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流転の桜  作者: ありおん〆
名もなき者
5/12

人が付けた名


物の怪との遭遇は、狩宿に帰ったならば、酒の席の良い肴になる――。そう思うと、ふと従者達の楽しそうな顔が眼に浮かんだ。

先ほどまでの霧が、嘘のように晴れている。頼朝は再び馬に跨ると、帰路を求めて駆け出した。




頼朝が狩宿に着いたのは、星の綺麗な深夜である。夜も更けているというのに、狩宿は騒がしかった。


(皆の者に心配を掛けてしまった……)


それが頼朝の素直な気持ちだったのだろう。

天幕に向かう途中、あちらこちらから自分の名を呼ぶ声が聞こえる。


「頼朝様!」


「将軍様!」


「頼朝様が生きておられたぞ!!」


すると、一人の従者が頼朝の前へ駆けつけた。


「頼朝様!ご報告申し上げます!!工藤祐経くどうすけつね様が何者かに暗殺されました――」


この騒がしさは、自分の行方を案じていたものによるだけでは無かった――。

それを知ると、頼朝は、瞬時に背筋を凍らせた。

頼朝は、直ちに謀反人の捜索を部下に命じ、自らは馬を取って返し、ふたたび深夜の森へと駆け出した――。

頼朝の胸を締め付けたものは、自分を安じてくれた人に対する無礼な振る舞いによる後悔である。

馬の背に揺られながら、言うべき言葉を探していた。


あの物の怪と出会った森――。

記憶を頼りに、探してはみるものの、どうしても辿り着く事は出来なかった。


いま目の前に広がるこの森も、あの女と出会った森では無い――。それは十分解かっている。

ただ、もう一度会って礼を言わねばならないという衝動だけは、どうする事も出来なかった。


あの女は人間ではなかった――。

だからこそ、この森でも出会えるのではなかろうかと、微かな期待を寄せてしまう自分があった。


頼朝は、漆黒の森へ向けて叫んだ。


「名を持たぬ者よ!!我が声を聞き入れ給え!!」


辺りは静まり返っている。聞こえてくるのは、森のせせらぎと、音虫ネムシの合唱。


(やはりもう会えぬのか……)


そう思いつつも、自らの喉は吼え続けていた。


「名の無き者よ!我が赤心セキシンまれよ!!」


それを何度繰り返した時の事だろう――。

夜空に一筋の光が走った。

その光は瞬く間に消えて無くなってしまったが、視界に入った森の奥の一点が光を放っている。その光は近づいてきた。


「私を呼ぶのは、頼朝殿でございますか……」


その言葉だけで、頼朝は気持ちが晴れていく気がしていた。


「わしは、謝らねばならぬ……」


名の無き者の閉じられていた眼は、ゆっくりと開きはじめた。

改めてその眼に見詰められてみると、心をざわつかせる何かがある。

敵意の無い素直な眼は、時に感じさせるものさえ換えるものである。まさしく、頼朝の今に相応しかった。


ずっと黙っている彼女は、表情を和らげている。


微笑んでいるのだ――。


頼朝は我が眼をうたがった――。あれだけの事をして、微笑まれることなど想像もしていなかったからである。


「ご無事で何よりです……」


「無事とは??わしの事か?」


それに応えることも無く、名も無き女性は微笑みを絶やさずにいる。

それからというもの、どちらからともなく語らいが始まった。


彼女は、この富士の一帯に、花を咲かせる事が使命であるということを語ってくれた。

頼朝の存在は、ずっと前から知っているという事だった。そして、人間では無いと、自らがそれを口にしたのである。それらが、彼女との語らいで解かった事だ。

一通りの会話が済むと、頼朝はさらに問いかけた。


「富士の一帯に花を咲かせ続ける『人では無い者の存在』を、私は知っている。古い書物に出てくる『木花之開耶姫(コノハナノサクヤビメ)』という女神の名だ。

そなたは女神では無かろうか……?」


「それは人が付けた名です。私は女神でもなければ、人でもございませぬ……」


「そうであったか。しかし名が無いというのは不憫であるな……」


野風にそよがれながら、無言のまま流れる(トキ)が心地良くもあった。しばらくすると名も無き者は語り掛けた。


「もし宜しければ、私に名を付けてくださいませぬか……」


頬を微かに紅く染め、俯きながら問い掛けてくるその姿は、絵画の如き美麗さを放っていた。

頼朝の脳裏には、ふと、その美麗さに似た物が思い出された。

狩宿にある大きな桜の樹。

そこに咲き誇る花達である。


「そうだ。そなたを、今日より『サクラ』と呼ぶ事としよう」


その言葉で、サクラの頬は薄桃色に染まってゆく。

その姿は愛しさを増して、頼朝の心を満たしていった。

征夷大将軍であるほどの自分が、一夜にして恋に落ちるなど想像もしたことが無い。

頼朝はそこに、運命さえ感じていた。



「サクラ……良い名をありがとうございまする……」


そう言うサクラの眼は、涙で潤んでいる。

頼朝はサクラに一瞬険しい眉間を送ると、諭すように語りだした。


「人で無くても良い――。サクラよ……。わしと契りを交わしてはくれまいか……」


素直に出た頼朝の言葉である。


すると突然、サクラは大粒の涙を零し、泣き崩れてしまった。

その光景に、頼朝は、ただ狼狽えるしかなかった。


「これは済まぬ……余計な事を口にした…………」


「そうではありません……嬉しいのでございます…………。さながら、とても悲しいのです……」



嬉しいからこその悲しさ――。 頼朝にはそのような経験が無い。

サクラが言わんとするところのものを、頼朝は理解できずにいた。


「今は、契りを交すこと叶いません……。頼朝殿。私を待っていて下さいますか……?」


「わしは、根競べには自信がある。何度朝日を見ようとも、そなたを待っていよう」


「嬉しい…………。私もサクラの名の下に、ずっとお慕い申しあげます……」


再びサクラに笑顔が戻った。

泣き崩れた後の笑顔が、こんなにも愛しいということを頼朝は知った。

二人の心の溶け合いは、抱擁という形に顕れている。



どれくらいの時を、そうしていたのだろうか――。暫くすると、頼朝は狩宿へと駒を駆って去っていった。

頼朝の背中が見えなくなる頃。


サクラの頭に、太く低い声が響いた――。


「お前は、今を捨てるというのか?」


「はい……。朽ちる身体となろうとも、構いません……」


「もはや、お前の知る男ではない――」


「解かっております。だからこそ、傍に居たいのです……」


太く響く声は、しばし黙り込んだあと再び続けた。


「あ奴は、お前の事など忘れていよう」


「忘れてなどおりませぬ――。私にサクラの名を付けて下さいました……」


「ならば好きにするがよい――。だが、お前の『業』 諸とも、全てを受け止めるとは限らぬぞ」


「それでも良いのです――。幾百年の間、この日を待ちわびたことでしょう――」


「今あるものを失ってもか?」


「はい……。この覚悟……誰人たりとも止められませぬ――」


「では、いつになるとも知れぬ時を経て、己の浅はかさを知るがよい――」


サクラの頬を、一筋の涙が零れ落ちてゆく。

その表情は、深い悲しみをたたえているようで、どこか晴れ渡っているようでもあった。


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