二人目の男
――四年前。
『さくら』が東京に出て、それほど経っていない頃。その事故は起こった――。
その事故は、単なるシュウヤの自爆による交通事故で終わるはずだった。
下馬の桜に行こうと、駅へ向かっていた『さくら』が、偶然近くを通りかかったのである。
事故現場となる場所からは、数メートルの距離。シュウヤの車と直接は接触しない距離である。
シュウヤはそこで、飛び出して来た子猫とそれを追いかてきた少女を避けるため、ハンドル操作を誤り電柱に激突。車を大破させた――。
幸い子猫も少女も無傷であった。
車のフロントガラスは飛び散り、ボンネットが膨れ上がっただけで、誰を巻き込みことも無く、人身事故にはならないはずだった――。
だが、ちょうどそこを通る『さくら』を襲ったものは、鋭利な刃物と化した、ガラスの破片。手のひらサイズの刃物が首筋を襲い、小さく砕かれた破片が露になった肌という肌を襲った。シュウヤはエアーバックのお陰で、鞭打ちと肋骨のヒビで事なきを得た。
だが――。
それよりも重症だったのは『さくら』である。
両目から血の涙を零し、顔には蕁麻疹のように赤い血が滲む。
首筋が深く裂かれたまま横たわる少女の姿に、シュウヤは驚愕した。
すぐさま病院へ搬送され、処置されたが『さくら』の意識は戻らなかった。
『さくら』が意識を戻すのは奇跡に近いと医者に言われた。
シュウヤが、やっと自分の人生に軌道が見え始めた、二十七歳の時の事であった――。
現実的な部分で言えば、『さくら』の医療費もままならない生活である。
(一人の人生を狂わせてしまった……)
頭を抱え込むシュウヤの姿に、後の栄光を感じ取れる者が何人居ただろうか。
それほどシュウヤには生気がなかった。
シュウヤは人生を諦めようとした。
本来なら、夢を捨て、希望を遠ざけ、この少女の手足となるのが取るべき生き方なのかもしれない。
だが、夢をここで終わらせたくない――。
誰かの心に音楽という力で安らぎの風を送り続けたい――。その想いが諦めきれないのである。
病院へ通い続けるシュウヤには洗礼が待っていた。『さくら』の父親からの暴力と、蔑む言葉の連続。
シュウヤは来る日も、来る日も、それに耐え続けていた。
服を着ていて見えないが、シュウヤの腹部は常に青く腫れ上がっている。
自分に非があるのだと警察にも届けようとしなかった。
そんなある日、その父親がついに本性を現した。
三億円という金額で娘を買えというのだ。
正確には、慰謝料として三億を払い『さくら』と籍を入れ、生涯面倒を見ていけと言うのである。
意思を持たぬ植物のように変わり果てた娘を、その父親は売り物にした。シュウヤにはそう思えた。
シュウヤには、それが許せなかった。
自分の亡き両親の生き様をそこに見て『さくら』が哀れすぎて仕方がなかった。
だが『さくら』をそうしてしまったのは自分である……。
果てしないほどに繰り返される後悔――。
シュウヤは、続けられた後悔の果てに自分に何ができるのかを模索し始めた。
これでは、彼女は何の為に生まれてきたのか……。
そう思うと、三億を払ってでも彼女に暖かい家族というものを教えてあげたくもなった。
(三億……)
しかし、何処を探してみても、そんな大金は無い。シュウヤの目元には何時しか隈ができ、その眼には光が宿っていなかった。
蒼白となった顔が精神に異常をきたす一歩手前であることを物語っている。
ちょうど一ヶ月が過ぎた頃。
吉報が届いた。
『さくら』の意識が戻ったのである。
その報を受けてシュウヤは大いに喜んでいた。
だが、数時間のうちに、それも絶望へと変えられた。
『さくら』の眼は、二度と陽を見ることができなくなっていたのである。
さらに、どんな声の女の子であったかも知ることが出来ない。
シュウヤの落胆ぶりはひどかった。あのときの猫を恨んだことも数知れない。
(なんでこんなにも、自分に災難が続くのか……)
絶望とはこういう事を言うのだろう……。それが正直な気持ちだった。
シュウヤは、結局『さくら』を買うことにした。
弁護士を通して、金額は一億で落ち着かせ支払いは分割という形に話しを持ち込んだ。
弁護士が入ったからであろうか。
『さくら』の意識が戻ったからであろうか。
それとも余計な世話をしなくて済むからなのか――。『さくら』の父親はそれを快諾した。
シュウヤが『さくら』を買ったのは、あの父親から離したかったからである。
結婚目的でも、愛していたからでも無い。
だからこそ、同居人という形で籍も入れなかった。もし籍を入れるような事がある時は、それは、本人が望んだ時だ。
それがシュウヤの信念でもあった。
『さくら』には、いい迷惑であることも理解している。だが、それを知った上で『さくら』自身が幸せだと言い切れる人生を送らせてあげたいと、シュウヤは礎となる覚悟を決めたのである。
シュウヤの背負った十字架は、計り知れなく重かった。
父親との確執――。
日々泣き暮れる『さくら』。
一億という足枷。
どれを取っても、幸せなど感じ得ない。
(何故あんな事になってしまったのか…………)
眼の見えぬ『さくら』に笑顔を送りながらも、毎晩のように人知れず枕を濡らす。昼は建築現場で働き、夜には『さくら』の従事。音楽を諦めきれないシュウヤは『さくら』が寝静まる頃から、少しずつの努力を重ねた。
後に、デルタチェリーを冠するようになるバンドメンバー達とは、まだこの時出遭っていない。
シュウヤにとって、人生で最も孤独な時期であった。
シュウヤが『さくら』と打ち解けあう為、ひたすらに語りかけてきた日々。
紙片にペンを走らせて返事が返ってくる日もあれば、コクリとも動かずに泣き浸っている日もある。
一年が経つ頃には、その場に膝を付いて潰れてしまいそうな自分がいた。
そんなある日『さくら』は、自らペンを紙片に走らせた。
「シュウヤさん。私の事は構わずに、想うがままの音楽で幸せになって下さい」
不揃いな文字のラインで、読み難くはあったが、一年も続けてきたシュウヤには、それが読み取れる。
そんな体にしてしまった自分に向けられる励ましの言葉――。
どんな出来事よりも心が包まれるような温かさと、ひたすら後悔をしはじめる自分に、涙が溢れ出してくる。
「シュウヤさん。一つお願いがあります。」
『さくら』はそうペンを走らせると、その開くことの無い眼から涙を零れさせている。
「なんでも言ってくれて良いんだよ」
すると再びペンが走る――。
「静岡にある、下馬の桜へ連れて行ってくださいませんか?」
「その桜に思い出があるのかい?」
その言葉に『さくら』の涙はまた溢れ出した。
すると『さくら』は、シュウヤの手を取り、その掌に指で文字を書き始めた。
「私には待ってくれている人が居るんです。こんな姿を見せたくないと、今まで心の内にしまっていました…………」
シュウヤには初耳だった。
ただ、そんな思いでこの一年を耐えていたのかと思うと、抱きしめたくなるほどの悲しさが込み上げてくる――。
「名は何という方ですか?」
「藤原朝日君といいます」
シュウヤに一筋の光が見えはじめた。
『さくら』自身に求めている希望がある――。
それは、暗黒の闇にあって、儚く飲み込まれてしまいそうな、心許ない光なのかも知れない。
だが、シュウヤはその一瞬で自分の成すべき事を見つけ出せた気がした。
静岡の富士宮にある『狩宿の下馬桜』。
初めてそれを眼にしたシュウヤは、その威風に圧倒された。
周りには、十数人の人達がいる。
下馬の桜を取り囲む人達に一通り声を掛けてみるが、『さくら』のいう朝日君らしい人物は見当たらない。
シュウヤは困り果てていた。
すると、近くの建物の前で、老人が水撒きしているのが目に入った。
その建物を見ながらしばらく考えていると、名案が浮かんだ。
「『さくら』ちゃん。朝日君へ手紙を残そう」
そう言うと、『さくら』の肩を抱き、建物の方へと歩き出した。
朝日君なる人物に手紙を書き残しておきたい。そうお願いをすると老人は快く承諾してくれた。
老人に用意された紙の前で、シュウヤの右手にはペンが握られている。
テーブルの下で、『さくら』と握られていた左手が、そっと離された。
「書こうか?」
シュウヤがそう言うと、シュウヤの左の掌に指文字が書かれていく。それに合わせて、シュウヤの右手がペンを走らせた。
「朝日君。元気にしてますか?私は元気じゃありません。朝日君と会えるんじゃないかって、今日、下馬桜に来ました。朝日君ごめんなさい。私、朝日君に謝らなければいけない事があります……」
掌で感じた文字。
シュウヤの眼に涙が溢れ出した。止める事などできないほどに。
シュウヤの大粒の涙が紙面に零れ落ちてゆく。
「今は言えません。というか話す勇気がないの。来年の春また来ます。その時には、話せる勇気がありますように……」
(これが『さくら』の願うこと――)
シュウヤは今まで、これほどの胸の痛みを感じたことがない。『さくら』に悟られまいと、俯いて肩を震わし声を押し殺すシュウヤ。止まることを忘れてしまった涙が、心を洗い流すかのように、シュウヤの膝元に降り注ぐ。
シュウヤの決心は、さらに固いものとなった。
(必ず朝日君に逢わせてみせる……)
その日から『さくら』に笑顔が増えていった。
未だ、開かぬ眼ではあったが、その笑顔はこの上なく美しく、温かいものであった。
この頃から、シュウヤも笑う事を思い出せた気がしていた。
朝日君の話をするたびに笑顔を作る『さくら』。
その『さくら』を見ているのが、幸せだと思えた。
ひとしきり、朝日君の話で笑顔になった後、必ず『さくら』は涙の色に染まる。そんな『さくら』を見ているのが、シュウヤには辛かった。
それからというもの、シュウヤは、一億という金を揃えるため、音楽活動にも力が入っていった。
時折曲を作っては、それを『さくら』に聴かせる。
『さくら』は、喜んでそれを聴いてくれた。
ある日。
『さくら』に進められて、とあるコンテストに応募する事になった。それは眼の見えない『さくら』が、ラジオ番組で聴きつけたものを紙に書き残してくれたものだった。
シンガーソングライター募集の文字。
『さくら』の後押しもあって参加する決意が湧いた。
『さくら』は本当に優しかった――。
シュウヤは、そんな『さくら』をいつしか愛し始めていた。
それは、人としてなのか、女性としてなのか、自分にも良く解らない感情であった。
コンテストを受けて一ヶ月が経つ頃。
その知らせが届いた。
結果は、見事合格。
その詳細にはこう書かれていた。
「最終選考を見事通過し、最優秀賞に選ばれた事をお喜び申し上げます。付きましては、デビューにあたりバンドを結成したいと当社では考えておりますので、ご検討方、ご連絡下さいますようよろしくお願い申し上げます。 株式会社 アルファ・スタンド・ミュージック」




