【文系】浦島太郎はホラーである【考察】
「いじめられていた亀を助けた浦島太郎は、お礼をしたいという亀の誘いに乗って竜宮城へ。太郎は乙姫たちの接待を受けて数日間楽しくすごしたが、そろそろ戻らないと家族が心配するだろうと陸へ戻ることにする。乙姫は太郎に玉手箱を渡し、開けてはならぬと言った。陸へ戻った浦島太郎だが、陸では数十年がすぎており、知り合いはみんな死んでいた。傷心の太郎が玉手箱を開けると、中から白い煙が出てきて、太郎は老人になってしまった」
誰もがよく知るこの「浦島太郎」の物語、数ある童話の中でもちょっと異彩を放っていると思うのは、私だけだろうか?
童話というのは、分かりやすいストーリーの中に何らかのメッセージが込められ、物語を聞く子供たちに教訓を与えるものだ。
たとえば「桃太郎」なら――
桃から生まれた桃太郎。お爺さんとお婆さんに育てられ、悪さをする鬼を退治しに出掛ける。結果、桃太郎の鬼退治は成功する。ここから、勧善懲悪の分かりやすいメッセージが読み取れる。
ちなみに、桃太郎を拾って育てたのが「お爺さんとお婆さん」で「健康な若い男女」でないのは、鬼に苦しめられるのが「弱者」でなければならないからだ。強きをくじき弱きを助ける、という構図にするために、桃太郎の保護者は「弱者」でなければならない。もしも桃太郎を拾ったのが「健康な若者」だったら、桃太郎を育てるより自分を鍛えて鬼退治にいけよ、という事になってしまう。鍛えることができない老人が保護者になるから、「桃太郎」は成立するのだ。
桃太郎は途中で猿、犬、キジを仲間に加える。きび団子を欲しがったので与えると、恩を感じて仲間になるという展開だ。ここから、情けは人のためならず、恩を受けたら返すべし、という教訓が読み取れる。
たとえば「かぐや姫」なら――
竹の中から現れたかぐや姫は、お爺さんとお婆さんによって愛情たっぷりに育てられた。しかし月に帰らねばならない日が来て、かぐや姫は泣く泣く月に帰るのだった。ここから、家族とはたとえ血のつながりがなくとも愛情によって結ばれるのだという教訓が読み取れる。
また、最後は月に帰ってしまうことから、身分の格差には逆らえないという教訓も読み取れる。これは当時の身分制度や、法律、習慣なども影響しているだろう。身分が低ければ、貴人には殺されても泣き寝入りするしかない時代である。ここでも、かぐや姫の保護者が「お爺さんとお婆さん」になっているのは「弱者」として描くため、つまり「身分の低い者」を意味している。
では、「浦島太郎」はどうだろうか?
太郎は亀を助けた。――勧善懲悪の要素はある。
亀はお礼をするために、太郎を竜宮城へ招待した。――情けは人のためならず、恩を受けたら返すべし、という要素はある。
太郎は歓待を受けて楽しく過ごすが、家族の事を思い出して帰ろうと決意する。――家族愛の要素はある。
太郎が陸に戻ると、長い年月がすぎており、家族も知り合いもみんな死んでいた。――……これは何の教訓だろうか? 太郎はお礼をされていたはずだ。なのに、どうしてこんな仕打ちを受けねばならないのだろうか?
調子に乗って貰いすぎてはならぬという戒めだろうか? しかし太郎のための歓待なのだ。パーティーの主役が乾杯だけしてすぐ帰るような事では、主催者に失礼になってしまう。
乙姫から玉手箱を渡され、開けてはならぬと言われていたが、開けてしまって老人になる。――……これも何だ? プレゼントを貰って「開けないで」と言われたなら、「恥ずかしいからここでは開けないで」「帰ってから開けて」という意味になるのが普通だろう。誰が「受け取っても生涯開けてはならない」などと解釈するだろうか。
それでも頑張って、なるべく素直にストーリーから教訓を得ようとすれば、「不幸な他人を見ても関わるな」とか「甘い誘いには乗るな」と読み取るのが限界だ。
だが、そんな事では「桃太郎」は成立しなくなってしまう。桃太郎は育ててもらった恩を忘れて、鬼退治なんて危険を冒さず平和に暮らすべきだった、という事になってしまうではないか。本来の物語では鬼退治に成功しているのだから、やれる能力があってもやらない事を推奨するというのは、道徳的規範から外れる。義をみてせざるは勇なきなり、というやつだ。
読者諸兄の中にも、「浦島太郎」だけは「せっかく親切に亀を助けたのにバカを見た話」と思っている人が少なくないだろう。
普通に考えて、とても納得できる話ではない。納得できないゆえに、この童話から教訓を受け取れない。
このミスマッチ感――読者諸兄、我々はこの感覚を知っているはずだ。そう、刑事ドラマなどで主人公がミスリードに気づく場面だ。ゆえに、ここでも同じセリフを引っ張ってこなくてはならない。
「我々は、何か大きな勘違いをしているのではないだろうか?」
実際のところ、「浦島太郎」に込められた教訓は何だったのか?
他の童話を参考にしてみよう。「かぐや姫」が「身分の格差に逆らうな」という教訓を伝えるものであるなら、「浦島太郎」もそうである可能性はないか?
太郎は竜宮城に数日間も滞在した。だが、竜宮城は海の底にあり、人間は本来そんなに長く水中で過ごせない生き物だ。つまり「どんなに魅力的でも侵入してはならない領域がある」という教訓が読み取れる。「身の程をわきまえろ」という教訓でもあろう。
いったん大きく視点を引いて、根本的な話をしよう。
我々は、「浦島太郎」を他の童話と同じように考えていた。つまり、ヒューマンドラマやローファンタジーだと思っていた。前半は「桃太郎」のように勇敢で優しい主人公による勧善懲悪的な話だと思い、後半は「かぐや姫」のようにちょっぴり悲しい物語だと思っていた。我々は「浦島太郎」を、それらと同列に考えていた。
だが、それは間違いなのだ。
ここで「浦島太郎」を、太郎の家族や知り合いの視点から見てみよう。
ある日いつものように漁に出掛けた太郎は、いじめられていた亀を助けたという目撃情報を最後に、ぷっつりと行方をくらましてしまった。失踪事件である。
亀につれられて、太郎は、人間には到達できない海の底に連れ去られ、陸の時間で数十年も、それと気づかぬまま拉致監禁されていた。これを世の中では「神隠し」という。
日本各地に、神隠しに遭いかけて生還した話がある。
その多くの場合は、次のような条件を満たしている。
第1に、侵してはならない領域がある。入ってはいけない場所、関わってはいけない相手などだ。
第2に、神隠しに遭いかけた人は、その領域を侵す。だから神隠しに遭いそうになる。
第3に、その領域を侵すときは、そこに強く興味を引かれている。場合によっては同行者が止めようとするのを振り切って進んでしまう。
そして第4に、神隠しに遭ってしまった人は、二度と戻ってこないか、もしくはごく稀にあり得ない状態で戻ってくる。
すべての条件は、「浦島太郎」に合致する。
そう、これはヒューマンドラマやローファンタジーではない。
怪談――「浦島太郎」はホラーである。