新米騎士の受難のはじまり
「ライリー!」
エベラルドが珍しく慌てた様子で警邏隊本部に飛び込んできた。
ライリーは麦酒を飲みながら、のんびり振り返った。
ちなみに彼はサボっているわけではない。麦酒の酒精は弱い。市民は手に入らない綺麗な水の代わりに、昼夜を問わず麦酒を飲んでいるのだ。茶のようなものである。
「どうしました、隊長。何かありました?」
「おまえ怪我したんじゃ、……その頭か」
「ああ。大したことないですよ。咄嗟に避けたんですけど、頭をちょっとかすっちゃって」
少女の兄はもうひとりいたのだ。少年がライリーの背後で振り回した木材は、頭を直撃することはなかったが、側頭部をかすめたせいで出血してしまった。
建国記念日に向けて、犯罪の芽はたとえ小さくとも摘んでおかなければならない。
少年を拘束したライリーは、彼らが掏摸集団の一員であることを聞き出した。喰うに困った子どもを集めた組織があるらしく、警邏隊に引き継いでおいた。
そのあとで大人しく待っていた馬を迎えに行き、傷の治療のために本部に戻った。傷口を強い酒で洗い、卵白を塗ってから包帯を巻いて、出された麦酒を飲んでひと息ついていた。そこに現れたのがエベラルドだ。
「ガキに遅れをとったってどういうことだ」
「え? 今怒られるとこですか?」
てっきりお手柄だと誉められると思っていたライリーは、不満の声をあげた。
「またふわふわニヤニヤしてやがったんだろうが。そんなだから素人のガキにやられるんだよ」
「……確かにニヤニヤはしてた」
一緒に見廻りをしていた隊員がぼそりと呟く。
「ほら見ろ。弛んでやがるからだよ。やっぱり今日は無理してでも他の奴に行かせればよかった。ザックだってトニーだって、おまえよりはマシだった」
今名前の挙がったふたりは、過去に警邏隊と揉め事を起こして巡回業務から外されている。そのふたりのほうがマシ?
何故そこまで怒られるのか分からない。ライリーは顔中で不満を表現した。
掏摸集団の存在を明らかにしたのはどう考えてもお手柄だし、確かに負傷はしたが、鍛錬ではもっとひどい怪我を負うこともある。
「隊長、何焦ってんですか。麦酒もらってきます?」
「うるせえよ。もう今日は引き上げろ。午後からは別の奴に来させる」
「えっ、帰っていいんですか?」
今日から、家に帰るとハリエットが出迎えてくれるのだ。予定より早く帰れるなら大歓迎だ。
「浮かれるな。頭切ってんだから、今日一日くらいは大人しくしとけよ」
「了解です! お先に失礼します!」
「浮かれるなっつってんだろうがっ。いいか、余計なことせずに、集中して真っ直ぐ家に帰って寝てろよ!」
ライリーは機嫌良く帰宅し、一応上官の言い付けを守って新居で大人しくしていた。その日はアンナも戻って来ていたことだし、ハリエットも心配するものだから、家の事にはあまり手を出さずにいた。
夜も妻と寄り添って眠れるだけで満足することにした。その甲斐あって、翌朝まで傷口が開くこともなく、普段通り隊務に向かうことができた。
出掛けには、無理はしないでくださいね、とハリエットに祈るように見上げられた。ライリーとしては、それだけで完治してしまった気がしている。
「ライリー・ホークラム、鍛錬場へ行け」
「げっ」
「今週の夜番は免除してやる。朝来て鍛錬場行って帰って寝ろ。他の者は、ニヤケ面で隊務に就こうとする新人を教育し直すこと」
「「「了解しました」」」
ライリー以外の隊員全員が、敬礼付きで大真面目に唱和した。
「解散。全員持ち場につけ」
やっぱ呪いか。とうとう始まったな。
他の隊員達が何やら笑いながら自分の持ち場に向かうなか、ライリーは小隊長に駆け寄った。
騎士の職務は楽ではない。平時の王宮警備でも、王宮の品位を損なわぬよう姿勢を保ち、周囲の観察を怠ってはならない。
そしてそれより辛いのが鍛錬の時間である。いつ戦場に出ても勝利を導けるよう、常に武技を磨き続けなければならないのだ。当然、ライリーのような下っ端はやられっぱなしになる。
連日鍛錬ばかりでは、身体が保たない。
「あの、隊長」
「どうした。鍛錬場へ行け」
「俺、別にニヤけてなんか。警備も真面目にやります」
「おまえ暗殺者を王の寝室まで案内しそうな顔してるぞ。ヘマされたら困るんだよ。しばらく警備にはつくな」
どんな顔だろう。ライリーは自分の顔を撫でてみた。
「…………分かりました」
エベラルドは、ライリーが十五の歳に従騎士として配属されたときからこれまでずっと、教育係のようなものだった。
ライリーは本当の兄と同じかそれ以上に彼を慕っていた。そんな彼が言うのだから、とりあえずは黙って従うべきだ。
「夫人は夜におひとりだと心細いだろう。今週は新婚ボケが治るまでしごいてやるから、終わったらすぐに帰れ」
「ありがとうござい、ます?」
ライリーは気遣いへの感謝とシゴキ宣言への抗議が混ざった、中途半端な礼を口にした。
「いくぞ」
それから、ライリーは隊長の命令通りの隊務に就いた。
「がああああああっ」
「ふんっ」
渾身の一撃があっさり払われ、腹部に強烈な一撃を喰らう。
「がっ……」
胃の中身がせり上がってくる。いつもの鎖帷子の下に革鎧をしていなければ、確実に肋骨が折れていた。つまり今は折れていない。無傷だ。
くずおれかけた足を無理矢理踏ん張って後ろに跳ぶ。吐く。その前に敵から距離を取れ。
倒れるな。時間まで立っていろ。今回の鍛錬内容はそれだけだ。
戦場で倒れたら、待つのは死のみ。何があっても膝を突くな。
あと少し。あと少しで時間だ。
堪らず嘔吐する。駄目だ。次の攻撃が、
「援軍が来たぞ!」
交代の合図――――。
自軍の騎士が間近に迫った木剣を受け止めるのが、ぼやけた視界に映る。? やばい。目の前が
ライリーは襟首を強い力で引かれて、後ろに放り投げられた。基地以外は戦場だ。前線で倒れたら死ぬ。
「ぼさっとするな! 気を抜いたら二度と嫁に会えなくなるぞ!」
怒号。半分意識を飛ばしながら、安全地帯設定の線の後ろまで下がる。
「…………うるせえよ」
ライリーは胃の中身を吐き切ってから、入団してから覚えた市井の言葉で吐き捨てた。
楽しそうに怒鳴るという特技を持つ上官が、騎士団には多い気がする。
腹が痛い。腕も痛い。鍛錬用の木剣を握る手も痛い。酷使しまくった脚は、しばらく役に立ちそうにない。
「泣くなよ坊や」
本日二度目の嘔吐だ。生理的な涙くらい出る。
「…………」
先輩騎士に差し出された水を無言でひったくり、口を濯いでからその場で吐き出す。どうせ、新人と従騎士とで隊務後に掃除をするのだ。すでに、そこら中に血と汗と吐瀉物が撒き散らされている。
「なんで俺ばっか」
「ばかりじゃないだろう。向こうの同期を見てみろ」
同時期に入団し、同じ中隊の第二小隊に配属された騎士が、敵陣の基地で倒れているのが見える。右腕を押さえているのは、まさか骨折か。
「俺ばっか集中攻撃だったじゃないですか。隊長命令だからって、嬉々としていたぶって」
早く帰ってハリエットに会いたい。温かい身体を抱きしめたら、きっと疲れも吹き飛ぶ。
「今この瞬間も女のことばっか考えてる不届者だからだろ」
バレていた。
「……手は抜いてません」
「だろうな。そんな余裕ないだろう」
得物が木剣でも、百戦錬磨の騎士が相手だと、油断した瞬間に失命してもおかしくない。
同じ班で同じ時間だけ動いていたはずの先輩騎士の余裕に、ライリーは奥歯を噛み締めた。自分はまだまだ未熟というわけだ。
「まあおまえも頑張ってるじゃないか。ふたり倒してただろう」
膝を突いたら戦線離脱、敵軍が自軍の半分になれば勝ちという模擬戦だ。敗軍になったら恐ろしいことが待っている。皆真剣に敵軍に相対していた。
まずは新人、それもライリーを潰せと一斉に襲い掛かってくる屈強な騎士達がかけてきた言葉に反発した。
侯爵夫人の具合はどうだ。もう骨抜きにされたか。
ライリーに集中する敵を、自軍の騎士達が外側から片付けてくれる。打ち合わせもしていないのに囮役にされたようなものだ。背後の剣戟に気を取られた一瞬を逃さずひとり倒し、同じ要領でもうひとりを地に沈めた。
私情のこもった一撃だ。最初のひとりは味方に引き摺られて基地に帰されていた。ざまあみろ。
「そろそろ交代だぞ。立て」
立てない。とはもちろん言えない。
ヨロヨロと立ち上がると、後ろから来た騎士が舌打ちする。腕を引き摺られるようにして前線に放り込まれた。
握力が無くなりかけた両手で剣を構える。
鍛錬の終盤には、妻の存在を思い出すことすらできなくなった。
ライリーは自分の身を守るためだけに立ち上がり、剣を振るうだけの時間を過ごした。




