王都巡回
結論から言えば、ふたりで作った朝食はそれなりに美味かった。
慣れない作業に夫婦で奮闘したあと、ライリーは走って隊務に向かった。
なんとか朝の引継ぎに間に合った、と息を整えていると、エべラルドが声をかけてきた。
「ライリー、今日は警邏隊のところに行ってくれ。担当が腹を下したらしい」
「了解です。時間ないですね。急いで馬を取ってきます」
「他に人を回せないから仕方がねえ。気をつけろよ。巡回中は気を抜くな」
「? はい」
普段は言われないくらい当たり前の忠告に、首を捻りながらライリーは城下へ向かった。
王都巡回業務は、主に警邏隊が担当している。騎士の仕事は彼らの指揮である。というのは建前で、単なる武力強化が目的だから、新米のライリーでも充分務まる。剣を佩いて馬に乗って歩くだけで犯罪の抑止力になるのだ。
実際に剣を抜くような事態にはなかなか遭遇しない。
活気ある街を高い位置から見晴らすのは気分がいいし、その目立つ姿は、若い娘に人気があった。
当然やりたがる騎士も多いが、人を選ぶ仕事でもある。喧嘩っ早いのは論外だし、妙に偉ぶって警邏隊と揉め事を起こす者も困る。過去には女性問題を起こした騎士もいた。
そういった点から見れば、ライリーは優等生と言えた。
伯爵令息には見えない謙虚さと、素直で親切な性質は、警邏担当にうってつけだった。
警邏隊の本部に到着すると、顔見知りの隊員がすぐに気づいて声をかけてきた。
「おう、おはよう。今日はライリーだったか?」
警邏隊からは敬称付きで呼ばれる騎士が多いなか、ライリーは対等かそれ以下の扱いを受けていた。まあ分かりやすく舐められているのだ。新米なのだから仕方がない。
騎士団においては生家の格など関係ない。完全な実力社会なのだと、ライリーは入団してすぐに学んでいた。
「おはようございます。元の担当が体調不良で。よろしくお願いします」
「最近人が増えて揉め事も多いからな。気をつけて廻ってくれよ」
出発前のエベラルドの忠告は、そのことを指していたのだろうか。
「了解しました」
ライリーは普段と同じように、ふたりの警邏隊の前方で馬をゆっくり歩かせた。
王都の目抜き通りは、一年で最も活気のある季節を迎えるために、石畳が清潔に掃き清められていた。乾燥した地域のため、馬車の往来があればどうしても土埃がたってしまうが、それでも他の季節のように視界が悪くなるほどではない。
ひと月前にはなかった露店が増えて、通りがずいぶん狭くなった。
王の通りと呼ばれるこの大通りは、文字通り王が往来するために使われる。建国記念の行事のひとつである王室の祝賀行列もこの道を通るし、あまり回数は多くないが、王が都の外に出るときも、必ずこの道を通る。
自国の王だけではない。他国からの重要な客人も王の道を通って、国民の歓迎を受ける。祭事の行列も通るし、騎士団の凱旋行列の際も王の道を行進する。三年前、ライリーも従騎士として行列の後方を歩いた。
祝い事に使われる道であるから、そこに並ぶのは小綺麗な店ばかりだ。
華やかな服飾関係の店が多い。仕立屋、帽子屋、靴屋とが並び、買い物に飽きた子どもの機嫌を取るための菓子店が続く。貴族や裕福な市民向けの旅籠もこの通りに集中している。
どの店にも共通しているのは、悪臭がしないことだ。
王の道は重点的に見廻る必要があるのは当然だが、治安維持を目的とする巡回では、むしろ小路のほうが重要である。
王宮から離れるにつれ、目抜き通りから外れるにつれ、異臭が漂ってくる。
ここで王都の治安を守る騎士が鼻をつまんではいけない。
肉屋や魚屋がくさいのは当然である。
市民の食卓に欠かせない店だ。一家の主婦が毎日買い物に来るところでもある。
一家の生活費を握って歩く主婦を狙った掏摸は珍しくない。
ライリーは威圧感を与えないように、ゆったりした動作で周囲を見まわしながら馬の歩を進めた。
「そういえばライリー、こないだ目抜き通りを歩いてたろ」
平和な買い物風景に気を抜いた警邏隊のひとりが、馬上のライリーを見上げた。
「いつの話かな。何度か用を済ましに来てたと思いますけど」
「えらい美人と一緒のときだよ。ライリーにも春が来たかって話してたんだ」
「……ああ」
ハリエットがあまり王都を歩いたことがないと言うから、何度か散歩がてらの買い物に付き添ったことがある。そのときのことだろう。
「地味にはしてたけど、ありゃいいとこのご令嬢だろう」
「俺の妻です」
「おまえ結婚してたのか⁉」
「つい最近ですけど。ご覧になったとおり世間慣れしてないひとなので、見かけたら気にしてやってください」
「……なんだおまえそのドヤ顔」
「すみません。自慢の妻なのでつい」
けらけらと笑いながら、決められた経路を進んでいった。
ライリーは肉屋の前を通りすぎながら、やっぱり今の状態でハリエットを城下に住まわせるわけにはいかないなと考えていた。彼女ではこのにおいのなか目的の買い物をすることができないだろう。
きっと、今の長屋では不都合なことも出てくる。使用人を雇ってから、高級住宅街は無理でもそれなりに治安の良い地区に家を借りよう。
ハリエットのことを想うと、自然と昨夜のことが脳裏によみがえってきた。
必死だったため、あまり詳細には覚えていないのだが、それでもあの満ち足りた気持ちは身体が記憶している。
重ねた手の指を絡ませると、ハリエットは思いがけず強い力で握り返してきた。縋りつく先を求めているのだと気づいて抱きしめると、甘美な痛みが背中に走った。
爪痕が残ってないかと今朝こっそり鏡の前で確認したが、背中には鍛錬で負った傷しかなかった。残念な気がしたが、騎士団内で気づかれてからかわれることを思えば、夜の名残など残っていないに越したことはない。
(なんだったらまた今夜にでもつけてもらえば)
顔がゆるんだライリーの前に、横路から子どもが飛び出してきた。
危ういところで馬の脚を止めた瞬間、金切り声が響き渡った。
「どろぼーーっ! 誰か捕まえとくれ、掏摸だよ! ほら、その子ども!」
すかさず警邏隊のふたりが走り出すが、掏摸の子どもは足が速かった。
ライリーはとっさに馬首をめぐらせて、狭い路に飛び込んだ。ぐるりと廻れば、挟み討ちにできる。
思ったよりも子どもは素速く、ライリーが元の路の先に着く直前に別の小路に入り込んだ。
「おい、待て!」
追う警邏隊とは距離ができていた。ごちゃごちゃと散らかった路での追いかけっこは、小さい子どものほうが有利だ。
ライリーは馬から飛び降りると、子どもを追って走り出した。
ぐんぐん距離が縮まる。あと少しだと伸ばした手を擦り抜けて、子どもは左に曲がった。
続けて曲がったライリーは、すぐに足を止めた。
掏摸の子どもは十歳ほどだったはずだ。ライリーの目の前に現れたのは、どう見てもそれより五つは上の少年だった。
「掏摸仲間か。そんな小さい子に危ない橋を渡らせるなよ」
「はっ。偉そうに」
言って聞くようであれば、犯罪に手を染めたりはしない。ライリーも一応言ってみただけだ。
少年は背後の子どもに、後ろ手で逃げろと合図した。彼はしばらくライリーの隙を探していたが、ヤケになったように飛び込んできた。
少年の手には短剣が握られていた。彼もそんな得物で正規の騎士に勝てるとは思っていないだろう。瞬時に反応して避けたライリーの脇を擦り抜けて、走り去ろうとする。
あまり変わらない歳頃のライリーを舐めてかかったのだろうが、残念ながら鍛え方が違う。
少年は三つ数える間もなく短剣を取り上げられ、地面に押しつけられる羽目になった。
ライリーは到着した警邏隊に少年を任せ、逃げた子どもの後を追った。
彼らは薄汚れた格好をしていた。きっと、その日の食事にも欠くような生活をしているのだろう。だからと言って見逃してやるわけにはいかない。
財布を擦られた主婦だって、そんなに余裕があるわけではないはずだ。生活費を奪われたら、今度は彼女の子が腹を減らすことになる。
間もなく見つけた子どもは、よく見たら少女のようだった。逃げることを諦めて自ら足を止めた、その痩せた身体の胸が、わずかに存在を主張しはじめているのが見てとれた。
彼女は暗い顔で、擦った財布をライリーに差し出した。
「ごめんなさい。もうしません。お兄ちゃんのことも許してください」
(ああ。これは駄目だ)
ライリーはため息をついた。
財布を受け取って、少女の前にしゃがみこんだ。
「おまえ達、親は」
「死にました」
まだ間に合う。もう少し、もう一年もしないうちに、この少女は夜の街に立つようになっていただろう。
少女の兄だという先ほどの少年は、それを止めるどころか進んで客を連れてくる。妹が生きるためだと自身に言い聞かせながら、きっとそうする。
キャストリカは裕福な国ではない。国王のお膝元ですら、このありさまだ。今の時代は、一部の大国の都市部を除いて、どこも大して変わらない。
どこの国も貧しく、運悪く親を亡くした子どもはいつも飢えている。他人の子に手を差し伸べる余裕は、誰にもないのだ。
「おまえの兄は、王の騎士に刃を向けた。一時的に身柄を預かることになる」
「そんな」
「おまえだけなら、孤児院が受け入れてくれる。そこも楽ではないかもしれないが、少なくとも食事は出るし、夜は安心して眠れるはずだ」
少女は迷うような表情を見せた。兄のことは心配だろうが、近い将来に訪れるはずだった恐怖からは逃れられるのだ。
「…………はい」
「兄のほうも悪いようにはしないよ。そのうちおまえを迎えに来てくれるだろう」
お咎めなしにすれば、却ってこの兄妹の生活は悪化するだろう。
形ばかりの鞭打ちと短期間の労役、そのあと仕事先を世話してやれば、貧しくとも兄妹ふたり、真っ当に生きられるはずだ。
ライリーにできるのはこのくらいだ。
こくんと少女が頷くのを見とめたライリーは、とりあえずの解決に、安堵の笑みを浮かべた。
次の瞬間、彼の頭に衝撃が走った。




