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95 喜びと悲しみと希望

 三日ほど滞在したメノノプを出立しようとした昼、最後にもう一度魚介を買ってくると言って飛び出した翔馬が、幾らも経たずに宿に戻ってきた。


「ビーちゃんビーちゃんビーちゃん!」

「はいはいはい、どしたの、にーさん。そんなに慌てて」


 ハニー・ビーは宿の厩舎でのんびりとライとクラウドの世話をしていたのだが、飛び込んできた翔馬が自分には目もくれないとお怒りのクラウドに髪を食まれている姿を、一体今度は何の騒動の種を拾ってきたのかとため息をつきつつ眺める。


「ビーちゃん、記憶喪失って治せる?」

「ん?多分」

「さすが天使で女神で魔女!」

「いや、ただの魔女」


 翔馬はハニー・ビーの答えを聞いて、興奮を隠しきれずにその場でピョンピョンと跳ねた。


「治して!」

「何を?」


 この話の流れで分かってはいるが、ハニー・ビーは一応聞く。


「記憶喪失」

「誰の?」


 短時間で記憶喪失を拾うのも不思議なら、それを喜ぶのも不思議だ。


「マリナさんの旦那さん!」

「え?生きてたの?」

「そう!生きてた!」


 一週間の予定が三ヶ月も戻ってこないのだから、船が難破したか遭難したかかと思われていたのだが、沖合で嵐に遭い操縦不能になった船で漂流しているところを偶然通りかかった商業船の乗組員に助けられたそうだ。


 商業船は人命救助をしたものの、納期の関係で彼らをすぐに戻すことは適わずに一仕事を終えた後でようやく戻ってきたのだと言う。


 マリナの夫、ソレアノは嵐に遭った時に折れた船のマストで頭部を強打し、それ以前の記憶を失ってしまったらしい。幸いと言っては何だが、他の乗組員はそのような凶事に遭わなかったので彼の名前や住んでいる場所、家族のことなどを教えたそうだが、知識としてそれらを覚えても記憶がないので実感は出来ないのは仕方ないだろう。


 心が壊れかける程に夫を愛していたマリナに会っても記憶は戻らず、マリナは夫に「はじめまして」と言われて気を失って倒れたとか。

 意識を取り戻して説明を受けた後「まあ!また恋人同士から始められるのね!」と喜んだと言うのだから、繊細なのか豪胆なのか分からない女性である。


「恋人同士からやり直せるって喜んでるんだからいいじゃない」


 翔馬と違って人助けが趣味と言う訳ではないハニー・ビーはすげなく言った。


 記憶を無くした男は気の毒だが、もしここにハニー・ビーが居なかったら強制的に記憶を取り戻す事など出来ないのだから、自分の運命を甘んじて受け入れればよいとハニー・ビーが言う。


「マリナさんってさ、旦那さんが囲い込みしてたもんで外で働いたりできなかったじゃない?」

「ん?ああ、そんな事を言ってたね」

「だから、家で出来る趣味ばっかりらしいんだけど、その中で薬草栽培と薬草茶づくりってのがあってね。まあ、旦那さんの健康の為にってのが初めの動機だったんだけど、結構凝り性でやってるうちに嵌まっちゃったんだって」

「……ふぅん」

「その薬草茶、少し貰って来たんだけど飲んでみない?」


 ハニー・ビーを動かすならお茶。


 なんだかんだと翔馬が首を突っ込む人助けに巻き込まれてくれるハニー・ビーだが、手っ取り早く彼女に動いてもらうためには、何はともあれお茶なのである。


 飲んでみないかと問いかける形だったが、翔馬は返事も聞かずに収納から蓋つきタンブラーと茶葉を取り出した。

 翔馬とてお茶を淹れるくらいはできるのだが、お茶に一家言あるハニー・ビーが満足する出来のお茶を淹れる自信が無かったので、てんやわんやな状態のマリナに無理を言って淹れてもらってきた。


 ハニー・ビーは茶葉を手に取り匂いを嗅ぐ。

 好みだったのか、ランティスで手に入れた茶葉の中に同様の物が無かったのが、ほんの少し目を見開いて頷いた。


 そして、タンブラーの蓋を開け、匂いを嗅いでから一口飲む。


「貰って来たのはこの一種類だけだけど、凝り性って言うだけあって何種類も作ってるらしいよ?」



 ハニー・ビーはお茶に負けた。



 マリナとソレアノは、二人の家の居間でテーブルを挟んで向かい合って座っていた。マリナは目いっぱいの笑顔でソレアノに今までのことを話しているが、ソレアノはマリナの話のどれもがピンと来ないので居心地悪そうに苦笑していた。



「マリナねーさん、こんにちは。ねーさんの旦那さん、初めまして。あたしはハニー・ビー、魔女だよ」


 翔馬の案内でマリナの家に向かったハニー・ビーは、いつもの自己紹介をする。


「あたしなら、ねーさんの旦那さんの記憶喪失を治せる。治したときの対価はマリナねーさんの作った薬草茶を全種類。どうする?」


 ハニー・ビーの言葉があまりにも突拍子も無くて、マリナもソレアノもぽかんと口を開いて魔女を見つめる。


「無理にとは言わない。マリナねーさんは恋人同士からやり直すことを喜んでたらしいし?ショーマにーさんのお節介だから、治療の押し売りはしない」


 お節介と言われた翔馬は、決まり悪げに口を尖らせている。


「……治るの?」

「ん」

「記憶喪失なのよ?」

「ん、治せるよ」


 魔女の言葉を信じたのかどうかは分からないが、治ると言う言葉を聞いたマリナの瞳から滂沱の涙が流れる。


「なお……治して、下さい」


 マリナはハニー・ビーに深く頭を下げて願う。


「恋人同士から、何て言ったって、ソレアノがまた私のことを好きになってくれるかどうか怖かった。怖くてももう一度好きになって欲しいと思って、好きになってもらえるよう頑張ろうと思って……。でもやっぱり思い出してほしくて……」


 やはりマリナは豪胆な女性ではなかったようだ。

 不安を押し隠して、帰ってきてくれたことだけを喜んで、ただソレアノの想いをもう一度取り戻したくて無理をしていただけだった。


 ソレアノも不安げな表情ながらハニー・ビーに頭を下げた。


「取り戻せるなら、記憶を取り戻したい。宜しくお願いします」




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