01:絵描きの男と旅人の女 ①
とある国の、とある街に五百年もの長い時間をひとりで生きてきた男がいた。男の名前はローレンス。かつては学者をしていたが、今は絵描きで生計を立てながら、まるで余生でも過ごすかのように静かに暮らしている。
そんなある日のことだった。
ローレンスが食材の買い出しから戻ると、家の前に誰かが座り込んでいるのが見えた。膝を抱え込み、その膝の上に頭を置いているせいで、顔までは分からない。けれど体格や服装から見て、それが女性であることは分かった。それも年若い女性だ。
(若くして路頭に迷ってしまったのか?……いや、それにしては身なりがいい)
ローレンスが思ったとおり、女を浮浪者だと考えるには彼女の身なりはそれほど悪いものではなかった。上着こそよく見れば生地のあちこちが傷んでるようだったが、元はそれなりにいい生地だったようだし、丁寧に扱われているのが一目で分かる。ではどうしてそんな女が自分の家の前に?と考えようとして、やめた。経験上、このような状況に関わるとロクなことにならないと、ローレンスは分かっていたのだ。
「……まさかこの状況で一声もかけずに家に入ろうとするなんて驚きました」
ローレンスがドアノブに手をかけた瞬間、女は顔をあげた。良心を疑うような目で、じーっとローレンスを見上げている。
「声をかけてほしかったのか?それなら言うが、人の家の前を占拠するのはやめてくれ」
「ひ、人の心がない」
「言いたいことは言った。明日の朝になってもいたら治安部隊を呼ぶ。じゃあな」
「待って!待ってください!お腹が空いて倒れそうなんです。スープ一杯だけでも……!」
女がそこまで言っても、ローレンスは嫌な顔を隠そうともしなかった。けれど彼だって所詮は人の子だ。最後には深くため息を吐いて、
「一晩だけだ」
と言った。女はぱっと花が咲いたように顔を明るくして、意気揚々と彼の後を追い、家の中へと入って行った。
◯
家に入ると女は目を丸くした。
それもそのはずで、家の中の様子といえば、まるで泥棒にでも入られた後のようだった。テーブルの上には本が数冊置いあるかと思えば、朝食の時に使ったであろう食器がまだ残っていたり、かと思えば椅子の背もたれにはいつ洗ったかも分からない上着がかけられている。足元には何枚もの紙が重なるようにして散らばっていて、どこを踏めばいいのかも分からない。女がそのうちの一枚を拾って見てみると、そこには本人にしか分からないような簡単なスケッチと、メモが書かれていた。
「これは?」
「僕は絵描きなんだ。主に風景画を描いているが、依頼があれば本の挿絵をしたりもしている。それは今回の依頼のアイディアのメモだ」
なるほど、と女は思った。ローレンスはあちこちに視線を飛ばす女を対して気にする様子もなく、「気が済んだら適当に座っておいてくれ」と一言言い残し、一度奥へと引っ込んだ。しばらくすると空腹を刺激するような匂いが女の鼻先をくすぐって、思い出しように鳴るお腹をさすりながら女は席についた。
それからほどなくして、ローレンスはトレーを手にリビングへと戻ってきた。それからテーブルの上の本やらメモを適当に隅に寄せて、手際よく食事を並べていく。とはいえ並べられたのは二人分のスープとパンのみだったが、それでも女の食欲をそそるには十分だった。
「適当に野菜を煮込んでスープにしたものだ。味の保証はしない」
「十分です。では遠慮なく、いただきます」
女はそう言ってからスプーンを手に取って、スープを掬った。一口大よりも大きなじゃがいもに、フーフーと息を吹きかけて口の中に入れる。ほくほくとした熱さに慣れてくると、女はあることに気づいて顔を少し顰めた。不味いわけではない。けれどとにかく味付けが濃いのだ。こんなに濃くてこの人は大丈夫なんだろうかと女がローレンスの顔を覗き込むが、彼は表情を変えることなく、ぱくぱくと野菜を口の中に放り込んでいく。女は唖然としたが、善意で出された手前、文句を言うことはできなかった。
「ところで、君……」
「あ、申し遅れました。オリビアといいます」
「そうか。僕はローレンスだ。……それでオリビア。君はどうして僕の家の前にいたんだ?」
そう尋ねられて女──オリビアは、食べる手を一度やめて「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりの表情で答えた。
「実は私、旅をしていまして、いつもなら街へ来てすぐに宿を探すのですが、今回はどこへ行っても埋まっていて宿がとれなかったんです」
大げさにシクシクと泣き真似をするオリビアに、ローレンスは同情するでもなく、「それはそうだ」と淡々とした口調で言った。
「今、この街は祭りの時期だ。特に今日は祭りの期間でも一番特別な日にあたる。人が多くて当然だ」
「あぁ。確かに街全体が明るい感じでしたね。ローレンスさんはこんな日に街に出なくていいんですか?」
「構わない。祭りといっても恋人や夫婦を祝う祭りだ。僕には関係ない」
「なるほど……」
確かに彼はそういった行事には関心がないように思えた。二人は会ってまだ間もないが、ローレンスはこの小一時間、にこりと微笑むことすらなかった。ずっと仏頂面で愛想がなく、不機嫌なのかと思いきやどうやらこれが彼のデフォルトらしい。せっかく綺麗な顔をしているのに勿体無い、とオリビアはひっそりと思っていた。
「‥‥ところでですね、お兄さん」
「何故だか嫌な予感がするが、僕に何かを頼む気なら無駄だ。僕は面倒ごとが大嫌いなんだ」
心を読まれたのかと思うほどあっさりと即答されてしまったのでオリビアは一度挫けそうになったが、残念ながらローレンスに負けず劣らず、彼女の神経もなかなかに図太かった。
「節約のために、街に滞在している間は住み込みで雇ってもらえるところを探しているんですが…‥お兄さん、この家には家政婦が必要だと思いませんか?」
「思わない」
「そこをなんとか!人助けだと思って……!」
「僕が進んで人助けするような善人に見えるか?」
当然、見えるわけがない。
自慢ではないが、彼の愛想の悪さは街でも評判なほどだし、生まれてこの方、優しいと言われたことなど……全くないとは言わないが、それでもこの五百年、彼に優しさを求める人間なんて片手で足りるほどだった。
それなのに、
「はい。あなたは優しい人だと思います」
と、オリビアは言った。そこには嫌味のかけらもなく、本当に心からそう思っているようだった。
あまりの屈託のなさに不意をくらってしまったローレンスが言葉に詰まると、オリビアはさっきまでの微笑みが嘘のように、ここぞとばかりに彼を畳み掛けた。
「もし必要ないと判断したら、その時は放り出しても構いません。まずはお試しということで。ね?…‥さぁ、そうと決まれば早くご飯を食べてしまいましょう。冷めてしまっては台無しですよ」
早口で言い切ったオリビアに、ローレンスは何か言いかけようとしたが、結局、彼女の言う通りに食事を再開することにした。
(この女には何を言っても無駄な気がする)
心の中でため息を吐いて、彼は少し冷めてしまったスープを口に運んだ。