかったのか、ローレンスはオリビアに質問を投げかけた。
「君は本当に、僕のことが好きなのか?」
それはオリビアにとって、想像もしていなかった質問だった。「え」と短く声を出してから、目を丸くして石のように固まるオリビアをよそに、ローレンスは何食わぬ顔で彼女を見つめている。しばらく沈黙が続いたあと、オリビアは少し気まずそうに耳の後ろを掻きながら、
「一目惚れって言ったじゃないですか。……あっ。もしかして、私のこと少しは気になってくれてるってことですか?だったら嬉しいなぁ」
「いや、そうじゃない」
「うわぁ。即答……」
容赦なくキッパリと言ってのけるローレンスに、オリビアはちょっと挫けそうになった。
「そもそも僕は、一目惚れなんて馬鹿馬鹿しいと思っている。表面だけを見て恋に落ちる意味がわからない」
「えぇ〜?でも外見を磨いた人の努力だって立派な努力だと思いませんか?」
「僕は別に外見を磨いたわけじゃないから何とも思わない」
「それは……まぁ、そうですね」
取り付く島もない。
オリビアは胸の中で深いため息を吐いた。
「そもそも君は……」
「あっ。ローレンスさん、ローレンスさん。この部屋、よく見ると難しそうな本がいっぱいありますね。絵には関係なさそうですけど、趣味でしょうか」
「人の話を………はぁ。まぁいい。それはもともと僕が使っていた本だ。読みたかったら好きに読んでいい」
ペースを乱されたローレンスは、これ以上のやり取りは不毛だと判断した。呆れた様子の彼とは反対に、オリビアは機嫌よく本棚から一冊の本を取り出す。とびきりの年代物だった。
「ええっと、なになに……。不死について?」
オリビアが読み上げた瞬間、ローレンスの手によって本が閉じられた。オリビアは驚いて彼を見上げるが、ローレンスは相変わらず無表情なので、果たしてそこにある感情が何なのかまでは分からなかった。けれど触れてはいけない話題なのは確かなようだ。
「この本は君にはまだ早い。別の本を読むといい。例えばこの本はどうだ?」
「………『サルでも分かる常識』」
「?何だ、その顔は。君に必要だろう」
オリビアは目を細めて何やら訴えたい様子だったが、ローレンスの目が本気だと悟るとそれ以上はもう何も言わなかった。