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3 ルーチェ (2)

 領主の館は、玄関のホールだけでルーチェと母が暮らしていた部屋より広かった。

 両脇に立って父を迎えるメイドたち。他の家族は見当たらなかった。

 信じられないくらい広い部屋をあてがわれ、かなり高級だと思われるクローゼットに入れられる服は三枚しかない。靴は今履いている一足だけだ。

 夕食は食堂で食べたが、長いテーブルの先にいる父は遠く、ただ黙々と食事をするだけだった。

 出されたものは今まで食べたことがない、具だくさんのスープ、厚みのある肉、白いパン。緊張していたのか、どれも味が分からなかった。


 食後に呼ばれて父の書斎に行くと、まず、名前を聞かれた。

 名前も知らないのに、本当に父なんだろうか。ルーチェの中に不安が広がった。

「ルーチェです」

 そう答えると、

「…今後はルーチェリア・コレッティと名乗るように」

と言われた。何故名前が変わるのか、ルーチェには判らなかったが、貴族らしい長い名前にしたかったのだろう、そう思い、受け入れた。

「あの、…他に家族の方は…」

「兄二人は騎士団の宿舎にいる。ここにいるのは、私だけだ」

 これから先、この父との暮らしが始まるのだ。昔語りで聞くような意地悪な継母がいるわけではないようで、少し安心したが、かと言って見ず知らずの父とうまくやっていけるとは思えなかった。

 父から、明日から家庭教師がくるので、勉強や行儀作法を身につけることを申し渡された。もう街の学校には通うことができないのだ。父が決めたことだ。領主様の言うことは聞かなければならないだろう。

 ルーチェは手をぎゅっと握りしめ、こくりと頷いた。


 父というなら、母のことを知っているだろう。しかし、父からは母の話はなかった。

 母は父と結婚をしていないのかも知れない。いや、恐らくそうだろう。もし結婚をしていたら、自分が母と二人で暮らしているはずがない。

 もしかしたら、母は父の愛人か何かで、父から逃げていたのかも知れない、とさえ思えた。

 あるいは、そもそも本当の父ではなく、何らかの事情で父を名乗って子供を引き取っただけなのかもしれないが、領内に親がいない子供など山ほどいるだろう。そんな中、自分だけが特別扱いされる心当たりはなかった。


 屋敷の中で、時々悪意に満ちた噂話を耳にした。

「ランドルフォ様も、レオーネ様も、急にお屋敷を出て行かれたかと思ったら、あんな子が自分の妹だなんて言われて、きっとショックだったのね」

「どうせ、旦那様にこびを売って関係を持ち、子供ができたからって養育費でもせしめてたんじゃないの? それが急に死んだからって、子供を押しつけられた旦那様もいい迷惑よ」

 母が誰かからお金をもらっているようなことはなかった。ルーチェはずっと母と共にいて、どの仕事でどれくらいの稼ぎを得られるのかちゃんと判っていたのだ。

 しかし、盗み聞きをしていたと判れば、悪く言われてしまう。ただ黙って噂が消えるのを待った。

 目の前で直接悪口を言われることはなかったが、屋敷の者のルーチェに対する態度は事務的で、明らかに蔑視を含んでおり、親しくしようなどとはみじんも思っていないと感じられた。


 父は屋敷に戻る時間は遅く、戻らない日も多かった。顔を合わせて食事をすることさえ、週に一度あればいい方だった。


 父に言われるまま、ルーチェは屋敷の中で勉強を学び、行儀作法の指導を受けた。

 勉強はまだ何とかなったが、行儀作法になると、さっぱりダメだった。

 父に恥をかかせないためにも、身につける必要があるのは判っていたが、十年間も庶民として暮らしてきたのだ。突然作法と言われても何が何だか判らない。

 唯一褒められたのが、教養のため、と言われて受けた刺繍の授業だった。

 先生も驚くほどに繊細な刺繍をハンカチに施し、あまりのすばらしい出来に父に報告された。

 父から呼び出しを受け、手にしていたハンカチを見て、ルーチェは少しドキッとした。

 頑張って刺した刺繍だ。もしかしたら、いい出来だと誉めてくれるかも知れない。本当に母のことを知っているのなら、母が繕い魔法師だったことも知っているだろう。少しは話が弾むかもしれない。

 開口一番、父が言ったことは、

「この刺繍には、繕い魔法が入っていないが、できないのか?」

 父は、母が繕い魔法師だったことを知っている。

 しかし、その質問はルーチェ自身が一番触れて欲しくないことだった。

「…はい。私には繕い魔法はできません…」

 すると、父は明らかに落胆した表情を見せ、大きく溜め息をつくと、

「できないのか…」

と言った。

 その一言で、ルーチェは父が自分を引き取った理由を察した。

 欲しかったのは、母と同じ繕い魔法の力を持つ娘だったのだ。

「…ごめんなさい」

「謝ることはない。できないのなら、仕方がない」

 父との会話はそれ以上続かなかった。

 繕い魔法という、父の期待に添えない自分は、厄介者でしかない。

 ルーチェは、この国で独り立ちを認められる十六歳になったらこの屋敷を出よう、と決意した。


 授業さえきちんと受ければ、夕食までは誰もルーチェに構うことはない。そして夕食を終えれば、後は自分の時間だ。おやつも一度不要と断ってからは出ることはなく、身支度に人手を借りることも拒否していたので、やがてそれが日常となった。


 ルーチェはこっそりと屋敷を抜け出し、アイーダおばさんに自分の将来のことを相談した。アイーダはルーチェの母が優れた繕い魔法師だったことも、ルーチェが繕い魔法ができないことも知っていたので、領主の意に添えないことにひどく落ち込んでいたルーチェを見て、協力を惜しまなかった。

 さすがに屋敷を抜け出して来ていることは言わなかったが、安全のため男物の古着が欲しいと言うと手に入れてくれた。以来、時々屋敷を抜け出し、街の行き慣れた剣の教場に通ったり、魔法のない普通の刺繍として作った小物を卸し、小金を稼いだ。アイーダおばさんの家でお茶を飲むだけでもほっと息が付け、この街で暮らしていた頃の自分を失わずに済むような気がした。


 夜、夕食を終えれば、内職の時間だ。布や仕立て済みの衣服、紐などに果物や、蔦、鳥、文様や紋章など、依頼者の要望に応じた図案の刺繍を施す。依頼者から刺繍糸の提供を受けることも多く、腕さえあれば稼ぐことができる。出来映えを誉めて、刺繍糸のセットをプレゼントしてくれた者もいた。ルーチェを指名して依頼してくる者もおり、仕事には事欠かなかった。

 領主の館には図書室もあり、図案を描く時にヒントになる図鑑や図録類も多くあった。図書室は自由に使っていいと言われており、そういう意味では恵まれた環境だった。


 十五の時、ルーチェは家を出る為の準備を始めた。

 本当は、地元のモンテヴェルディにある辺境騎士団に入団したかったのだが、辺境騎士団は父の直轄である。自分が受験すればすぐにバレてしまう。

 それに、ほぼ会ったことがないに等しい兄二人が寄宿舎に住んでいるのだ。自分が寄宿舎に入れる宛てなどない。

 どうしようか迷っていた時に、街のポスターで王都騎士団の試験をここモンテヴェルディでも受けられると知り、庶民の「ルーチェ」として試験を受け、連絡先をアイーダおばさんに中継ぎしてもらえるよう頼んだ。

 王都の騎士団は、二つの魔法騎士団と三つの騎士団で構成されていた。魔力はあっても魔法が使えないルーチェは騎士団一択だ。

 王族に仕える第一騎士団、貴族の護衛が多い第二騎士団、街の警護をする第三騎士団、庶民出身となれば、必然的に第三騎士団になる。

 筆記も実技も思ったほど難しくはなく、見事、ルーチェは合格した。同じ教場から五人が合格していたが、皆辺境騎士団と掛け持ちで受験しており、両方受かった四人はモンテヴェルディに残ることを選んだ。


 合格通知は密かにルーチェの手に渡ったが、その後、速達で赴任に関する書類が届いた。急ぎとみてアイーダは駄賃をやって知り合いの男に書類をルーチェの所へ届けさせた。しかしその時間、ルーチェは屋敷で授業を受けており、頼まれた男は書類を執事に手渡し、ルーチェに渡すよう頼んた。

 いきなりやってきた庶民から渡された書類に、執事は宛名にルーチェの名前が書かれていたにも関わらず、屋敷の主人であるリヴェラトーレへと届けた。

 不審な書類が届いていることを聞いて早めに戻ってきたリヴェラトーレは、その書類を見ると即座にルーチェを呼び出した。

「一体、何故王都の騎士団など…」

 決して声は荒げなかったが、ルーチェには父が恐ろしくて仕方なかった。

「充分お世話になりましたので、十六になったら独り立ちしたいのです」

「おまえは辺境伯家の娘だ。騎士団員になるなど…。この家から独り立ちしたいというのなら、よい見合いの話も来ているのだ。少し冷静になり、ゆっくり考えなさい」

 リヴェラトーレは、ルーチェの決意を一時の気まぐれな冒険心くらいにしか思っていなかった。引き取ってから、何不自由なく暮らしていたはずだった。それなのにいきなり黙って王都に行こうなど、それも騎士団に入るなどと、娘が何を考えているのか判らなかった。


 部屋に戻されたルーチェは、ドアに鍵をかけられたことでさらに不安になった。

 騎士団どころか、会ったこともない人と無理矢理結婚させられてしまうかもしれない。

 貴族の娘にとって有力な他家とつながりを持つのも役割の一つ、と、刺繍を依頼してきた貴族のお嬢様から聞いたことがあった。繕い魔法もできない自分にとって、後はそれくらいしか利用価値はないだろう。大した見た目でもなく、行儀さえもなっていない自分でも辺境伯の娘となれば話は別だ。

 まだ二、三日余裕があると思っていた出発を、急遽その日に決めた。

 まとめていた荷物を担ぎ、コツコツ貯めていた金を手に窓から抜け出すと、アイーダおばさんの家に向かい、父から言われたことを伝え、どうしても家を出る、と泣いて訴えた。

 アイーダは、今までルーチェが泣いたところなど見たこともなかった。領主に引き取られながらあれほどまでに剣の鍛錬を続けてきた意味を知り、ルーチェが領主の館でどんな思いで暮らしていたのかを察すれば、味方をすることに迷いはなかった。

 そしてその夜、アイーダの家で夜が明けるのを待ち、朝一番で王都へ向かう乗合馬車に乗ると、故郷モンテヴェルディを離れた。


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