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雨乞い人魚姫

作者: シルティ

最初にあらすじを読んでから本編へとお進み下さい。

============================

 小学五年、十歳の夏休み。


 その日の朝の天気予報では晴れの予報だったのに。

 今は、雨が降っていた。


(本当だった。本当にいたんだ。あの噂は本当だったんだ)


 雨の日は海に近づくなと言う大人達の言いつけを破って、少年は、この街唯一の病院が傍に建つ海岸沿いの砂浜にいた。海面を叩く雨の音が頭の中で騒ぎ立てる中で、心臓の音だけがうるさかった。


人魚は(・・・)本当にいたんだ(・・・・・・・)


 岩の上に座る一人の人魚。透明感溢れるアクアブルーが美しい、ゆるりとウェーブのかかったボブヘア。星の雫を垂らしたようにキラキラとまぶゆい瞳と、長いまつ毛。ホタテのビキニ。白磁のような清らかな肌。そして大きな鱗と、大きな尾ヒレが目立つ薄桃色の下半身。


 どんよりと青空に蓋をする雨雲の下、少年の目には彼女が何よりも輝いて見えた。照らす光がなくとも、彼女は光を置いて美しかった。


 人魚が手招きする。少年はそれに驚いて、思わず一歩後ずさる。それを見て、人魚は悲しそうに目を伏せる。


(ああ、ダメだ。ダメだ、そんな顔をしちゃ)


 少年は右足を勇ましく前に繰り出した。同じように左足も繰り出して、徐々に体が海の中へと潜っていく。


 それ以上進めば顔まで浸かる所まで進む。人魚を見れば、変わらず手招きしている。


 少年は迷わず泳ぎ出す。しかし悪天候によってしけた海は、人魚の元へ辿り着くのを容易にはしなかった。


 海水を飲みながら進む少年は、泳ぎの合間に人魚を見る。しかし、岩の上にいたはずの人魚の姿は、何処かへと消えてしまっていた。


 言いようのない悲しみが少年の心を刺し貫いた。すると途端に何もかも嫌になって、少年は泳ぐのを辞めた。


 沈みこんでいく体は瞳を閉ざす。冷たい海に嬲られて、徐々に体が冷たくなっていく。


 呼吸のできない苦しさを感じ始めた時、全身を柔らかく包み込む感覚に気づく。すると悲しみに支配された少年の心から涙は消え、根拠の無い安心感に、微睡みに似た安らぎを得る。


 少し体を包む感覚が強まると、その直後にとてつもない速度で潜っていくのがわかった。


 どこに連れて行かれるのか。どうして何も言わず潜るのか。怖かった。募る不安は少年の体を強ばらせ、ギュッと閉じこもるように、より完全に包むこまれるように、体を包む何かに身を寄せる。


 やがて潜水が終わると、ようやく少年は瞳を開いた。自身の頭二つ分高い場所には、浜辺で目を奪われた美しい顔が、真っ赤になってこちらを覗き込んでいた。


 また心臓がうるさくなった。体が熱くてたまらなかった。その熱がどこから来たのか、誰のものかは分からなかった。ただ、ずっとそのままが良かった。


 少年と人魚は抱き合ったまま、建物の中に入っていく。

 海中にどうして建物があるのか、そんな事は少年にとって疑問の対象にはなり得ないものだった。


 建物はドーム型で、扉を開けてすぐ踏み入れる一つの部屋のみの構造。部屋の中にはいくつかの窓と、天井の中央に強く光り輝く石の入ったランプが吊るされている。室内の壁は石の光を反射しているのか、海の底だというのに部屋中が明るかった。


 部屋の中央まで進み腰をおろすと、人魚は少年から体を離す。離さないでくれと言うように、少年は堪らず人魚に強く抱きつくと、やんわりと体を押し離されて、体に密着していた熱が遠ざかっていく。


 寂しさが少年の心に満ちるが、離れて見えた人魚の表情も、同じように寂しそうだったのを見て、嬉しくなる。


 入口から入って正面には本棚があった。海中に本があることを不思議に思って、しかしそれ以上の詮索は出来なかった。


 その本棚から、人魚がとある一冊の本を持ってくる。


 その表紙を見てみると、それは、ほとんど触れる機会のなかったもので、少年自身には馴染みのないもの。けれど、それが何なのかは知っているもの。


「少女……漫画?」


 洩れ出た声は、地上で発音した時と何ら変わりなく耳に届いた。


 人魚の持ってきた少女漫画を開いて目を通してみると、所々が破けたり、シミになっていたり。随分と読み古された物だと分かる。


「あ……うぁ……あ、あ」


「な、何?どうしたの?」


 突然声を出し始めた人魚に驚いたものの、何を言っているのかが分からず困惑がすぐに上回った。


「あうぁああ、あぃああ……」


「だから、どうしたの?ちゃんと言わなきゃ分からないよ」


 少年がそう言っても、人魚が変わらず母音で話そうとするのを見て、はたととある可能性に少年は思い至る。


「もしかして、喋れないの?」


 そう質問されると、人魚はバツが悪そうに控えめに頷いた。


 人魚は喋れない。しかし、少年の質問を理解出来ていることから、会話が出来る可能性があると少年は考えた。


 どうにか出来ないかと考えた時、ふと、手元にある少女漫画を見て閃いた。


「ねえ、文字は読める?」


 こくりと人魚は頷く。


「じゃあ、この本の中の文字を一つずつ指さして、僕に伝えてみてよ」


 そう言って少年が少女漫画を手渡すと、それをおずおずと受け取った人魚は、少年に見せる形でページを捲りながら、一つずつ文字を指さしていった。


『まず は ごめんね。急に 連れてきて。 わたし は 君に お願いが あるの 』


 少年は人魚の顔を見た。不安そうだった。これから伝えることにどんな反応をされるのかに対してのものだろうか。


『わたし は 恋 が したいの』


『"甘い恋" が したいの』


 再び人魚の顔を見た。今度は、目が合った。人魚の目はうるうると揺れて、それを見てしまった少年は、とても平静を保っていられなかった。


『だから 君に は ここで くらして欲しい』


『ごはん は 持ってくる。欲しいもの も 頑張って 持ってくる』


『だから 私に 恋 を させて』


「……」


 少年は一瞬だけ嬉しくなって、その後すぐ、その嬉しさは消えてしまう。


「ねえ、君はまだ、恋はしていないの?」


 人魚は恥ずかしそうに頷く。それを見て少年は、何故か自身を傷つけられた気になった。


 少年は、理由の分からない悔しさを抱いていた。


「ねえ、僕を家に返してよ」


「……っ!あ、あぅえ!」


 少年の言葉を聞いた人魚の顔は、驚いているような、悲しんでいるような、困惑しているような、怒っているような……そんな、色んな感情が綯い交ぜになっているようだった。


 それを見て、少年は無性に自身を傷付けたくなる。胸が苦しくなって、思うように声が出ない。


「あ、あの、違くて……うん。違うんだよ、そう言いたかったんじゃないんだ」


「……ぅぁ」


 今度は別の理由で自身を痛めつけてしまいたくなる。すると今度こそ、少年は何も言えなくなって、入ってきた扉から外に出ようとした。


「あぅあい!!」


 少年がドアノブを回したところで、襟首を後ろから捕まれ引っ張られると、必然的に扉が内側に開いていく。


 扉から引き離された少年は、ゆっくりと開かれる扉の外に広がる暗闇を見る。


 そこでは、無数の怪物達が扉のすぐ側で待ち構えていた。


「う、うわーー」


 叫ぼうとした少年を、人魚は胸の内に抱きしめた。


 慌て、怯えふためいた少年の心は、人魚に密着した事で途端に落ち着きを取り戻す。外には無数の怪物がいるというのに、近くに人魚がいるというだけで安心してしまう自身の心を、少年は浅ましく思った。


 しばらくそうしていると、ゆっくりと体が離れていく。見上げれば、申し訳なさそうな顔をした人魚に気づき、慌てて目をそらした。


 離れる人魚を引き止める気にもなれなかった少年に、人魚は落ちていた少女漫画を持ってきて文字を指さす。


『帰りたい?』


 その問いかけに少年は答えられなかった。しかし、ただ流れる沈黙に耐えられなくなって、ようやく「分からない」とだけ呟く。


 その間、目を合わせられずに俯いていた少年は、人魚の動きに気づけなかった。キィ、という音がして、その音のした方を見れば、扉を開けて外に出ていく人魚が見える。


「ま、待って!」


 置いていかないで。そう続けようとした言葉は、扉の閉まる音に遮られてしまう。


 少年は怖かった。気づけば、ここに来る時も怯えていた。少年は、未知に怯える一端(いっぱし)の人間だった。一人で取り残されたことも、何も言わずに出ていった人魚のことも、部屋の外にいるおびただしい数の怪物たちも、全てが恐怖の対象でしか無かった。


 再び扉の開く音がする。ビクリと体が跳ねて、恐る恐る扉へ視線を向けると、驚いた表情の人魚がいた。


 表情を戻した人魚は少女漫画を手に取り、少年に語りかける。


『手 にぎって』


 差し出された人魚の手を素直に握ると、グイッと抱き寄せられて、扉の外へと連れ出されそうになる。


「待ってよ、どこに行くの!?ねえ、教えてよ!」


 少年の言葉に人魚は立ち止まる。少女漫画に視線を落とした人魚を見て、説明してくれるのかと少年は思った。しかし、人魚は少年の手を離すと、少女漫画を本棚へと戻しに行った。


「どうして……どうして教えてくれないの?」


 戻って少年の手を取った人魚は、少年の言葉に被りを振る。


「分からないのは、怖いよ……」


 そう言った少年の本心は、紛れもなく音となって人魚の耳に届いたが、何も変わることは無かった。


「あいあぃ」


「……」


 その音からは、何を言っているのかは分からない。しかし、何を言おうとしているのかは分かった。そして、それに返すべき言葉があることも知っていたが、それを口にすることは、少年にとって取り返しのつかないことのような気がして、キュッと唇を噛み締める。


(分かんない)


 それきり。

 少年は人魚に連れられ、暗い海の中を泳いだ。今度は下に潜るのではなく、海面へと浮かび上がっているのがわかる。


 段々と明るくなっていき、海面がすぐそこにある地点まで来たところで、人魚は少年から手を離す。


 送り出されるようにして人魚から離れる少年は後ろを振り返ると、こちらを向きながら、海の底へと潜っていく人魚と向かい合う。


 少年は考えていた。あの部屋の中で、最後に人魚が伝えようとした言葉への返答を。


「またね」


 それを聞いた人魚はそわそわとしだして、最後にはにかんで見せると、少年に背を向けて潜っていった。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 少年は青年に。

 大学二年生、二十歳の夏休み。


 つい先日誕生日を迎えたばかりの青年は、日差し照りつける昼下がりに、一人で図書館にいた。


 別に普段から独りでいる訳では無い。ただ、こうして図書館で読書をする時は、誰かが隣にいることを嫌う性分だった。


 読んでいた本を返却した後、図書館を出て自転車を走らせる。


 小さな駅に自転車を止め、電車に乗り込む。青年の座った席の左手側、ちょうど対角線上に向かい合う場所で、二人組の女子高生がヒソヒソと笑いあっている。


 電車の揺れる音と、声の小ささも相まって、その会話の内容は聞き取れなかったが、どんな会話をしているのかは断片的に理解できた。


 青年は読唇術を身につけていた。


 10分ほど揺られて、今となっては通い慣れてしまった無人の駅のホームを通り、駅を出ればジリジリと太陽に焼かれるアスファルトの上を歩いて行く。


 閑散とした住宅街をはしる道路をひとつ抜ければ、広大な海が見事に水平線に弧を描き、視界に飛び込んでくる。


 ここはあの日、人魚に出会った場所(うみ)だ。


 雨の日は決まって海を見に来ていた。何度も何度も、例えあの日以来一度も会えていなかったとしても必ず。


 ただ、今日は違っていた。今日の予報は一日中晴れの予報。雨など降るはずもない程に空は晴れ渡り、一点の曇りもないその青々しさが、この街の空の主役と独り占めしていた。


 砂浜に足を踏み入れたところで、何かがポツリと頬を叩く。


 驚いて見上げると、何も無かった空に暗く影を落とした雨雲が、傘のように青年の頭上へと現れていた。


 その日の朝の天気予報では、晴れの予報だったのに。


 雨足は段々と強まり、海面を強く叩きつける音に空間は支配される。


 人魚の姿は見えない。ただ青年には、すぐそこに人魚がいるような気がしていた。


 服が濡れることも厭わず海の中へと潜っていく。


 海中は濁っていてよく見通せなかった。それでも構わず、底へ底へと目指して潜り続ける。


 息が苦しくなってくる。これ以上の潜水は危険だと頭で理解していたにも関わらず、どうしてか潜るのを辞められなかった。


 〜〜〜♪


 歌が聞こえた。それに驚いた拍子に、肺の中の空気を吐き出してしまう。そして遂にはどうしようもなく苦しんでしまって、目をつぶって両手脚をジタバタともがくと、両手をギュッと握りしめる感触と、唇に何かが触れる感覚になんとか目を開ける。


 目の前にいた人魚と、両手を握りしめられながらキスをしていた。


 さっきまでの息苦しさが嘘のように消え去り、酷く穏やかな心持ちで目の前の人魚と対面する。


 その人魚は、かつて出会ったあの日の人魚と瓜二つの顔をしていた。


「君は……あの時の人魚?」


 その問いかけにこくりと頷いた人魚を見て、青年は安堵した。


 人魚が口をパクパクと動かす。音は聞こえなかったが、青年は人魚の口の動きを見て、できる限り正確に読み取っていく。


 そして最後に、


「す……き……!」


 絞り出したような人魚の声が聞こえた時、青年の中で、どこか遠い所に置いてきたような、記憶の奥底に隠しこんでいた思い出が、嵐となって脳内を駆け巡った。


 それは人魚と初めて出会った日から、さらに数年前の思い出。


 青年の頭に浮かんだとある少女の顔が鮮烈に象を結んだ時、海の中だというのに涙が流れていた。


 胸がいっぱいになって、それからようやく声が出せるようになった青年は、万感の思いで言葉を紡ぐ。


「僕も……ずっと好きだった」


 そう言って青年は、時間の許す限り人魚の唇を塞いだ。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 海岸沿いに建てられた病院のベットの上で目覚めと同時に、開いた窓から吹き込んでくる潮風が鼻腔をくすぐる経験をするのは、今回が二回目となる。


(また、助かった)


 青年の中で、人魚の存在は現実なのか、夢なのか、その区別がついていなかった。ただ、こうして目を覚ませば、病人のようにベットの上で安静にしている自分自身が何よりも本物であったことが、青年にとって悩ましい話であった。


 詳しくは知らない。以前同じような状況になった時も、同じくどうやって助かったのかが分からなかった。海から陸に上がった記憶はなく、気づけばここにいた。


 窓際から少し離された位置に置かれたベットの上からでは、遠くの海ばかりが見えて、真下の砂浜が視界に映ることはなかった。ただそこにあるのだろうという予想ばかりで、その確証は直ちに得られるものではなかった。


 もう一度、晴れた雨の日に。


 照れ隠しも、未熟さも知るようになった青年は、遠くにそびえる入道雲の行き先に思いを馳せた。



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