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非番の朝

 翌朝ライリーが目を覚ますと、外は明るくなっていた。これは朝ですらなさそうだ。当然、隣にハリエットはいなかった。

 服を着ていない。昨夜は妻を抱くことができたのだったか。

 ライリーは充分な睡眠を摂って覚醒した頭で記憶を辿る。昨夜は湯から上がって身体を拭いた後、太腿の打撲痕を確認しようと寝台に腰掛けたのだ。そこから記憶が途切れている。

 最悪だ。ライリーは両手で顔を覆った。

 何がハリエットを抱きしめて眠る、だ。昨夜の自分を殴ってやりたい。用意してあったであろう夕食も摂らずに、全裸でひっくり返っていたのか。あの美しい人に、そんな姿を晒してしまったのか。

 遅れた初夜の際の、無垢な妻を思い出す。自分以上に緊張して固くなる彼女が忍びなくて、夜着を脱がすことができなくなったほどだ。先輩騎士の講義による初心者向け、の中の最低限の触れ合いだけで終わってしまった。

 そんなハリエットに、なんて酷いことをしてしまったのか。汚いものを見るような目で見られたら、どうすればいいのだ。

「ああああああ」

 楽しみにしていた休暇が、重い気分で始まった。

 のろのろと服を着て、寝台の脇に用意してあった水で顔を洗う。まだ疎らで、たまに剃るだけの顎髭に剃刀を当てた。せめて清潔感だけでも維持せねばと、これまたたまにしか使わない櫛で短い髪を梳かしてから階下へ降りた。

 ハリエットが厨房から顔を出す。

「おはようございます。ライリー、よく休めましたか?」

「おはようございます。おかげさまで。だいぶ寝坊してしまいましたね」

 ライリーは妻の笑顔に安堵の息を吐いた。嫌われてはいないようだ。

「お腹が空いたでしょう? もうすぐお昼ですが、朝のスープだけでも温めますね」

 初めて一緒に厨房に立ったときよりも機敏に動くハリエットを眺めてから、ライリーは二階に戻って食卓についた。同じく厨房から出てきたアンナが用意してくれた水を飲み干した。

 もう昼食の支度をしているのか。朝片付けようと思っていた浴槽は空になって泥汚れもなくなっていた。ハリエットとアンナが洗ったのか。つい最近まで使用人に世話を焼かれ、包丁を持ったことすらなかった貴婦人が、どれだけ働いているのだろう。

 騎士団の鍛錬が辛いと泣き言を言っている場合ではない。苦労させるためにハリエットを呼び寄せたのではないのだ。これまで自分を殺して家を守ってきたハリエットが、楽しく余生を過ごすための手伝いをするのではなかったか。

 ライリーは、ハリエットが出してくれた温かいスープを胃に入れて、再び厨房に顔を出した。

「おかわり、してもいいですか」

 ハリエットとアンナは、昼食に使う野菜を切りながらこちらを向いた。包丁を持つ手が留守になり、ヒヤリとする。

「あっ、大丈夫、自分でやります。続けてください」

 大鍋からスープを掬って、深皿いっぱいによそう。昨日の昼から何も食べていない。空腹で倒れそうだ。

「大丈夫ですか? すぐに食べられる物を出しますよ」

「いえ、午まで待ちます。これだけ腹に入れたら、薪を割ってきますね」

 丸一日振りのスープは胃に優しかった。

 野菜を切る、鍋に切った野菜と干し肉と水を入れて火にかける、味が足りなければ塩胡椒で調整。これだけできればなんとかなります。引越しの翌朝にライリーが伝授した騎士団の料理方法を、ハリエットは忠実に守っていた。あとはパンを買って、肉が手に入れば焼く。それだけで子爵家の食卓は回っていた。

 変わり映えのしない献立を見るに、アンナも厨房仕事の経験は少ないのだろう。高級侍女であるなら、貴人の身の周りの世話をするのが主な仕事であったはずだ。

 あまり良い状態とは言い難い。

 ライリーは皿と匙を厨房の女性陣に預けて、裏口から外に出た。

 鍛錬漬けの一週間で、何年振りかで掌の皮が破けてしまっている。簡単に布を巻いて、長屋共同の鉈を構える。薪割りのやり方は従騎士時代に叩き込まれた。考え事をするにはちょうどいい作業だ。

 新しく始めた子爵家の生活を軌道に乗せる方法を考えなければならない。

 ハリエットとの縁談が持ち上がるまで、ライリーは爵位を継ぐ気はなかったし、婿入り先を探す気もなかった。騎士に任命されたことにより、兄が伯爵位を継いだ後も、準貴族としての身分は約束された。

 他の大勢の騎士と同じように、働くことを厭わない下級貴族か商人の娘とでも所帯を持てればいいと思っていたのだ。

 ぼんやりとした人生設計が、侯爵令嬢との婚姻によって変更を余儀なくされた。深窓の令嬢と結婚、爵位を持ち、領地を得た。自分のことだけ考えるわけにはいかない。

 まずはハリエットとアンナの生活基盤を整える必要があるだろう。

 やはり、人手を増やす必要がある。家政婦か小間使い。それとライリーの不在時に頼れる男手。小さい家だ。最初は通いで充分だろう。その程度の賃金であれば、領地からの税収でなんとかなるはずだ。隊務に疲れて放っていた収支報告書を確認してみなければ。

 寝坊してしまったため、休暇は残り半日。できることをやってしまおう。

 ライリーはハリエットに呼ばれるまで、黙々と薪を割り続けた。


 その日の昼食は、いつも通りスープとパンだった。味見さえしっかりすれば失敗することはありませんと妻を励ました成果がでている。ちゃんと美味い。

 もうすぐ、隊務の一環で狩りに出る当番が回ってくる。新鮮な肉が手に入るようになれば、食卓の質も上がるだろう。

 パンをちぎりながら、ライリーは尋ねた。

「ハリエット、今週ご不便はありませんでしたか? 何か要り用があれば、今からでも街に出てみますか?」

 同じ食卓を囲むアンナが一瞬動きを止めるのが見える。不便ばかりだと言いたいのだろう。

 分かっている。分かっているから冷たい目で見ないでほしい。

 なぜ当主である自分が、侍女の視線ひとつに怯えなければならないのだ。

「いいえ? 今日のご予定は決まっていないのですか?」

「あなたに家のことを任せきりにしてしまっているので、何かお手伝いをと思っているのですが」

 にっこり笑うハリエットの顔を久しぶりに見られた気がする。隊務でぼろぼろになった心が癒される。

「ありがとうございます。でも、今日はお洗濯も終わってしまったし、薪もたくさん作っていただきましたから」

「そう、ですか?」

 では今日は、書斎に籠って領地からの報告書を読むか。それでいいのだろうか。

「今週はお疲れでしょう。ゆっくりなさっていてください。午後のお茶はご一緒させてくださいね」

 なんてできた妻だ。ライリーは泣きそうになった。

「分かりました。では、お隣の中隊長のご家族をお茶に招待するというのはどうでしょう。うちのことを気にかけてくださっているそうです。長屋の生活にもお詳しいはずですから、色々教えていただきましょう」

 共に暮らし始めてまだ一週間。女性の生活に必要なものは、ライリーには分からない。助言してくれる存在ができるなら、願ってもないことだ。

 なかなかいい考えのように思えた。ハリエットとアンナからも賛同を得たので、食べ終わってすぐに立ち上がった。

 急な誘いになる。少しでも早い招待のほうが喜ばれるだろう。

 そう思ったのに、女性陣からの引き留めにあった。

 ハリエットが急いで三階に上がり、しばらくして降りてきた手には封筒があった。

「アンナ、これを」

「かしこまりました」

 妻と侍女のやりとりを不可解な目で見ていたライリーは、アンナが出て行くのを見て呟いた。

「……招待状?」

「そうです。お隣はお嬢さまがおふたりでしょう」

 確かに、娘がふたりいたはずだ。キャストリカの薔薇と名高いハリエットが隣に越してきたと、大興奮だったと中隊長から聞いている。

「今日の話なのに、わざわざ必要ですか」

「ご理解いただく必要はありません。でも、女の子は招待状をもらったら喜ぶものなのです」

「はあ」

「準備をしなくては。ライリー、やっぱり城下に連れて行ってくださいますか? お菓子を買ってきましょう」

 あまり時間がない。ライリーは騎士団の厩に走って、馬を取って来た。ハリエットと相乗りして王宮を出る。

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