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帰宅もしくは生還

 キャストリカ王国は、今年で建国四十八年になる。

 隣国を武力で制圧し、二国を一つの国としたのが現在の王室で、名をキャストリカと定めた。

 近隣諸国はどこも似たような小国で、数年置きにどこかで国が興っては滅ぶ、そんな時代だった。

 目立った産業があるわけではない。隣国と同じような農産物を作り、家畜を飼い、中央大国に倣って毛織物に力を入れている。

 戦国の世の常で、キャストリカでも武が尊ばれている。騎士になるのは、男子が成り上がる唯一の手段であるといえた。最低限の教養と馬と武具、それだけのものを用意できる家に生まれた次男以下の男子は、誰もが一度は騎士に憧れる。

 キャストリカ王国には、王立騎士団と、王族の身辺警護を担う近衛騎士団とで成り立つふたつの騎士団がある。その下っ端騎士のひとりが、ライリー・ホークラム子爵だ。

 彼はつい先だって結婚したばかりの、もうじき十九歳になる青年である。

 その妻は多少歳上ではあるが、社交界の憧れを一心に集める美女だった。夫妻は新婚当初は多少の悶着があったものの、新居に越すまでの間に暇さえあれば逢瀬を重ねる姿を目撃されており、人目を憚っているつもりのその様子が却って男達の癇に障っていた。

 要はやっかみである。

 ライリーの直属の上司の号令の下、熟練の騎士にいたぶられたのは致し方ない、ことと言えなくもない。



 地獄のような鍛錬漬けの一週間が終わり、ライリーは無事生還した。

 五体満足でいるのが奇跡のようだ。内臓は無事、骨の一本も折れておらず、縫うような傷もない。全身打撲と擦過傷だけで済んだのは、幸運以外の何物でもない。

 同じ長屋に住む中隊長のスミスが、見かねて自宅まで送ってくれた。王宮の敷地内で行き倒れさせるわけにいかないとのことだ。

「ありがとうございました……」

「うむ。まだ心配だから、奥方に引き渡してから帰るかな」

 わざとらしく宣言する上官に、ライリーは嫌な顔をした。

「……奥様に言いつけますよ」

 どいつもこいつも。ライリーは口の中で毒づいた。ハリエットは俺の妻だ。見せ物じゃない。

 長屋に引越してから一週間、ハリエットを一目見ようとする騎士達が、自宅に招待されたがった。同じ長屋に住むスミスですら、ハリエットとの接点を持とうと事あるごとに近づいてくる。

「その奥様と娘からの頼みだ。憧れのハリエット様とお近付きになりたいらしい。今度食事に誘ってもいいか?」

「そういうことなら。妻に聞いておきます」

 違う隊とはいえ、同じ騎士団の上官の誘いだ。即答すべきだろうが、侯爵家出身の妻の予定を勝手に決めてもいいものか分からない。

 スミスも同じ考えだから、部下を招待するだけなのに慎重になってしまうのだろう。

 ライリーが玄関の叩き金を鳴らすと、待ち構えていたようにハリエットが飛び出してくる。

「ライリー、」

 隣人の姿を見とめて、笑顔が中途半端に固まった。

「ただいま帰りました」

「ライリー様、おかえりなさいませ。スミス中隊長様、こんばんは。騎士団のお勤めお疲れさまでございます」

 ハリエットは一瞬で優雅な奥方の表情を取り繕った。さすがである。

 スミスは目を丸くしたが、大人の余裕ですぐに気を取り直した。

「こんばんは、子爵夫人。今日ご主人の隊は大変な訓練をされていたようですよ。帰宅途中に倒れやしないかと心配で、ついてきてしまいました」

「まあ」

 ライリーは中隊長に背を押され、ハリエットに手を取られた。

 なんだこれは。確かに付き添ってもらったかもしれないが、自分の足で歩いて帰ってきたのに。

 ライリーは小さな子どもか老人のような扱いに複雑な顔をした。

「では私はこれで。明日は非番なので、ゆっくり休ませてやってください」

「ありがとうございます。主人がお世話になりました」

 ふたりで頭を下げて、スミスが隣の家の扉を開けるまで見送る。手を振る彼の姿が見えなくなると、ハリエットは素早く玄関の中にライリーを押し込んだ。

 二階から降りてきたアンナが頭を下げる。

「おかえりなさいませ旦那様。お湯の用意ができております」

 優秀な侍女に浴槽代わりの桶まで誘導される。実家にあったような湯殿はないため、普段は寝室の一画を衝立で仕切ってその代わりとしていた。

 大量の湯を沸かすのは重労働だ。そのため、毎日勤務後に井戸で水浴びをしてはいる。

 それでも、女性ふたりには耐えられないほど汚れていたのだろうか。

「失礼します」

 ぼんやりとしていると、妻と侍女の手でテキパキと隊服を脱がされてしまっていた。

「え?」

 下穿き一枚になってようやく我にかえる。反射的に最後の砦を押さえて後ずさった。

「ありがとうございます。後は自分で」

 ハリエットが疑わしげな顔になる。

「やっと喋りましたね、ライリー。ゆっくりしすぎたら溺れてしまいますよ。さっぱりしたらすぐに出てきてくださいね」

「信じられないなら、一緒に入りますか?」

 未だにキスのたびに恥じらうハリエットに平然と裸にされてしまったのが悔しくて、せめてもと軽口を返す。

「ひとりで入れないならお手伝いいたしますよ?」

 ライリーの負けだ。

「……いえ、風呂の用意感謝します。すぐに出ますのでお待ちください」

「お薬を塗りますから、服を着る前にお呼びください」

 全身に走る傷と痣を痛ましげに見て、ハリエットは部屋を出ていった。

 ライリーは妻を見送ってから下穿きを脱ぎ捨てて、恐る恐る湯に浸かった。予想通り、細かい傷全てがピリピリと存在を主張してくる。

 息を止めて身体を沈めていく。脚、腰、腹まで温かくなると、心地良さが勝ってくる。なるほど、これは危険だ。底に尻をつけて息を吐いた、その一瞬だけふっと意識が飛んだ気がする。

 手桶で掬った湯を頭にかけると、井戸で落としたはずの汚れと血の塊が落ちてきた。

 これは思ったよりもひどいようだ。直接湯に頭を突っ込んで、髪の毛を掻き回す。

 そういえば、だいぶ髪が伸びてきた。短く刈り上げておけば赤褐色に見える髪が、日に灼けてすっかり赤毛になってしまっている。夜会に出席することを考えれば、あまり短髪だと格好が付かないのだ。この季節が終わればまた短くしよう。

 こんなものかと湯を出たときには、湯船は泥だらけになっていた。汚れた水を捨てるのは、女性には重労働だ。明日は非番なのだ。朝自分で洗えばいい。

 清潔な布で身体を拭きながら、明日の予定を考える。この一週間、ハリエットの生活に不便はなかっただろうか。必要な物があれば、城下に買い物に行こうか。一緒に出かけたら楽しいだろう。

 せっかく一緒に暮らせるようになったのに、最初に幸せな朝を迎えて以降、ろくにハリエットの顔を見ていない気がする。

 もっと言うなら、最初の夜以来、寝室を共にできていない。否、一緒に寝てはいるはずだ。ハリエットはライリーが寝入ってから眠り、朝は彼が目覚める前に起き出しているだけだろう。

 今日こそは。ライリーは心に誓った。ハリエットをこの腕に抱きしめて眠るのだ。

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