In the laughter of a clown【3】
「――そこまでです」
それは、酷く冷淡な声だった。
湿った空気の漂う蒸し暑い夜にも拘わらず段々と背筋が冷たくなっていく。
何故彼女がこんなところにいるのだろうか。まさかここまで旅行……なんて事はないだろう。となると、やはり追跡されていたという事だろうか。
「『デイブレイク』幹部『六陽』の一人、テテ。これより魔王の因子を持つ者を討伐する」
――いや、今はそんな事はどうだって良い。ここから離れる事。それが最優先事項……!!
「ジャァァァック!!」
「モガガガ……ッ!!」
応答しようとしたのだろうか。噛み付いているジャックの口が額に突き刺さってタラリと血が流れた。
だが、そこは流石のジャック、仕事はきっちりとこなしてくれた。俺の意を汲んでテテに蔓を放っていたのだ。
ターバンだと思っていたものがいきなり攻撃を仕掛けてくるとは夢にも思わないだろう。直接的にダメ―ジがなくても意識はそっちに移せる。そしてその隙に加速で振り切れば……。
「させません」
しかし、現実はそう簡単にはいかない。
蔓は剣の一薙ぎによってバラバラにせん断され、更に加速込みの俺に追い付いて来た。これは最早スキルがどうこうなんて問題ではない。……素のスペックが違い過ぎるのだ。さっきの一撃だって、薙いだのだと辛うじて認識できたけれどアレが俺に向けられていたら間違いなく反応すら許されずに……首を刈られていた。
俺のステータスで最高の伸びを見せている敏捷が通じないとなると他のステータスで勝つ事はまずあり得ない。
『ふむ、成る程。そう言う事か』
「何だ!? 何か分かった事があるのか!?」
そう言った俺はどこか期待していた。
例えば、動きに一定の法則があるとか。動作に癖があるとか。重心がどうのとか。
『魔王』ならその並外れた観察眼であの死神にも等しい女の弱点を見抜いてくれるのでは無いかと。
だが……ああ、『魔王』の口にした言葉は助言とか、そんなものではなく。
――ただの非情な現実だった。
『お前が策を弄せども勝てる道理は、無い』
逃げてもダメ、戦ってもダメ。おまけに策を練っても通じないと今しがた『魔王』にお墨付きを頂いた訳だ。
……それで、一体どうすれば良いものか。
一瞬のうちに思考が漂白されて空虚なものが胸を満たした。
いつしか足は完全に止まっていた。心臓がドクドクと律動を刻み、肺が空気を求めて苦しみ、喘ぐ。
「……逃げるのを止めるのですか」
背後に立つ死神は訝しげにそう尋ねた。
このシチュエーションは最近どこかで見たような気がする。
ああ、そう言えばアイナさんのタロット占いで死神が出ていたっけ。
ならば、この後俺が取るべき行動は一つしかない。
「……ああ、逃げるのは止めだ」
俺が背後の死神を倒すにはステータスというとても大きな壁がある。
そう、俺を圧倒しているのはステータスという名の数字の暴力。今からでは埋めようも無いし、覆しようもない。
成る程、確かに俺では勝てない。
――だが、その数字はただの指標でしかなく、戦闘の勝敗を決めるのはもっと根源的なものなのだと俺は知っている。
だから俺は緩慢な動作で振り返りながら、こう口にした。
「……チェンジで」
その一言をきっかけに俺の肉体の支配権がもう一人の住人――『魔王』へと引き継がれる。
そう、埋められない壁があるなら踏み倒す。これが正解だ。
「ふん、そこを変われと言ってから随分と手間取ったな。なぁ、宿主よ」
非常に分かりにくいがどうやらそういう事だったらしい。
――『お前が策を弄せども勝てる道理は、無い』
さっきのこのセリフだが、これはお前じゃ勝てないから俺に場所を代われという意味だったのだ。つんけんしている上に言い回しが迂遠で本当に面倒な魔王である。
因みに戦闘の勝敗を決める根源的なものの答え。それは力だ。
力とはパワー。意味不明だろうが、つまりそう言う事だ。考えるな感じろ。
「……魔王」
誰もが見ほれるような顔を嫌悪に歪めながらテテは呟いた。
元が美人なだけあって怒りを露にすると一層凄みが出ているような気がする。だが、『魔王』は臆するどころか冷笑を浮かべて見せた。この場においてはその尊大な態度ほど心強いものは無い。
「微かに臭うな。吐き気を催す邪神の香りが。……そうか、遂に復讐の時か」
鮮明に。
プツンと何かが切れる音がした。堪忍袋の緒が切れる音――。いや、それよりももっとこれは恐ろしい。
例えるならこれは……そう、ダイナマイトへと続く短い導火線に火が着いたような。そんな音だったかも分からない。
「この臭いで確信した。ああ!! 確信したとも!! ……俺の肉体を嘲笑を浮かべながら六つに切り分け! 俺を裏切者の汚名を着せ! 死して尚、俺の尊厳を……誇りを愚弄する真性の屑共め!!」
「ッ!?」
テテは『魔王』の激情を前にして身じろぎ一つ出来ないような有様だった。
獣のような絶叫の後、『魔王』は右腕を高々と掲げると、その手にはいつの間にかエリオット戦でも見せていたショーテルが握られていた。
「肉の一片すら最早残さん。……後悔と共に死に絶えろ」




