婚約者との複雑な関係
フローレス伯爵家当主、カルヴィン・フローレス・シリル伯爵の娘。シンシア・フローレス令嬢は僕、ジレット・レイ・ハリスの婚約者。彼女とは五歳の時に出会い、十年の年月を共に支え合って育ってきた。
互いの家に利のある政略的な婚約だが、当時の僕は本心から乗り気だった。彼女の神秘的な容姿に惹かれていたのは勿論の事ながら、会う度にシンシアの内面に惚れていき、彼女へ恋心を抱くようになっていたからだ。
シンシアだって、僕と同じ気持ちのはず。無知だったあの時の僕は、皆が寝静まったある日の夜に彼女へ執拗に迫り、身勝手にも彼女の唇を奪った。お互いにとって初めてとなる口付けだった。直前に涙を流していたシンシアの姿を見て、自分を求めてくれていると思い込み、彼女を苦しませたあの闇夜は今でも鮮明に思い出せる。
その後、彼女に想い人がいる事を知った僕はあの夜に零れた涙の意味を悟り、後悔した。思えばそれからだ、気安くシンシアに触れられなくなったのは。
「ジレット...?学園の前であなたの家の馬車が待機していますわよ、早く行ってあげては如何。」
「あ、ああ...早退するのは気が引けるが、今日は仕方無いか...。」
シンシアが教室から持ってきてくれた鞄を受け取り、ベッドから降りて立ち上がる。噂の件は後回しにしても何とかなるだろう、今は自分の体を最優先に考えなければ。次期公爵家当主ともあろう者がこんな体たらくでは、家名が汚れる。
シンシアと共に医務室を出た僕は、学園の出入り口に向かって足を進める。右隣を歩く彼女は、何やら上機嫌だ。あまり感情を表に出さない彼女にしては珍しい。
「何か良い事でもあったのか?」
「......別に、何でありませんわ。」
どうやら聞いたのは失敗だったらしく、顔を背けられてしまった。そんな彼女の可愛げのある新しい一面を拝めた僕は得をした気分だ。
「君が婚約者で良かった、本当に。」
つい口から漏れてしまった言葉に反応した彼女は、仄かに頬を染めて僕へ向き直る。
「そ、それは...私だって、同じですわ。」
こんな時に、彼女の本心を見抜ける自分が恨めしい。婚約者としての体面を傷付けない為に紡がれた仮初めの言葉なのに、つい期待してしまう。彼女も僕と同じ気持ちなのではないかと。
僕は作り笑いを浮かべて前を向いた、学園の出入り口はもう目の前。付き添ってくれたシンシアへ礼を言った僕は、彼女と別れて一人で帰りの並木道を歩いてゆく。