実家にて
ライリーとハリエットは、城下で子どもの好きそうな菓子を多めに買い求めた。ついでにロブフォード家が出資したという茶葉専門店に顔を出していく。
これは香りが、こっちは風味が云々。ハリエットが説明してくれるが、ライリーにはさっぱり分からない。彼にとっての茶は、出されたら口に入れて飲下する、それだけのものでしかなかった。
参考になる意見をちっとも出さない夫に見切りをつけて、ハリエットは何種類かの茶葉を購入した。
ライリーはだんだん不安になってきた。
中隊長は今頃隊務に就いているはずだ。つまり、今から来るのは三十代の奥方と、十歳前後の少女がふたり。迎える我が家の構成は、ハリエットとアンナ、そしてライリーだけだ。
男は自分だけではないか。
慌ただしく買い出しを済ませて、なんとか約束の時間までに帰宅することができた。
国民がお茶の時間の合図としている鐘の音が響き終わるとすぐ、玄関の叩き金が鳴った。
緊張した様子のスミス夫人と、招待状を握りしめた上の娘、姉に手を引かれた下の娘がアンナの案内で入って来る。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
ハリエットは少し大袈裟なくらいの笑顔で歓待した。
「急にお誘いして申し訳ありません。来てくださって嬉しいです。エイミーもケイシーもありがとう」
「ハリエット様、わたし、こんな素敵な招待状もらったの初めてです。宝物にします!」
エイミーは真っ赤な顔でハリエットを見上げた。
本当に招待状で喜んでいる。ライリーはつい一歩後ろに下がってしまった。
エイミーは中隊長曰く難しい年頃で、つい最近、抱き上げたら本気の蹴りを喰らったと言っていた。
下の娘のケイシーは、ライリーも抱っこしてやったことがある。家の下見に来たときに会って、少し遊んでやったのだ。子どもの相手ならできるかと思っていたが、今日は何やら普段より澄ました顔だ。いつも小脇に抱えている人形も持っていない。
(逃げよう)
ライリーは数刻前、考え無しに提案した自分を呪った。ここにいたら、きっと隊務よりも神経を使わなければならなくなる。休暇の意味がない。
ライリーは最初からその予定だったような顔をして、ではごゆっくり、とだけ言った。ハリエットに目で謝ると、彼女はお見通しの様子で、にっこり笑って頷いてくれた。
ライリーはケイシーの頭を撫でた後、エイミーにも手を伸ばしかけて途中で止めた。よく見たら、いつもより複雑な髪型をしている。触ったら父親同様蹴っ飛ばされそうだ。
「エイミー、今日の髪型可愛いな。よく似合ってるよ」
和やかな空気を乱さないよう、細心の注意を払って出て行くのだ。ライリーは笑顔で手を振って玄関を出た。
女だらけのお茶会から逃げ出したライリーは、ティンバートン伯爵家に足を向けた。
伯爵家の王都入りは、先日手紙で知らされている。滞在先は、ロブフォード邸のような立派なものではない。ほんの一時の宿と割り切って、他の多くの貴族のように、毎年同じ住宅を借りているのだ。とはいえ、ぎりぎり上流貴族の伯爵家だ。ライリー達の新居とは較べるまでもなく立派な造りの住居である。
実家の気安さで先触れもなく訪れ、案内を待たずに玄関を抜けて広間に入る。
使用人達は、分家したばかりの主の息子に、おかえりなさいませと言うべきか、いらっしゃいませと言うべきか、一瞬悩んだ。ライリーが「ただいま」と当たり前のように声をかけるので、「おかえりなさいませ」を正解とすることにする。
広間では、ライリーの兄がひとりで寛いでいた。卓の上には茶器と本、ロバートは脚を組んで椅子に座っている。
「兄上」
「ライリー? ハリエット様はどうした」
兄に会うのは結婚式以来だ。その後の話は耳に入ってはいるだろうが、逃げ出したライリーとその妻のことは心配していただろう。
「近所の親子とお茶会。女性ばかりだから逃げてきました」
ロバートは苦笑して、座っていた卓の向かいの椅子を弟に勧めた。
「それは怖そうだな。……最近は、夫婦仲良くしてるらしいじゃないか」
「その節はご心配おかけしまして」
あまり身内に突っ込んで欲しくない話題だ。さらっと流しておく。
両親にはハリエットと和解した旨を記した手紙を送ってある。会ったらまた説教だろうが、結婚生活について、男兄弟で話をする趣味はない。
「うまくやってるなら良かった。父上の血管が切れそうだったからな」
「その父上は?」
「外出されたよ。夜まで戻らないらしい」
「ちょうど良かった。兄上に、コレ教えてもらおうと思って来たんです」
出掛けに掴んできた分厚い封筒を、ロバートに差し出す。
ホークラムからの報告書である。ティンバートンに暮らす伯爵一家の代わりに、長年管理をしている者から送られてきた。昨年までは兄が収支報告書を読み、必要な采配をしているはずだ。
正式に伯爵となるまでの仮の名乗りに子爵を使っていたのもロバートだ。成人してから、父に代わってホークラムの統治を行ってきた彼に師事するのが一番の近道だろうというのが、今回の訪問の目的だ。
「ああ。どこか分からないところがあったか」
「読んでないから分からない」
「………………そんな気はしてた」
ロバートは奥に下がっている侍女に筆記具を持ってくるよう頼むと、封筒から出した書類の束にざっと目を通した。
「細かいことは追々理解していけばいい。とりあえずは、この表。この数字が何かは分かるな?」
「…………利益。今年の、純利益」
と、数字の横に書いてある。
「正解」
「字は読めます」
「なら読んでから来いよ。今年は不作だったから、ゼロに近いのは仕方ないと思え。去年まではちゃんと収益が出てるから、とりあえずは現状維持で大丈夫だと思う。子爵邸修繕工事のお陰で、失業者も減ったようだ。ライリー結婚の経済効果だ」
子爵邸修繕費の出所は、ロブフォード侯爵家だ。ハリエットの持参金を充てた。侯爵家の令嬢に相応しい住まいを用意する必要があった。
ライリーはまだ見に行っていないが、もうすぐ完成するはずだ。次の休暇にでも、ハリエットと一緒に見に行ってみようか。
「使用人、増やしても大丈夫かな。通いでいいから、家政婦と下男を雇おうと思ってます」
「今はどうしてるんだ」
「ハリエットとアンナがふたりで頑張ってくれてます」
「それは大変だろう。人が見つかるまで、誰か手伝いに行くよう手配しよう。今夜にでも父上に話しておくよ」
「ありがとうございます」
ライリーは首を回して、長椅子まで移動した。仰向けに転がって、行儀悪く肘掛けに脚を乗せる。今の自宅ではこんな格好はできない。目を瞑ると、そのまま寝てしまいそうだった。
「疲れてるのか」
ロバートは侍女から受け取った羊皮紙に、何やらペンを走らせながら弟を見た。
「……最近、鍛錬がキツくて。毎日ボッコボコにされてます」
「大変だな」
「大変です。ハリエットには苦労をかけてるし、アンナはなんか怖いし」
ロバートが吹き出した。
「ああ、あの侍女。ハリエット様の忠実な。あれは只者じゃないな」
「勝てる気がしません。気が休まらない」
いつになく疲弊した様子で横たわる弟を見て、ロバートは少し思案顔になった。
「ハリエット様とは仲良くやってるんだろう」
「……それなりに」
「ならいいことを教えてやろう。ライリー、僕がハリエット様と噂になったことがあるのは知ってたか?」
ライリーは嫌そうな顔で兄を見た。
「なんの話ですか」
「まあ聞けよ。僕が夜会で困ったりしてたら、ハリエット様がさりげなく助け舟を出してくださるんだ。何度もあった。話しかけられることも、周りの連中より多かったな。それで勘違いする人がいたみたいなんだ」
「……それで?」
その場面は、目撃したことがあったように思う。会場警備の任に就いていて、兄と談笑するハリエットから目を背けたことがある。背けなければ、伯爵家の継嗣の座を譲ってくれと、兄に迫ってしまいそうだったのだ。
実の兄に嫉妬など、気持ち悪い。そう思っても、ライリーは不機嫌な様子を隠せなかった。
「ハリエット様が、なんて話しかけてきたか分かるか? ご兄弟はお元気? 従騎士のご兄弟を見ましたよ。ご兄弟、正式に騎士に任命されたのですね。今日は警備に就いてらっしゃるのですね」
ライリーは途中で耐えられなくなって、長椅子の上で俯せになった。顔が熱い。
「…………そんなの聞いてない」
「最初は意味が分からなかったさ。まさかなとは思っていたけど、ライリーに縁談がきたと父上に聞いて、やっと合点がいった。ハリエット様が子爵と結婚したって、相手が僕だと思ってる人もいるらしいぞ。今度の建国記念の祝賀会、ちゃんと出席して周りに見せつけとけよ」
「結婚前に教えてくれてもよかったじゃないか」
そうしたら、新婚直後に失踪事件なんか起こさなかった。
「冗談だろう。いくらおまえが騎士だからって、僕は馬扱いされたんだぞ。そもそも、教えてやろうとしたのに聞かなかったのはおまえじゃないか」
ハリエットは、将を射んと欲すれば、のつもりだったのだろうか。
そう聞いて思い起こしてみれば、確かに兄は最初からハリエットを疑っていなかった。ハリエットが自身で望んでライリーに嫁してきたのだと、知っていたのだ。
「弟のほうがモテるなんて、兄として情けないだろう。そうそう言いふらせる話じゃない」
ライリーはそれなりに、兄のことを尊敬している。継嗣の兄を助けるよう言い聞かされて育っているし、彼にはライリーにはない聡明さがある。その穏やかな性質は父によく似ていた。伯爵家を継ぐ者として相応しいのは兄で間違いないと思っている。
今まで口をつぐんでいたのも、ハリエットの名誉のためだろう。
「よく言う。跡継ぎ殿は選り好みしているだけでしょう」
ライリーは大きく欠伸をして、目を閉じた。
「半刻したら起こしてください。夕食の時間には帰らなきゃ……」
ロバートは、十年前と同じような弟の姿に、声を出さずに小さく笑った。
ライリーが目を覚ますと、身体に膝掛けがかけられていた。うたた寝した子どもの頃のような扱いだ。
ような、というかそのものか。うたた寝する子ども。ここに帰って来れば、ライリーはいつでもティンバートンの末っ子に戻れるのだ。
「起きたか。ちょうど半刻くらいだ」
ロバートは、ライリーが寝る前と同じ姿勢で本を読んでいた。
「……はい。帰ります」
ライリーは伸びをしてから、立ち上がった。
実家は居心地がいいが、ハリエットがいない。家に帰ろう。女だらけのお茶会も、家に着く頃には終わっていることだろう。
「これ、最低限の内容を分かりやすくまとめておいたから」
ロバートが差し出したのは、一枚の羊皮紙だった。
「……つかっていいおかね、あとでつかうよていのおかね」
分かりやすいにも程がある。
「半分寝ながらでも理解できるだろう。あとイチゴ。土産に持って行けよ」
「ありがとうございます」
ライリーは侍女から包みを受け取って、玄関に向かった。その背中にロバートが声をかける。
「領地のことはハリエット様に相談すればいい。僕より適任だ」
「そうですね」
分かってはいるが、これ以上彼女に負担をかけたくない。
もう少し頑張ってみよう。ハリエットが、心穏やかに余生を過ごせるように。